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短編集  作者: 科上悠羽


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111/124

『切り替え室の窓』

 商店街の防災無線は、夕方五時になると決まって少しだけ音が割れる。

 子どもの帰宅を促す短い放送なのに、なぜか最後の一音だけが毎回遠くでひっくり返るみたいに歪む。

 その癖を、野々村春香はもう三年聞いていた。


 春香の勤める「まちの放送室」は、市役所の別館二階にある。

 市の広報動画、イベント告知、商店街の館内アナウンス、防災訓練の録音、観光用の短い音声案内。

 要するに、「誰かの代わりに声を流す場所」だった。

 仕事としては嫌いではない。むしろ好きだ。

 原稿を整え、ノイズを削り、間の長さを調整して、聞く人にとって一番引っかからない形へ落とす。

 春香はそういう見えない整理が得意だった。


 ただ、得意と好きは、ときどき違う顔をする。

 春香が本当にやりたかったのは、自分の声で番組を持つことだった。

 高校時代から放送部で、大学でも学内ラジオをやっていた。誰かの原稿を読むだけじゃなく、空気をつなぎ、話を転がし、聞いている人の夜に少しだけ割り込むみたいなことがしたかった。

 でも現実はそう簡単ではなく、卒業後に拾えたのは地方局の制作補助ではなく、市の委託を受けるこの小さな放送室の編集職だった。

 声を出す仕事に近いようで、少し違う。

 ずっとその違いを分かったふりで飲み込んできた。


「春香さん、今日の録り、先に私やっちゃっていいですか?」


 午後三時、後輩の松本未羽がブースの前から顔を出した。

 二十四歳。明るい。声がよく通る。少し緊張しても、それが逆に聞きやすさへ変わる得なタイプだ。

 春香はパソコンの波形画面から目を上げる。

「商店街の夏祭り告知?」

「はい。館内放送のやつ」

「どうぞ」

「ありがとうございます!」


 未羽がブースへ入る。

 ヘッドホンをつけ、マイク前へ立ち、背筋を伸ばす。

 まだ少し硬い。

 でもその硬さごと、ちゃんと前へ出る声だった。


「商店街をご利用のみなさま、本日もご来場ありがとうございます。今週末は、夏の夜市を開催します……」


 ガラス越しに聞きながら、春香は胸の内側が少しざらつくのを感じた。

 嫉妬と呼ぶには細かい。

 焦りと呼ぶには少し遅い。

 でも確実に、何かだ。

 自分が一歩引いて整える役へ慣れているあいだに、前へ立つことの勘だけが別の人間へ移っていく感じ。

 それを認めたくなくて、春香は波形のノイズを必要以上に拡大した。


 未羽の録りが終わる。

 ガラス戸を開けた未羽が、息を弾ませて言う。

「どうでした?」

「ちょっと語尾だけ明るすぎる」

「やっぱり?」

「でも入りはいい」

「もう一回録ります」

 その素直さまで、少し眩しい。

 昔の自分も、こういう顔をしていたのだろうか。

 そう思ったところで、春香はすぐにそれを打ち消した。昔の自分を美化するのは、たいてい今日の自分に失礼だ。


 夕方、室長の加納がやってきた。

 五十代、穏やかな顔で厄介ごとだけを平然と置いていく人だ。


「春香さん、来週の市制記念式典なんだけど」

「嫌な予感しかしません」

「司会、急きょ一人足りなくて」

「嫌です」

「最後まで聞いて」

「聞いてもたぶん嫌です」

 加納は苦笑しながらファイルを差し出した。

「本番の総合司会は外部のフリーアナウンサーで変わらない。けど、式典前に流す場内アナウンスと、開式直前の注意案内、今年は現場から生でやりたいって」

「録音じゃなくて?」

「うん」

「それを私に?」

「うん」

 春香は無言になった。

 未羽ではなく自分へ来たことに、一瞬だけ心が動く。

 だがその次の瞬間には、嫌な記憶がもう喉元まで上がっていた。


 二年前、春香は一度だけ人前の生進行を任された。

 夏の科学イベント。ちいさなステージ。

 途中で来賓名を一人飛ばし、訂正を焦って言い直し、空気をぐちゃぐちゃにした。大事故ではない。

 でも春香自身には十分だった。

 あの日から「私は録りと編集の人」と、半分本気で決めた。


「……無理です」

 春香が言うと、加納はすぐには引かなかった。

「なんで」

「生、向いてないので」

「誰が決めた」

「自分で」

「それ、いつの話」

 春香は苛立って顔を上げた。

「失敗したときの話です」

「二年前の?」

「覚えてるなら聞かないでください」

 加納は少しだけ目を細めた。

「覚えてるから聞いてる」

 その言い方が嫌だった。

 覚えているのに、まだやれと言う。

 それは優しさなのか、雑な期待なのか、春香には判別がつかなかった。


「即答しなくていい」

 加納はファイルを机へ置く。

「明日の昼までに返事ちょうだい」

「嫌です」

「それ、今の気分だろ」

「大体いつも今の気分です」

「だから、たまには変えてみたら」

 そう言って去っていく背中に、春香は小さく舌打ちした。

 変えてみたらで変わるなら、ここまでくすぶっていない。


 その夜、仕事帰りに寄ったコンビニで、春香はつい余計なものまで買った。

 唐揚げ棒、ヨーグルト、辛いポテトチップス、炭酸水。

 冷蔵庫に入れながら、自分で自分に呆れる。

 こういう買い方をするときは、大体何かから目を逸らしている。

 分かっているのにやる。

 そこが一番みっともない。


 部屋は一人暮らしのワンルームで、きれいでも汚くもない。

 テーブルの隅に、小さな録音機材が置いてある。マイク一本、オーディオインターフェース、古いノートパソコン。

 使わなくなって久しい。

 大学のころは、課題でもないのに短いラジオもどきを録っていた。季節の話、夜道の話、コンビニのレジで見たこと。誰が聞くでもないのに、一人で喋って、一人で編集していた。

 その機材へ、春香は何となく触れた。


 起動する。

 古いソフトを開く。

 マイクの前へ座る。

 何を喋るか決めていない。

 決めていないくせに、ヘッドホンをつけると体だけは少し前のめりになる。

 そこで、春香はふと思った。

 生が怖いのではなく、「昔の自分ほどできないかもしれない」のが嫌なのではないか。

 切り替わらないスイッチを、壊れていることにして放っているだけなのではないか。


「こんばんは」

 試しに声を出す。

 驚くほど、普通だった。

 上手くもないが、死んでもいない。

 そのことに、少しだけ腹が立った。

 自分はもっと派手に駄目になっていてほしかったのかもしれない。そうすれば諦めがつくから。

 でも実際は、ただ触っていないだけだったらしい。


 春香は録音を回したまま、五分ほど喋った。

 窓の外の雨の匂い。

 自販機の灯り。

 子どものころ、夜道を歩くときだけ世界が少し広く思えたこと。

 話しながら、胸の奥の固まっていたところが少しずつほどける。

 うまくやる必要はない。

 まず、自分の声がまだ動くことだけ分かればいい。

 録り終えて再生すると、たしかに少し言いよどむし、間も安定しない。

 でも、聞けた。

 自分で聞いて、自分が嫌になるほどではなかった。


 翌朝、春香は職場の自販機の前で缶コーヒーを買った。

 加納がちょうど通りかかる。


「で?」

「嫌です」

「うん」

「嫌なんですけど」

 加納はそこで立ち止まった。

「受けます」

 言いながら、胃のあたりが少しだけ痛くなる。

 でも、言えた。

 それだけで昨日よりましだ。


「よし」

 加納は短く頷いた。

「ただし」

 春香は指を立てる。

「式典前の案内文、私が全部直します。あと当日の立ち位置も、事前に現場で確認したい」

「当然」

「あと、練習で一回、本当にマイク出してください」

「当然」

「あと、失敗したら慰めてください」

 加納は少しだけ笑った。

「そこは善処する」

「雑」

「でも必要だろ」

 春香もつられて笑った。

 そういう雑さなら、今日は少しありがたかった。


 式典当日。

 市民ホールのロビーは朝から人でいっぱいだった。

 来賓、表彰者、家族連れ、関係者。

 場内アナウンス用の小さな卓は、客席の後ろ隅に用意されている。そこへヘッドホンとマイクが一本。

 たったそれだけなのに、二年前の記憶はちゃんと近づいてくる。


「顔、白いですよ」

 隣で補助に入る未羽が言った。

「知ってる」

「でも、ちょっと楽しそう」

 春香は思わずそちらを見た。

「何で」

「マイク前の顔してるから」

 その一言で、昨日の自室の録音が蘇る。

 あれはたしかに、自分の顔だった。


 開場五分前。

 春香は息を吸い、マイクを近づける。

「本日は市制記念式典へお越しいただき、ありがとうございます。まもなく開式となります。携帯電話は電源をお切りいただくか、音の鳴らない設定にお願いいたします」

 声は少し硬い。

 でも、客席のざわめきがわずかに落ち着く。

 その変化が耳へ返ってきた瞬間、春香の中で何かが切り替わった。

 スイッチ、というほど派手なものではない。

 ただ、怖がっていた自分の位置が一段ずれた感じだった。


 続けて、トイレの位置、非常口、撮影の注意。

 一つずつ丁寧に流す。

 言葉が会場の空気へ染みていく。

 誰かの役に立つ声は、思っていたよりちゃんと温度がある。

 自分はそれを知っていたし、まだ好きなのだと、ようやく認められた。


 開式直前、司会のフリーアナウンサーが振り返って小さく親指を立てた。

 春香は少しだけ笑う。

 それだけで十分だった。


 式典は無事終わった。

 大きな失敗もなく、終演後、加納がやってきて言った。

「普通によかった」

「褒め方」

「褒めてるよ。普通にちゃんと届いてた」

 加納はファイルを抱え直す。

「どうだった?」

 春香は少し考えてから答えた。

「嫌でした」

「うん」

「でも、嫌なだけじゃなかったです」

「うん」

「たぶん、今まで勝手に切ってたんだと思います」

「何を」

「自分のスイッチ」

 加納は一瞬だけ目を丸くしてから、静かに頷いた。

「じゃあ、次からは切るなよ」

「そこはまだ分かりません」

「正直でよろしい」

 春香は苦笑した。

 いきなり別人になれるわけではない。

 怖いものは怖いし、次だってきっと緊張する。

 でも、押してみたら壊れていなかった。

 その事実だけで、今日は十分だった。


 夜、自宅へ戻った春香は、テーブルの隅の機材を見た。

 昨日より少しだけ近い。

 ヘッドホンを手に取り、マイクの位置を直す。

 誰に聞かせるでもない録音を、もう一度やってみようと思った。

 大きな夢の再開ではない。

 でも、自分の声を自分で置いておく場所を、また持ってもいい気がした。


 窓の外では、商店街の防災無線が五時の代わりに、遅い時刻を告げる短い音を鳴らした。

 少しだけ歪む最後の一音が、今日は妙に愛おしく聞こえた。

 完璧じゃなくても、届くものはある。

 切り替えるのではなく、切り替わってしまう瞬間が、人にはたぶんある。

 春香はマイクへ向かって、昨日より少しだけまっすぐ座った。

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