『洗い上がりの窓』
六月の朝、クリーニング店のシャッターを上げるときの音は、晴れの日より雨の日のほうが重い。
水気を吸った金属の擦れる感じが、そのまま今日一日の機嫌みたいで、朝からあまり気分がよくない。
七瀬茜は両手でシャッターを押し上げながら、小さく息を吐いた。店先の庇からは、夜の雨の名残がまだ細く落ちている。道路の水たまりは薄い灰色で、空の顔までぼやけていた。
店の名は「しらさぎクリーニング」。
昔ながらの個人店で、ワイシャツ、学生服、法事用の黒、時々舞台衣装や発表会のドレスまで持ち込まれる。
茜は三十二歳。母の体調が悪くなってから店へ戻り、そのまま八年働いている。
今ではレジも仕上げも染み抜きも一通りこなす。
向いているといえば向いている。
ただ、向いていることと、そこに気持ちが全部納まることは、同じではない。
「朝から曇ってるねえ」
声がして振り向くと、向かいの花屋の店主が水撒きをしながら笑っていた。
「梅雨なんで」
「天気の話じゃなくて」
その返しに、茜は笑わなかった。
笑えなかった、のほうが近い。
今日は朝から、その手の話をされる気がしていた。
店の奥にある作業台へ、ひとつ分だけ余計なマグカップが置いてある。
白地に青い線の入った、昔から家にあったやつ。
昨日の夜、そのマグカップを使った人間がいる。
茜の妹、沙歩。
二十七歳。東京で舞台衣装の縫製をしている。
五年ぶりに、帰ってきた。
理由は簡単だ。店をどうするか、家族で話すためだった。
母は去年から入退院を繰り返している。父は昔から口だけは達者だが、腰を悪くして仕上げ場の重い仕事はもう無理だ。
このまま茜一人で店を回すのか。
規模を縮めるのか。
いっそ閉めるのか。
そういう話を、一回ちゃんとしなければならない時期に来ている。
なのに、肝心の沙歩がいるだけで、店の空気はずっと微妙にきしんでいた。
茜と沙歩は、昔から仲が悪いわけではなかった。
ただ、よく似ていて、似ているところの使い方だけが違った。
茜は腹が立っても飲み込む。
沙歩は腹が立つ前に離れる。
高校まではそれで回っていたが、母が倒れた年に全部がずれた。
あのとき茜は専門学校をやめて店へ戻った。
沙歩は進学して、そのまま東京へ出た。
誰が悪いとも言い切れない。
進学を責めたことはないし、戻らなかったことを責めたつもりもない。
でも「責めていない」と「何も残っていない」は全然違う。
その中途半端な澱が、五年ぶりに帰ってきた妹の顔を見るたび、また底から浮いてくる。
「おはよう」
店の奥から声がした。
沙歩が寝癖の残る髪のまま、カーテンの隙間から顔を出す。
昨日遅く着いて、そのまま二階の座敷に泊まったのだ。
「おはよう」
茜は必要分だけ返す。
「コーヒー、勝手に淹れた」
「見れば分かる」
「怒ってる?」
「朝から?」
「うん」
「怒ってるというより、慣れてない」
沙歩は少しだけ肩をすくめた。
その動きが、昔と変わっていなくて、余計にやりにくい。
午前中はひたすら客が多かった。
梅雨前に布団を出す人、制服の汗抜きを頼む母親、急ぎのスーツを抱えた営業、町内会の旗を持ち込む老人。
忙しいと会話は必要最小限になる。
その点だけは助かった。
沙歩も黙ってハンガーを拭き、タグを付け、伝票を運ぶ。
作業の手つきは、思ったより店の流れを覚えていた。五年も空いた人間の動きではない。
そこが少しだけ、茜には腹立たしかった。
忘れたふりなら、もっと簡単に嫌いになれたのに。
昼過ぎ、一人の母親が店へ飛び込んできた。
手にしていたのは、小学校高学年くらいの女の子用らしい白いワンピースだった。胸元に淡い刺繍、裾に細いチュール。
けれど前身頃の真ん中へ、薄い黄色いシミが広がっている。
「すみません、明日、ピアノの発表会で……」
母親の声は半分泣いていた。
「さっきジュースをこぼして、家で拭いたら余計に広がって」
茜はワンピースを受け取り、布を指先で軽くつまむ。
素材は繊細だ。熱も薬剤も強くかけられない。
しかも明日。
時間がない。
「見ます」
そう言ってしまってから、もう断れないと分かる。
沙歩が横から覗き込んだ。
「これ、刺繍糸まで入ってる」
「分かってる」
「漂白はきつい」
「分かってる」
「じゃあ局所で浮かせるしかない」
茜は一瞬だけ妹を見た。
沙歩は真顔だった。遊び半分ではない顔だった。
「三十分ください」
茜が母親へ言うと、相手は何度も頭を下げた。
ワンピースを持って作業場へ入る。
扉を閉めた瞬間、茜は小さく息を吐いた。
「どうする」
沙歩が聞く。
「糖分だから、水で流してから」
「でも輪郭残る」
「分かってるって」
「じゃあ私、裏当て持つ」
その言い方が自然すぎて、茜は少しだけ言葉を失った。
五年ぶりなのに、こういうときだけ昔みたいに息が合う。
嫌になるほど、体が覚えている。
作業は細かった。
刺繍糸へ余計な水を回さないように裏から支え、布の表面だけを少しずつ湿らせる。押し込まず、浮かせる。色を広げない。焦らない。
沙歩は必要な道具を、茜が言う前にだいたい取った。
そのたびに、胸の奥で別の感情も動く。
助かる。
腹が立つ。
懐かしい。
悔しい。
そういうものが、一枚の布の上でごちゃごちゃに混ざる。
「そこ、力強い」
沙歩が言う。
「強くない」
「強い。昔から、ムカつくと布に出る」
「今それ言う?」
「今だから言う」
茜は口をつぐんだ。
図星だからだ。
「私さ」
沙歩が裏当てのタオルを替えながら言う。
「戻ってくるたび、茜ちゃんに何て言われるか考えてた」
「言ってないじゃん」
「言ってなくても、思ってることはあるでしょ」
「……」
「私だってあるよ」
沙歩の声は平坦だった。
その平坦さが、逆に本気だった。
「店、置いてったって思ってるでしょ」
茜は手を止めなかった。
「思ってない」
「嘘」
「思ってないよ」
「じゃあ、何」
その問いに、茜はすぐ答えられなかった。
ずっと自分でも言葉にしないようにしてきた場所だったからだ。
責めてはいない。
でも、羨ましかった。
店を出て、自分の好きなものへまっすぐ走れたことが。
走れるだけの身軽さを持っていたことが。
置いていかれたのではなく、自分が残ったのだと分かっているからこそ、その羨ましさは言いにくい。
「……羨ましかった」
ぽつりと出た。
出した瞬間、もう取り消せないと思った。
沙歩の手が一瞬だけ止まる。
「え」
「怒ってるとかじゃなくて」
茜は布から目を離さずに言う。
「母さん倒れたとき、私は残るしかないって思った。で、沙歩は行った」
「うん」
「それが正しかったかどうかじゃなくて、行けたのが羨ましかった」
作業場の換気扇の音だけが回る。
こんな言い方をするつもりはなかった。
もっときれいに整理してから言いたかった。
でも、たぶんそういう時は永遠に来ない。
「私」
沙歩が言う。
「行けたんじゃなくて、逃げたんだよ」
茜の指先が止まる。
「茜ちゃんが残ったから」
沙歩は続けた。
「私、残れなかった。母さんが弱るの見るのも、店がしんどくなってくの見るのも、たぶん怖くて」
「……」
「だから東京行った。勉強とか仕事とか、正しい理由つけて」
そこで初めて、沙歩の声が少しだけ震えた。
「戻るたび、茜ちゃんが普通に店回してるの見ると、自分だけ逃げた気がして、余計に顔出しづらくなった」
茜は、胸の奥のどこかで小さく何かがほどけるのを感じた。
責めたいわけではなかった。
ずっと、同じ場所を見ているつもりで見ていないのが苦しかったのだ。
羨ましかった。
逃げたかった。
残ったほうも、出たほうも、たぶん両方とも少しずつ痛かった。
それを、ようやく言葉で聞けた。
「……今さらだね」
茜が言うと、沙歩は鼻で笑った。
「今さらだよ」
「もっと早く言えばよかった」
「言えないでしょ、こういうの」
「うん」
「だって、格好悪いもん」
その返しが少し可笑しくて、茜はほんの少しだけ笑った。
その拍子に、布の上のしみの輪郭がようやく薄く消える。
「取れた」
沙歩が言う。
「うん」
茜も頷く。
「ぎりぎり」
「でも取れた」
三十分後、ワンピースを返した母親は、本気で泣きそうな顔で何度も頭を下げた。
小さなことだ。
明日の発表会に、子どもが白い服で出られる。それだけ。
でもその「それだけ」のために、人は必死になるし、店はそういう場面に立ち会う。
母親が帰ったあと、店先のガラス戸を閉めながら、茜はふと思った。
自分はこの仕事を、ただ残されたから続けてきたわけではなかったのかもしれない。
向いているからでも、仕方ないからでもなく、ちゃんと誰かの明日を整える瞬間が好きだったのだ。
夕方、急に雨が上がった。
西日が差し込んで、店の大きなガラス窓に洗い場の水滴が光る。
その向こうに、道路へ薄い色がかかった。
くっきりした弧ではない。
でも、灰色の空気の中へ、たしかに色だけが出ている。
「見て」
沙歩が言った。
茜は窓のそばへ立つ。
「中途半端だね」
「うん」
「でも、ある」
「うん」
その会話が、少しだけ自分たちのことみたいで可笑しかった。
綺麗に晴れたわけじゃない。
何もかも許せたわけでも、昔みたいに戻れたわけでもない。
それでも、色は見える。
ちゃんと見ようとすれば見えるものが、まだある。
夜、閉店後に父と母も交えて話した。
店をすぐ閉めるのではなく、しばらく営業日を絞ること。
宅配の回収を増やして、店頭の負担を少し減らすこと。
そして沙歩が、月に一度、東京から衣類の補修やリメイク相談の日を作れないか試すこと。
大きな解決ではない。
でも、一方が全部背負う形でもなかった。
「ほんとにできるの」
茜が聞くと、沙歩は言った。
「やる。今度は逃げるほうじゃなくて」
「大げさ」
「でもそういう話でしょ」
茜は返事の代わりに、伝票の束を机へ揃えた。
沙歩が横で昔みたいに輪ゴムを切って渡してくる。
その動きが、悔しいくらい自然だった。
帰る前、茜は店先のガラスを内側から拭いた。
夕方の水滴は乾き、さっきまでの色ももう見えない。
でも、見えなかったからといって無かったことにはならない。
そういうものを、今日はちゃんと信じられる気がした。
シャッターを下ろす。
金属の音が、朝より少しだけ軽い。
横で沙歩が言う。
「ねえ、次帰るとき、連絡ちゃんとする」
「して」
「あと、母さんの診察日も共有して」
「する」
「で、怒ってるときは怒ってるって言って」
茜は少し考えてから、うなずいた。
「なるべく」
「素直じゃないなあ」
「いきなりは無理」
そう言うと、沙歩は笑った。
その笑い方が、昔より少し大人で、でもちゃんと妹だった。
夜の商店街の上に、まだ薄く湿った空気が残っている。
茜は鍵をかけ、店の明かりが消えたガラスを見た。
そこには自分と妹の姿が並んで映っている。
綺麗でもないし、劇的でもない。
でも、嘘じゃない顔だった。
素直になる、なんてきっと簡単じゃない。
ひねくれたまま言う日もあるし、うまく伝わらない夜もまた来る。
それでも今日みたいに、濁った空の下で少しだけ色が見える瞬間があるなら、もう少しこの先もやっていける気がした。




