『日曜の角打ち前』
木曜の朝、相楽航平は会社の給湯室で、ぬるいコーヒーを紙コップに半分だけ注いだ。
熱いのを飲む元気もなく、かといって水では味気ない。最近はだいたい、何を選んでも半端だ。
営業部三課。入社七年目。
数字は悪くないが、良くもない。上司に怒鳴られるほど落ちてはいないが、褒められるほど伸びてもいない。後輩の面倒は見られるし、資料も早い。けれど自分が前に出て勝負を決めた、という手応えだけがずっと薄かった。
「相楽さん、またくしゃみしてましたよね」
給湯室へ入ってきた後輩の高梨が、冷蔵庫からヨーグルトを出しながら言った。
「朝から三回」
「数えてたの」
「隣の席なんで」
「暇だな」
「先輩の鼻のほうが暇そうじゃないですか」
「失礼だな」
航平は紙コップを持って笑った。
笑っただけで、別に元気になったわけではない。
今週に入ってから、くしゃみが妙に多い。風邪ではないと思う。熱もないし、喉も痛くない。花粉の時期もだいぶ過ぎた。理由のわからない体の反応は、理由のわからない気分の沈み方に少し似ている。
「誰かに噂されてるんじゃないですか」
「今どきその説ある?」
「ありますよ。うちの実家、まだ現役です」
「どんな実家だよ」
「いい感じの田舎です」
高梨は勝手に頷いて、先に出ていった。
その背中を見送りながら、航平は小さく鼻を押さえた。
噂。
そういう雑な言い方は嫌いじゃない。雑なくせに、たまに本当のことに少しだけ触るからだ。
デスクへ戻る。
モニターの横に置いた写真立てが目に入る。
五人で肩を組んで、誰ひとりまともな顔をしていない写真だった。十年近く前、専門学校を出る直前の春。駅裏の小さな角打ちの前で撮ったものだ。
名前は「おおはし酒店」。
店の半分が酒屋、半分が立ち飲みスペース。
安くて、狭くて、椅子は二つしかなくて、なのに誰かしらそこにいた。
当時の五人は、就職先も住む場所もばらばらだった。
それでも誰かが帰省したとか、仕事で近くまで来たとか、失恋したとか、単に暇だとか、理由にならない理由でふらっと集まった。
別に夢を語るでもない。将来を誓い合うでもない。むしろ互いの失敗を笑い合って、唐揚げを奪い合って、店のおばちゃんにうるさいと怒られていた記憶しかない。
なのに、あのころの写真を見ると、何か大事なものがごっそり映っている気がした。
昼前、見積りの修正で得意先と揉めた。
こちらのミスではないが、先方の確認漏れとも言い切れず、結局こちらが半分飲む形になる。上司は「まあ、こういうのはある」と言った。正しい。正しいが、仕事が積み上がっていく感じではなく、少しずつ削られていく感じだけが残る。
夕方、別件のプレゼンは競合に負けた。
決定打がなかったと先方は言った。
それもたぶん正しい。
帰りの駅の階段で、前を歩いていた人に軽くぶつかられた。謝られる間もなく、その人は人波に流れていく。別に珍しいことではない。だが、そのまま追い越されていく自分の足だけが、妙に鈍く思えた。
「……だる」
口に出した直後、またくしゃみが出た。
通りすがりの女子高生に少し驚いた顔をされる。航平はマスクを引き上げて会釈した。何をやっているのだろうと思う。大人になれば、もう少し自分の機嫌くらい自分で回収できるものだと思っていた。
部屋に帰ると、一人暮らしの玄関はひどく静かだった。
冷蔵庫にはビールが一本。食べかけの豆腐。賞味期限ぎりぎりのキムチ。
テレビをつける気にもなれず、スーツのまま床へ座る。
そのまま何となくスマホを開き、画面を何度かスワイプしたあと、止まったのはほとんど動いていないグループトークだった。
【たまり場仮】
名前が雑すぎる。
最後の発言は四か月前。
地元で教師をしている真鍋が、文化祭で生徒に髪を盛られた写真を上げて、それに三人が笑って終わっている。既読は五。誰も返していない。
そういうところが、いかにも自分たちらしかった。無理に続けない。無理に切らない。
だからこそ、余計に送る文面に迷う。
元気?
いや違う。
今度帰る?
重い。
おおはしまだある?
それも変だ。
考えて、やめた。
わざわざ言葉にするほどのことでもない気がしたし、逆に言葉にした瞬間、今の自分の停滞まで見透かされそうで嫌だった。
そのとき、またくしゃみが出た。
「……だから何だよ」
自分で自分に突っ込みながら、ふと笑った。
噂されているのだとしたら、いったい誰にだ。
あいつらなら、今さら心配して連絡を寄こすより先に、「生きてるか」くらいの雑な一文だけ投げてくるだろう。
金曜の午後、得意先へ向かう途中で、航平は駅ビルの催事場にできていた地方物産展を通りかかった。
ふと足が止まったのは、並んだ総菜の中に、地元の店でよく見た味噌漬けのパックがあったからだ。
大人になってから知ったが、地元のものは離れてからのほうが輪郭を持つ。
二つ買った。
理由はない。強いて言えば、日曜に地元へ帰る口実にしたかったのかもしれない。
帰省というほど大げさではない。実家へ寄る気もない。ただ、駅から十五分歩いて、あの角打ちの前まで行ってみようと思っただけだ。まだあるかどうかも知らないのに。
日曜は、妙に晴れた。
地元の駅前は昔よりきれいになっていて、コンビニが増え、古いゲームセンターはコインランドリーに変わっていた。変わるのは当たり前だ。変わっていないことのほうが、たぶん少ない。
なのに、駅裏の細い通りへ入った途端、足が少しだけ当時の速さを思い出した。
おおはし酒店は、あった。
看板の色は褪せていたが、シャッターは上がっている。
酒屋の表にはケース売りの缶ビール。奥の角打ちスペースには、相変わらず二つしかない丸椅子。
そして、入口の横に、手書きの小さな札が出ていた。
【本日コロッケあります】
航平は思わず笑ってしまった。
昔、みんなでこのコロッケを奪い合って、おばちゃんに「若い男が揚げもん一個で揉めるな」と怒られたことがある。
「……相楽?」
声をかけられて振り向く。
暖簾の奥から出てきたのは、店のおばちゃんではなく、その息子の大橋圭介だった。昔は大学生だったのに、今は普通に店のエプロンが似合っている。
「うわ、圭介くん」
「くんって年でもないだろ。何年ぶり?」
「たぶん七、八年」
「盛りすぎ。四年だ」
「そんな来てた?」
「一回だけ急に顔出したろ、真鍋の結婚式の帰り」
「あー……」
言われて思い出す。そのときも少し酔っていて、ちゃんと座った記憶はない。
「入る?」
「いいの」
「立ち飲み屋でその聞き方ある?」
航平は笑って、カウンターへ入った。
狭さも匂いも変わらない。醤油と揚げ油と冷蔵庫の冷気が混ざった、ここにしかない匂いだった。
味噌漬けのパックを差し出すと、圭介が目を丸くする。
「何それ」
「物産展で見つけて、なんか」
「雑だなあ」
「そっちだってコロッケあるじゃん」
「こっちは営業努力」
缶ビールを一本開けてもらう。
最初のひと口で、身体の内側の錆びたところが少しだけ回り出す感じがした。
大げさではない。ただ、ちゃんと立て直せる気がする程度に。
「みんな来てる?」
航平が何となく聞くと、圭介はレジ横の充電器を見ながら言った。
「真鍋は月に一回くらい。里見は出張ついでにたまに。野崎は去年子ども生まれて減ったな」
「へえ」
「お前は?」
「来てない」
「知ってる」
コロッケが出てくる。
熱い。昔より少し小さくなった気がするが、それはたぶんこっちが大きくなったせいだ。
そのとき、入口の戸が開いた。
「うわ、マジでいる」
聞き慣れた声だった。
振り向くと、教師の真鍋がジャージ姿で立っている。片手にスポーツバッグ。汗をかいたまま、呆れた顔でこちらを見ていた。
「なんでお前がいるの」
「それこっちの台詞」
「圭介からさっき写真きた」
「は?」
圭介が悪びれずスマホを掲げる。
「だって面白いじゃん。相楽が一人でしみしみ顔してビール飲んでるの」
「やめろよ」
「もう送った」
「最低だな」
真鍋が笑いながら隣へ入る。
「で、どうした。急に郷愁?」
「別に」
「その“別に”で誤魔化せる年じゃないだろ」
「教師が生徒みたいな詰め方するな」
「仕事柄」
さらに十分もしないうちに、今度は里見まで来た。
出張帰りらしいスーツ姿で、「嘘だろ」と言いながら缶チューハイを取る。
狭い店に、懐かしい声の大きさだけが先に戻ってきた。
「何だよ、みんな来るなら言えよ」
「お前が呼ばないからだろ」
「呼んでないのに来たのお前らだよ」
「圭介が送るから」
「俺のせいにすんな」
どうでもいい言い合いをしているうちに、肩のあたりに張りついていたものが少しずつ剥がれていく。
近況を聞けば、みんなそれぞれ楽ではなかった。
真鍋は担任したクラスの保護者対応で胃をやられたと言うし、里見は転勤を断れず単身赴任になりかけたとぼやく。野崎は来なかったが、写真で見せられた子どもは驚くほど眉毛が濃かった。
「で、相楽は」
里見が缶を机に置いた。
「最近どうなん」
航平は少しだけ黙った。
昔なら、適当に笑って済ませたかもしれない。
でも今日は、不思議とそれをする気にならなかった。
「……何かさ」
「うん」
「別に最悪じゃないんだけど、ずっとちょっとずつ駄目な感じ」
「わかる」
真鍋が即答した。
「え、早」
「そういう時期あるだろ。死ぬほどじゃないけど、手応えがないやつ」
里見もうなずく。
「頑張ってないわけじゃないのに、何も起きない感じな」
「そう、それ」
言葉にしてみると、思ったより安っぽく聞こえた。
けれど二人は笑わなかった。笑わない代わりに、わかるわそれ、と雑に受け取った。
その雑さに、航平は少し助けられた。
「じゃあお前、今日来て正解じゃん」
真鍋が言う。
「何で」
「そういう時って、一回自分の人生に横入りされないと戻れないから」
「表現が嫌」
「でもだいたいそうだろ」
その瞬間、またくしゃみが出た。
三人がほぼ同時に吹き出す。
「ほら」
里見が指をさす。
「今ぜったい誰か噂した」
「もうしてるだろ、ここで」
「じゃあ当たってるな」
「理屈が雑すぎる」
笑いながら、航平は鼻を押さえた。
たしかにそうだった。
噂されていたかどうかは知らない。けれど少なくとも、こうして自分のことを勝手に引っ張り出して、勝手に席を詰めて、勝手にビールを開けてくれる相手が、まだいる。
連絡がないのは、関係が消えたからではなかった。
ただ、それぞれがそれぞれの場所で踏ん張っていて、でも来れば普通に同じテンポへ戻れるだけだ。
夕方、野崎から遅れてメッセージが来た。
【今から無理 娘が昼寝失敗した】
【写真送れ】
すぐに濃い眉毛の赤ん坊が送られてくる。全員で笑ったあと、真鍋が勝手に返信した。
【次はお前がおごれ】
【なんで】
【皆頑張ってるから】
その一文が妙にしっくり来て、航平は缶の残りを飲み干した。
帰り道、駅までの夕方の風は少し冷たかった。
店の前で三人と別れ、圭介には「また突然送るなよ」と言いながら、たぶんまた送るだろうなと思った。
無理に戻りたいわけじゃない。
あのころが特別だったとも言い切りたくない。
今の仕事も、今の部屋も、今のしんどさごと、自分の生活だ。
ただ、その生活がちょっと詰まったとき、顔を出せる場所がまだあると知った。それだけで、明日からの歩幅はたぶん少し変わる。
ホームへ上がる階段の途中で、またくしゃみが出た。
今度は一回だけだった。
航平は鼻をこすって、笑う。
「了解了解」
誰に返したのか、自分でもよくわからなかった。
でも、たぶんこれくらい雑でいいのだと思う。
電車が来る。
月曜からまた仕事はあるし、急に人生が軽くなるわけでもない。それでも、下がりきった気分の底には、意外とちゃんと反発が残っている。
今度は自分が何かうまいもんでも持って来よう。
そう考えたところで、航平は珍しく、明日のことを少しだけ前向きに思えた。




