『朝の紙コップ一杯ぶん』
朝六時の商店街は、まだ店の顔をしていない。
シャッターは半分眠っていて、アーケードの床だけが昨日の掃除の跡で少し湿っている。自販機の光が妙に白く、遠くのパン屋だけが先に匂いを起こしている。
高瀬蓮は、その時間の商店街が好きだった。
何も始まっていない顔をしているくせに、どの店も中ではちゃんと火をつけていて、静かなまま忙しい。そういう不器用な朝の感じが、自分に少し似ている気がしていた。
蓮は三十四歳。
祖父の代から続く小さな印刷所で働いている。
名刺、町内会の回覧、学校の配布物、商店街のチラシ、たまに選挙のポスターまで来る。機械は古いが、まだ動く。蓮の手も、そういう仕事にはよく馴染んでいた。
紙の厚さを見てインクの乗りを変え、湿気の多い日は紙詰まりを先に読んで、角が少し潰れた束をきれいに揃える。
向いている。
向いているし、嫌いではない。
ただ、ときどき、このまま「向いている」で一生を終えるのだろうかと考える夜がある。
昔、蓮は喫茶店をやりたかった。
大げさな店ではない。
豆にやたら詳しいとか、すごい焙煎機を持つとか、そういう立派な話でもない。
朝だけ開いて、紙コップでもいいから、仕事へ向かう人が一口飲んで少し呼吸を整えられるような店。
そういう場所を、いつか持てたらいいと思っていた。
だが「いつか」は便利な言葉で、使えば使うほど少しずつ遠くなる。
「またその顔してる」
シャッターを開けようとしたところへ、自転車を押した女が現れた。
商店街の角でコーヒースタンドをやっている森下柚希だった。二十九歳。背は高くないのに歩幅だけは妙に大きい人で、朝の空気を自分のものみたいに切って進む。
「どの顔」
「“別に今じゃなくても”って顔」
「朝から失礼だな」
「当たってる?」
「当たってても言うな」
柚希は笑って、自転車の前かごから封筒を取り出した。
市の創業支援イベントの申込書だった。
来月、駅前広場で「小さな店のはじめ方」という催しをやるらしい。テント一張り分の出店枠がいくつかあって、これから店を始めたい人や、副業として小さく試したい人が使える。
商店街の若手が何人か出るらしいと、柚希は数日前から騒いでいた。
「だから言ったでしょ。これ、蓮さん出なよ」
「いや、だから」
「いやじゃなくて」
「印刷所あるし」
「週末一日だけ」
「準備とかあるし」
「できる範囲でやるんだよ」
「その“できる範囲”が一番人を追い込むんだって」
蓮が言うと、柚希は自転車のハンドルへ顎を乗せた。
「蓮さんさ」
「何」
「“できる範囲で”って言うとき、だいたい自分を一番狭い範囲に閉じ込めてるよね」
朝の白い自販機の光の下で、その指摘は妙にまっすぐだった。
蓮はすぐに返事ができなかった。
その沈黙を、柚希は逃さない。
「ほんとはやりたいんでしょ」
「……」
「沈黙は肯定」
「その判定ルールやめろ」
「やめない」
柚希は封筒を蓮の胸へ押しつけた。
「一人じゃやりたくないなら、私も横で出るから」
「君もう店あるじゃん」
「あるけど、朝ごはんの軽食テストしたいし」
「便乗じゃん」
「便乗だよ。だから一緒にやろうって言ってる」
店を開けたあとも、封筒はずっとレジ横に置いたままだった。
印刷機を回しながらも、目の端に入る。
納品前のチラシの断裁をしながらも、そこにある。
やらない理由はいくらでも出てくる。
設備がない。
大した味も出せない。
今さら始めるほど若くない。
印刷所の仕事だけで手一杯だ。
そうやって並べれば、申込書一枚なんてすぐ紙束の下に埋められる。
だがその日の午後、商店街の会合用ポスターを届けに行った先で、古本屋の千鶴に言われた。
「高瀬くん、最近ずっと“始めなかった人”の顔してるわよ」
「何ですかそれ」
「始めた人の顔でも、諦めた人の顔でもないの」
千鶴は老眼鏡越しにじろりと見た。
「一番面倒なやつ」
「今日はそういう日なんですか」
「たぶんね」
そう言って、さして優しくもなく笑う。
商店街の年寄りたちは、ときどき妙に鋭い。
夜、印刷所の片づけを終えて一人になる。
機械の熱が少し残る工場の隅で、蓮は小型の電気ケトルを出した。
最近、豆を挽く練習だけはしている。
誰に出すでもなく、自分で飲むためだけに。
それが少し惨めで、少し楽しかった。
豆を挽く。
湯を落とす。
ふくらみ方を見て、少し待つ。
紙コップに注いだコーヒーを一口飲む。
美味い。
少なくとも、朝コンビニで適当に買うよりは、ちゃんと美味い。
ただ、それだけだった。
ただそれだけなのに、蓮はその一口を飲むたび、なぜ自分がまだ何も始めていないのかを考えてしまう。
申込書を開く。
店名。
販売内容。
必要設備。
アピール文。
たったそれだけで、紙の向こうに「やる人」しか想定していない空気がある。
蓮はボールペンを持って、書き出しの一文字目で止まった。
そのとき、スマホが鳴った。
柚希からだった。
【申込書、書いた?】
【まだ】
【甘いもの持ってく】
【いらない】
【いる】
三十分後、本当に柚希は来た。
コンビニ袋に、どら焼きと牛乳を入れて。
印刷所の裏口へ勝手に入り込み、作業台の端へ腰を下ろす。
「夜の工場、秘密基地っぽい」
「人の職場で遊ぶな」
「遊んでない。伴走」
柚希はどら焼きを一つよこした。
「で、どこで止まってるの」
「最初から」
「いいね、典型的」
「褒めてないだろ」
「褒めてない」
蓮は申込書を見せた。
柚希はざっと目を通してから、指で項目を叩いた。
「販売内容」
「うん」
「コーヒーだけでいいじゃん」
「それじゃ弱い」
「何に対して」
「人に対して」
「その“人”便利だな」
柚希は笑わなかった。
「まだ誰も見てないのに、誰かの評価だけ先に座ってる」
蓮はどら焼きの袋を開ける手を止めた。
たしかにそうだった。
まだ出店も決まっていないのに、頭の中にはもう「しょぼい」「普通」「わざわざ飲むほどじゃない」と言う誰かが何人も住んでいる。
その幻みたいな客に、自分は先に負けていた。
「ねえ」
柚希が言う。
「最初の店って、完璧じゃなくていいんだよ」
「君はそう言える立場だから」
「違うよ」
柚希は即答した。
「私も最初、紙コップにシール曲がってたし、氷足りなくて途中で買いに走ったし、味ブレて泣いたし」
「そんなに」
「そんなに」
それから、少しだけ声をやわらげる。
「でも、一回出してみないと、自分が何を直したいかも分かんない」
蓮は黙ってコーヒーを飲んだ。
夜の印刷所に、ケトルの保温ランプだけが小さく点いている。
その頼りなさが、今の自分に少し似合いすぎていて嫌だった。
「一人じゃつまんないし」
柚希がどら焼きを半分に割る。
「隣に私いるなら、別に大事故にはならないって」
「そういう問題じゃ」
「そういう問題でもある」
柚希は蓮を見る。
「蓮さん、どうせ始めるなら格好よく始めたいんでしょ」
「……」
「でもたぶん無理だよ」
「はっきり言うな」
「だって最初はだいたいダサいもん」
その言い方があまりに容赦なくて、蓮は思わず笑った。
笑った瞬間、胸の詰まりが少しだけほどける。
ボールペンを持つ。
今度は、書けた。
【店名(仮)】朝の紙コップ
書いたあとで、自分でも少しダサいと思った。
でも、嘘ではなかった。
自分が本当にやりたいのは、そのくらいの大きさのことだ。
「いいじゃん」
柚希が覗き込む。
「ださいけど」
「うるさい」
「でも覚えやすい」
「それはある」
「でしょ」
そうやって一行ずつ埋めていく。
販売内容は、ホットコーヒー二種とアイス一種。
必要設備は、ポット、豆、紙コップ、簡易テーブル。
アピール文は最後まで悩んだ。
悩んだ末、蓮はこう書いた。
【忙しい朝に、一口だけ呼吸が戻るコーヒーを出したいです】
派手ではない。
上手い文でもない。
けれど、それは今の自分にとって一番まっすぐな言葉だった。
申込締切は翌日の十八時だった。
仕事の合間に事務局へ持って行くつもりでいたのに、午前中だけで二件の急ぎ印刷が入り、午後は町内会の名簿修正が飛び込み、気づけば十七時四十分になっていた。
こういう日に限って、世界は人の決意を試すみたいに細かく邪魔を入れてくる。
「行ってこい!」
断裁機の前で父が怒鳴った。
六十を過ぎても声だけは現役より大きい人だ。
「名簿は俺やるから!」
「でも」
「でもじゃない! 行くなら今だろ!」
蓮はその剣幕に押されて、申込書の入った封筒を抱えて走り出した。
商店街を抜け、市役所別館まで全力で行く。
こういうとき、自分が三十四歳であることを嫌でも思い出す。
足が重い。
息も切れる。
昔みたいに軽くは走れない。
それでも走るしかない。
別館の受付へ飛び込んだのは、十七時五十七分だった。
係の女性が少し目を丸くして封筒を受け取る。
「創業支援イベントですね」
「はい」
「間に合ってますよ」
その一言で、蓮は膝から力が抜けそうになった。
間に合っている。
たったそれだけなのに、胸の奥で何かが大きく鳴った気がした。
帰り道、商店街の角で柚希が待っていた。
どうせ見に来るだろうと思っていたが、本当にいると少し腹が立つ。
「出した?」
「出した」
「よし」
「まだ通るか分かんない」
「でも出した」
「うん」
「それで十分、今日は」
柚希はそう言って、缶のカフェオレを一本投げてよこした。
蓮は受け取りながら、少しだけ笑う。
「君、ほんと雑だな」
「雑でいいの。最初の一歩なんだから」
柚希は自転車を押しながら歩き出す。
「スタートラインってさ、立った瞬間に拍手される場所じゃないでしょ」
「うん」
「だいたい息切れてるし、靴紐も気になるし、ほんとにここで合ってるのかなって思う場所」
「夢がないな」
「でも本当」
少し先を歩きながら、柚希が振り返った。
「だから、今の蓮さん、かなりちゃんとしてる」
ちゃんとしてる。
その言い方が、変にうれしかった。
何かを成し遂げたわけではない。
まだ出店が決まったわけでも、店を始めたわけでもない。
それでも、自分がずっと避けてきた紙一枚に名前を書いて、締切に滑り込ませた。
たぶん、そういうのも立派に始まりなのだ。
一週間後、出店決定のメールが来た。
蓮は印刷所の作業台の前で、その短い文面を三回読んだ。
特別な言葉は書いていない。
【出店をお願いしたく存じます】
それだけ。
それだけなのに、世界の輪郭が少し変わったように見えた。
イベント当日までは、また別の忙しさが始まるだろう。
豆の量、導線、釣り銭、雨のときの対応。考えることはいくらでもある。きっと失敗もする。
でも今の蓮には、不思議とそれが前ほど怖くなかった。
怖いけれど、ただ立ち止まって縮んでいくよりは、ずっとましだ。
朝、印刷所の隅でいつものようにコーヒーを淹れる。
紙コップへ注ぎ、湯気の立つ表面を見つめる。
まだ客はいない。
まだ売ってもいない。
それでも、これはもう「いつか」の味ではなかった。
店先のシャッターを上げると、商店街の朝が少しずつ始まっていく。
パン屋の匂い、八百屋の声、自転車のブレーキ。
蓮は紙コップを片手に、その真ん中へ立った。
誰も止めていない。
誰も背中を押してもいない。
だからこそ、ここが本当の線なんだろうと思った。
大げさな号砲はない。
でも、こういう静かな朝に始まるもののほうが、案外長く続くのかもしれなかった。




