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短編集  作者: 科上悠羽


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93/122

『終電のひとつ手前』

 結婚式場の打ち合わせ室は、どこも少しだけ眩しい。

 白いクロス、白い花、白い箱。そこに金の縁取りだけが行儀よく置かれていて、幸福はいつも、最初から整えられた顔をしている。


 篠宮水穂は、新郎新婦の席次表案を閉じて、笑顔の角度を一度だけ整えた。

「こちらでよろしければ、来週までに最終校正をお戻しします」

 向かいに座っていた新婦が、ほっとしたように息を吐く。

「ありがとうございます。なんか、やっと現実になってきました」

「楽しみですね」

「はい、すごく」


 そう言って見つめ合う二人は、本当に嬉しそうだった。作り物ではなく、でもあまりにも正しい幸福の形だった。水穂はそれを美しいと思う。美しいと思うからこそ、たまに目が痛くなる。


 打ち合わせを終えてスタッフルームに戻ると、後輩の奈々が書類の束を抱えたまま言った。

「水穂さん、今週も土曜入れます?」

「入れるよ」

「助かります! 神!」

「神はこの職場で安売りしないで」

「じゃあ仏!」

「さらに雑」

 笑いながらロッカーを閉める。こういう軽さは嫌いじゃない。仕事も嫌いではない。細かい確認、誰かの希望を形にしていく作業、ほころびを先に見つけて繕う手際。向いているとも思う。


 ただ、自分がその白の中に立つ想像だけが、どうしてもうまくできなかった。


 駅までの道は、雨上がりで少し光っていた。

 スマホには、婚約者の悠真からメッセージが来ている。


【先に寝るかも。冷蔵庫にプリンある】


 水穂は思わず笑った。

 同棲を始めて八か月。悠真は穏やかで、約束を守り、怒鳴らず、余計な駆け引きをしない人だった。交際三年、婚約して半年。両家への挨拶も済んで、来年の春には式場も押さえている。

 十分すぎるほど、順調だった。


【了解。食べる】

 返してから、ふと立ち止まる。

 こういうやり取りに、何の不満もない。ないのに、ときどき胸の奥がしんと冷える。冷えるたび、水穂は自分を責める。何が足りないのだと。優しい人と穏やかに暮らして、仕事も安定していて、友人とも普通に連絡を取り合えている。それ以上を望むのは贅沢ではないか、と。


 そのときだった。

 駅前の高架下、閉店した映画館のシャッター前で、誰かが脚立に乗っていた。暗い赤のパーカー、濡れた髪、片手にペンキの缶。

 シャッターに白い文字が走る。


「……嘘でしょ」


 水穂が呟いた瞬間、脚立の上の男が振り向いた。

「うわ」

「うわ、じゃない」

「篠宮?」

「芦原?」

 大学時代の二年先輩。芦原朝陽。

 映研でも演劇でも軽音でもなく、その全部の周りにふらふらいて、文化祭の一番面白いところにだけ必ずいた人だ。自分では何者なのか最後まで曖昧なまま、でも他人の退屈だけは異様に嗅ぎ分ける。水穂にとっては、大学三年の秋に一度だけ舞台へ引っ張り上げてきた張本人だった。


「何してるの」

「見ればわかるだろ。最後の看板描き」

「違法では?」

「ギリ気持ちで合法」

「最低の答え」

 朝陽は脚立を降り、濡れた前髪をかき上げた。

 シャッターにはまだ途中までしか字がない。白い大きな文字で、今夜だけ上映、とある。その下に時間と矢印。閉館して三年経つ映画館の最後の一夜にしては、あまりに無断で、あまりに唐突だった。


「まさか」

「まさかだよ。館長の息子に鍵借りた。中、映写室だけまだ生きてる」

「何それ」

「終わる前に一回だけ灯りつけたいって」

「それをなんであなたが」

「知り合いの知り合いで、面白そうだったから」

「その理由で動く人、相変わらず信用できない」

「褒め言葉として受け取る」


 水穂はため息をついた。

 朝陽は変わっていなかった。人を巻き込む前提で立っている感じが、昔のままだ。


「篠宮、ちょうどいい。手伝って」

「嫌」

「即答」

「帰るとこ」

「終電まで一時間ある」

「それが理由になると思ってるの」

「なる人にしか言ってない」


 その言い方が、腹立たしいほど昔と同じだった。

 大学のころ、水穂は一度だけ朝陽の書いた短い朗読劇に出たことがある。本番三日前に主演が飛んで、たまたま稽古場を覗いただけの水穂に、君でいいから立って、と言ったのが朝陽だった。無茶だった。台本はろくに完成しておらず、照明も足りず、客も二十人しかいなかった。それでも、舞台の上で自分の声が客席へ落ちていく感覚だけは、今でも妙に鮮明に覚えている。

 あれ以来、演じることも読むこともやっていない。就職して、転職して、気づけば結婚式場のプランナーになっていた。役に立つ側に回ると、人生はだいぶ安全になる。


「何すればいいの」

 気づいたら聞いていた。

 朝陽が口の端を上げる。

「やっぱり降りないじゃん」

「五分だけ」

「信用しない」

「私も」


 映画館の中は、カビと埃と、長く閉じた場所の静けさで満ちていた。

 ロビーのガラスケースには、黄ばんだチラシがまだ残っている。赤い絨毯は色褪せて茶色に近い。電気はつくが半分しか生きておらず、暗がりの中でポスターの人物だけがやけに鮮やかだった。


「今夜、何やるの」

「昔の短編を何本か流す。あと最後に一本だけ、音のないやつ」

「無声映画?」

「違う。フィルムだけ残って音声データ死んだ」

「最悪」

「だから前説と締めだけ欲しい」

「……私に?」

「うん」

 水穂は立ち止まった。

「断る」

「まだ頼み切ってない」

「そこまで聞いた時点で断る」

「篠宮の声、こういう場所に合うんだよ」

「昔の話でしょ」

「昔しか知らないからな。でも昔のままなら十分だ」


 胸の奥のどこかが、嫌なふうに動いた。

 懐かしさではない。もっと不意打ちに近い。自分がもう使っていない部分を、勝手に見つけられたような感覚だった。


「私、明日も仕事なんだけど」

「知ってるよ」

「婚約者いるし」

「それも知ってる」

「じゃあ」

「だから誘ってる」

 朝陽は懐中電灯を壁に向けながら、平然と言った。

「平穏に入る資格があるのは、外を知ってるやつだけだろ」

「何それ」

「ずっと安全な場所にいた人間は、安全の値打ちわかんないじゃん」

「言ってること、かなり勝手だよ」

「うん。でも篠宮、最近の顔、たぶんちょっと静かすぎる」


 水穂は返事を失った。

 最近の顔。そんなもの、見ていたのか。いや、今見ているだけで当てずっぽうかもしれない。朝陽は昔からそうだった。核心を見抜くというより、人がうまく隠しているつもりの場所に平気で土足で入ってくる。


「別に、不幸じゃない」

「うん」

「困ってもない」

「うん」

「ちゃんとやれてる」

「見ればわかる」

「だったら」

「それでも、息してない顔するときあるよ」


 ロビーの薄暗さの中で、その言葉だけがやけにまっすぐ届いた。

 水穂は反射みたいに笑った。

「失礼」

「よく言われる」

「でしょうね」

「でも外れてないときほど怒るだろ、篠宮」

 返せない。返せないことが、さらに腹立たしかった。


 結局、水穂は客席最後列に座って、前説の紙を持たされた。

 来た客は二十人ほど。近所の老人、映画館を覚えている夫婦、朝陽の友人らしい若者が数人。館長の息子が缶コーヒーを配っていて、妙に雑で、妙にあたたかい夜だった。


「三分後、始める」

 朝陽が袖から顔を出す。

「ほんとに私が読むの」

「嫌なら今からでも俺がやる」

 そう言われて、水穂は紙を握り直した。

「……やる」

「知ってた」

「その顔やめて」


 舞台ではない。客席も近い。照明だって仮設だ。

 それでも、マイクを持って一歩前へ出た瞬間、昔と同じ匂いがした。知らない場所へ足を踏み外す直前の、少し甘くて、少し怖い感じ。


「本日は、お越しいただきありがとうございます」


 最初の一文で、もう少し震えると思っていた。

 けれど声は意外なくらい素直に出た。

 古い壁に当たって、客席へ落ちる。自分の声なのに、自分の手を離れたあとのほうがはっきり聞こえる。そうだ、これが好きだったのだと、水穂は遅れて思い出した。読むことそのものではない。出した声が誰かに届いて、空気が少しだけ変わる瞬間が好きだったのだ。


 上映が始まる。

 無音のフィルムの中で、若い男と女が走って、笑って、手を振って、最後に振り返る。その意味を誰も説明しないのに、客席は静かに息をそろえていた。

 水穂は後ろからその背中を見ていた。誰かと同じものを見ている時間は、こんなに強かっただろうか。


 上映後、拍手が起きた。

 大きくはない。でも、ちゃんと鳴った。

 その音の中で、水穂はふと、自分が今どこにいるのかわからなくなった。映画館の客席、終電前、婚約者の待つ部屋へ戻る途中、そのどれでもあって、そのどれでもない場所。

 ただ一つわかったのは、ここ数か月、自分は何も揺らさないように生きすぎていたということだった。


 客がはけたあと、ロビーで朝陽がペンキのついた手を洗っていた。

「ありがとう」

「勝手に巻き込んでおいて」

「うん」

「最低」

「褒め言葉」

「違う」

 水穂は笑った。少しだけ、悔しかった。


「ねえ、芦原」

「ん」

「救うとか、そういう顔しないで」

「してた?」

「してた」

 朝陽は蛇口を止めた。

「じゃあ訂正する。俺は引っ張っただけ」

「迷惑」

「うん」

「でも」

 水穂はロビーの奥、真っ暗な客席を見た。

「助かったのは、ちょっとある」


 朝陽は何も言わなかった。

 その沈黙が、変に優しかった。軽口で返されたら、たぶん水穂は台無しにしていた。


 終電のひとつ手前で帰ると、悠真はまだ起きていた。

 テーブルの上に、ふたつ並んだプリン。

 水穂はコートも脱がずに椅子へ座った。

「おかえり」

「ただいま」

「遅かったね」

「うん」

 悠真は水穂の顔を見て、少しだけ眉を寄せた。

「何かあった?」

 その問い方に、逃げ道はなかった。

 水穂は濡れた髪を耳にかける。

「ちょっと、息した」

「……そう」

「ごめん。変な言い方」

「いや」

 悠真は急かさなかった。

「その“ちょっと”が必要だったってこと?」

 水穂はしばらく黙ってから、うなずいた。

「たぶん」

「俺といると、足りない?」

 責める声ではなかった。

 だからこそ、誤魔化せなかった。


「悠真は悪くない」

「それは今、あまり救いにならないかも」

「うん」

「でも本当に?」

「本当に」

 水穂は手元のプリンのふたを見つめた。

「私が、ちゃんと起きたままここにいたかって言われると、自信ない」


 長い沈黙のあと、悠真が静かに言った。

「じゃあ、一回やめようか」

 水穂は顔を上げる。

「式?」

「その前に、“順調”で押し切るのを」

 悠真は少しだけ笑った。苦い笑いだった。

「俺、君のこと、穏やかにしてるつもりだった。でも眠らせてたなら意味ない」

 水穂の喉が熱くなる。

「ごめん」

「謝らなくていいよ。今日やっと言えたなら、まだ間に合う」


 そこで初めて、水穂は本当に息を吐いた。

 助けられるというのは、誰かに攫われることではないのかもしれない。止まっていた自分を、自分で見つけ直すことなのかもしれない。そのきっかけが、たまたま乱暴な誰かだっただけで。


 翌朝、水穂は式場に休みの連絡を入れた。

 長くは休まない。ただ、少しだけ自分の声を使う場所を探そうと思った。

 映画館はもう二度と開かないだろう。でも昨夜、閉じる直前の暗がりで、自分の中の何かは確かに起きた。


 駅へ向かう道で、朝陽から短いメッセージが来る。


【昨日の前説、よかった】


 水穂はしばらく画面を見てから、返した。


【迷惑料として覚えとく】


 すぐに返事が来る。


【次はもっと派手なのある】


 水穂は笑って、スマホを伏せた。

 すぐに飛びつくつもりはない。平穏を捨てるつもりもない。ただ、自分で選べる位置まで戻る。そのために、もう少しだけ外の空気を吸う。


 朝の駅は混んでいた。

 いつも通りの人波の中を歩きながら、水穂は胸の内側に、昨夜の声の残響を確かめる。

 安全な場所へ戻るにしても、もう眠ったままでは戻らない。

 終電ではなく、そのひとつ手前で降りた夜のことを、たぶん長く忘れないだろう。

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