『切り替え室の窓』
商店街の防災無線は、夕方五時になると決まって少しだけ音が割れる。
子どもの帰宅を促す短い放送なのに、なぜか最後の一音だけが毎回遠くでひっくり返るみたいに歪む。
その癖を、野々村春香はもう三年聞いていた。
春香の勤める「まちの放送室」は、市役所の別館二階にある。
市の広報動画、イベント告知、商店街の館内アナウンス、防災訓練の録音、観光用の短い音声案内。
要するに、「誰かの代わりに声を流す場所」だった。
仕事としては嫌いではない。むしろ好きだ。
原稿を整え、ノイズを削り、間の長さを調整して、聞く人にとって一番引っかからない形へ落とす。
春香はそういう見えない整理が得意だった。
ただ、得意と好きは、ときどき違う顔をする。
春香が本当にやりたかったのは、自分の声で番組を持つことだった。
高校時代から放送部で、大学でも学内ラジオをやっていた。誰かの原稿を読むだけじゃなく、空気をつなぎ、話を転がし、聞いている人の夜に少しだけ割り込むみたいなことがしたかった。
でも現実はそう簡単ではなく、卒業後に拾えたのは地方局の制作補助ではなく、市の委託を受けるこの小さな放送室の編集職だった。
声を出す仕事に近いようで、少し違う。
ずっとその違いを分かったふりで飲み込んできた。
「春香さん、今日の録り、先に私やっちゃっていいですか?」
午後三時、後輩の松本未羽がブースの前から顔を出した。
二十四歳。明るい。声がよく通る。少し緊張しても、それが逆に聞きやすさへ変わる得なタイプだ。
春香はパソコンの波形画面から目を上げる。
「商店街の夏祭り告知?」
「はい。館内放送のやつ」
「どうぞ」
「ありがとうございます!」
未羽がブースへ入る。
ヘッドホンをつけ、マイク前へ立ち、背筋を伸ばす。
まだ少し硬い。
でもその硬さごと、ちゃんと前へ出る声だった。
「商店街をご利用のみなさま、本日もご来場ありがとうございます。今週末は、夏の夜市を開催します……」
ガラス越しに聞きながら、春香は胸の内側が少しざらつくのを感じた。
嫉妬と呼ぶには細かい。
焦りと呼ぶには少し遅い。
でも確実に、何かだ。
自分が一歩引いて整える役へ慣れているあいだに、前へ立つことの勘だけが別の人間へ移っていく感じ。
それを認めたくなくて、春香は波形のノイズを必要以上に拡大した。
未羽の録りが終わる。
ガラス戸を開けた未羽が、息を弾ませて言う。
「どうでした?」
「ちょっと語尾だけ明るすぎる」
「やっぱり?」
「でも入りはいい」
「もう一回録ります」
その素直さまで、少し眩しい。
昔の自分も、こういう顔をしていたのだろうか。
そう思ったところで、春香はすぐにそれを打ち消した。昔の自分を美化するのは、たいてい今日の自分に失礼だ。
夕方、室長の加納がやってきた。
五十代、穏やかな顔で厄介ごとだけを平然と置いていく人だ。
「春香さん、来週の市制記念式典なんだけど」
「嫌な予感しかしません」
「司会、急きょ一人足りなくて」
「嫌です」
「最後まで聞いて」
「聞いてもたぶん嫌です」
加納は苦笑しながらファイルを差し出した。
「本番の総合司会は外部のフリーアナウンサーで変わらない。けど、式典前に流す場内アナウンスと、開式直前の注意案内、今年は現場から生でやりたいって」
「録音じゃなくて?」
「うん」
「それを私に?」
「うん」
春香は無言になった。
未羽ではなく自分へ来たことに、一瞬だけ心が動く。
だがその次の瞬間には、嫌な記憶がもう喉元まで上がっていた。
二年前、春香は一度だけ人前の生進行を任された。
夏の科学イベント。ちいさなステージ。
途中で来賓名を一人飛ばし、訂正を焦って言い直し、空気をぐちゃぐちゃにした。大事故ではない。
でも春香自身には十分だった。
あの日から「私は録りと編集の人」と、半分本気で決めた。
「……無理です」
春香が言うと、加納はすぐには引かなかった。
「なんで」
「生、向いてないので」
「誰が決めた」
「自分で」
「それ、いつの話」
春香は苛立って顔を上げた。
「失敗したときの話です」
「二年前の?」
「覚えてるなら聞かないでください」
加納は少しだけ目を細めた。
「覚えてるから聞いてる」
その言い方が嫌だった。
覚えているのに、まだやれと言う。
それは優しさなのか、雑な期待なのか、春香には判別がつかなかった。
「即答しなくていい」
加納はファイルを机へ置く。
「明日の昼までに返事ちょうだい」
「嫌です」
「それ、今の気分だろ」
「大体いつも今の気分です」
「だから、たまには変えてみたら」
そう言って去っていく背中に、春香は小さく舌打ちした。
変えてみたらで変わるなら、ここまでくすぶっていない。
その夜、仕事帰りに寄ったコンビニで、春香はつい余計なものまで買った。
唐揚げ棒、ヨーグルト、辛いポテトチップス、炭酸水。
冷蔵庫に入れながら、自分で自分に呆れる。
こういう買い方をするときは、大体何かから目を逸らしている。
分かっているのにやる。
そこが一番みっともない。
部屋は一人暮らしのワンルームで、きれいでも汚くもない。
テーブルの隅に、小さな録音機材が置いてある。マイク一本、オーディオインターフェース、古いノートパソコン。
使わなくなって久しい。
大学のころは、課題でもないのに短いラジオもどきを録っていた。季節の話、夜道の話、コンビニのレジで見たこと。誰が聞くでもないのに、一人で喋って、一人で編集していた。
その機材へ、春香は何となく触れた。
起動する。
古いソフトを開く。
マイクの前へ座る。
何を喋るか決めていない。
決めていないくせに、ヘッドホンをつけると体だけは少し前のめりになる。
そこで、春香はふと思った。
生が怖いのではなく、「昔の自分ほどできないかもしれない」のが嫌なのではないか。
切り替わらないスイッチを、壊れていることにして放っているだけなのではないか。
「こんばんは」
試しに声を出す。
驚くほど、普通だった。
上手くもないが、死んでもいない。
そのことに、少しだけ腹が立った。
自分はもっと派手に駄目になっていてほしかったのかもしれない。そうすれば諦めがつくから。
でも実際は、ただ触っていないだけだったらしい。
春香は録音を回したまま、五分ほど喋った。
窓の外の雨の匂い。
自販機の灯り。
子どものころ、夜道を歩くときだけ世界が少し広く思えたこと。
話しながら、胸の奥の固まっていたところが少しずつほどける。
うまくやる必要はない。
まず、自分の声がまだ動くことだけ分かればいい。
録り終えて再生すると、たしかに少し言いよどむし、間も安定しない。
でも、聞けた。
自分で聞いて、自分が嫌になるほどではなかった。
翌朝、春香は職場の自販機の前で缶コーヒーを買った。
加納がちょうど通りかかる。
「で?」
「嫌です」
「うん」
「嫌なんですけど」
加納はそこで立ち止まった。
「受けます」
言いながら、胃のあたりが少しだけ痛くなる。
でも、言えた。
それだけで昨日よりましだ。
「よし」
加納は短く頷いた。
「ただし」
春香は指を立てる。
「式典前の案内文、私が全部直します。あと当日の立ち位置も、事前に現場で確認したい」
「当然」
「あと、練習で一回、本当にマイク出してください」
「当然」
「あと、失敗したら慰めてください」
加納は少しだけ笑った。
「そこは善処する」
「雑」
「でも必要だろ」
春香もつられて笑った。
そういう雑さなら、今日は少しありがたかった。
式典当日。
市民ホールのロビーは朝から人でいっぱいだった。
来賓、表彰者、家族連れ、関係者。
場内アナウンス用の小さな卓は、客席の後ろ隅に用意されている。そこへヘッドホンとマイクが一本。
たったそれだけなのに、二年前の記憶はちゃんと近づいてくる。
「顔、白いですよ」
隣で補助に入る未羽が言った。
「知ってる」
「でも、ちょっと楽しそう」
春香は思わずそちらを見た。
「何で」
「マイク前の顔してるから」
その一言で、昨日の自室の録音が蘇る。
あれはたしかに、自分の顔だった。
開場五分前。
春香は息を吸い、マイクを近づける。
「本日は市制記念式典へお越しいただき、ありがとうございます。まもなく開式となります。携帯電話は電源をお切りいただくか、音の鳴らない設定にお願いいたします」
声は少し硬い。
でも、客席のざわめきがわずかに落ち着く。
その変化が耳へ返ってきた瞬間、春香の中で何かが切り替わった。
スイッチ、というほど派手なものではない。
ただ、怖がっていた自分の位置が一段ずれた感じだった。
続けて、トイレの位置、非常口、撮影の注意。
一つずつ丁寧に流す。
言葉が会場の空気へ染みていく。
誰かの役に立つ声は、思っていたよりちゃんと温度がある。
自分はそれを知っていたし、まだ好きなのだと、ようやく認められた。
開式直前、司会のフリーアナウンサーが振り返って小さく親指を立てた。
春香は少しだけ笑う。
それだけで十分だった。
式典は無事終わった。
大きな失敗もなく、終演後、加納がやってきて言った。
「普通によかった」
「褒め方」
「褒めてるよ。普通にちゃんと届いてた」
加納はファイルを抱え直す。
「どうだった?」
春香は少し考えてから答えた。
「嫌でした」
「うん」
「でも、嫌なだけじゃなかったです」
「うん」
「たぶん、今まで勝手に切ってたんだと思います」
「何を」
「自分のスイッチ」
加納は一瞬だけ目を丸くしてから、静かに頷いた。
「じゃあ、次からは切るなよ」
「そこはまだ分かりません」
「正直でよろしい」
春香は苦笑した。
いきなり別人になれるわけではない。
怖いものは怖いし、次だってきっと緊張する。
でも、押してみたら壊れていなかった。
その事実だけで、今日は十分だった。
夜、自宅へ戻った春香は、テーブルの隅の機材を見た。
昨日より少しだけ近い。
ヘッドホンを手に取り、マイクの位置を直す。
誰に聞かせるでもない録音を、もう一度やってみようと思った。
大きな夢の再開ではない。
でも、自分の声を自分で置いておく場所を、また持ってもいい気がした。
窓の外では、商店街の防災無線が五時の代わりに、遅い時刻を告げる短い音を鳴らした。
少しだけ歪む最後の一音が、今日は妙に愛おしく聞こえた。
完璧じゃなくても、届くものはある。
切り替えるのではなく、切り替わってしまう瞬間が、人にはたぶんある。
春香はマイクへ向かって、昨日より少しだけまっすぐ座った。




