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短編集  作者: 科上悠羽


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『回収日の空白』

 部屋の角に、袋が吊るしてある。中身は空き缶だ。音を立てないように詰めたつもりでも、夜にふと触れると、かすかに金属が鳴く。鳴くたび、胸の奥の乾いたところが同じ音を返す気がして、圭介はその袋を捨てられないでいた。


 ワンルームの床は、踏むたび少しだけ沈む。古い建物の、薄い板のせいだ。薄い板は、生活の重さを受け止めるより先に、きしみで返事をする。圭介の足音はいつも、返事をさせないように小さかった。小さいほど安心する。小さいほど、誰にも見つからない。


 帰宅はだいたい終電ひとつ手前。鍵を回して、電気をつけて、靴を揃えて、冷蔵庫を開ける。冷蔵庫はよく冷えているのに、心は冷えない。冷えないかわりに、乾く。喉の乾きじゃない。言い訳の水分が蒸発したあとの、かさかさした乾きだ。


 圭介は水を飲む代わりに、缶を開けた。プシュ、と短い音。音が出ると、「今日もちゃんと終わった」気がする。終わった気がするだけで、終わっていないものがあるのに。


 台所の横で洗濯機が待っている。夜に回す癖がついたのは、眠れない日が増えたからだ。眠れないと、身体の中の余白が暴れる。暴れる余白を、渦の中に一度入れてしまう。ぐるぐる回して、勝手に落ち着くのを待つ。便利な儀式だ。


 スタートボタンを押すと、洗濯槽が回り始める。水の音と、布の重さが、狭い部屋に小さな海を作る。圭介はその音を背に、スマホを開いた。


 通知は少ない。少ないのに、見ないと落ち着かない。学生時代の友だちの名前を探して、見つけて、そこで止まる。三ヶ月以上、やり取りがない相手だ。最後に送ったのは「今度飯行こう」。既読になって、それきり。既読は、返事の代わりにならないのに、断りの形に見えるから厄介だ。


 その名前のすぐ下に、知らない番号からの着信履歴があった。昼に一度鳴って、取れなかったやつだ。折り返す気はない。折り返すと、何かが始まる。始まると、終わり方が分からない。


 圭介は画面を伏せ、部屋を見回した。袋、箱、袋、箱。通販の段ボールが畳まれたまま立てかけてある。コンビニの袋が、なぜか捨てられずにドアの近くに溜まる。空っぽのものばかりだ。中身がないと軽い。軽いから、持てる。持てるから、増える。増えた分だけ、部屋が狭くなる。狭いほど、動かなくて済む。動かないほど、何も失わない気がする。


 洗濯機の回る音が、少しだけ速くなった。脱水の前触れ。圭介の胸も同じ速度で回る。勝手に回って、勝手に疲れる。


 ――こんな生活がしたかったんだっけ。


 答えは出ない。答えを出すほど、過去の自分が情けなくなるからだ。情けなさは、瓶に詰めるといつか爆ぜる。爆ぜるのが怖いから、圭介はいつも、情けなさを箱に入れて積み上げた。空の箱は、意外と丈夫だ。


 週末の三連休、天気予報はずっと雨だった。やりたかったことは、元から曖昧だった。雨は、それを堂々と中止にしてくれる。圭介はカーテンの隙間から灰色の空を見て、少しだけ安心した。出なくていい、という許可が空から降ってくる気がした。


 そのまま昼まで寝て、起きて、また缶を開けた。昼の缶はまずい。まずいのに開ける。開ける理由は味じゃない。音だ。


 午後、ポストにチラシが入っていた。地区の資源回収のお知らせ。回収日、朝八時から十時。空き缶、古紙、段ボール。担当:自治会。


 圭介はその紙を、なぜか捨てられなかった。捨てられないものが増えると、部屋がさらに狭くなる。狭くなるのに、圭介はチラシを冷蔵庫に貼った。磁石は、いつかの粗品。地味な磁石が、初めて役に立つ。


 回収日当日。雨は上がっていた。空はまだ白いが、風が少しだけ通る。圭介は袋を一つ、二つ、三つ、玄関に並べた。並べると、途端に数が怖くなる。自分が飲んだ回数の証拠が、床の上に立っている。


 しかし、ここで引っ込めると、また増えるだけだ。圭介は靴を履き、袋を持ち上げた。重い。空のはずなのに重い。重いのは、金属じゃなくて日々だ。


 階段を降りる。袋が当たって、がしゃ、と鳴る。音が大きい。隣の部屋の扉が開きそうで、圭介は息を止めた。扉は開かなかった。誰も見ていない。見ていないのに、胸の内側だけが騒ぐ。


 回収場所は、近所の公園の端だった。テーブルが二つ並び、分別用の網が置かれ、軍手の人たちが動いている。思ったより、みんな普通の顔をしていた。怒っていない。急いでいない。仕事の現場のような“圧”がない。圭介の肩が、勝手に少し落ちた。


「おはようございます」

 声をかけてきたのは、黄色い帽子の女性だった。六十代くらい。手には油性ペン。ペン先に、生活の強さがある。

「……おはよう、です」

「缶、こっちね。袋のままでもいいけど、破れそうなら二つにしよっか」

 女性はさらっと言いながら、圭介の袋の底を見た。見られた、と思う前に、「破れそう」という実務の言葉が先に来た。責めていない。評価していない。直すだけ。


 圭介は袋を持ち直し、缶の網に流した。がらがら、と音が出る。音が出ると、胸も少しだけ鳴る。痛い鳴りじゃない。抜ける鳴りだ。


「これ、集めるの大変だったでしょ」

 女性が言う。

 圭介は「別に」と言いかけて止めた。別に、は便利すぎる。

「……大変でした」

 言った瞬間、自分で驚いた。

 女性は頷くだけだった。

「うん。大変は大変。じゃあ、今日で半分減ったね」

「半分……?」

「半分って言うと続くから。全部減った、は嘘になるでしょ」


 圭介は笑ってしまった。笑うと喉がほどける。ほどけると、空気が入る。乾いていたのは、心じゃなくて呼吸だったのかもしれない。


 脇で小学生くらいの男の子が、空き缶のプルタブを集めていた。ペットボトルの小袋に、丁寧に入れている。

「それ、何にするの」

 圭介が聞くと、男の子は胸を張った。

「集めるとね、誰かの役に立つんだって。先生が言ってた」

「へえ」

「だから、捨てない。…でも、べたべたする」

 男の子は眉をひそめて、軍手を振る。

 圭介は自分の手を見た。軍手はない。素手は、今さら役に立たない。

「軍手、貸そうか」

 言ってから、圭介は自分が軍手を持っていないことを思い出した。

 女性が横から、ひょいと軍手を差し出した。

「はい、貸してあげて。あなた、今“言えた”から」

 圭介の耳が熱くなった。言えた、という言葉が、今日は嫌じゃなかった。


 男の子が「ありがとう!」と叫ぶ。その声は軽い。軽い声は、町を少し明るくする。


 回収が終わり、圭介の手は空になった。空になった手は、落ち着かない。いつも何かを握ってきたからだ。缶、スマホ、言い訳。握らないと、自分がこぼれそうになる。


 女性が紙コップを一つ渡してきた。

「お茶。飲んで帰りな」

「……ありがとうございます」

「ありがとう、言えるなら大丈夫」

「大丈夫、って言わないでください」

 圭介は思わず言って、慌てた。失礼だ。

 女性は笑った。

「そうね。大丈夫じゃない日もあるもんね。じゃあ、これで」

 女性は指で、紙コップの縁をちょんと叩いた。

「今日、ここまで」


 その言葉が、圭介の胸の奥にストンと落ちた。ここまで、でいい。今日の分だけ、でいい。


 帰り道、圭介はスマホを開いた。例の友だちの名前。既読で止まっているやつ。

 指が迷った。迷って、でも止まらなかった。

『生きてるか。返事いらない。今日は空っぽを少し捨てた』

 送信。すぐに後悔が来そうだったので、圭介は画面を伏せた。送ったものは送った。回収日みたいに、あとは流れに任せるしかない。


 部屋に戻ると、床が広く見えた。広いと怖い。広いと、何かを置きたくなる。圭介は棚の端に、空になった袋を一枚だけ畳んで置いた。捨てない。増やさない。置き場を作る。自分のための小さいルールだ。


 洗濯機が、ピッ、と鳴った。終了の合図。

 圭介は蓋を開け、湿った服を取り出した。湿り気は現実だ。乾かせば軽くなる。乾かすには、干さないといけない。干すには、手を動かすしかない。


 ベランダに出ると、風が通った。強くない。けれど確かに通る。洗濯物が少しだけ揺れて、布の匂いが外へ逃げていく。逃げる匂いを見送りながら、圭介は息を吸って吐いた。


 回収日は、終わりじゃなく、空白の始まりだった。


 翌朝、圭介は目覚ましより先に起きた。前日の空白のせいだ。


 スマホを見ると、昨夜送った短いメッセージに返信が来ていた。たった一行。


『捨てたならえらい。俺はまだ増えてる。今夜、空けられる?』


 親友の文面は相変わらず雑だった。雑なのに救われる。圭介は「忙しい」を消して、短く返した。


『空ける。二十分だけ。駅前のラーメン屋で』


 仕事を定時で切り上げて駅前に出ると、空はまだ白かった。


 ラーメン屋は狭くて湯気が近い。親友の信也は、カウンターで先に水を飲んでいた。

「久しぶり」

「おう。顔、乾いてんな」

「お前もだろ」


 丼が来る前に、信也が言った。

「俺さ、仕事、辞めた」

 圭介の箸が止まる。正しい質問が並びかけて、圭介は昨日の「今日、ここまで」を思い出した。

「……今日、ここまでの話、聞く」

「なにそれ。お前、急に大人」


 湯気が上がる。ぼやけた向こうで、信也は笑ってから、少しだけ目を伏せた。

「辞めたっていうか、切られたに近い。帰ってさ、洗濯機回した。意味わかんねぇだろ」

「わかる。渦に入れると落ち着く」


 信也が肩を落として、鼻で笑った。

「お前、そういうの言うんだな」


 圭介は資源回収の話をした。袋の音、網の音、紙コップのお茶。

「それ、いいな」と信也が言ったのを聞いて、圭介は言葉を続けた。


「来週もある。……一緒に行く?」

「俺が行って何すんの」

「缶、持ってくる。それだけで、ちょっと抜ける」

「じゃあ、行く。俺も袋、増えてるし」


 店を出ると夜風が冷たい。別れ際、圭介はポケットの中で指を二回鳴らした。合図。今日はここまで。でも次はある。


 部屋に戻ると、床の広さが昨日より怖くなかった。圭介は空になった棚に小さなグラスを一つ置き、水を注いだ。


 袋は、空っぽになったら捨てる。空っぽのまま抱えない。

 そのかわり、空っぽになった自分には、水を入れる。


 窓を開けると、風が通った。

(空っぽは終わりじゃない。回収日だ)


 寝る前、圭介は部屋の隅の段ボールを一つだけ潰した。畳む音が思ったより大きくて、でも嫌じゃなかった。中身のない箱は、潰しても誰も傷つかない。


 スマホが一度だけ震えた。信也からだ。

『二十分じゃ足りねぇな。来週、缶と一緒に愚痴も持ってく』

 圭介は笑って返した。

『愚痴は一口ずつ。噛める形で』


 送信して、電気を消す。暗い部屋に、洗濯物の揺れる影だけが残る。影が残るなら、明日も動ける。

 枕元のコップの水を一口飲んで、圭介はようやく眠った。渦のない夜だった。

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