『蛍光灯の下で跳ぶ』
美容室「Lilt」は、商店街のはずれにある細長い店だ。
ガラス張りの入口に季節ごとのドライフラワーを吊るし、朝になると店長が外の黒板へ、わりと気まぐれな一言を書く。今日は「湿気と仲良く」。六月が近いので、たしかに正しい。
開店前の店内で、真島真尋はタオルをたたみながら、鏡越しに自分の顔を見た。
二十七歳。アシスタント歴五年。シャンプーは指名がつく。カラー剤の準備も速い。後輩に教えるのも下手ではない。
でも、カットだけはまだ客へ入っていない。店の判断でもあるし、自分でもそこに異論はなかった。
速くない。
大胆でもない。
自分のセンスを前へ出すことに、どうしても腰が引ける。
だから毎日、誰かの仕上がりを支える側で終わる。
「真尋、今日の夕方、空けといて」
バックヤードから店長の伊沢が顔を出した。四十代前半、背が高く、眼鏡の奥の目だけ妙に若い人だ。
真尋は嫌な予感しかしなかった。
「何ですか」
「コンテストの店内選考」
「……何の」
「何のって、来月の県大会の」
「聞いてません」
「今言った」
「その雑さで人の一日を変えないでください」
県大会。
正式には若手スタイリスト向けのヘアデザインコンテスト。各店から一名出せる。テーマは自由。モデルを一人用意し、当日一時間でカットとスタイリングまで仕上げる。
Liltは毎年出しているが、ここ三年は先輩の涼が担当していた。去年は入賞もしている。つまり、真尋には無関係の行事だったはずだ。
「今年、涼は結婚式シーズンで予約埋まってるし」
伊沢が言う。
「後輩の二人にはまだ早い。で、お前」
「雑」
「適材適所」
「違います。消去法です」
「美容室はだいたい最初そう」
最悪だ、と思った。
最悪だと思ったのは、絶対に無理だからではない。
少しやってみたいと思ってしまったからだ。
真尋は昔から、そういうところが面倒だった。
心のどこかでやりたいことほど、先に失敗したあとの顔を想像してしまう。
客前で手が震えたら。
他店の派手な作品の横で、自分の仕上がりだけ地味だったら。
モデルに申し訳ない出来になったら。
その想像の鮮明さだけは人一倍で、肝心の一歩はなかなか出ない。
「嫌です」
真尋が言うと、伊沢はあっさり頷いた。
「いいよ」
「え」
「でも今日、店閉めたあと十分だけ練習台に触ってみて」
「それも嫌です」
「本気の嫌そうな顔じゃないな」
「うるさいです」
午前の営業が始まると、考える暇はなくなった。
カットの補助、カラーの塗布、シャンプー、ドライ。
流れの中にいる間は楽だ。自分の判断より手順が先にあるから。
だが昼過ぎ、涼の担当していた常連客が会計のあとで真尋へ笑いかけた。
「真尋ちゃん、いつか切ってくれる日来る?」
軽い口調だった。責める意味はない。
それなのに真尋は一瞬だけ詰まり、結局「そのうちです」と曖昧に返した。
その「そのうち」が、何だかひどく安っぽく聞こえた。
閉店後、真尋は結局、練習台のウィッグの前に立っていた。
断り切れなかったとも言う。
鏡の前には鋏、コーム、スプレー。照明は営業中より少し落としてあるはずなのに、なぜかこういうときだけ蛍光灯は現実をはっきり見せる。
「十分だけね」
伊沢が言う。
「十分で何がわかるんですか」
「やりたい顔してるかどうか」
「そういうの顔で決めるのやめてください」
「見えやすいから」
真尋はウィッグの髪を霧吹きで湿らせた。
今日は何も決めていない。
ただ、普段から頭の片隅にある形はあった。重たく見える長さを、風が抜けるみたいに軽くする。派手な色や奇抜な段差ではなく、触れた瞬間に少しだけ気分が上がるような線。
自分の好きな髪は、ずっとそういうものだった。
最初の一束を切った瞬間、手は思ったより震えなかった。
次。
その次。
十分はあっという間で、気づけば二十五分経っていた。
「はい、時間切れ」
伊沢が言う。
真尋はようやく顔を上げた。
鏡の中のウィッグは、完成にはほど遠い。左右もまだ甘いし、毛先の収まりも足りない。
でも、さっきよりずっと息ができる髪になっていた。
「……どうですか」
聞くと、伊沢は少し考えるふりをしてから言った。
「上手い下手で言うと、まだ甘い」
「でしょうね」
「でも、好きなものはある」
真尋は返事ができなかった。
「あと、お前」
伊沢は笑った。
「切ってるときの顔、ようやく仕事してた」
「普段してないみたいに言う」
「普段は支えてる顔。今は前に出る顔」
その言葉が妙に残った。
モデルは、翌日、自分で探すことになった。
友人か家族か、知り合いなら誰でもいい。
真尋はかなり悩んだ末、高校時代からの友人である梨沙に連絡した。
梨沙は服飾の仕事をしていて、昔から顔立ちも姿勢もいい。だが何より、「真尋が珍しく自分から頼んできた」という理由だけで即答してきた。
「やる」
【即答?】
「珍しいことしてるあんたを見たい」
【動機が最低】
「褒めてる」
日曜の朝、梨沙が店へ来た。
肩まであった髪を今日はまとめもせず下ろしている。鏡の前へ座るなり、梨沙は真尋を見て笑った。
「顔かた」
「今日一日それしか言われてない」
「そりゃそうでしょ。顎で床掘れそう」
「やめて」
「でもちょっと楽しそう」
真尋はその一言にだけ、素直にうなずいた。
練習は、正直ぼろぼろだった。
最初の二回は、守りに入って無難すぎた。
三回目は逆に攻めようとして、レイヤーの位置が散った。
スタイリングまで通した四回目では、梨沙に「これ、悪くないけど、あんたが一番やりたい顔じゃないでしょ」と言われた。
「わかる?」
「わかるよ」
梨沙は鏡越しに笑う。
「真尋ってさ、失敗しない形に寄せると、急にいい子になるもん」
「いい子って何」
「優等生。つまらないわけじゃないけど、ちょっと静か」
「……」
「でも、本当に好きな線を作ろうとすると、急に往生際悪くなる」
「悪口?」
「褒めてんの」
梨沙は肩をすくめる。
「そういうとこ、もっと出せばいいのに」
往生際悪い。
その言い方が、妙に可笑しくて、妙に効いた。
真尋はいつも、諦めるふりだけ上手かった。本当は気になる。まだできる気がする。違う切り方があると思う。
なのにそれを表へ出す前に、「いや、これでいいか」と自分で蓋をしていた。
大会前夜、真尋は一人で最後の練習台に向かっていた。
店内は静かで、外の街灯だけがガラスへ細く映っている。
ウィッグの髪を霧吹きで湿らせ、鋏を持つ。
怖くないわけではない。むしろ、ここ数日ずっと怖い。
でも、怖いのにやめない時点で、もう少し自分を信じてもいいのではないかとも思う。
最後の調整を終えたとき、入口のベルが小さく鳴った。
鍵はかけたはずなのに、と顔を上げると、伊沢がコンビニ袋を提げて立っていた。
「何でいるんですか」
「店長だから」
「便利な肩書き」
「差し入れ」
袋から出てきたのは、缶のカフェラテと、やたら派手なパッケージのシュークリームだった。
「今食うんですか」
「明日に持ち越すと気持ち悪いから」
「理屈が雑」
「励ましなんてだいたい雑でいいの」
伊沢は練習台を一目見て、ふっと口元を上げた。
「うん」
「何ですか」
「やっと、お前の髪になってる」
真尋は、少しだけ目を伏せた。
褒められると弱い。
特に、自分でもまだ半信半疑のものを先に認められると、余計に困る。
「明日」
伊沢が言う。
「失敗しても、戻ってこいよ」
「縁起悪い」
「違う。失敗しても、美容師やめるほどのことじゃないって言ってる」
「……」
「逆に、上手くいっても急に別人にならない」
伊沢はカフェラテの缶を真尋の前へ置いた。
「だから、とりあえず行ってこい」
大会会場は、県庁近くの大きなホールだった。
若い美容師たちが、黒い服と大きな道具箱であちこちを行き来している。モデルたちもみんな整って見えた。髪も顔も姿勢も、最初から舞台用みたいだ。
真尋は受付を済ませた時点で、一度本気で帰りたくなった。
梨沙はそんな真尋を見て、平然と言う。
「大丈夫。私の顔は今日もそこそこ可愛い」
「雑な励まし」
「そっちが好きそうだから」
開始のブザーが鳴る。
六十分。
鏡の前へ立ち、髪を湿らせる。
周りではもう鋏の音が始まっている。速い。迷いがない。
真尋も最初の一束へ鋏を入れた。
序盤はよかった。
手順通りに進む。
だが中盤、右の顔周りを作るところで一瞬ためらった。
もっと切れば抜ける。
でも切りすぎたら戻せない。
たった一秒の迷いなのに、その一秒で手が鈍る。
「真尋」
鏡越しに、梨沙が小さく言った。
「いい子になってる」
その一言で、頭の中の何かが少しだけ切り替わった。
そうだ。今日は、失敗しない人になる日ではない。
自分がいちばん好きな線を、ちゃんと表へ出す日だ。
真尋はもう一度コームを入れ、迷っていた一束を切った。
そこから先は速かった。
派手ではない。
でも、顔の横を風が抜けるように軽くして、後ろへ向かう丸みを少しだけ高く取る。前から見たときだけでなく、振り向いたときに生きる髪。
自分がずっと好きだった形だった。
終了十分前。
隣のブースでは、派手なカラーウィッグに近い盛り方をしている。別のブースでは、刈り上げと長い前髪の強いコントラスト。どれも目を引く。
その中で真尋の作るものは、正直地味かもしれない。
でも、梨沙の表情を見ると、もうそれでいいと思えた。
モデル本人が、自分の顔を少しだけ好きになるような髪。
それが今日の答えだ。
ブザーが鳴る。
手を離す。
終わった瞬間、全身から力が抜けて、真尋はその場にしゃがみ込みそうになった。
「はい、おつかれ」
梨沙が鏡越しに笑う。
「どう」
「……可愛い」
真尋が言うと、梨沙は肩を揺らした。
「知ってる。でも今日のは、いつもよりもっと可愛い」
その返しで、ようやく実感が追いつく。
できたのだ。
完璧ではないかもしれない。賞を取れるかもわからない。
それでも、自分の好きなものを、自分の手で最後まで出した。
結果発表で、真尋の名前は三位に呼ばれた。
一位ではなかった。
でも呼ばれた瞬間、真尋はなぜか悔しさより先に笑ってしまった。
壇上へ上がる足が少し震える。
けれどその震え方は、昨日までのためらいとは違っていた。怖いのに進んでいるときの震えだった。
店へ戻ると、伊沢と後輩たちが拍手した。
千円くらいの紙吹雪が飛ぶんじゃないかという期待は外れたが、代わりにコンビニのロールケーキが三種類並んでいた。
「地味」
真尋が言うと、伊沢は即答した。
「店らしいだろ」
「そうですね」
「で」
伊沢が腕を組む。
「客、入る?」
真尋は一瞬だけぽかんとして、それから笑った。
「そこですか」
「そこだよ。大会は大会。店は店」
でも、その現実的な一言が、変に嬉しかった。
特別な一日で終わりにしないで、その先へ繋げるつもりでいてくれる。
それがたぶん、いちばんありがたい。
翌週、常連客の一人が予約表を見ながら言った。
「真尋ちゃん、入賞したんだって?」
「はい」
「じゃあ次、前髪だけでもお願いしていい?」
ほんの少しのことだった。
カットフルではない。前髪だけ。
それでも真尋は、胸の真ん中がじわっと熱くなるのを感じた。
「はい」
返事は、驚くほどすんなり出た。
「ぜひ」
営業後、鏡を拭きながら、真尋は自分の顔を見る。
昨日と同じ顔だ。急に自信家になったわけでもないし、不安が消えたわけでもない。次の予約ではまた緊張するだろう。
それでも、あの日壇上へ上がった足の震えを、自分はもう知っている。
不格好でも、怖くても、一回飛び上がってしまえば、景色は少しだけ変わる。
劇的じゃない。
でも確実に、前よりは高いところから見える。
店の外では、湿気を含んだ風がまだのぼりを揺らしていた。
黒板の「湿気と仲良く」の下へ、真尋はチョークで小さく一行だけ書き足す。
【不格好でも、今日は上々】
誰が気づくかわからない。
たぶん多くの人は気づかない。
でも、自分にはそれで十分だった。
まだ始まったばかりの自分の物語にしては、今日はちゃんと、面白い一日だった。




