『湯気の向こうの輪郭』
夜の零時を少し回ったころ、花村理央はコンビニのバックヤードで、売れ残った肉まんのケースを拭いていた。
店内のBGMは閉店前ほど大きくなく、レジの電子音も途切れがちで、二十四時間営業の店にしてはずいぶん眠そうな時間だった。理央はこの時間が嫌いではない。客の数が減って、世界がようやくひとつの速度になる。昼間はどこもかしこも他人の予定で回っているのに、深夜だけは、起きている人間の都合が少しだけ優先される気がした。
「花村さん、休憩入っていいですよ」
大学生のバイトが言う。理央は「あい」と気の抜けた返事をして、エプロンを外した。
休憩室は狭い。折り畳み椅子と小さなテーブル、壁に貼られた勤務表、やたら元気な食品ロス削減ポスター。理央は紙コップにインスタントのスープを入れ、給湯器の前でお湯が溜まるのを眺めた。湯気が立つと、少しだけ気持ちがゆるむ。
スマホを見た。
通知はない。
見なくていいのに、見てしまう。
そのたびに、何も来ていないことを確認して、ほんの少しだけ肩が落ちる。わかりやすい。笑えるくらいわかりやすい。けれど誰にも見られたくないくらいには、みっともない。
理央には付き合って三年になる恋人がいる。
名前は真瀬湊。建設会社勤めで、今は隣県の現場に長く入っていた。会えないわけではない。月に二回か三回、休みが合えば会う。電話もする。連絡はまめなほうだと思う。少なくとも、世間一般の「不安になる恋愛」よりはよほど穏やかで、理屈で考えれば十分に安心していい関係だった。
それなのに、今日に限って、理央は妙に落ち着かなかった。
理由は夕方の休憩室で聞いてしまった話だ。
同じ店のパートふたりが、別れた知り合いの話をしていた。長く付き合っていても終わるときは終わるとか、優しいだけじゃ続かないとか、些細なことが積もると戻れないとか。
ありがちな話だ。珍しくもない。
なのにそのどれもが、理央の胸のどこかに妙に引っかかった。
長く付き合っているから大丈夫、という保証はない。
会っていない時間に何を考えているかなんてわからない。
優しい人ほど、言わずに諦めてしまうことがある。
そういう言葉は、別に自分に向けられたものではないのに、夜になると勝手にこちらへ歩いてくる。理央はそういうのが嫌だった。昼間は平気な顔をしていられるのに、深夜になると心だけ急に手すりのない場所へ連れていかれる。
スープを持って椅子に座る。
スマホを裏返す。三秒でまた表に戻す。
通知はない。
「だる……」
口に出してから、自分で笑ってしまった。
こういうとき、理央は自分があまり好きではない。元々、執着が強いタイプでも、疑り深いタイプでもないつもりだった。湊のことだって信じている。信じているのに、不安になる。そこが面倒くさい。信じていないならまだ話は簡単だ。怒るなり疑うなりできる。でも信じている相手に対して勝手に不安になっている自分は、どう扱えばいいのかわからない。
画面を開く。
最後のやり取りは、昼の十二時過ぎ。
【今日、帰り遅くなる】
【了解 生きて帰れ】
【ざっくりしてんな】
【でも本気】
【助かる】
いつも通りだ。
いつも通りだからこそ、余計に続きを待ってしまう。
理央はスマホを握ったまま、ふと窓の外を見た。休憩室の小さな曇りガラスの向こうを、配送トラックが一台、低い音で通り過ぎていく。世界は普通に続いている。続いているのに、自分だけが立ち止まっている感じがした。
電話するほどではない。
でも、声を聞きたい。
声を聞きたいだけの連絡は、重いだろうか。
そうやって迷っているうちに、画面がふるえた。
理央はほとんど反射で通話ボタンを押した。
「もしもし」
出た瞬間、向こうで少しだけこもった声が返ってくる。
『……おつかれ。起きてた』
「起きてるに決まってるでしょ。働いてるんだから」
『あ、そうか。時間の感覚バグってた』
少し鼻にかかった声だった。たぶん布団か毛布か、そのへんに顔を半分埋めて話している。背後でテレビなのか換気扇なのか、低くて遠い音がしている。たったそれだけで、理央の頭の中のざわつきが一段階下がった。
単純で嫌になる。
「終わったの」
『今、宿戻った。風呂入って倒れたとこ』
「倒れたって」
『比喩です』
「雑だな」
『そっちは』
「今休憩」
『ちゃんと飯食った』
「食った。おにぎり二個」
『嘘っぽい』
「一個半」
『ほら』
湊が小さく笑う。
その笑い方まで聞こえると、理央は少しだけまぶたを閉じた。声だけで、だいぶ近い。会えていないのに、いまここに輪郭だけ置かれたみたいに感じる。こういうのがずるいと思う。会えなくても平気でいたいのに、声ひとつで簡単に戻される。
『なんかあった』
唐突だった。
湊はこういうところだけ妙に勘がいい。
「なんで」
『いや。いつもの“おつかれ”の速さじゃないから』
「そんな細かいことわかる?」
『わかるときはわかる』
理央はスープをひとくち飲んだ。ぬるくなり始めていた。
言わなくてもいい気もした。大したことではない。誰かの世間話を勝手に自分に刺して、勝手に不安になっているだけだ。口に出したら、もっと安っぽくなる。
でも、黙って誤魔化しても、たぶん湊はそれをそれで引き受けてしまう。
「……別に喧嘩したとかじゃないからね」
『うん』
「店でさ、別れたカップルの話を聞いて」
『うん』
「長く付き合ってても終わるとか、ちっちゃいこと積もるとか、そういう、ありきたりなやつ」
『うん』
「それ聞いてから、なんか妙に、やだった」
湊はすぐに返さなかった。
変に軽く流さないところが、この人のいいところでもあり、ずるいところでもある。
『そっか』
「うん」
『それは、やだな』
「……そこで“そんなの気にすんなよ”とか言わないんだ」
『気にしてる人にそれ言っても、あんま意味ないし』
「正論」
『でもさ』
毛布が擦れるみたいな音がした。たぶん寝返りを打ったのだろう。
『俺もあるよ。そういうの』
理央は黙った。
予想していなかったわけではない。でも、実際に聞くと少し驚く。
「あるの」
『ある。今日も現場の人に、二年付き合ってた彼女と別れたって話された』
「え」
『なんか、連鎖してる?』
思わず笑ってしまう。
湊も少し笑った気配がした。
『しかもその人、別に嫌いになったわけじゃないって言うの。嫌いじゃないけど、タイミングとか、疲れとか、言わなかったこととか、そういうの重なったらしい』
「やめてよ、材料増やさないで」
『ごめん』
「謝るな」
『でも、そのあとちょっと怖くなった』
理央は紙コップを持ったまま手を止めた。
湊の声はいつもより少し低かった。眠いだけではない、ちゃんと本音を出すときの声だった。
『俺らは平気だろって思いたいのに、平気って言い切れる根拠なんて、実はそんなにないなって』
「……うん」
『毎日会ってるわけでもないし、同じ仕事でもないし、見てる景色けっこう違うし』
「うん」
『だからたぶん、平気かどうかじゃなくて、そのたびに言うしかないんだろうなって思った』
理央は返事ができなかった。
うれしいのとは少し違う。安心したのとも違う。もっと手前の、ふっと力が抜ける感じだった。
自分だけが勝手に不安なのではなくて、向こうにも同じ種類の揺れがある。そのうえで、なかったことにせず、ちゃんと口に出してくれている。それだけで、人はだいぶ助かる。
「ねえ」
『うん』
「今、顔見えないの助かる」
『なんで』
「変な顔してるから」
『じゃあ俺も助かってる』
「そっちもか」
『そっちも』
しばらく、どちらも喋らなかった。
沈黙が重くない。向こうから時々、小さく布の擦れる音がする。誰かの生活音は、場合によっては雑音だ。でも好きな相手の生活音は、ひどく人を落ち着かせることがある。そこにちゃんと体温があるとわかるからだろうか。
『理央』
「なに」
『次の土曜、半日だけ空くかも』
「“かも”か」
『いったん刺されるのやめて』
「正確さは大事だから」
『まだ確定じゃない。でも空いたら、そっち行く』
「夜だけでも?」
『夜だけでも』
理央は少しだけ唇を噛んだ。
会いたいと言ってしまえば簡単だ。実際、会いたかった。今すぐにでも会いたい。でも、会いたいを言葉にするのは、思っているよりずっと体力を使う。期待が形になるからだ。形になった期待は、届かなかったときにちゃんと痛い。
たぶん湊も同じことを考えている。
だから、確認みたいに言う。
「会えたら、駅前のさ、あのうどん屋でいいよ」
『なんでうどん』
「深夜明けでも食べられるから」
『現実的すぎる』
「好きでしょうが、そういうの」
『好き』
即答で、理央はまた笑った。
休憩室のドアの向こうで、電子レンジの終わる音がした。店の時間が動き続けている。休憩も、電話も、いつかは切れる。ずっとこのままではいられない。
でもずっとこのままでいられないからこそ、今こうして声が届いていることに意味がある気がした。
「湊」
『うん』
「私さ」
『うん』
「不安になるの、嫌なんだよね。信じてるのに勝手に揺れるの、自分で感じ悪いなって思うし」
『うん』
「でも、今日わかった。たぶん、不安にならないことが正解じゃないんだ」
『……うん』
「揺れたときに、どこへ戻るかがあるなら、それでいいのかも」
言いながら、自分で少し驚いた。
こんなふうに整理できると思っていなかった。
湊は少し黙ってから、やわらかく言った。
『それ、今日いちばん大事なやつだな』
「えらそう」
『褒めてる』
「なら受け取っとく」
『俺もさ』
「うん」
『会えてない時間に変な想像が増えること、ある。でも、理央の声聞くと、だいたい“あ、俺、変な方行ってた”って戻る』
理央は椅子にもたれた。
ああ、これだと思う。
大恋愛みたいな派手さじゃない。運命みたいな強い言葉でもない。ただ、この人の声に触れると、自分が自分の形へ少し戻る。余計な角が落ちる。いらない不安が全部消えるわけではないけれど、少なくとも飲み込まれなくなる。
それだけで、十分に大きい。
「そういうの、ちゃんと言うんだ」
『今日は言う日っぽいから』
「何それ」
『わかんない。でも、言っといた方がいい気がした』
「……そっか」
理央は紙コップの底に残ったスープを飲み切った。もうほとんど温度はなかったのに、喉を通るころには不思議とちょうどよく感じた。
『休憩、そろそろ終わる?』
「あと二分くらい」
『じゃあ切るか』
「うん」
いつもなら、ここで通話は終わる。
おやすみとか、またねとか、そういう短い言葉で切る。
でも今日は、理央のほうが先に言った。
「土曜、空いたら来て」
『うん』
「空かなくても、また電話して」
『うん』
「ちゃんと取るから」
『知ってる』
そこで少しだけ間があって、湊が静かに言った。
『理央』
「ん」
『いま、だいぶ大丈夫そう?』
理央は小さく息を吐いた。
完全に大丈夫、なんて言葉は好きじゃない。人の気持ちはそんなきれいに収まらない。明日の昼にはまた別のことで揺れるかもしれない。
それでも、今この瞬間についてなら、答えははっきりしていた。
「うん。だいぶ戻った」
『よかった』
「そっちは」
『俺も』
「じゃあ、それでいいや」
『いいね』
「じゃ、おつかれ」
『おつかれ。ちゃんと飯食えよ』
「一個半じゃなく二個食べます」
『そこ訂正すんの』
「大事だから」
湊が笑って、通話が切れた。
休憩室はさっきと同じ狭さのままだった。勤務表も、ポスターも、くたびれた折り畳み椅子も何も変わらない。
なのに理央には、部屋の輪郭が少しだけはっきり見えた。
画面を閉じて、スマホをポケットに入れる。さっきまで胸の内側をざらつかせていたものは、なくなったわけではない。ただ、飲み込まれない場所まで下がっていた。
ドアを開けると、夜勤の空気が戻ってくる。冷蔵ケースの低い音、雑誌棚を直すビニールの擦れ、レジ前で温め待ちをしている客のくしゃみ。世界は相変わらず地味で、眠くて、雑然としていた。
でもその地味さの中へ、理央はちゃんと戻っていける。
「花村さん、戻りました?」
「戻ったよ」
大学生バイトが振り返る。
「顔、さっきよりやわらかいっすね」
「スープ飲んだからじゃない」
「それだけじゃないでしょ」
「うるさい、品出しして」
「はーい」
理央は肉まんケースの前に立ち、乾いた布を持ち直した。ガラスに映る自分の顔は、確かにさっきより少しだけましだった。劇的ではない。救われた主人公の顔なんてしていない。ただ、余計な想像に押しやられていた輪郭が、元の位置に戻っている。
たぶんこれからも、会えない時間はなくならない。
不安になる夜だって、きっとまた来る。
それでも、そのたびに戻れる声があるなら、思っているよりずっと平気に生きていけるのかもしれない。
理央はケースの曇りを拭きながら、次の土曜のことを考えた。
半日だけでも会えたら、駅前のうどん屋でいい。いや、むしろそれがいい。気取った店じゃなくて、汁の湯気が上がって、向かいの顔がちゃんと見えて、どうでもいい話をしながら麺をすするような時間がいい。
派手じゃない。
でも、そういう時間の積み重ねで、人は案外ちゃんと戻ってこられる。
レジから「いらっしゃいませ」が聞こえる。自動ドアが開く。
理央は布を畳み、売り場へ出た。
深夜一時十二分。
まだ眠い町の中で、コンビニだけが白く明るい。
その明かりの端に立ちながら、理央はさっき耳に残った声を思い出す。会えていない時間の全部を埋めることはできない。けれど、ひとつの声が、人を元の形まで連れ戻すことはある。
それだけ知っていれば、今夜はもう十分だった。




