『終電のひとつ手前』
結婚式場の打ち合わせ室は、どこも少しだけ眩しい。
白いクロス、白い花、白い箱。そこに金の縁取りだけが行儀よく置かれていて、幸福はいつも、最初から整えられた顔をしている。
篠宮水穂は、新郎新婦の席次表案を閉じて、笑顔の角度を一度だけ整えた。
「こちらでよろしければ、来週までに最終校正をお戻しします」
向かいに座っていた新婦が、ほっとしたように息を吐く。
「ありがとうございます。なんか、やっと現実になってきました」
「楽しみですね」
「はい、すごく」
そう言って見つめ合う二人は、本当に嬉しそうだった。作り物ではなく、でもあまりにも正しい幸福の形だった。水穂はそれを美しいと思う。美しいと思うからこそ、たまに目が痛くなる。
打ち合わせを終えてスタッフルームに戻ると、後輩の奈々が書類の束を抱えたまま言った。
「水穂さん、今週も土曜入れます?」
「入れるよ」
「助かります! 神!」
「神はこの職場で安売りしないで」
「じゃあ仏!」
「さらに雑」
笑いながらロッカーを閉める。こういう軽さは嫌いじゃない。仕事も嫌いではない。細かい確認、誰かの希望を形にしていく作業、ほころびを先に見つけて繕う手際。向いているとも思う。
ただ、自分がその白の中に立つ想像だけが、どうしてもうまくできなかった。
駅までの道は、雨上がりで少し光っていた。
スマホには、婚約者の悠真からメッセージが来ている。
【先に寝るかも。冷蔵庫にプリンある】
水穂は思わず笑った。
同棲を始めて八か月。悠真は穏やかで、約束を守り、怒鳴らず、余計な駆け引きをしない人だった。交際三年、婚約して半年。両家への挨拶も済んで、来年の春には式場も押さえている。
十分すぎるほど、順調だった。
【了解。食べる】
返してから、ふと立ち止まる。
こういうやり取りに、何の不満もない。ないのに、ときどき胸の奥がしんと冷える。冷えるたび、水穂は自分を責める。何が足りないのだと。優しい人と穏やかに暮らして、仕事も安定していて、友人とも普通に連絡を取り合えている。それ以上を望むのは贅沢ではないか、と。
そのときだった。
駅前の高架下、閉店した映画館のシャッター前で、誰かが脚立に乗っていた。暗い赤のパーカー、濡れた髪、片手にペンキの缶。
シャッターに白い文字が走る。
「……嘘でしょ」
水穂が呟いた瞬間、脚立の上の男が振り向いた。
「うわ」
「うわ、じゃない」
「篠宮?」
「芦原?」
大学時代の二年先輩。芦原朝陽。
映研でも演劇でも軽音でもなく、その全部の周りにふらふらいて、文化祭の一番面白いところにだけ必ずいた人だ。自分では何者なのか最後まで曖昧なまま、でも他人の退屈だけは異様に嗅ぎ分ける。水穂にとっては、大学三年の秋に一度だけ舞台へ引っ張り上げてきた張本人だった。
「何してるの」
「見ればわかるだろ。最後の看板描き」
「違法では?」
「ギリ気持ちで合法」
「最低の答え」
朝陽は脚立を降り、濡れた前髪をかき上げた。
シャッターにはまだ途中までしか字がない。白い大きな文字で、今夜だけ上映、とある。その下に時間と矢印。閉館して三年経つ映画館の最後の一夜にしては、あまりに無断で、あまりに唐突だった。
「まさか」
「まさかだよ。館長の息子に鍵借りた。中、映写室だけまだ生きてる」
「何それ」
「終わる前に一回だけ灯りつけたいって」
「それをなんであなたが」
「知り合いの知り合いで、面白そうだったから」
「その理由で動く人、相変わらず信用できない」
「褒め言葉として受け取る」
水穂はため息をついた。
朝陽は変わっていなかった。人を巻き込む前提で立っている感じが、昔のままだ。
「篠宮、ちょうどいい。手伝って」
「嫌」
「即答」
「帰るとこ」
「終電まで一時間ある」
「それが理由になると思ってるの」
「なる人にしか言ってない」
その言い方が、腹立たしいほど昔と同じだった。
大学のころ、水穂は一度だけ朝陽の書いた短い朗読劇に出たことがある。本番三日前に主演が飛んで、たまたま稽古場を覗いただけの水穂に、君でいいから立って、と言ったのが朝陽だった。無茶だった。台本はろくに完成しておらず、照明も足りず、客も二十人しかいなかった。それでも、舞台の上で自分の声が客席へ落ちていく感覚だけは、今でも妙に鮮明に覚えている。
あれ以来、演じることも読むこともやっていない。就職して、転職して、気づけば結婚式場のプランナーになっていた。役に立つ側に回ると、人生はだいぶ安全になる。
「何すればいいの」
気づいたら聞いていた。
朝陽が口の端を上げる。
「やっぱり降りないじゃん」
「五分だけ」
「信用しない」
「私も」
映画館の中は、カビと埃と、長く閉じた場所の静けさで満ちていた。
ロビーのガラスケースには、黄ばんだチラシがまだ残っている。赤い絨毯は色褪せて茶色に近い。電気はつくが半分しか生きておらず、暗がりの中でポスターの人物だけがやけに鮮やかだった。
「今夜、何やるの」
「昔の短編を何本か流す。あと最後に一本だけ、音のないやつ」
「無声映画?」
「違う。フィルムだけ残って音声データ死んだ」
「最悪」
「だから前説と締めだけ欲しい」
「……私に?」
「うん」
水穂は立ち止まった。
「断る」
「まだ頼み切ってない」
「そこまで聞いた時点で断る」
「篠宮の声、こういう場所に合うんだよ」
「昔の話でしょ」
「昔しか知らないからな。でも昔のままなら十分だ」
胸の奥のどこかが、嫌なふうに動いた。
懐かしさではない。もっと不意打ちに近い。自分がもう使っていない部分を、勝手に見つけられたような感覚だった。
「私、明日も仕事なんだけど」
「知ってるよ」
「婚約者いるし」
「それも知ってる」
「じゃあ」
「だから誘ってる」
朝陽は懐中電灯を壁に向けながら、平然と言った。
「平穏に入る資格があるのは、外を知ってるやつだけだろ」
「何それ」
「ずっと安全な場所にいた人間は、安全の値打ちわかんないじゃん」
「言ってること、かなり勝手だよ」
「うん。でも篠宮、最近の顔、たぶんちょっと静かすぎる」
水穂は返事を失った。
最近の顔。そんなもの、見ていたのか。いや、今見ているだけで当てずっぽうかもしれない。朝陽は昔からそうだった。核心を見抜くというより、人がうまく隠しているつもりの場所に平気で土足で入ってくる。
「別に、不幸じゃない」
「うん」
「困ってもない」
「うん」
「ちゃんとやれてる」
「見ればわかる」
「だったら」
「それでも、息してない顔するときあるよ」
ロビーの薄暗さの中で、その言葉だけがやけにまっすぐ届いた。
水穂は反射みたいに笑った。
「失礼」
「よく言われる」
「でしょうね」
「でも外れてないときほど怒るだろ、篠宮」
返せない。返せないことが、さらに腹立たしかった。
結局、水穂は客席最後列に座って、前説の紙を持たされた。
来た客は二十人ほど。近所の老人、映画館を覚えている夫婦、朝陽の友人らしい若者が数人。館長の息子が缶コーヒーを配っていて、妙に雑で、妙にあたたかい夜だった。
「三分後、始める」
朝陽が袖から顔を出す。
「ほんとに私が読むの」
「嫌なら今からでも俺がやる」
そう言われて、水穂は紙を握り直した。
「……やる」
「知ってた」
「その顔やめて」
舞台ではない。客席も近い。照明だって仮設だ。
それでも、マイクを持って一歩前へ出た瞬間、昔と同じ匂いがした。知らない場所へ足を踏み外す直前の、少し甘くて、少し怖い感じ。
「本日は、お越しいただきありがとうございます」
最初の一文で、もう少し震えると思っていた。
けれど声は意外なくらい素直に出た。
古い壁に当たって、客席へ落ちる。自分の声なのに、自分の手を離れたあとのほうがはっきり聞こえる。そうだ、これが好きだったのだと、水穂は遅れて思い出した。読むことそのものではない。出した声が誰かに届いて、空気が少しだけ変わる瞬間が好きだったのだ。
上映が始まる。
無音のフィルムの中で、若い男と女が走って、笑って、手を振って、最後に振り返る。その意味を誰も説明しないのに、客席は静かに息をそろえていた。
水穂は後ろからその背中を見ていた。誰かと同じものを見ている時間は、こんなに強かっただろうか。
上映後、拍手が起きた。
大きくはない。でも、ちゃんと鳴った。
その音の中で、水穂はふと、自分が今どこにいるのかわからなくなった。映画館の客席、終電前、婚約者の待つ部屋へ戻る途中、そのどれでもあって、そのどれでもない場所。
ただ一つわかったのは、ここ数か月、自分は何も揺らさないように生きすぎていたということだった。
客がはけたあと、ロビーで朝陽がペンキのついた手を洗っていた。
「ありがとう」
「勝手に巻き込んでおいて」
「うん」
「最低」
「褒め言葉」
「違う」
水穂は笑った。少しだけ、悔しかった。
「ねえ、芦原」
「ん」
「救うとか、そういう顔しないで」
「してた?」
「してた」
朝陽は蛇口を止めた。
「じゃあ訂正する。俺は引っ張っただけ」
「迷惑」
「うん」
「でも」
水穂はロビーの奥、真っ暗な客席を見た。
「助かったのは、ちょっとある」
朝陽は何も言わなかった。
その沈黙が、変に優しかった。軽口で返されたら、たぶん水穂は台無しにしていた。
終電のひとつ手前で帰ると、悠真はまだ起きていた。
テーブルの上に、ふたつ並んだプリン。
水穂はコートも脱がずに椅子へ座った。
「おかえり」
「ただいま」
「遅かったね」
「うん」
悠真は水穂の顔を見て、少しだけ眉を寄せた。
「何かあった?」
その問い方に、逃げ道はなかった。
水穂は濡れた髪を耳にかける。
「ちょっと、息した」
「……そう」
「ごめん。変な言い方」
「いや」
悠真は急かさなかった。
「その“ちょっと”が必要だったってこと?」
水穂はしばらく黙ってから、うなずいた。
「たぶん」
「俺といると、足りない?」
責める声ではなかった。
だからこそ、誤魔化せなかった。
「悠真は悪くない」
「それは今、あまり救いにならないかも」
「うん」
「でも本当に?」
「本当に」
水穂は手元のプリンのふたを見つめた。
「私が、ちゃんと起きたままここにいたかって言われると、自信ない」
長い沈黙のあと、悠真が静かに言った。
「じゃあ、一回やめようか」
水穂は顔を上げる。
「式?」
「その前に、“順調”で押し切るのを」
悠真は少しだけ笑った。苦い笑いだった。
「俺、君のこと、穏やかにしてるつもりだった。でも眠らせてたなら意味ない」
水穂の喉が熱くなる。
「ごめん」
「謝らなくていいよ。今日やっと言えたなら、まだ間に合う」
そこで初めて、水穂は本当に息を吐いた。
助けられるというのは、誰かに攫われることではないのかもしれない。止まっていた自分を、自分で見つけ直すことなのかもしれない。そのきっかけが、たまたま乱暴な誰かだっただけで。
翌朝、水穂は式場に休みの連絡を入れた。
長くは休まない。ただ、少しだけ自分の声を使う場所を探そうと思った。
映画館はもう二度と開かないだろう。でも昨夜、閉じる直前の暗がりで、自分の中の何かは確かに起きた。
駅へ向かう道で、朝陽から短いメッセージが来る。
【昨日の前説、よかった】
水穂はしばらく画面を見てから、返した。
【迷惑料として覚えとく】
すぐに返事が来る。
【次はもっと派手なのある】
水穂は笑って、スマホを伏せた。
すぐに飛びつくつもりはない。平穏を捨てるつもりもない。ただ、自分で選べる位置まで戻る。そのために、もう少しだけ外の空気を吸う。
朝の駅は混んでいた。
いつも通りの人波の中を歩きながら、水穂は胸の内側に、昨夜の声の残響を確かめる。
安全な場所へ戻るにしても、もう眠ったままでは戻らない。
終電ではなく、そのひとつ手前で降りた夜のことを、たぶん長く忘れないだろう。




