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短編集  作者: 科上悠羽


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『灯りの踏み順』

 木曜の夜、榊原駿平は市役所の西口を出たところで、思いきりくしゃみをした。

 春はもう終わりかけだというのに、今年はいつまでも鼻が落ち着かない。花粉のせいにしてきたが、ここ数日はそれだけでもない気がしていた。帰り道にくしゃみが出る日は、たいてい胸の奥に何かが引っかかっている。


「おつかれさまでしたー」


 守衛の声に手を上げて返し、駿平は駅と逆のほうへ歩き出した。

 家に帰れば、冷蔵庫に昨日の惣菜がある。洗濯も終わっている。明日の弁当の米も炊いてある。三十二歳独身、生活はだいたい整っている。困るほどの不幸はないし、誰かに心配されるほど崩れてもいない。

 ただ、毎日が妙に薄い。

 忙しいのに、何も燃えていない。

 朝から夕方まで窓口で説明し、謝り、確認し、判をもらい、書類を回す。間違っていない。役に立っている。それでも一日が終わるころには、自分まで書類の一枚になったような気分になる。


 商店街のアーケードへ入ると、ほとんどの店はもうシャッターを半分下ろしていた。八百屋の前だけがまだ明るく、総菜屋からは油の匂いが流れてくる。

 その途中で、駿平はまたくしゃみをした。


「大丈夫? うち、ほこりっぽいからかな」


 真横から声が飛んできて、駿平は肩を跳ねさせた。

 小さなビルの二階へ上がる細い階段の下に、手書きの立て看板が出ていた。


【本日だけ 体験歓迎 見学だけでも可】


 その横に、女が立っている。

 黒いTシャツに黒いパンツ、足元だけが妙に目立つ深い赤のスニーカー。髪はひとつに束ねていて、頬にだけ照明の色が乗っていた。二十代後半くらいに見えるが、目元は落ち着いている。軽そうなのに、適当に立っていない感じの人だった。


「いや、たぶん花粉です」

「この時期に?」

「諦めの悪い鼻なんで」

「なるほど。じゃあ見学どうですか」

「急ですね」

「急じゃないと大人は入ってこないから」


 言い切られて、駿平は少しむっとした。

 けれど反論しかけたところで、二階から音楽が降ってきた。軽くて、けれど腰のあるリズムだ。階段の狭い空間に、足音と笑い声が細かく跳ね返っている。


「何の集まりですか」

「ダンス」

「見ればわかる答えをありがとうございます」

「偉いでしょ」

「別に」

「でも、だいぶつまんなそうな顔してますよ」


 駿平は一瞬、何も言えなかった。

 知らない人間にそんなことを言われる筋合いはない。ないのだが、当たっているときほど腹が立つのも事実だった。


「初対面で失礼ですね」

「そうですね」

「否定はしないんだ」

「失礼でも、今の顔はほんとです」

 女は肩をすくめた。

「上がって一曲分、歩いてみればちょっと変わるかも」


「いや、そういう柄じゃ」

「その返し、今日三人目」

「他にも断ってる人いたんですね」

「ううん、三人とも上がりました」

 女はにやっと笑った。

「あなたで四人目」


 うまいな、と駿平は思った。

 引き返せる逃げ道を残したまま、少しだけ気分を逆なでする。乗せられるのは癪だったが、そのまま帰るのも妙に負けた感じがした。

 どうせ家では一人だ。

 どうせ明日も同じだ。

 たった一曲分なら、と思ったのが間違いだった。


 二階のスタジオは、思っていたよりずっと小さかった。

 元は写真館だったらしい。壁の一面が鏡になっていて、反対側には古い木の窓がある。天井の低さも、床のきしみも、変に親しみがあった。派手な教室というより、誰かの秘密基地に近い。

 中には十人ほどがいて、年齢も体格もばらばらだった。主婦らしい人、仕事帰りのスーツ姿の男、大学生っぽい二人組、白髪の混じった夫婦。

 誰も完璧には見えない。そこが少しだけ救いだった。


「茅野です」

 さっきの女が言った。

「この場所の担当。で、今日は商店街の夜市でやるお試しクラスの宣伝も兼ねてます」

「榊原です」

「じゃあ榊原さん、靴脱いで」

「いきなり」

「踊るから」

「さっき一曲分歩くって」

「歩くのも踊るのも、最初の一歩は同じです」


 言い切る声に迷いがなくて、駿平は文句を飲み込んだ。

 靴を脱ぐ。床はワックスの匂いがした。

 鏡の中に、くたびれたシャツ姿の自分が映る。こういう場所が似合う顔ではない。けれど他の参加者も似合っているかといえば別にそうでもない。みんな、それぞれの疲れや照れを持ったまま来ている感じだった。


「今日は難しいことしません」

 茅野が中央で手を叩く。

「まず、前に一歩。戻る。一歩。戻る。数える。以上」

「それは本当にダンスですか」

 誰かが言うと、茅野は即答した。

「歩き方に気取った理由をつけるとだいたいダンスです」


 笑いが起きる。

 駿平もつられて口元が緩んだ。


 最初の十分は、正直ひどかった。

 前へ一歩出るだけなのに、鏡があると途端に変になる。右と左を間違える。人とぶつかりそうになる。

 茅野は笑いながら全員を回って、肩の力を抜け、目線を落とすな、足より先に顔で諦めるな、と遠慮なく言う。言い方はきついのに、不思議と嫌味がなかった。できないこと自体を責めているのではなく、できないふりをして逃げるほうだけを見逃さない感じだ。


「榊原さん、数えすぎ」

「数えないと無理です」

「数えるのはいい。でも顔が会計してる」

「何その指摘」

「一、二、三で精算されそう」

「市役所勤務なめてます?」

「むしろ信頼してる」


 その返しに笑った拍子に、駿平の肩から少しだけ力が抜けた。

 途端に、一歩が前へ出る。

 たったそれだけのことなのに、鏡の中の自分がさっきより人間に見えた。


 休憩で渡された紙コップの炭酸水が、妙にうまかった。

 窓の外では、商店街のネオンが歯抜けみたいに点いている。

 茅野が壁際でタオルを首にかけながら言った。

「だいぶマシになった」

「褒め方が雑ですね」

「今のところ事実だけで十分」

「いつもこんな感じでやってるんですか」

「だいたい。大人って、最初に恥かくと本気出す人が多いから」

「ろくでもない指導方針だ」

「でも効いてるでしょ」

 言われて、駿平は黙った。


「仕事帰り?」

「はい」

「何してる人」

「市役所」

「あ、やっぱり」

「何がやっぱりなんですか」

「きちんと疲れてる感じ」

「褒めてないですよね、それ」

「うん。でも悪くないと思う」

 茅野はコップの縁を指で弾いた。

「ちゃんと疲れてる人のほうが、音が入ると変わるんだよね。空っぽの人より」


 その言い方が、少しだけ胸に残った。

 駿平は最近、自分が空っぽになっていく感じばかり意識していた。けれど、疲れているのと空っぽなのは同じではないのかもしれない。


 後半は、二人組になった。

 駿平は身構えたが、茅野が当然のように向かいに立った。


「今日は私が組むから」

「先生が直で?」

「榊原さん、たぶん自分で勝手に固まるタイプでしょ」

「よく言われます」

「で、変に真面目」

「それも」

「じゃあ、人に預ける練習したほうが早い」


 そう言って茅野は、駿平の右手を軽く持ち上げた。

 距離は近いのに、変な意味で近くない。体温より先に、重心の置き方を教えられる感じだった。


「私が合図出すから、自分で全部やろうとしないで」

「それ苦手です」

「知ってる」

「まだ会って四十分くらいですよね」

「四十分あれば十分」

 茅野は口元だけで笑った。

「一、二、三。はい、出る」


 足が出る。

 戻る。

 少しだけ回る。

 また出る。


 不思議だった。

 合わせようとしすぎると合わないのに、相手の力の向きだけを感じていると、次の足がすっと決まる。

 仕事では逆だった。自分で先回りして、予測して、整えて、ようやく事故が減る。

 ここでは、整えすぎると遅れる。

 その違いが、最初は怖く、次に少しだけ面白くなった。


「今のいい」

「ほんとですか」

「ほんと。顔がやっと会計終わった」

「まだ言う」

「だってさっきまで領収書のこと考えてたでしょ」

「なんでわかるんですか」

「わかる顔だった」

 茅野はリズムを崩さずに言う。

「榊原さん、普段たぶん、全部ちゃんとやろうとして、途中で飽きてる」

「……」

「違う?」

「違わないです」

「そういう人、ちょっと崩すとハマるんだよね」

「何に」

「こういう、意味ないくせに身体だけ忙しいやつに」


 その一言が妙に可笑しくて、駿平は声を出して笑った。

 笑ったまま回った瞬間、足がきれいに揃う。

 鏡の中で、自分が知らない自分みたいに軽く動いた。


「今の!」

 茅野がぱっと目を上げる。

「それそれ。そういうの」

「何が起きたのか自分でわかってないです」

「それでいいの」

「雑すぎる」

「理屈が追いつく前に体が覚えることもあるから」


 最後の曲が終わるころには、シャツの背中がうっすら汗ばんでいた。

 たった一時間ちょっと。

 それなのに、朝から体のあちこちに貼りついていた鈍さが、少しだけ剥がれている。

 劇的ではない。人生が変わるほどでもない。

 でも、確実にさっきとは違う。


 参加者が帰り支度を始め、駿平も靴ひもを結んだ。

 そのとき、茅野が入口で新しいチラシを手に振った。


「来週から夜クラス増やすんです」

「営業ですか」

「営業です」

「早いな」

「早くしないと大人は逃げる」

「ずいぶん大人に厳しい」

「大人、すぐ“また今度”って言うから」

 茅野は駿平の前にチラシを差し出した。

「榊原さんも、また今度って顔してる」


 否定しようとして、できなかった。

 その通りだったからだ。

 よかった。面白かった。たぶんまた来たらもう少しましに動ける。

 でも来なくても生きてはいける。

 そうやって何でも後回しにして、気づけば季節だけ変わっていく。

 そのやり方で、ここ数年、何かひとつでも増えただろうかと考えたら、答えはあまり明るくなかった。


「……木曜だけですか」

 気づけばそう聞いていた。


「いまのところ」

「金曜は」

「別クラス。もっと容赦ない」

「木曜で」

「賢明」

 茅野はチラシを渡しながら、少しだけ笑った。

「でもたぶん、榊原さんはそのうち金曜も来る」


「決めつけすぎでは」

「そういう顔してるから」

「また顔か」

「顔はだいたい先にバレる」


 階段を下りる。

 一階まで来たところで、駿平はまたくしゃみをした。

 さっきより軽い。

 茅野が上から身を乗り出して言う。


「ほら、誰かに噂されてる」

「先生でしょう」

「それもある」

「それ“も”って」

「来週来るかなって思ってたから」


 返しに困って、駿平は手だけ上げた。

 商店街の夜風が、少しだけ汗を冷やす。

 シャッターの降りた通りは相変わらず地味で、特別なことなど何も起きていない顔をしていた。なのに足だけは妙に軽い。

 何かを始めるときは、もっと大きな理由が要ると思っていた。転機とか、出会いとか、決意とか。

 けれど本当は、くたびれた木曜の夜に、一時間だけ違う踏み方を覚えるくらいでも十分なのかもしれない。


 帰宅して、冷蔵庫の惣菜を温め、遅い夕飯を食べた。

 そのあとシャワーを浴びて、洗面所の鏡を見る。

 顔つきが別人になったわけではない。

 それでも、朝より少しだけ血が通っているように見えた。


 テーブルの上に置いたチラシを、もう一度手に取る。

 木曜二十時、初心者歓迎。

 下のほうに、小さく「一歩目だけで可」と書いてある。

 茅野が書いたのだろうか。雑なくせに、妙に腹へ落ちる文句だった。


 駿平はスマホを開き、来週の木曜の予定欄に小さく入力した。

【二十時 商店街二階】


 それだけだ。

 大げさな決意はない。

 明日になれば、また窓口で説明して、判をもらって、書類を回すだろう。日常は日常のまま続く。

 でも、その日常の横にひとつだけ、別のリズムが入り込んだ。

 それが思っていたよりずっと危険で、思っていたよりずっとありがたかった。


 入力を終えた瞬間、また小さなくしゃみが出た。

 駿平は鼻を押さえたまま、ひとりで笑う。


「……たしかに、ちょっとまずいかもな」


 何がまずいのか、自分でもちゃんとは言えない。

 ただ、来週の木曜が少しだけ待ち遠しい時点で、もう充分だった。

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