『消灯後の火種』
市立科学館のプラネタリウムは、開館前の時間がいちばん素っ気ない。
ドームの天井はまだ真っ白で、投影機も眠ったまま、客席だけが丸く口を閉じている。昨日までの歓声や、子どもの「うわあ」はどこにも残っていない。
そこへ一番乗りで入ると、水城透子はいつも少しだけ安心した。
何も始まっていない場所は、期待も失望もまだ持っていない。
そういう時間だけが、最近の透子にはやけに楽だった。
透子は三十二歳。
この科学館の展示解説員として八年目になる。
星座の位置も、季節の見どころも、流星群のピークも、だいたい頭に入っている。子どもの質問にも強い。
ただ、プラネタリウムの生解説だけは、ここ三年、メインに立っていなかった。
できないわけではない。
むしろ昔は、そこがいちばん好きだった。
照明の落ちたドームの真ん中で、見えない空へ向かって声を出す。
少し間を置くだけで客席の息が揃う。
言葉ひとつで、目の前にない夜を信じてもらえる。
あの感覚が好きで、この仕事を選んだはずだった。
けれど三年前、夏休みの特別投影で大きく噛んだ。
噛んだだけではない。
話の順番を飛ばし、あわてて戻そうとして余計に乱れ、気圧の低い日だったせいか機械の投影も一部ずれて、終演後に保護者から「説明が雑で子どもが分かりにくそうだった」と投書が入った。
正当な苦情だった。
館長は大ごとにしなかったが、透子はその日から徐々にメインを外れるようになった。
最初は一時的なつもりだった。
でも、人は一度「代わりがいる側」へ回ると、戻る理由を見失いやすい。
今の透子は、投影資料の確認や原稿の整備、学校団体の事前説明、展示フロアの巡回が中心だった。
仕事としては回っている。
評価も悪くない。
それでもときどき、声を使わないまま一日が終わると、喉の奥のほうだけが薄く冷える。
「水城さん、おはようございます」
ドームの入口から、少し高めの声がした。
振り向くと、研修中の嘱託スタッフ、槙野一真が立っていた。二十六歳。春に入ったばかりで、まだ制服も少し新しい。
明るいが、軽薄ではない。分からないことを分からないと言える顔をしている。
透子はその点だけは嫌いじゃなかった。
「おはよう。早いね」
「今日、夜の特別回のリハですよね」
「うん」
「見学したくて」
一真は少しだけ笑った。
「館長に、邪魔しないならって言われました」
「その条件で邪魔しない新人、見たことないけど」
「頑張ります」
今夜は月に一度の大人向け特別投影だった。
普段の子ども向けではなく、仕事帰りの大人が多く来る回で、テーマは「初夏の星と遠い銀河」。
本来ならベテランの西岡が回す予定だったが、昨日から喉を痛めて休んでいる。
代わりに立てるのは館長か、透子か。
昨夜の段階ではそう言われていた。
「館長がやるんじゃないんですか」
一真が聞く。
「たぶん私」
「“たぶん”なんですね」
「大人の職場はそういう曖昧さでできてるから」
「いや、今日の十八時開始ならもう確定しててほしいですけど」
その返しが少しだけ可笑しくて、透子は肩をすくめた。
十時、館長室へ呼ばれた。
館長の立花は五十代前半、科学そのものより運営と人間関係の調整がうまいタイプだ。人に無理をさせるときだけ声が柔らかくなる癖がある。
「今夜、水城さんお願い」
「やっぱり」
「やっぱり」
「了解です」
「いける?」
その聞き方が、少しだけずるい。
いけると答えても責任は透子に残り、無理だと答えれば自分で道を閉じることになる。
「いきます」
透子は短く言った。
立花は少しだけ目を細めた。
「助かる」
「助かるの前に、三年前のことはたぶん忘れてないです」
「忘れてないよ」
館長は正直に言った。
「でも、あれで終わりにするには長すぎる」
その一言で、透子は何も返せなくなった。
午後の展示フロアは、遠足の小学生で賑やかだった。
ボタンを押すと雷が鳴る装置、月の重力を体感するジャンプ台、宇宙飛行士の手袋模型。
子どもたちは大抵、理屈より先に体で好きになる。
透子はその様子を見ながら、夕方の原稿を頭の中でなぞっていた。
構成は悪くない。導入も、星座の見せ場も、最後に少し遠い銀河へ視点を飛ばす流れも、何度も確認した。
問題は原稿ではない。
自分がその言葉を、またドームの真ん中で自分のものとして出せるかどうかだ。
十五時過ぎ、一真が展示パネルの交換を手伝いながら言った。
「水城さんって、本当はあれやりたい人ですよね」
「何が」
「生解説」
透子は一瞬だけ手を止めた。
「どうしてそう思うの」
「展示の説明してるとき、急に声が変わるから」
「変わる?」
「好きなこと話してる声になります」
一真は脚立の上から、何でもないことみたいに言った。
「さっきの小学生に、土星の輪の話してるときとか、だいぶ別人でした」
透子は思わず笑った。
「だいぶ、って」
「いい意味です」
「信用していい?」
「今のところ九割」
「中途半端」
「残り一割は、まだ今夜聞いてないので」
その言い方が、妙に胸へ残った。
好きなことを話している声。
そんなものを、まだ他人に見つけられるのか。
自分ではもうとっくに薄くなったと思っていた。
十八時前、ドームの客席がゆっくり埋まり始める。
スーツ姿の会社員、手をつないだ夫婦、一人で来たらしい年配の女性、学生っぽい二人組。
昼の回と違って、ざわめきが低い。
この静かなざわめきが、透子は昔から少し怖くて、少し好きだった。
言葉が届くかどうか、試される気がするからだ。
開演五分前、操作卓の横で最終確認をしていると、一真が小さく寄ってきた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃない」
「正直」
「でもやる」
「それなら、たぶんもう半分勝ちですよ」
「何に」
「逃げるほうに」
その返しに、透子は小さく息を吐いた。
ずいぶん若いくせに、たまに変なところへ言葉を置く。
照明が落ちる。
ドームが暗くなる。
ざわめきがゆっくり静まる。
透子はマイクを持った。
ここで最初の一言が出るまでが、一番長い。
「こんばんは。本日は、夜の特別投影へお越しいただきありがとうございます」
出た。
声は少しだけ硬かった。
だが、ひどくはない。
ひどくはない、と分かった瞬間、逆に昔の記憶が蘇る。三年前の噛んだ瞬間、客席の静まり方、終演後の自分の息苦しさ。
そこへ引っ張られかけた、そのときだった。
操作卓の影に立つ一真が、客席から見えない角度で、ぐっと親指を立てた。
馬鹿みたいだ、と思う。
そんな雑な合図で、何かが変わるわけがない。
ないはずなのに、透子はそこで、少しだけ笑いそうになった。
笑いそうになると、声は自然に抜ける。
春の大三角の話をする。
地平線に近い星は街の光で見えにくいこと。
それでも、見上げる角度が少し変わるだけで、同じ夜空が違って見えること。
北斗七星から北極星を探す手順。
おおぐま座のしっぽが、思ったより長くて少し無理があること。
客席の気配が、少しずつこちらへ寄ってくる。
分かる。
息を潜めて聞いてくれているときの空気は、ちゃんと分かる。
中盤、銀河の話へ入る直前、透子は一瞬だけ原稿の順番を見失いかけた。
喉の奥がひやりとする。
三年前と同じ手前だ。
だが今度は、そこで無理に取り返そうとしなかった。
一拍置いて、暗いドームを見上げる。
星は逃げない。
客席も、まだ待っている。
「夜空って、遠くを見ているようで」
透子は、原稿と少し違う言葉を選んだ。
「本当は、自分がどこに立っているかを確かめる時間なのかもしれません」
言いながら、自分でも少し驚いた。
でも、その言葉はちゃんとドームの中へ落ちた。
客席の空気が、さらに静かになる。
ああ、そうだ。
完璧に読むことだけが、この仕事じゃなかった。
目の前にない空を、今ここにあるものとして信じてもらうこと。
そのためなら、少しくらい自分の言葉で立て直してもいいのだ。
終演後、拍手が起きた。
大きすぎない、けれど明らかに礼儀だけではない拍手だった。
透子は暗転したままのドームの中で一礼して、ようやく全身から力が抜けた。
脚が少し震えている。
でも、それは三年前の嫌な震えとは違った。
熱が戻るときの震えだと、はっきり分かった。
客出しが終わり、ロビーへ出る。
アンケート回収箱の前で、一真が妙に明るい顔をして待っていた。
「すごかったです」
「語彙」
「いやほんとに」
「それ、みんな言うやつ」
「じゃあ皆さん正しい」
一真は興奮したまま言う。
「途中、原稿から外れましたよね」
「外れた」
「でも、あそこから急に空気変わった」
透子は少しだけ目を丸くした。
「分かった?」
「分かりますよ」
一真は真っ直ぐ言う。
「水城さん、あそこから急に“自分の声”になった」
その言葉が、今日いちばん効いた。
好きなことを話している声。
自分の声。
そういうものがまだ死んでいなかったのだと、ようやく他人の口から教えてもらった。
館長がアンケートを一枚持ってきた。
「ほら」
そこには丸い字でこう書いてあった。
【難しい話も多いのに、不思議と前向きな気持ちになれました】
透子はその一文を見て、しばらく黙った。
科学館の解説で、前向きな気持ち。
それはたぶん、正しさだけで届くものではない。
「来月の特別回も、水城さんでいく?」
館長がさらっと聞く。
透子は顔を上げた。
「急ですね」
「今さら」
一真が横で小さく笑う。
その感じが、少し悔しい。
「……やります」
透子は言った。
迷いはまだゼロではない。
今夜だって、たまたまうまくいっただけかもしれない。
次はまた噛むかもしれない。
それでも、くすぶっているものへもう嘘をつけない気がした。
あのドームの真ん中に立った瞬間、自分の中の何かは確かに戻ってきたのだ。
帰り道、科学館の外階段を下りる。
夜風が少し強い。
見上げた空に、街灯の明るさで本物の星はあまり見えない。
それでも透子には、今夜見せた空の残像がまだまぶたの裏に残っていた。
「水城さん」
一真が駐輪場のほうから呼ぶ。
「何」
「今の顔、だいぶいいです」
「どの顔」
「消灯後のやつ」
変な言い方だなと思いながら、透子は少し笑った。
たしかに、何かが終わったあとの顔ではなく、火がついたあとの顔かもしれなかった。
遠くで電車が通る音がする。
科学館のガラス壁に、自分の姿が薄く映る。
特別に派手ではない。
劇的に生まれ変わったわけでもない。
でも、もう前みたいに「それでもまあ回ってるから」と自分を誤魔化すのは無理だった。
情熱なんて言葉は気恥ずかしい。
けれど、人はときどき、自分の核へ手を伸ばされるだけで、見える景色まで変わってしまう。
透子は階段を下り切る前に、一度だけ空を見上げた。
暗い。
遠い。
でも、たしかにそこにある。
それだけ分かれば、今夜は十分だった。




