『名前のつく仕事』
朝七時前の洋菓子店は、まだ甘い匂いより先に金属の音がする。
天板の重なる音、冷蔵庫の開く音、ボウルの縁へ泡立て器が当たる音。開店前の厨房は、可愛いよりずっと工場に近い。
その真ん中で、桐島葉月は絞り袋の口をねじりながら、今月のシフト表を見ていた。
自分の休みだったはずの木曜に、赤いペンで一本線が引かれている。
その横に丸っこい字で書き足されていた。
【TV対応のため出勤変更 葉月さんフォローお願いします!】
「……何がお願いしますだ」
小さく言った声は、冷蔵庫のモーター音に溶けた。
葉月は二十八歳。商店街の角にあるパティスリー「ノワール」で働いて六年目になる。
焼き菓子も生菓子も一通りできる。ナッペは速いし、クリームの硬さの見極めも安定している。
店の中ではかなり任されているほうだ。
ただし、その任され方が最近ずっと気に入らない。
何か面倒なことがあると、最後は葉月へ来る。
新作の試作が間に合わない。
予約の数が読めない。
包装資材が足りない。
販売用の説明文が雑。
SNS用の写真が映えない。
そういう「誰かがやらないと困るけど、目立つ人はあまりやりたがらないところ」が、きれいに全部葉月の手元へ落ちてくる。
しかも今週は、地元テレビの情報番組が店へ入る予定だった。
特集は「若手パティシエがつくる初夏の新作」。
店として前に出すのは、オーナーの甥である圭人の新作タルト。
二十四歳。見た目もよく、受け答えも軽やかで、SNSの短い動画では確かに映える。
だが、そのタルトの土台を焼き、フィリングの配合を安定させ、最後に味をまとめたのは、ほぼ葉月だった。
圭人が悪人というわけではない。
そこがまた面倒だった。
愛想もいいし、悪気なく人を頼るのがうまい。
「葉月さんのほうが細かいとこ得意なんで」
そう言って笑えば、大体のことは通ると思っている。
そして、今まで大体通ってきた。
「おはようございまーす」
噂をすればで、圭人が裏口から入ってきた。
白いコックコートを肩にかけ、スマホを見ながら器用にエプロンを結ぶ。
そのままシフト表へ目をやると、悪びれもなく言った。
「あ、休みずらしてもらったんすね。助かります」
「もらったんじゃなくて、ずらされてる」
「でも葉月さんいると安心なんで」
「私は安心じゃない」
圭人は一瞬だけきょとんとしたが、すぐに笑った。
「またまた」
その軽さが、今日はやけに癇に障った。
開店準備が始まる。
葉月は無言でシュー生地を絞り、焼成の様子を見て、仕込み台へ次の材料を並べた。
手はいつも通り動く。
いつも通り動いてしまう自分が、なおさら腹立たしい。
不満があるなら、もっと早く言えばよかった。
でも毎回、「今ここで止めると店が回らない」が先に立つ。
それで結局、自分が引き受ける。
引き受けたあとで、また勝手に消耗する。
ここ数か月、ずっとそれだった。
十時前、オーナーの相良が工房へ降りてきた。
五十代半ば、腕は確かだが、人の使い方だけは時々雑だ。
「葉月、悪いな。木曜」
「悪いと思ってるなら、先に言ってください」
「昨日決まったんだよ」
「昨日決めたなら、昨日言えますよね」
相良は少しだけ黙った。
厨房の空気が、そこでようやく少し変わる。
「TVは店にとって大事なんだ」
「分かってます」
「だから」
「だから私が穴埋め、はもう嫌です」
自分で言ってから、葉月は一瞬だけ喉が熱くなった。
ここまで真っ直ぐ言うつもりはなかった。
でも出てしまったものは、もう戻らない。
相良は眉を寄せた。
「穴埋めって」
「そうでしょう」
葉月は絞り袋を置いた。
「圭人くんの新作、味がまだ揺れてるのも、土台の焼きが安定してないのも、TV用の段取りが雑なのも、最後は私が拾う前提で回ってる」
「……」
「しかも名前は全部向こう」
圭人がさすがに気まずそうな顔になった。
それでも葉月は止まれなかった。
「細かいところ得意だからって、何でもこっちへ投げて、最後だけ“圭人の新作です”って出すの、冗談じゃないんだよ」
厨房がしんとした。
ミキサーの低い音だけが、やけに遠く聞こえる。
圭人が最初に口を開いた。
「葉月さん、俺、別にそんなつもりじゃ」
「うん。悪気ないのは知ってる」
葉月は言う。
「だから余計に嫌なんだよ」
悪意なら、怒りやすい。
けれど善意や無邪気さの顔をした当然みたいな依存は、人を黙らせる。
それに、ずっと黙ってきたのは自分だ。
だから今さら全部を相手のせいにはできない。
でも、だからといってこのままでいいとも思えなかった。
相良が深く息を吐いた。
「……で、葉月はどうしたい」
そこを聞かれると思っていなかったので、葉月は少しだけ詰まった。
怒って終わりなら楽だった。
けれど本当に欲しいのは、ただ謝られることではない。
「木曜、出るなら出ます」
葉月はゆっくり言った。
「でも、条件があります」
「条件?」
「圭人くんのタルトを“二人で仕上げてる”ってちゃんと言うこと」
圭人が目を上げる。
「あと、今日の営業後に、味と段取りの最終確認を最初から二人でやる。私が後ろから直す形じゃなくて」
「……」
「それが無理なら、私は木曜休みます」
相良は腕を組んだ。
圭人は何か言いかけて、言葉を探していた。
葉月は自分の心臓が速いのを感じた。やりすぎたかもしれない。店の空気を悪くしただけかもしれない。
それでも、もう引っ込めたくなかった。
長い沈黙のあと、相良が言った。
「分かった」
葉月は少しだけ目を見開いた。
「圭人」
「……はい」
「木曜のコメント、そう直せ。新作の説明も、二人で詰めろ」
圭人は唇を引き結んだまま、うなずいた。
「はい」
「あと葉月」
「はい」
「お前も、そこまで溜める前に言え」
「……はい」
それは正論だった。
正論すぎて、少しだけ悔しい。
営業後、工房には二人だけ残った。
タルト台を焼き、クリームの酸味を調整し、飾りの果物の切り方を変える。
最初のうちはぎこちなかった。
圭人は妙に静かで、葉月も必要なことしか言わない。
だが作業をしていると、少しずつ言葉が増える。
「ここのレモン、前回より酸い」
「だったらクリーム少し重くしたほうがいい」
「バター足す?」
「いや、生クリームの比率で寄せたい」
「何で」
「口当たり軽いままにしたいから」
圭人は少し驚いた顔で葉月を見る。
「……葉月さん、そこ考えてたんだ」
「逆に何も考えずにやってると思ってた?」
「いや」
圭人は苦笑した。
「正直、ちょっと」
「でしょうね」
葉月も笑っていないのに、少しだけ空気はほどけた。
試作を三回やり直したころには、時計は二十一時を回っていた。
最後の一台を切り分けて食べる。
今度はちゃんと、味が中心へ寄っている。
レモンの香りは立つのに、後味は尖りすぎない。見た目も派手すぎず、でも店のショーケースに入ればちゃんと目を引きそうだった。
「これ、いい」
圭人が言う。
「うん」
葉月も認める。
「やっと」
圭人はフォークを置いた。
「俺さ」
「うん」
「葉月さんが嫌がってるの、ほんとに分かってなかった」
「うん」
「助かってるのは分かってたけど、だから頼っていいと思ってた」
葉月は返事を急がなかった。
圭人は少しだけ言いにくそうに続ける。
「多分、甘えてた」
その言葉が聞けただけで、少しだけ胸のつかえが取れた。
全部が解決したわけではない。
けれど少なくとも、これまでみたいに曖昧に流されることはなかった。
木曜、TVの撮影が入った。
店先には朝から見慣れないケーブルが走り、ディレクターが立ち位置を指示し、リポーターが明るすぎる声で「今日は初夏にぴったりの話題のスイーツを!」と言う。
葉月は工房の奥で、仕上げ用のクリームを絞っていた。
こういう現場は嫌いだ。
音も人も多すぎる。
でも今日は、前より呼吸がしやすい気がした。
撮影の途中、リポーターが圭人へ向かって聞いた。
「こちら、圭人さんの新作なんですよね?」
一瞬だけ、工房の空気が止まる。
葉月は手を止めなかった。
止めなかったが、耳はそこにあった。
「はい、ベースの発想は僕です」
圭人が言う。
「でも、味と仕上がりは葉月さんと一緒に詰めました。細かいバランス、かなり助けてもらってます」
ディレクターが「いいですね、そこもう一回」と食いつく。
葉月は思わず顔を上げた。
圭人は照れくさそうに笑いながら、今度は工房の中の葉月を手で示した。
「うち、見えないとこ強い人が多いんで。今日のこれも、その一人いないと無理でした」
その瞬間、変なふうに胸の奥が熱くなった。
たったそれだけのことだ。
名前を一つ足しただけ。
でも、たぶん自分が欲しかったのは、そういう当たり前の位置だった。
撮影後、リポーターが工房へ入ってきて、葉月へもコメントを求めた。
急で、少し焦った。
でもカメラの赤いランプを見た瞬間、葉月は不思議と落ち着いていた。
「このタルト、すごく爽やかでした。工夫したところは?」
葉月は少しだけ考えてから答えた。
「派手に見える味より、もう一口いける味にしたかったんです」
それは、店への説明でもあり、自分の仕事への説明でもあった。
目立たなくても、最後にちゃんと残るもの。
そこに名前がつくなら、ようやく自分の仕事になる。
放送はその週末だった。
店先のテレビで流れた自分の顔は少し強張っていて、圭人のほうが当然映りはよかった。
でも、思ったほど嫌ではなかった。
店の前を通った常連客が「葉月さん映ってたね」と笑い、次の日には「昨日のタルト、おいしかった」と言って二台予約してくれた。
それで十分すぎた。
閉店後、葉月はショーケースの前へ立った。
今日のタルトは完売。
空いた皿の上に、値札だけが残っている。
「葉月」
後ろから相良が呼ぶ。
「来月、夏の新作やる」
葉月は振り返る。
「誰がですか」
「お前」
「急ですね」
「今さら」
相良は腕を組んだ。
「名前、出せ」
その一言に、葉月は少しだけ黙った。
ずっと欲しかったくせに、いざ渡されると簡単には受け取れない。
責任も、失敗も、ちゃんと自分のものになるからだ。
でも今は、その重さも前ほど嫌ではなかった。
「……やります」
そう答えると、相良は短くうなずいた。
「今度は溜める前に言えよ」
「善処します」
「そこは善処か」
「まだ急には変われないんで」
相良が笑う。
葉月もつられて、少しだけ笑った。
店の外では、夜の商店街の灯りが細く伸びていた。
派手ではない。
でも消えていない。
葉月はショーケースのガラスへ映る自分を見た。
今日の自分は、誰かのフォロー役だけの顔ではなかった。
不器用でも、ちゃんと嫌だと言って、ちゃんと条件を出して、ちゃんと自分の名前が入る場所を取りにいった顔だ。
冗談じゃない。
ほんとうに、冗談じゃないんだよ。
心の中でそう言い直すと、怒りだったはずの言葉が、少しだけ誇らしいものに変わっていた。




