『白線の残り方』
朝の七時、古い体育館の床には、昨日までなかった白い線が一本だけ引かれていた。
きれいな直線ではない。途中で少し震えて、最後はためらったみたいに細く消えている。まるで誰かが、どこまで進めばいいのかわからないまま、息を止めて引いたみたいな線だった。
「……これ、誰がやったんですか」
用務員の三雲は、モップを持ったまま立ち止まった。
返事をしたのは、舞台袖から顔を出した臨時職員の遠野だった。春だけ雇われる、備品整理の手伝いだ。年は三十に届くかどうかくらい。細い黒縁眼鏡を掛けていて、いつも必要以上に静かに歩く。
「たぶん、俺です」
「たぶんで白線引きます?」
「昨夜の後半は、あまり記憶に自信がなくて」
遠野は悪びれもせず言った。
この体育館は今週末の地域発表会で使う予定で、床のライン引きも仕事のうちだ。ただ、必要なのは舞台機材を運ぶための位置決め用テープで、こんな中途半端な一本ではない。
三雲は線のそばにしゃがんだ。塗料ではなく、石灰っぽい粉が薄く残っている。布でこすれば消えそうだ。
「消します?」
遠野が言う。
「聞くってことは、消したくないんですか」
「いや」
遠野は少し黙った。
「消してもいいんですけど、一回、意味を考えてからでも遅くないかなと」
「白線一本に?」
「白線一本に」
三雲は立ち上がり、モップの柄にあごを乗せた。こういう物言いをする人は、たまにいる。たいていは面倒だ。でも、ごく稀に、面倒の皮をかぶった大事なものを持ってくる。
「じゃあ、意味、言ってください」
「まだわからないです」
「でしょうね」
二人で白線を見下ろした。朝日が高窓から斜めに入って、粉の粒だけが小さく光っている。
体育館という場所は不思議だ。昨日の歓声も、先週の失敗も、去年の拍手も残っていない顔をしているくせに、床だけは妙に覚えている。何かを引きずった跡、転んだときについた擦れ、椅子を並べた脚の丸い跡。何も言わないまま、ずっと残している。
「昨夜、何してたんです」
「備品庫の棚卸しです。終わって、ラインカーを片づけようとして」
「そこで急に創作意欲が?」
「いえ。たぶん、試したんだと思います」
「何を」
「消える線って、どのくらい残るのか」
三雲は思わず顔を上げた。
遠野は、自分でも変なことを言っているとわかっている顔で肩をすくめた。
「ほら、テープは剥がせばなくなるでしょう。でも粉の線って、掃いたつもりでも少し残るじゃないですか。そういう半端なものって、案外、見つける人の足を止めるなって」
「今、止まってますね、私」
「ありがとうございます」
「礼の向きが変でしょうが」
遠野は少しだけ笑った。笑うと、神経質そうな顔が急に若く見える。
三雲は線の端を靴先でなぞった。
「見つける人の足を止めるって、そんなの迷惑ですよ」
「そうですね」
「じゃあ、なんで」
「たぶん、残したかったんです」
静かな声だった。
その言い方だけ、妙に床に近かった。
三雲がこの施設に勤めて六年になる。
春の発表会、夏の避難所訓練、秋のバザー、冬の卒業式。体育館には毎年だいたい同じ景色が並ぶ。同じように椅子を出し、同じように片づけ、同じように忘れられる。自分もその一部だと思っていた。きちんと整えて、跡を消して、次の人が困らないようにする。それが仕事だし、そのほうが気持ちがいい。
けれど三雲には、消さずに持っているものが一つだけあった。
左手首の内側に、細い白い筋がある。
小学校のころ、自転車で転んで切った跡だ。今ではほとんど目立たない。けれど腕時計を外すたび、ああまだあるな、と思う。別に大事件の証拠ではない。ただ、たしかに自分があの坂で転んで、泣いて、帰り道にアイスを買ってもらって、でも次の日また乗ったという、どうでもよさそうな一日が、そこだけまだ消えていない。
傷は痛みの記録というより、通り過ぎた証明書みたいなものだ。
そこまで考えてから、三雲は軽く眉を寄せた。
「……そういうことですか」
「どういうことです」
「まだ確定じゃないです」
「便利な言い方ですね」
遠野は苦笑した。
ちょうどそのとき、入口の引き戸ががらりと開いた。朝練の中学生たちがどやどや入ってくる。バドミントン部だ。眠そうな顔のまま、でも声だけは無駄に元気で、体育館は一気に空気が動く。
「おはようございます!」
「おはようございます」
三雲はいつもの調子で返す。
最初に白線に気づいたのは、一年生らしい小柄な女子だった。
「あれ、何この線」
「踏んだらなんかあるやつ?」
「ないない」
「あるかもよ」
言いながら、誰もすぐには跨がなかった。
見つける人の足を止める。
遠野の言葉どおりだった。
やがて顧問が来て、さっさと準備しろと声を飛ばした。生徒たちは、白線の前で一瞬だけ立ち止まったあと、意を決したみたいに順番に跨いでいく。飛び越える子、そっと踏まないように歩く子、わざと線の上を綱渡りみたいに進む子。反応はばらばらなのに、みんなちゃんとそれを見たという顔をしていた。
三雲は小さく笑った。
「たしかに、足は止まりましたね」
「でしょう」
「でも、意味までは考えてないですよ」
「それでいいんじゃないですか」
遠野は壁際に寄って言った。
「意味って、置いた側が全部決めなくてもいいし」
「ずいぶん投げますね」
「自分のことで手一杯なんで」
その返しに、三雲は少しだけ引っかかった。
この人は、さっきから自分のことをわざと雑に扱う。まるで丁寧に触ると崩れる紙細工みたいに。
「遠野さん」
「はい」
「その線、自分のことですか」
遠野の目が一回だけ瞬いた。
図星の顔は、もっと大げさに驚くものだと思っていたが、違った。ただ、逃げ道を探すのをやめた人の顔になるだけだった。
「……そんなにわかりやすいですか」
「わかりやすいです」
「困ったな」
「話したくないならそれでいいです」
「いや」
遠野は白線の端に視線を落とした。
「昨日、前の職場から封筒が届いたんです」
「前の職場」
「退職書類の不足分。判子が一個足りなかったらしくて」
「それはまあ、現実的ですね」
「すごく現実的でした。びっくりするくらい」
遠野は笑わなかった。
「辞めて三か月も経つのに、その紙一枚で、まだ途中だったんだなってわかったんです。終わった気でいたのに」
三雲は何も言わず待った。
「別にひどい辞め方をしたわけじゃないんです。ただ、合わなかった。愛想よくして、期待にも応えて、ちゃんとした顔をしてたら、何が本音か自分でもわからなくなって。結局、最後は黙って動けなくなりました」
「……」
「辞めたら楽になると思ったけど、今度は何者でもない感じだけが残って。じゃあ本当は何がしたかったのかって考えても、答えが毎日少しずつ変わるんですよ。昨日の正解が今日には違う。だから紙に書けない。人にも説明できない」
高窓から風が入って、白線の粉がほんの少し流れた。
「で、床に線を引いた」
「馬鹿みたいでしょう」
「まあ、賢くはないですね」
「ですよね」
「でも」
三雲はモップを壁に立てかけた。
「途中で消えそうな線って、今の遠野さんにはちょうどいいんじゃないですか」
遠野が顔を上げる。
「立派なテープじゃなくて、掃けば消えるやつ」
「慰めてます?」
「現実を言ってます」
三雲は手首の時計を外し、白い細い筋を見せた。
「これ、昔の傷なんですけど」
「見えますね」
「今さら痛くはないです。でも消えない」
「はい」
「消えないからえらいわけでもないし、残ってるから美しいわけでもない。ただ、ああ通ったなってわかるだけです」
自分で言ってから、思ったよりまっすぐな言葉になったな、と三雲は少し照れた。
「線も同じじゃないですか。完成じゃないし、誇れるものでもない。でも、ここ通ったってわかる」
遠野は黙って聞いていた。
「人に見せるには半端でも、自分が後で見つけて、ああここで一回止まったなって思えるなら、それで十分じゃないですか」
「……三雲さん」
「何です」
「たまに、面倒の皮をかぶった大事なこと言いますね」
「それ、さっき私が思ったやつです」
「お互い様か」
「ですね」
二人で少し笑った。
体育館の真ん中では、朝練が始まっていた。シャトルの乾いた音が規則的に跳ねる。失敗した子が「うわっ」と情けない声を出し、隣の子がすぐ笑う。そのたびに空気が少しずつほぐれていく。
遠野は白線を見たまま言った。
「消しましょうか」
「どうして」
「意味を考える時間は、もらったので」
「もういいんです?」
「たぶん」
「またその言い方」
「便利なんで」
三雲は雑巾を取りに行こうとして、ふと止まった。
「半分だけ消しますか」
「半分?」
「端から全部消すと、最初からなかったみたいで腹が立つので」
「誰が」
「私が」
遠野は、今度こそ少しだけ声を出して笑った。
「いいですね、それ」
雑巾を濡らして戻ると、二人で線の中央にしゃがんだ。三雲が左から、遠野が右から拭いていく。白い粉は簡単に消えた。けれど床目の隙間に入ったものは少し残り、光の加減でだけ見える、かすかな筋になった。
「完璧には消えないですね」
「そのほうが感じ悪くなくていいです」
「褒めてます?」
「現実を言ってます」
さっきの言葉を返すと、遠野はうなずいた。
真ん中に、ほんの三十センチほど、白線が残った。前後を失って、そこだけ浮かんでいる。始まりも終わりもわからない、小さな中継地点みたいだった。
「変ですね」
遠野が言う。
「変ですね」
「でも、さっきより好きです」
「私もです」
そのとき、朝練の休憩に入った一年生が、タオルを首にかけたまま近づいてきた。
「先生、これ消し忘れですか?」
顧問ではなく、なぜか三雲に聞く。
「半分だけわざとです」
「なんで?」
「なんでだろうね」
一年生は残った線を見て、少し考えた。
「……なんか、ここだけ続いてる感じする」
それだけ言って、あっさり戻っていく。
遠野は目を細めた。
「置いた側が全部決めなくていい、でしたっけ」
「自分で言ったこと、回収されましたね」
「見事に」
三雲は雑巾を絞りながら、胸の奥のあたりが少し軽くなっているのに気づいた。別に自分の問題が解決したわけではない。ただ、残ることと進むことは、案外けんかしないのかもしれないと思えた。
消せないものがあるから止まるのではなく、消えきらないものを連れたままでも、床はちゃんと次の足を受け止める。
たぶん人も、そういうふうにできている。
「遠野さん」
「はい」
「判子、押しに行くんですか」
「行きます」
「嫌ですね」
「嫌です」
「でも行くんですね」
「行かないと、たぶん次の線が引けないので」
「それなら、行ったほうがいい」
遠野は短くうなずいた。
体育館の時計は七時四十分を指していた。朝はまだ始まったばかりだ。床に残った短い白線へ、斜めの光が静かに乗る。誰かがまた見つけて、一瞬でも足を止めるだろう。意味なんて考えないかもしれない。それでも、その一瞬は確かにそこにある。
遠野はラインカーを持ち上げ、備品庫のほうへ歩き出した。昨日より少しだけ、足音がまっすぐだった。
三雲は腕時計をつけ直し、手首の白い筋を袖の中へしまう。
消えないものは、消えないままでいい。
目立たなくなっても、きれいに言い換えられなくても、通った事実までなくなるわけじゃない。
今日の仕事は、床を整えることだ。明日の誰かが転ばないように、引っかからないように、余計なものは片づける。でも、全部をなかったことにする必要はない。
三雲はモップを握り直し、残った三十センチの線を避けるようにして歩き出した。
その短さが、むしろ妙に頼もしく見えた。終わり損ねた跡ではなく、ここから先は自分で続けろと言っているみたいで。
体育館の隅で、誰かがシャトルを拾い損ねてまた情けない声を上げる。笑い声が重なる。白線は黙ったまま、朝の真ん中で細く光っていた。




