表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
短編集  作者: 科上悠羽


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

109/123

『消灯後の火種』

 市立科学館のプラネタリウムは、開館前の時間がいちばん素っ気ない。

 ドームの天井はまだ真っ白で、投影機も眠ったまま、客席だけが丸く口を閉じている。昨日までの歓声や、子どもの「うわあ」はどこにも残っていない。

 そこへ一番乗りで入ると、水城透子はいつも少しだけ安心した。

 何も始まっていない場所は、期待も失望もまだ持っていない。

 そういう時間だけが、最近の透子にはやけに楽だった。


 透子は三十二歳。

 この科学館の展示解説員として八年目になる。

 星座の位置も、季節の見どころも、流星群のピークも、だいたい頭に入っている。子どもの質問にも強い。

 ただ、プラネタリウムの生解説だけは、ここ三年、メインに立っていなかった。

 できないわけではない。

 むしろ昔は、そこがいちばん好きだった。


 照明の落ちたドームの真ん中で、見えない空へ向かって声を出す。

 少し間を置くだけで客席の息が揃う。

 言葉ひとつで、目の前にない夜を信じてもらえる。

 あの感覚が好きで、この仕事を選んだはずだった。


 けれど三年前、夏休みの特別投影で大きく噛んだ。

 噛んだだけではない。

 話の順番を飛ばし、あわてて戻そうとして余計に乱れ、気圧の低い日だったせいか機械の投影も一部ずれて、終演後に保護者から「説明が雑で子どもが分かりにくそうだった」と投書が入った。

 正当な苦情だった。

 館長は大ごとにしなかったが、透子はその日から徐々にメインを外れるようになった。

 最初は一時的なつもりだった。

 でも、人は一度「代わりがいる側」へ回ると、戻る理由を見失いやすい。


 今の透子は、投影資料の確認や原稿の整備、学校団体の事前説明、展示フロアの巡回が中心だった。

 仕事としては回っている。

 評価も悪くない。

 それでもときどき、声を使わないまま一日が終わると、喉の奥のほうだけが薄く冷える。


「水城さん、おはようございます」


 ドームの入口から、少し高めの声がした。

 振り向くと、研修中の嘱託スタッフ、槙野一真が立っていた。二十六歳。春に入ったばかりで、まだ制服も少し新しい。

 明るいが、軽薄ではない。分からないことを分からないと言える顔をしている。

 透子はその点だけは嫌いじゃなかった。


「おはよう。早いね」

「今日、夜の特別回のリハですよね」

「うん」

「見学したくて」

 一真は少しだけ笑った。

「館長に、邪魔しないならって言われました」

「その条件で邪魔しない新人、見たことないけど」

「頑張ります」


 今夜は月に一度の大人向け特別投影だった。

 普段の子ども向けではなく、仕事帰りの大人が多く来る回で、テーマは「初夏の星と遠い銀河」。

 本来ならベテランの西岡が回す予定だったが、昨日から喉を痛めて休んでいる。

 代わりに立てるのは館長か、透子か。

 昨夜の段階ではそう言われていた。


「館長がやるんじゃないんですか」

 一真が聞く。

「たぶん私」

「“たぶん”なんですね」

「大人の職場はそういう曖昧さでできてるから」

「いや、今日の十八時開始ならもう確定しててほしいですけど」

 その返しが少しだけ可笑しくて、透子は肩をすくめた。


 十時、館長室へ呼ばれた。

 館長の立花は五十代前半、科学そのものより運営と人間関係の調整がうまいタイプだ。人に無理をさせるときだけ声が柔らかくなる癖がある。


「今夜、水城さんお願い」

「やっぱり」

「やっぱり」

「了解です」

「いける?」

 その聞き方が、少しだけずるい。

 いけると答えても責任は透子に残り、無理だと答えれば自分で道を閉じることになる。


「いきます」

 透子は短く言った。

 立花は少しだけ目を細めた。

「助かる」

「助かるの前に、三年前のことはたぶん忘れてないです」

「忘れてないよ」

 館長は正直に言った。

「でも、あれで終わりにするには長すぎる」

 その一言で、透子は何も返せなくなった。


 午後の展示フロアは、遠足の小学生で賑やかだった。

 ボタンを押すと雷が鳴る装置、月の重力を体感するジャンプ台、宇宙飛行士の手袋模型。

 子どもたちは大抵、理屈より先に体で好きになる。

 透子はその様子を見ながら、夕方の原稿を頭の中でなぞっていた。

 構成は悪くない。導入も、星座の見せ場も、最後に少し遠い銀河へ視点を飛ばす流れも、何度も確認した。

 問題は原稿ではない。

 自分がその言葉を、またドームの真ん中で自分のものとして出せるかどうかだ。


 十五時過ぎ、一真が展示パネルの交換を手伝いながら言った。

「水城さんって、本当はあれやりたい人ですよね」

「何が」

「生解説」

 透子は一瞬だけ手を止めた。

「どうしてそう思うの」

「展示の説明してるとき、急に声が変わるから」

「変わる?」

「好きなこと話してる声になります」

 一真は脚立の上から、何でもないことみたいに言った。

「さっきの小学生に、土星の輪の話してるときとか、だいぶ別人でした」

 透子は思わず笑った。

「だいぶ、って」

「いい意味です」

「信用していい?」

「今のところ九割」

「中途半端」

「残り一割は、まだ今夜聞いてないので」


 その言い方が、妙に胸へ残った。

 好きなことを話している声。

 そんなものを、まだ他人に見つけられるのか。

 自分ではもうとっくに薄くなったと思っていた。


 十八時前、ドームの客席がゆっくり埋まり始める。

 スーツ姿の会社員、手をつないだ夫婦、一人で来たらしい年配の女性、学生っぽい二人組。

 昼の回と違って、ざわめきが低い。

 この静かなざわめきが、透子は昔から少し怖くて、少し好きだった。

 言葉が届くかどうか、試される気がするからだ。


 開演五分前、操作卓の横で最終確認をしていると、一真が小さく寄ってきた。

「大丈夫ですか」

「大丈夫じゃない」

「正直」

「でもやる」

「それなら、たぶんもう半分勝ちですよ」

「何に」

「逃げるほうに」

 その返しに、透子は小さく息を吐いた。

 ずいぶん若いくせに、たまに変なところへ言葉を置く。


 照明が落ちる。

 ドームが暗くなる。

 ざわめきがゆっくり静まる。

 透子はマイクを持った。

 ここで最初の一言が出るまでが、一番長い。


「こんばんは。本日は、夜の特別投影へお越しいただきありがとうございます」


 出た。

 声は少しだけ硬かった。

 だが、ひどくはない。

 ひどくはない、と分かった瞬間、逆に昔の記憶が蘇る。三年前の噛んだ瞬間、客席の静まり方、終演後の自分の息苦しさ。

 そこへ引っ張られかけた、そのときだった。

 操作卓の影に立つ一真が、客席から見えない角度で、ぐっと親指を立てた。


 馬鹿みたいだ、と思う。

 そんな雑な合図で、何かが変わるわけがない。

 ないはずなのに、透子はそこで、少しだけ笑いそうになった。

 笑いそうになると、声は自然に抜ける。


 春の大三角の話をする。

 地平線に近い星は街の光で見えにくいこと。

 それでも、見上げる角度が少し変わるだけで、同じ夜空が違って見えること。

 北斗七星から北極星を探す手順。

 おおぐま座のしっぽが、思ったより長くて少し無理があること。

 客席の気配が、少しずつこちらへ寄ってくる。

 分かる。

 息を潜めて聞いてくれているときの空気は、ちゃんと分かる。


 中盤、銀河の話へ入る直前、透子は一瞬だけ原稿の順番を見失いかけた。

 喉の奥がひやりとする。

 三年前と同じ手前だ。

 だが今度は、そこで無理に取り返そうとしなかった。

 一拍置いて、暗いドームを見上げる。

 星は逃げない。

 客席も、まだ待っている。


「夜空って、遠くを見ているようで」

 透子は、原稿と少し違う言葉を選んだ。

「本当は、自分がどこに立っているかを確かめる時間なのかもしれません」


 言いながら、自分でも少し驚いた。

 でも、その言葉はちゃんとドームの中へ落ちた。

 客席の空気が、さらに静かになる。

 ああ、そうだ。

 完璧に読むことだけが、この仕事じゃなかった。

 目の前にない空を、今ここにあるものとして信じてもらうこと。

 そのためなら、少しくらい自分の言葉で立て直してもいいのだ。


 終演後、拍手が起きた。

 大きすぎない、けれど明らかに礼儀だけではない拍手だった。

 透子は暗転したままのドームの中で一礼して、ようやく全身から力が抜けた。

 脚が少し震えている。

 でも、それは三年前の嫌な震えとは違った。

 熱が戻るときの震えだと、はっきり分かった。


 客出しが終わり、ロビーへ出る。

 アンケート回収箱の前で、一真が妙に明るい顔をして待っていた。


「すごかったです」

「語彙」

「いやほんとに」

「それ、みんな言うやつ」

「じゃあ皆さん正しい」

 一真は興奮したまま言う。

「途中、原稿から外れましたよね」

「外れた」

「でも、あそこから急に空気変わった」

 透子は少しだけ目を丸くした。

「分かった?」

「分かりますよ」

 一真は真っ直ぐ言う。

「水城さん、あそこから急に“自分の声”になった」

 その言葉が、今日いちばん効いた。

 好きなことを話している声。

 自分の声。

 そういうものがまだ死んでいなかったのだと、ようやく他人の口から教えてもらった。


 館長がアンケートを一枚持ってきた。

「ほら」

 そこには丸い字でこう書いてあった。

【難しい話も多いのに、不思議と前向きな気持ちになれました】

 透子はその一文を見て、しばらく黙った。

 科学館の解説で、前向きな気持ち。

 それはたぶん、正しさだけで届くものではない。


「来月の特別回も、水城さんでいく?」

 館長がさらっと聞く。

 透子は顔を上げた。

「急ですね」

「今さら」

 一真が横で小さく笑う。

 その感じが、少し悔しい。


「……やります」

 透子は言った。

 迷いはまだゼロではない。

 今夜だって、たまたまうまくいっただけかもしれない。

 次はまた噛むかもしれない。

 それでも、くすぶっているものへもう嘘をつけない気がした。

 あのドームの真ん中に立った瞬間、自分の中の何かは確かに戻ってきたのだ。


 帰り道、科学館の外階段を下りる。

 夜風が少し強い。

 見上げた空に、街灯の明るさで本物の星はあまり見えない。

 それでも透子には、今夜見せた空の残像がまだまぶたの裏に残っていた。


「水城さん」

 一真が駐輪場のほうから呼ぶ。

「何」

「今の顔、だいぶいいです」

「どの顔」

「消灯後のやつ」

 変な言い方だなと思いながら、透子は少し笑った。

 たしかに、何かが終わったあとの顔ではなく、火がついたあとの顔かもしれなかった。


 遠くで電車が通る音がする。

 科学館のガラス壁に、自分の姿が薄く映る。

 特別に派手ではない。

 劇的に生まれ変わったわけでもない。

 でも、もう前みたいに「それでもまあ回ってるから」と自分を誤魔化すのは無理だった。

 情熱なんて言葉は気恥ずかしい。

 けれど、人はときどき、自分の核へ手を伸ばされるだけで、見える景色まで変わってしまう。


 透子は階段を下り切る前に、一度だけ空を見上げた。

 暗い。

 遠い。

 でも、たしかにそこにある。

 それだけ分かれば、今夜は十分だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ