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短編集  作者: 科上悠羽


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91/122

『蛍光灯の下で跳ぶ』

 美容室「Lilt」は、商店街のはずれにある細長い店だ。

 ガラス張りの入口に季節ごとのドライフラワーを吊るし、朝になると店長が外の黒板へ、わりと気まぐれな一言を書く。今日は「湿気と仲良く」。六月が近いので、たしかに正しい。


 開店前の店内で、真島真尋はタオルをたたみながら、鏡越しに自分の顔を見た。

 二十七歳。アシスタント歴五年。シャンプーは指名がつく。カラー剤の準備も速い。後輩に教えるのも下手ではない。

 でも、カットだけはまだ客へ入っていない。店の判断でもあるし、自分でもそこに異論はなかった。

 速くない。

 大胆でもない。

 自分のセンスを前へ出すことに、どうしても腰が引ける。

 だから毎日、誰かの仕上がりを支える側で終わる。


「真尋、今日の夕方、空けといて」


 バックヤードから店長の伊沢が顔を出した。四十代前半、背が高く、眼鏡の奥の目だけ妙に若い人だ。

 真尋は嫌な予感しかしなかった。


「何ですか」

「コンテストの店内選考」

「……何の」

「何のって、来月の県大会の」

「聞いてません」

「今言った」

「その雑さで人の一日を変えないでください」


 県大会。

 正式には若手スタイリスト向けのヘアデザインコンテスト。各店から一名出せる。テーマは自由。モデルを一人用意し、当日一時間でカットとスタイリングまで仕上げる。

 Liltは毎年出しているが、ここ三年は先輩の涼が担当していた。去年は入賞もしている。つまり、真尋には無関係の行事だったはずだ。


「今年、涼は結婚式シーズンで予約埋まってるし」

 伊沢が言う。

「後輩の二人にはまだ早い。で、お前」

「雑」

「適材適所」

「違います。消去法です」

「美容室はだいたい最初そう」


 最悪だ、と思った。

 最悪だと思ったのは、絶対に無理だからではない。

 少しやってみたいと思ってしまったからだ。


 真尋は昔から、そういうところが面倒だった。

 心のどこかでやりたいことほど、先に失敗したあとの顔を想像してしまう。

 客前で手が震えたら。

 他店の派手な作品の横で、自分の仕上がりだけ地味だったら。

 モデルに申し訳ない出来になったら。

 その想像の鮮明さだけは人一倍で、肝心の一歩はなかなか出ない。


「嫌です」

 真尋が言うと、伊沢はあっさり頷いた。

「いいよ」

「え」

「でも今日、店閉めたあと十分だけ練習台に触ってみて」

「それも嫌です」

「本気の嫌そうな顔じゃないな」

「うるさいです」


 午前の営業が始まると、考える暇はなくなった。

 カットの補助、カラーの塗布、シャンプー、ドライ。

 流れの中にいる間は楽だ。自分の判断より手順が先にあるから。

 だが昼過ぎ、涼の担当していた常連客が会計のあとで真尋へ笑いかけた。


「真尋ちゃん、いつか切ってくれる日来る?」

 軽い口調だった。責める意味はない。

 それなのに真尋は一瞬だけ詰まり、結局「そのうちです」と曖昧に返した。

 その「そのうち」が、何だかひどく安っぽく聞こえた。


 閉店後、真尋は結局、練習台のウィッグの前に立っていた。

 断り切れなかったとも言う。

 鏡の前には鋏、コーム、スプレー。照明は営業中より少し落としてあるはずなのに、なぜかこういうときだけ蛍光灯は現実をはっきり見せる。


「十分だけね」

 伊沢が言う。

「十分で何がわかるんですか」

「やりたい顔してるかどうか」

「そういうの顔で決めるのやめてください」

「見えやすいから」


 真尋はウィッグの髪を霧吹きで湿らせた。

 今日は何も決めていない。

 ただ、普段から頭の片隅にある形はあった。重たく見える長さを、風が抜けるみたいに軽くする。派手な色や奇抜な段差ではなく、触れた瞬間に少しだけ気分が上がるような線。

 自分の好きな髪は、ずっとそういうものだった。


 最初の一束を切った瞬間、手は思ったより震えなかった。

 次。

 その次。

 十分はあっという間で、気づけば二十五分経っていた。


「はい、時間切れ」

 伊沢が言う。

 真尋はようやく顔を上げた。

 鏡の中のウィッグは、完成にはほど遠い。左右もまだ甘いし、毛先の収まりも足りない。

 でも、さっきよりずっと息ができる髪になっていた。


「……どうですか」

 聞くと、伊沢は少し考えるふりをしてから言った。

「上手い下手で言うと、まだ甘い」

「でしょうね」

「でも、好きなものはある」

 真尋は返事ができなかった。

「あと、お前」

 伊沢は笑った。

「切ってるときの顔、ようやく仕事してた」

「普段してないみたいに言う」

「普段は支えてる顔。今は前に出る顔」


 その言葉が妙に残った。


 モデルは、翌日、自分で探すことになった。

 友人か家族か、知り合いなら誰でもいい。

 真尋はかなり悩んだ末、高校時代からの友人である梨沙に連絡した。

 梨沙は服飾の仕事をしていて、昔から顔立ちも姿勢もいい。だが何より、「真尋が珍しく自分から頼んできた」という理由だけで即答してきた。


「やる」

【即答?】

「珍しいことしてるあんたを見たい」

【動機が最低】

「褒めてる」


 日曜の朝、梨沙が店へ来た。

 肩まであった髪を今日はまとめもせず下ろしている。鏡の前へ座るなり、梨沙は真尋を見て笑った。


「顔かた」

「今日一日それしか言われてない」

「そりゃそうでしょ。顎で床掘れそう」

「やめて」

「でもちょっと楽しそう」

 真尋はその一言にだけ、素直にうなずいた。


 練習は、正直ぼろぼろだった。

 最初の二回は、守りに入って無難すぎた。

 三回目は逆に攻めようとして、レイヤーの位置が散った。

 スタイリングまで通した四回目では、梨沙に「これ、悪くないけど、あんたが一番やりたい顔じゃないでしょ」と言われた。


「わかる?」

「わかるよ」

 梨沙は鏡越しに笑う。

「真尋ってさ、失敗しない形に寄せると、急にいい子になるもん」

「いい子って何」

「優等生。つまらないわけじゃないけど、ちょっと静か」

「……」

「でも、本当に好きな線を作ろうとすると、急に往生際悪くなる」

「悪口?」

「褒めてんの」

 梨沙は肩をすくめる。

「そういうとこ、もっと出せばいいのに」


 往生際悪い。

 その言い方が、妙に可笑しくて、妙に効いた。

 真尋はいつも、諦めるふりだけ上手かった。本当は気になる。まだできる気がする。違う切り方があると思う。

 なのにそれを表へ出す前に、「いや、これでいいか」と自分で蓋をしていた。


 大会前夜、真尋は一人で最後の練習台に向かっていた。

 店内は静かで、外の街灯だけがガラスへ細く映っている。

 ウィッグの髪を霧吹きで湿らせ、鋏を持つ。

 怖くないわけではない。むしろ、ここ数日ずっと怖い。

 でも、怖いのにやめない時点で、もう少し自分を信じてもいいのではないかとも思う。


 最後の調整を終えたとき、入口のベルが小さく鳴った。

 鍵はかけたはずなのに、と顔を上げると、伊沢がコンビニ袋を提げて立っていた。


「何でいるんですか」

「店長だから」

「便利な肩書き」

「差し入れ」

 袋から出てきたのは、缶のカフェラテと、やたら派手なパッケージのシュークリームだった。

「今食うんですか」

「明日に持ち越すと気持ち悪いから」

「理屈が雑」

「励ましなんてだいたい雑でいいの」

 伊沢は練習台を一目見て、ふっと口元を上げた。

「うん」

「何ですか」

「やっと、お前の髪になってる」

 真尋は、少しだけ目を伏せた。

 褒められると弱い。

 特に、自分でもまだ半信半疑のものを先に認められると、余計に困る。


「明日」

 伊沢が言う。

「失敗しても、戻ってこいよ」

「縁起悪い」

「違う。失敗しても、美容師やめるほどのことじゃないって言ってる」

「……」

「逆に、上手くいっても急に別人にならない」

 伊沢はカフェラテの缶を真尋の前へ置いた。

「だから、とりあえず行ってこい」


 大会会場は、県庁近くの大きなホールだった。

 若い美容師たちが、黒い服と大きな道具箱であちこちを行き来している。モデルたちもみんな整って見えた。髪も顔も姿勢も、最初から舞台用みたいだ。

 真尋は受付を済ませた時点で、一度本気で帰りたくなった。

 梨沙はそんな真尋を見て、平然と言う。

「大丈夫。私の顔は今日もそこそこ可愛い」

「雑な励まし」

「そっちが好きそうだから」


 開始のブザーが鳴る。

 六十分。

 鏡の前へ立ち、髪を湿らせる。

 周りではもう鋏の音が始まっている。速い。迷いがない。

 真尋も最初の一束へ鋏を入れた。


 序盤はよかった。

 手順通りに進む。

 だが中盤、右の顔周りを作るところで一瞬ためらった。

 もっと切れば抜ける。

 でも切りすぎたら戻せない。

 たった一秒の迷いなのに、その一秒で手が鈍る。


「真尋」

 鏡越しに、梨沙が小さく言った。

「いい子になってる」

 その一言で、頭の中の何かが少しだけ切り替わった。

 そうだ。今日は、失敗しない人になる日ではない。

 自分がいちばん好きな線を、ちゃんと表へ出す日だ。


 真尋はもう一度コームを入れ、迷っていた一束を切った。

 そこから先は速かった。

 派手ではない。

 でも、顔の横を風が抜けるように軽くして、後ろへ向かう丸みを少しだけ高く取る。前から見たときだけでなく、振り向いたときに生きる髪。

 自分がずっと好きだった形だった。


 終了十分前。

 隣のブースでは、派手なカラーウィッグに近い盛り方をしている。別のブースでは、刈り上げと長い前髪の強いコントラスト。どれも目を引く。

 その中で真尋の作るものは、正直地味かもしれない。

 でも、梨沙の表情を見ると、もうそれでいいと思えた。

 モデル本人が、自分の顔を少しだけ好きになるような髪。

 それが今日の答えだ。


 ブザーが鳴る。

 手を離す。

 終わった瞬間、全身から力が抜けて、真尋はその場にしゃがみ込みそうになった。


「はい、おつかれ」

 梨沙が鏡越しに笑う。

「どう」

「……可愛い」

 真尋が言うと、梨沙は肩を揺らした。

「知ってる。でも今日のは、いつもよりもっと可愛い」

 その返しで、ようやく実感が追いつく。

 できたのだ。

 完璧ではないかもしれない。賞を取れるかもわからない。

 それでも、自分の好きなものを、自分の手で最後まで出した。


 結果発表で、真尋の名前は三位に呼ばれた。

 一位ではなかった。

 でも呼ばれた瞬間、真尋はなぜか悔しさより先に笑ってしまった。

 壇上へ上がる足が少し震える。

 けれどその震え方は、昨日までのためらいとは違っていた。怖いのに進んでいるときの震えだった。


 店へ戻ると、伊沢と後輩たちが拍手した。

 千円くらいの紙吹雪が飛ぶんじゃないかという期待は外れたが、代わりにコンビニのロールケーキが三種類並んでいた。


「地味」

 真尋が言うと、伊沢は即答した。

「店らしいだろ」

「そうですね」

「で」

 伊沢が腕を組む。

「客、入る?」

 真尋は一瞬だけぽかんとして、それから笑った。

「そこですか」

「そこだよ。大会は大会。店は店」

 でも、その現実的な一言が、変に嬉しかった。

 特別な一日で終わりにしないで、その先へ繋げるつもりでいてくれる。

 それがたぶん、いちばんありがたい。


 翌週、常連客の一人が予約表を見ながら言った。

「真尋ちゃん、入賞したんだって?」

「はい」

「じゃあ次、前髪だけでもお願いしていい?」

 ほんの少しのことだった。

 カットフルではない。前髪だけ。

 それでも真尋は、胸の真ん中がじわっと熱くなるのを感じた。


「はい」

 返事は、驚くほどすんなり出た。

「ぜひ」


 営業後、鏡を拭きながら、真尋は自分の顔を見る。

 昨日と同じ顔だ。急に自信家になったわけでもないし、不安が消えたわけでもない。次の予約ではまた緊張するだろう。

 それでも、あの日壇上へ上がった足の震えを、自分はもう知っている。

 不格好でも、怖くても、一回飛び上がってしまえば、景色は少しだけ変わる。

 劇的じゃない。

 でも確実に、前よりは高いところから見える。


 店の外では、湿気を含んだ風がまだのぼりを揺らしていた。

 黒板の「湿気と仲良く」の下へ、真尋はチョークで小さく一行だけ書き足す。


【不格好でも、今日は上々】


 誰が気づくかわからない。

 たぶん多くの人は気づかない。

 でも、自分にはそれで十分だった。

 まだ始まったばかりの自分の物語にしては、今日はちゃんと、面白い一日だった。

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