『風上の踏み方』
四月の終わり、川沿いの土手は朝から風が強かった。
洗濯物には困るが、町には少しだけいい知らせになる。来月の「空見まつり」に向けて、今年も風が乗るらしい。
空見まつりは、この町でいちばん子どもっぽくて、いちばん本気の祭りだ。
川原に店ごとの大きな手作り凧を持ち寄って、どこまで高く、長く、格好よく上がるかを競う。表向きは親子向けの行事だが、参加する商店街の大人たちのほうがむしろ目の色を変える。去年は魚屋が鯛の形で勝ち、その前は電器屋が蛍光塗料を塗った妙に未来っぽい機体で拍手をさらった。
「で、なんでうちが出ることになったんですか」
三春印房の作業台で、朝倉真帆は竹ひごの束を見下ろして言った。
印房といっても、昔ながらの印鑑屋にコピーと簡易印刷がくっついたような店で、今は名刺、自治会の回覧、学校の配布物、たまに町内会の横断幕まで引き受けている。器用ではあるが、華やかではない。空へ上げて映える商売とは思えなかった。
レジ奥で電卓を叩いていた母は、顔も上げずに言う。
「商店街会長に捕まったから」
「だろうね」
「あと、十年出てないと負け癖つくから嫌だって」
「凧に負け癖ってある?」
「あるんじゃない。店にも」
真帆は鼻で笑った。
二十七歳。高校を出て一度は町を出たが、デザイン会社を二年で辞め、父が倒れたのをきっかけに店へ戻った。今はほぼ家業を継いだ形になっている。パソコン作業も接客もそこそこできる。版面を整えるのも速い。けれど「これが私の得意です」と胸を張って言えるほどのものは、正直ひとつもなかった。
器用貧乏。
便利だが、主役ではない。
そういう立ち位置に、もうだいぶ慣れてしまっていた。
「真帆ちゃん、出るなら今年いけるよ」
昼前、回覧を取りに来た文具屋の息子、陽太が勝手なことを言った。
「去年の魚屋のやつ、あれ塗りすごかったもん。真帆ちゃん、そういうのうまそう」
「印刷と絵は違うの」
「でも手は早いじゃん」
「手が早い人間が空で勝てるなら苦労しない」
言いながら、真帆は竹ひごを一本持ち上げた。軽い。頼りない。
こんなものに紙を張って、風に預ける。理屈は単純なのに、やったことがない人間には急に難しく見える。
その日の営業後、真帆は裏の作業場で最初の試作をした。
骨組みを組み、障子紙を張り、店名を太く刷ってみる。見た目は悪くない。少なくとも「町の印房が出しました」くらいの顔はしていた。
だが、翌朝、土手で試しに上げた一号機は、三歩も走らないうちに右へ傾き、情けなく回転して草むらへ刺さった。
「うわ、弱」
思わず出た声に、犬の散歩中だった老人が振り返る。
「骨が曲がっとる」
「そんな一目でわかります?」
「わし、元建具屋」
「それは強い」
真帆は凧を拾い上げた。
確かに、中央の縦骨がほんの少しずれている。ほんの少しのはずなのに、飛び方は見事なくらい駄目だった。
凧は正直だ。
紙の上ならごまかせる微差が、風の中では全部ばれる。
二号機は骨を太くした。
重くなって上がらなかった。
三号機は紙を軽くした。
今度は強い風で破れた。
四号機は尾を長くした。
安定した代わりに、上がる前に地面を引きずった。
五号機でやっと少し浮いたと思ったら、陽太に「今の、飛んだっていうより保留じゃない?」と言われた。
「黙れ」
「でも惜しいじゃん」
「惜しいが一番腹立つんだよ」
真帆はしゃがみこんで、破れた紙の端を見つめた。
店の仕事の合間、閉店後、早朝。時間を見つけては作っているのに、形になる気配がない。
商店街には、ぱっと見でうまい人がいる。最初から手つきが違う人。色の置き方に迷いがない人。道具を持った瞬間、空気が「はいこの人できる人です」と認めるような人。
真帆はそうではなかった。
何度やっても、最初はだいたい不格好だ。手順を覚えて、ずれを拾って、ようやく人並みになる。
その「ようやく」までの時間が、昔から人より長かった。
夜、店を閉めたあと、母が缶コーヒーを差し出してきた。
「やめる?」
「やめない」
「聞いてないけど」
「今、やめる?って顔した」
「したかも」
母は作業台の端に腰をかけた。
「別に優勝しなくてもいいのよ」
「そう言われると余計に嫌」
「知ってる」
「……なんで出るって言ったと思う?」
「会長に捕まったから」
「それはそう」
真帆は缶のふたを開けた。
「でもさ、十年出てないって聞いたとき、なんか嫌だったんだよね」
「うん」
「うちって、頼まれたものをきれいに作るのは得意だけど、自分から“これ出す”ってやること、最近なかったなって」
母は少し黙ってから、笑った。
「それ、いい理由じゃん」
「格好つけてる?」
「ちょっと」
「うるさい」
翌朝、真帆はまた土手へ行った。
風は昨日より強い。髪が口に入る。紙を押さえる手も取られそうになる。
どうせ今日も失敗するだろうと、半分思っていた。
そのとき、後ろから声がした。
「追い風で上げようとしてない?」
振り向くと、自転車を引いた男性が立っていた。
三十代半ばくらい。作業着にジャンパー。顔は見たことがある。確か、橋向こうの機械工場で働いている人だ。商店街の祭りの準備でも何度か見かけた。
「追い風のほうが楽かと思って」
「走るのは楽。でも上がりにくい」
「そういうものなんですか」
「凧って、向かい風を受けて立つから上がるんで」
真帆は凧と男を見比べた。
「早く言ってほしかった」
「今、初めて見たし」
「それもそうか」
男は笑った。
「工場で試験機いじってるんだけど、風って押されるだけだと案外使えないんですよ。ぶつかったときに、どこへ逃がすかで持ち上がる」
「なんか難しそうで、でもちょっと腹立つ話ですね」
「腹立つ?」
「楽なほうじゃなくて、きついほう使えってことでしょ」
「ざっくり言うと」
「やだなあ」
「でも、凧はそう」
その言葉は、妙に残った。
真帆は六号機から、考え方を変えた。
まず骨を見直す。強い風を受けてもたわみすぎないように、でも重くしすぎないように、縦骨と横骨の太さを変える。紙は和紙風の薄いフィルムにした。張りは出るが、少しの裂けなら広がりにくい。尾も長く垂らすのをやめて、短いものを左右に二本。見た目は派手ではない。魚にも龍にも見えない。ただ、よく見ると風をいなすための角度と逃げ道だけは、前よりちゃんとある。
印刷する絵柄にも迷った。
凝ったものにすれば目は引く。でも細かい絵は、空に上がった瞬間ほとんど見えない。
結局、真帆は大胆に余白を残し、中央に深い藍色の斜線を一本だけ刷った。店名も小さく端に置く。母には「ずいぶん渋いね」と言われ、陽太には「もっと祭りっぽくない?」と言われたが、真帆は首を振った。
「空で見えなきゃ意味ないから」
「なんか急に言うこと職人」
「急にじゃない。ずっと失敗してやっとここ」
祭り前最後の試走の日、真帆はまたあの工場の男に会った。
名前は須賀遼介といった。自分のところも今年は出るらしいが、凧担当は別の人間で、本人は手伝い程度だという。
「上がりそう?」
「知らない。でも前よりは、機嫌が読める」
「凧の?」
「風の」
真帆が言うと、須賀は少し目を細めた。
「それならたぶん、前より飛ぶ」
「そういう根拠のない励まし、あんまり信用してない」
「じゃあ根拠ありで言う。骨の返りが前よりきれい」
「見ただけで?」
「仕事がそういうのだから」
「便利な人だな」
試走では、七号機がようやく十メートルを超えた。
ほんの十メートル。祭り本番で勝つには心許ない高さだ。それでも、真帆には十分すぎる前進だった。空へ上がった一瞬、糸の先から手に返ってきた張りが、これまでの失敗とは明らかに違った。引っ張られているのではなく、向こうで何かが立ち上がっている感触。
「……あ」
声が漏れる。
そのままもっと高く、と欲を出した瞬間、角度を誤って失速した。凧はくるりと反転し、草の上へ落ちる。
でも、悔しさより先に笑いが来た。
「今の、惜しいじゃなくて前進だろ」
少し離れた場所から須賀が言う。
「認めたくないけど、そうかも」
「認めろよ」
「まだ嫌」
「面倒だな」
「今さら?」
祭り当日。
川原は朝から色でうるさかった。赤い鯛、黄色いひまわり、妙に写実的な猫、なぜか空飛ぶ冷蔵庫までいる。商店街の大人たちは、いい年をして全員本気だ。
三春印房の凧は、その中では地味だった。藍の斜線が一本。余白が大きい。近くで見ると格好いいが、祭りの浮かれた空気の中では静かすぎる。
「大丈夫?」
母が聞く。
「知らない」
「いい返事」
「今のところ、これしかないから」
順番が来る。
川原の中央へ立つと、風がまともに顔へ当たった。強い。昨日までよりずっと強い。派手な飾りをつけた凧が、前の組で二つ続けて煽られていた。見物客のざわめきが少しだけ不安の色になる。
真帆は糸を持ち、深く息を吸った。
才能があるわけじゃない。
最初からうまくできる人間でもない。
何度やっても遠回りするし、失敗の数だけならたぶん今日ここで一番多い。
それでも、ここまで来た手順だけは、自分のものだと思った。
「いくよ!」
陽太が機体を支える。
真帆は風上を見た。
今までなら避けたくなる向きだった。でも今日は違う。そこへ踏み込まないと上がらないと、もう知っている。
「離して!」
走る。
向かい風が胸へぶつかる。足が重い。目が乾く。
でも、三歩目で糸が変わった。
五歩目で、確かな張りが来る。
七歩目、機体がぐっと上を向いた。
観客の声が少し上がる。
真帆は走るのをやめず、角度を保ち、糸を少しずつ送った。
藍の斜線が空の中で細く鋭く伸びる。派手さはない。けれど強い風を受けて、揺れながら、折れずに上がっていく。左右の短い尾が震え、機体が小さく修正を繰り返すたび、七号機までの失敗が全部そこへ繋がっている気がした。
「行ける、行ける!」
陽太が叫ぶ。
「うるさい! 知ってる!」
真帆も叫び返した。
知ってる、という言葉が自分の口から出たことに、一瞬遅れて驚いた。
上がるかどうかではなく、上げるために何をするかを、今はちゃんと知っている。
それだけで、人は案外、前へ出られる。
凧は二十メートル、三十メートルと伸びていき、ついには川原のざわめきより高いところで、風に斜めの線を一本引いた。
派手な魚や猫に比べれば、拍手は少し遅れて来た。
でも、来た。
そして、来た拍手は長かった。
結果は二位だった。
一位はやっぱり魚屋だった。しかも今年は鯛ではなく鮪で、妙に速そうだった。真帆は表彰台の下で「そこは勝てない」と笑った。悔しさはある。あるけれど、今日はそれが嫌ではない。
「おめでとう」
閉会後、機体を片づけていると、須賀が缶のスポーツドリンクを差し出してきた。
「どうも」
「向かい風、使えたじゃん」
「腹立つけど」
「まだ言う」
「でも、たしかにあれ、押し返されてるんじゃなかった」
真帆は空を見た。祭りの終わった川原の上を、切れた糸の小さな紙片が一枚だけ流れていく。
「前はね、うまい人って最初から上がるんだと思ってた」
「うん」
「でも違った。少なくとも私は違った。何回も落として、やっと上がる形がわかった」
「それでいいんじゃない」
「うん。たぶん、それしかない」
店へ戻ると、母が表彰状をレジ横に立てた。
「目立つとこ置くの?」
「こういうのは見せびらかすの」
「小さい店なのに強気だな」
「小さい店だからだよ」
母はそう言って、真帆の肩を軽く叩いた。
「十年ぶりに出て二位なら上出来」
「来年は?」
「出るんじゃない」
「なんで確定」
「真帆がもうその顔してる」
その夜、真帆は作業場で、祭りで使った凧を壁に立てかけた。
藍の斜線は近くで見ると少し刷りムラがある。紙の継ぎ目も、完全ではない。賞を取った今でも、欠点はいくらでも見つかる。
でも、不思議と嫌ではなかった。
才能のなさを証明する傷ではなく、手順の跡に見えたからだ。
机の上には、祭りを見ていた近所のカフェから、新しい相談メモが置かれている。
【夏の店頭ポスター、少し大胆なのお願いしたい】
真帆はその紙を見て、口の端を上げた。
頼まれたものをきれいに作る。
それも仕事だ。
でもたぶん、これからはそれだけじゃない。自分から線を引いて、自分の店の顔を外へ出していく。そういう仕事の仕方も、ようやく始められる気がした。
向かい風は、相変わらず好きではない。
楽でもない。
けれど、ただ避けるだけのものではないと、一度知ってしまった。
真帆は定規を取り、白い紙の上へ一本目の線を引く。
まっすぐではない。ほんの少し震える。
それでも、今日はその震えごと前へ出せる気がした。




