『赤いランプの消えたあと』
地方FM局の第2スタジオは、深夜になると急に狭くなる。
昼間はただの箱に見えるのに、二十二時を過ぎて外の廊下が静かになると、ブースの中にあるものだけがやけに濃くなるのだ。ミキサー卓のランプ、壁の吸音材、原稿の紙のこすれる音、マグカップの縁に残ったコーヒーの輪。
それから、人の声。
白石梓は、その時間帯の声が好きだった。
嘘が減るからだ。
寝不足と疲れで少しだけ守りが薄くなって、人は夜のマイクの前だと昼より本音に近い声を出す。だからこの仕事を続けてきたと言ってもいい。
梓は三十歳。
地方FM局の制作部で、番組構成とディレクションをしている。
担当しているのは、毎週金曜夜の生放送「ナイト・クロス」。リスナーのメッセージを読みながら、少し古い邦楽と雑談でつなぐ二時間の番組だ。
派手ではないが、固定のファンが多い。
その番組でパーソナリティをしているのが、相沢駿だった。
駿は二十八歳。
元々は局の営業で入ったくせに、声が通るとか空気を明るくできるとか、そういう雑な理由で夜の番組へ回され、気づけば人気の顔になっていた。
受け答えがうまい。
相手の言葉を拾うのが速い。
話しやすい雰囲気を作るのが異様にうまい。
そしてその長所を、番組の外でもそのまま使う。
「梓さん、今日の一曲目これでいい?」
ブースの向こうから、駿が紙をひらひらさせた。
ヘッドホンを首に掛けたまま、前髪だけ少し湿っている。雨の中を走ってきたらしい。
梓は卓の前で頷く。
「いい。最初に重すぎないし」
「よかった。今日、ちょっとだけ空気軽くしたかったんだよね」
「何かあった?」
「ある」
駿はあっさり言った。
「でもオンエア前に言うと長くなる」
「じゃあ終わってから」
「それが助かる」
その返しが、いつもの調子すぎて、梓は少しだけ肩の奥が固くなるのを感じた。
終わってから。
その言葉は、この半年で何度も聞いた。
終わってから、相談乗ってください。
終わってから、ちょっといいですか。
終わってから、どう思います?
相手はたいてい同じ人の話だった。
同じ人というより、同じ名前だ。
美咲。
駿が最近付き合い始めたらしい、広告代理店の女性。
年は同じくらい。
明るくて、自分の意見をはっきり言う人で、でもたまに何を考えているか分からなくなるらしい。
それを梓は、もう四回聞いている。
最初は、本当にただの相談だった。
番組終わりのファミレスで、駿がメニューも見ずに言ったのだ。
「梓さんって、こういうの、どう思う?」
そのときの梓は、まだ平気だった。
駿の恋愛相談に自分が乗ることが、こんなに嫌な形へ育つとは思っていなかった。
だが二回目、三回目と続くうちに、少しずつ腹の底が冷えていった。
自分が一番話しやすい相手であることと、自分が好きな相手に選ばれていることは、全然違う。
そんな当たり前のことを、分かりたくないまま引き延ばしていた。
好きだった。
たぶん、けっこう前から。
いつからかは自分でも曖昧だ。
最初は仕事の相性だった。言葉のリズムが合う、沈黙が変に気まずくない、番組中に少し目を合わせるだけで次の展開が読める。
そういう積み重ねの先で、気づいたら駿の声が少し特別になっていた。
けれど仕事相手を好きになるのは厄介だ。
うまくいかなければ仕事も崩れる。
うまくいく未来だけを信じるほど、梓は若くもなかった。
だから黙っていた。
黙っていたら、その「話しやすさ」だけが相手の中で育ってしまった。
オンエアの赤いランプが点いた。
駿がいつもの声で入りの挨拶をする。
「こんばんは、ナイト・クロスです。六月最初の金曜、今夜も二時間ゆるく付き合ってください」
柔らかい。
少し眠そうで、それでいてちゃんと届く声。
この人のそういうところが仕事としては本当に好きで、だから余計に面倒だった。
番組は順調に進んだ。
雨の話。
湿気で機嫌が悪くなる髪の話。
リスナーから届いた「告白するか迷って結局何も言えなかった」というメッセージ。
そのメッセージを読んだあと、駿が少し笑って言った。
「タイミングって、待ってても来ないことありますよね。自分で作るしかないのかも」
梓は卓の前で、ほんの一瞬だけ指を止めた。
よくそんなことが言えるな、と思った。
もちろん、駿に悪気はない。番組の流れの中で、ただそれっぽく答えただけだ。
でもその軽さが、今日は妙に刺さった。
生放送が終わったのは、二十三時五分。
エンディング曲が下がり、ブースの空気が仕事から素へ戻る。
駿はヘッドホンを外して大きく伸びをした。
「はー、終わった」
「今日は噛まなかったね」
「褒め方が保護者」
「事実」
「でも、メールの恋愛相談のとこ、ちょっと刺さった」
「へえ」
梓は原稿をまとめながら、できるだけ平坦に返す。
駿はミネラルウォーターを一口飲んでから、やっぱりあっさり言った。
「でさ、終わってからの相談なんだけど」
梓はそこで手を止めた。
止めた自分に、もう誤魔化しは効かなかった。
「美咲さん?」
「うん」
「何」
声が少しだけ固かったかもしれない。
駿は気づいていない顔で、卓の端にもたれた。
「来週、向こうの誕生日なんだよね」
「そう」
「で、飯行く約束はしてるんだけど、プレゼントどうしようかなって」
梓は一瞬、笑いそうになった。
笑うような話ではない。
でもあまりに、あまりに何度目だ。
何で自分に聞くのだろう。
なぜ、平気で聞けるのだろう。
「それ、私に聞く?」
梓が言うと、駿は少しだけ眉を上げた。
「え」
「その相談、私にする?」
「いや……梓さん、そういうの、ちゃんと考えてくれそうだし」
「ちゃんと考えるよ」
梓は資料の束を揃えたまま言った。
「考えるから、余計に嫌なんだよ」
初めて、駿の顔から軽い色が消えた。
ブースの中が急に静かになる。
壁の向こうの廊下では、別部署の誰かがキャスター付きの箱を動かしている音がした。
その現実的な音の中で、自分の言葉だけが少し浮いた気がした。
「……ごめん」
駿が言う。
「何が嫌だった?」
そこを聞き返してくるところが、この人らしいとも思う。
逃げない。
でも、最初からそのくらい人の気持ちに鈍くないなら、もう少し手前で気づいてほしかったとも思う。
梓は息を吸った。
今さら、冗談だとか、ちょっと疲れてるだけとか、そういう逃げ方もできる。
でも今日は、それをしたらたぶん自分が一番嫌になる。
「私」
梓は言った。
「駿のこと、好きだから」
言った瞬間、思っていたより世界は壊れなかった。
雷が落ちるみたいな衝撃もない。
ただ、ブースの空気の温度だけが少し変わった。
駿は何も言わなかった。
驚いている顔だった。
驚いているということは、やっぱり分かっていなかったのだ。
その事実は少し悔しかったが、今さらそれを責める気力はなかった。
「だから、恋愛相談されるの、しんどい」
梓は続けた。
「話しやすいって言われるのはありがたい。仕事でもそうやって信頼してもらえてるのは分かる」
「……」
「でも、そこに甘えて、その話だけは別だよ」
駿はまだ言葉を探していた。
梓はその間に、机の上のマグカップを片づけた。
手を動かしていないと、膝が少し震えそうだった。
「梓さん、俺」
「うん」
「全然、気づいてなかった」
「うん」
「いや、それ言うのも違うかもしれないけど」
「違わなくはないよ。実際、そうなんでしょ」
駿は苦いものを飲み込むみたいに頷いた。
「そう」
「ならそれでいい」
「よくない」
駿が、思っていたより強く言った。
梓は少しだけ目を上げる。
「よくないっていうか……」
駿は言葉を探しながら髪をかき上げた。
「俺、自分が梓さんにどれだけ甘えてたか、今のでやっと分かった」
その言い方は、ずるいくらい正直だった。
だから余計に、こっちも簡単には怒れない。
「甘えてたよ」
梓は言う。
「分かってる」
「分かってないからやってたんでしょ」
「今は分かった」
「じゃあ遅い」
少しきつく言いすぎたと思ったが、取り消さなかった。
取り消したくなかった。
駿はしばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「美咲とは、まだちゃんと始まってるわけじゃないんだ」
梓は思わず顔をしかめた。
「それ、今言う?」
「言い訳じゃなくて」
「余計だよ」
駿が閉じた口の形が、少しだけ子どもみたいで、梓は腹が立つのに少しだけ笑いそうになった。
こういうところが本当に面倒だ。
嫌いになれない部分が、よりによって嫌なタイミングで出てくる。
「私はさ」
梓は卓のフェーダーを順に落としながら言った。
「今日、付き合ってくださいって言いたいわけじゃない」
「……うん」
「そうじゃなくて、まず、この変な位置を終わらせたい」
話しやすい人。相談しやすい人。仕事の相棒。
そのどれも間違っていない。
でもその全部に、自分の気持ちだけが載っていない状態を、もう続けたくなかった。
「だから」
梓は言う。
「明日から、恋愛相談は禁止」
駿は一瞬だけ間の抜けた顔をしたあと、苦く笑った。
「はい」
「あと、私が嫌そうな顔してたら、“またまた”で済まさない」
「……はい」
「返事軽い」
「今のは本気」
「ならいい」
そこまで言って、梓はようやく少しだけ息を吐いた。
正直、もっと泣くかと思っていた。
言ったあとで自分が惨めになるかと思っていた。
でも実際は、少し疲れて、少し恥ずかしくて、その代わり妙に視界がすっきりしていた。
片づけが終わって、二人でスタジオを出る。
廊下は蛍光灯が半分落ちていて、夜勤の警備員のラジオだけが遠くで鳴っている。
エレベーター前で、駿が言った。
「梓さん」
「何」
「俺、ちょっと考える」
「うん」
「ちゃんと」
「うん」
それ以上のことは言わなかった。
言えなかった、のほうが近いかもしれない。
でも今夜はそれで十分だった。
何もかもをここで決める必要はない。
少なくとも、曖昧さの上にだけ立っていた関係は、さっき終わった。
局の外へ出ると、六月の夜気が少しだけ湿っていた。
駅までの道に、コンビニの看板だけが明るい。
梓は歩きながら、肩の力が少し抜けているのに気づいた。
報われたわけではない。
うまくいく保証もない。
明日から気まずくなる可能性だってある。
それでも、冗談みたいに扱われる位置からは、自分で降りたのだ。
ホームに上がる階段の途中で、スマホが震えた。
駿からだった。
【今日、言ってくれてありがとう】
【あと、今まで本当にごめん】
梓は立ち止まらず、そのまま階段を上がった。
すぐには返さない。
返したい言葉も、返したくない気持ちも、まだ両方ある。
それでいいと思った。
ジレンマなんて、きれいに片づくほうがたぶん少ない。
でも、自分の気持ちを自分で雑に扱わないことだけは、今夜ようやく始められた。
電車が滑り込んでくる。
白い光の中で、梓は一度だけスマホを見下ろし、それからポケットへしまった。
赤いランプの消えたあとに残るのは、たいてい少し疲れた本音だ。
けれど、その本音でやっと前に進む夜もある。




