表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
短編集  作者: 科上悠羽


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

112/125

『朝の紙コップ一杯ぶん』

 朝六時の商店街は、まだ店の顔をしていない。

 シャッターは半分眠っていて、アーケードの床だけが昨日の掃除の跡で少し湿っている。自販機の光が妙に白く、遠くのパン屋だけが先に匂いを起こしている。

 高瀬蓮は、その時間の商店街が好きだった。

 何も始まっていない顔をしているくせに、どの店も中ではちゃんと火をつけていて、静かなまま忙しい。そういう不器用な朝の感じが、自分に少し似ている気がしていた。


 蓮は三十四歳。

 祖父の代から続く小さな印刷所で働いている。

 名刺、町内会の回覧、学校の配布物、商店街のチラシ、たまに選挙のポスターまで来る。機械は古いが、まだ動く。蓮の手も、そういう仕事にはよく馴染んでいた。

 紙の厚さを見てインクの乗りを変え、湿気の多い日は紙詰まりを先に読んで、角が少し潰れた束をきれいに揃える。

 向いている。

 向いているし、嫌いではない。

 ただ、ときどき、このまま「向いている」で一生を終えるのだろうかと考える夜がある。


 昔、蓮は喫茶店をやりたかった。

 大げさな店ではない。

 豆にやたら詳しいとか、すごい焙煎機を持つとか、そういう立派な話でもない。

 朝だけ開いて、紙コップでもいいから、仕事へ向かう人が一口飲んで少し呼吸を整えられるような店。

 そういう場所を、いつか持てたらいいと思っていた。

 だが「いつか」は便利な言葉で、使えば使うほど少しずつ遠くなる。


「またその顔してる」


 シャッターを開けようとしたところへ、自転車を押した女が現れた。

 商店街の角でコーヒースタンドをやっている森下柚希だった。二十九歳。背は高くないのに歩幅だけは妙に大きい人で、朝の空気を自分のものみたいに切って進む。


「どの顔」

「“別に今じゃなくても”って顔」

「朝から失礼だな」

「当たってる?」

「当たってても言うな」


 柚希は笑って、自転車の前かごから封筒を取り出した。

 市の創業支援イベントの申込書だった。

 来月、駅前広場で「小さな店のはじめ方」という催しをやるらしい。テント一張り分の出店枠がいくつかあって、これから店を始めたい人や、副業として小さく試したい人が使える。

 商店街の若手が何人か出るらしいと、柚希は数日前から騒いでいた。


「だから言ったでしょ。これ、蓮さん出なよ」

「いや、だから」

「いやじゃなくて」

「印刷所あるし」

「週末一日だけ」

「準備とかあるし」

「できる範囲でやるんだよ」

「その“できる範囲”が一番人を追い込むんだって」

 蓮が言うと、柚希は自転車のハンドルへ顎を乗せた。

「蓮さんさ」

「何」

「“できる範囲で”って言うとき、だいたい自分を一番狭い範囲に閉じ込めてるよね」

 朝の白い自販機の光の下で、その指摘は妙にまっすぐだった。

 蓮はすぐに返事ができなかった。

 その沈黙を、柚希は逃さない。


「ほんとはやりたいんでしょ」

「……」

「沈黙は肯定」

「その判定ルールやめろ」

「やめない」

 柚希は封筒を蓮の胸へ押しつけた。

「一人じゃやりたくないなら、私も横で出るから」

「君もう店あるじゃん」

「あるけど、朝ごはんの軽食テストしたいし」

「便乗じゃん」

「便乗だよ。だから一緒にやろうって言ってる」


 店を開けたあとも、封筒はずっとレジ横に置いたままだった。

 印刷機を回しながらも、目の端に入る。

 納品前のチラシの断裁をしながらも、そこにある。

 やらない理由はいくらでも出てくる。

 設備がない。

 大した味も出せない。

 今さら始めるほど若くない。

 印刷所の仕事だけで手一杯だ。

 そうやって並べれば、申込書一枚なんてすぐ紙束の下に埋められる。

 だがその日の午後、商店街の会合用ポスターを届けに行った先で、古本屋の千鶴に言われた。


「高瀬くん、最近ずっと“始めなかった人”の顔してるわよ」

「何ですかそれ」

「始めた人の顔でも、諦めた人の顔でもないの」

 千鶴は老眼鏡越しにじろりと見た。

「一番面倒なやつ」

「今日はそういう日なんですか」

「たぶんね」

 そう言って、さして優しくもなく笑う。

 商店街の年寄りたちは、ときどき妙に鋭い。


 夜、印刷所の片づけを終えて一人になる。

 機械の熱が少し残る工場の隅で、蓮は小型の電気ケトルを出した。

 最近、豆を挽く練習だけはしている。

 誰に出すでもなく、自分で飲むためだけに。

 それが少し惨めで、少し楽しかった。


 豆を挽く。

 湯を落とす。

 ふくらみ方を見て、少し待つ。

 紙コップに注いだコーヒーを一口飲む。

 美味い。

 少なくとも、朝コンビニで適当に買うよりは、ちゃんと美味い。

 ただ、それだけだった。

 ただそれだけなのに、蓮はその一口を飲むたび、なぜ自分がまだ何も始めていないのかを考えてしまう。


 申込書を開く。

 店名。

 販売内容。

 必要設備。

 アピール文。

 たったそれだけで、紙の向こうに「やる人」しか想定していない空気がある。

 蓮はボールペンを持って、書き出しの一文字目で止まった。


 そのとき、スマホが鳴った。

 柚希からだった。


【申込書、書いた?】

【まだ】

【甘いもの持ってく】

【いらない】

【いる】


 三十分後、本当に柚希は来た。

 コンビニ袋に、どら焼きと牛乳を入れて。

 印刷所の裏口へ勝手に入り込み、作業台の端へ腰を下ろす。


「夜の工場、秘密基地っぽい」

「人の職場で遊ぶな」

「遊んでない。伴走」

 柚希はどら焼きを一つよこした。

「で、どこで止まってるの」

「最初から」

「いいね、典型的」

「褒めてないだろ」

「褒めてない」


 蓮は申込書を見せた。

 柚希はざっと目を通してから、指で項目を叩いた。

「販売内容」

「うん」

「コーヒーだけでいいじゃん」

「それじゃ弱い」

「何に対して」

「人に対して」

「その“人”便利だな」

 柚希は笑わなかった。

「まだ誰も見てないのに、誰かの評価だけ先に座ってる」

 蓮はどら焼きの袋を開ける手を止めた。

 たしかにそうだった。

 まだ出店も決まっていないのに、頭の中にはもう「しょぼい」「普通」「わざわざ飲むほどじゃない」と言う誰かが何人も住んでいる。

 その幻みたいな客に、自分は先に負けていた。


「ねえ」

 柚希が言う。

「最初の店って、完璧じゃなくていいんだよ」

「君はそう言える立場だから」

「違うよ」

 柚希は即答した。

「私も最初、紙コップにシール曲がってたし、氷足りなくて途中で買いに走ったし、味ブレて泣いたし」

「そんなに」

「そんなに」

 それから、少しだけ声をやわらげる。

「でも、一回出してみないと、自分が何を直したいかも分かんない」

 蓮は黙ってコーヒーを飲んだ。

 夜の印刷所に、ケトルの保温ランプだけが小さく点いている。

 その頼りなさが、今の自分に少し似合いすぎていて嫌だった。


「一人じゃつまんないし」

 柚希がどら焼きを半分に割る。

「隣に私いるなら、別に大事故にはならないって」

「そういう問題じゃ」

「そういう問題でもある」

 柚希は蓮を見る。

「蓮さん、どうせ始めるなら格好よく始めたいんでしょ」

「……」

「でもたぶん無理だよ」

「はっきり言うな」

「だって最初はだいたいダサいもん」

 その言い方があまりに容赦なくて、蓮は思わず笑った。

 笑った瞬間、胸の詰まりが少しだけほどける。


 ボールペンを持つ。

 今度は、書けた。

【店名(仮)】朝の紙コップ

 書いたあとで、自分でも少しダサいと思った。

 でも、嘘ではなかった。

 自分が本当にやりたいのは、そのくらいの大きさのことだ。


「いいじゃん」

 柚希が覗き込む。

「ださいけど」

「うるさい」

「でも覚えやすい」

「それはある」

「でしょ」

 そうやって一行ずつ埋めていく。

 販売内容は、ホットコーヒー二種とアイス一種。

 必要設備は、ポット、豆、紙コップ、簡易テーブル。

 アピール文は最後まで悩んだ。

 悩んだ末、蓮はこう書いた。


【忙しい朝に、一口だけ呼吸が戻るコーヒーを出したいです】


 派手ではない。

 上手い文でもない。

 けれど、それは今の自分にとって一番まっすぐな言葉だった。


 申込締切は翌日の十八時だった。

 仕事の合間に事務局へ持って行くつもりでいたのに、午前中だけで二件の急ぎ印刷が入り、午後は町内会の名簿修正が飛び込み、気づけば十七時四十分になっていた。

 こういう日に限って、世界は人の決意を試すみたいに細かく邪魔を入れてくる。


「行ってこい!」


 断裁機の前で父が怒鳴った。

 六十を過ぎても声だけは現役より大きい人だ。

「名簿は俺やるから!」

「でも」

「でもじゃない! 行くなら今だろ!」

 蓮はその剣幕に押されて、申込書の入った封筒を抱えて走り出した。

 商店街を抜け、市役所別館まで全力で行く。

 こういうとき、自分が三十四歳であることを嫌でも思い出す。

 足が重い。

 息も切れる。

 昔みたいに軽くは走れない。

 それでも走るしかない。


 別館の受付へ飛び込んだのは、十七時五十七分だった。

 係の女性が少し目を丸くして封筒を受け取る。

「創業支援イベントですね」

「はい」

「間に合ってますよ」

 その一言で、蓮は膝から力が抜けそうになった。

 間に合っている。

 たったそれだけなのに、胸の奥で何かが大きく鳴った気がした。


 帰り道、商店街の角で柚希が待っていた。

 どうせ見に来るだろうと思っていたが、本当にいると少し腹が立つ。


「出した?」

「出した」

「よし」

「まだ通るか分かんない」

「でも出した」

「うん」

「それで十分、今日は」

 柚希はそう言って、缶のカフェオレを一本投げてよこした。

 蓮は受け取りながら、少しだけ笑う。


「君、ほんと雑だな」

「雑でいいの。最初の一歩なんだから」

 柚希は自転車を押しながら歩き出す。

「スタートラインってさ、立った瞬間に拍手される場所じゃないでしょ」

「うん」

「だいたい息切れてるし、靴紐も気になるし、ほんとにここで合ってるのかなって思う場所」

「夢がないな」

「でも本当」

 少し先を歩きながら、柚希が振り返った。

「だから、今の蓮さん、かなりちゃんとしてる」


 ちゃんとしてる。

 その言い方が、変にうれしかった。

 何かを成し遂げたわけではない。

 まだ出店が決まったわけでも、店を始めたわけでもない。

 それでも、自分がずっと避けてきた紙一枚に名前を書いて、締切に滑り込ませた。

 たぶん、そういうのも立派に始まりなのだ。


 一週間後、出店決定のメールが来た。

 蓮は印刷所の作業台の前で、その短い文面を三回読んだ。

 特別な言葉は書いていない。

【出店をお願いしたく存じます】

 それだけ。

 それだけなのに、世界の輪郭が少し変わったように見えた。


 イベント当日までは、また別の忙しさが始まるだろう。

 豆の量、導線、釣り銭、雨のときの対応。考えることはいくらでもある。きっと失敗もする。

 でも今の蓮には、不思議とそれが前ほど怖くなかった。

 怖いけれど、ただ立ち止まって縮んでいくよりは、ずっとましだ。


 朝、印刷所の隅でいつものようにコーヒーを淹れる。

 紙コップへ注ぎ、湯気の立つ表面を見つめる。

 まだ客はいない。

 まだ売ってもいない。

 それでも、これはもう「いつか」の味ではなかった。


 店先のシャッターを上げると、商店街の朝が少しずつ始まっていく。

 パン屋の匂い、八百屋の声、自転車のブレーキ。

 蓮は紙コップを片手に、その真ん中へ立った。

 誰も止めていない。

 誰も背中を押してもいない。

 だからこそ、ここが本当の線なんだろうと思った。


 大げさな号砲はない。

 でも、こういう静かな朝に始まるもののほうが、案外長く続くのかもしれなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ