『窓辺の風鈴レター』
海沿いの工房は、夕方になると風の匂いが変わる。昼の風は塩と日焼け止め、夕方の風は洗った布と遠い夕飯。大げさに言えば、同じ風が一日の終わりの顔に着替える。
相田蒼は窓を少しだけ開け、作業台の上の小さな金具を指先で回した。風鈴用の舌。短い板に穴を開け、糸を通して、音の芯を作る部品だ。
「まだやってんの?」
背中から声がする。工房の大家で、同時に師匠でもある庄司さんが、段ボールを抱えて入ってきた。
「今日、風がいいんで」
「風がいいと手が止まらない病、そろそろ治せ」
「治ったら僕、何を握ればいいんですか」
「理屈。お前は理屈を握れ」
蒼は笑いそうになって、笑わなかった。今日は笑うと喉の奥がくしゃっとなる気がした。さっき届いた短いメッセージが、まだ胸の真ん中に刺さっている。
『無理。ちょっとじゃない。ほんとに無理』
送り主は、楓だ。高校の同級生。卒業後は別々の街で別々の暮らしをして、連絡は「元気?」の往復みたいに薄くなった。薄くなったのに、切れてはいなかった。切れていない糸は、いざというとき痛い。
高校の文化祭で、蒼はステージに立った。ギターが下手で、声は腹まで届かなくて、最後のサビでコードを間違えた。それでも楓だけが、体育館のいちばん後ろで手を振ってくれた。
「今の、ひどい。でも好き」
終演後、楓はそう言って笑った。褒めてるのか貶してるのか分からないのに、蒼は救われた。上手さじゃなく、出そうとしたところを拾われた気がしたからだ。
それ以来、蒼にとって“声を出す”は、誰かのための道具になった。格好つけたくて出す声じゃない。届けばいい、の声。
楓は今、内陸の町の小学校で働いている。春から担任。初めてのクラス。初めての保護者会。初めての“先生は全部知っている前提”の視線。
蒼は彼女の話を、電話越しに何度も聞いた。笑ってごまかす癖も、真面目に抱え込みすぎる癖も。大丈夫、と言ってから黙る癖も。
なのに今日の「無理」は、いつもの薄さじゃなかった。紙が破れる音のする無理だった。
蒼はスマホを握り、返信欄に指を置いた。
『大丈夫?』
消す。
『何があった?』
消す。
『休め』
消す。
命令は、正しさのふりをした乱暴だ。楓が今欲しいのは、たぶん命令じゃない。だけど、じゃあ何を渡せばいいのか分からない。
分からないとき、蒼の手はいつも“作る”へ逃げる。逃げだけど、逃げた先で何かが出来るなら、まだマシだ。
「庄司さん。今日、これ、貸してください」
蒼は棚の上の小箱を指さした。箱の中身は、風鈴の揺れを拾って、一定以上揺れると録音を再生する小さなモジュール。試作品。まだ売り物にならない、ちょっと変な道具。
「また変なもんに手を出す」
「変なの、今必要なんで」
「必要の根拠は」
「……届かない相手がいる」
庄司さんは一拍黙って、箱を投げるように渡した。
「壊すなよ。あと、壊れるならお前が先に壊れろ」
「順番、逆じゃないですか」
「逆が効く日もある」
*
蒼はその夜、工房の片隅で“声”を録った。
言葉を考えるほど、嘘が増える。嘘が増えるほど、楓は見抜く。だから、短くする。
「楓。今日、無理って言えたの、えらい」
それだけ言って、止めた。えらい、が重い気がして、すぐ付け足す。
「えらいって言い方が嫌なら、じゃあ…助かった。無理って言われると、こっちも手順が作れる」
次に、少しだけ笑い声を入れた。真面目な声だけだと、楓は余計に泣く。泣くのが悪いわけじゃない。でも、泣いたあとに息が戻らない日がある。
だから、蒼は小さく鼻歌を混ぜた。歌じゃない。メロディとも言えない。口の中で転がすだけの、三秒の音。
録音を止めて、蒼は自分で自分に照れた。これ、ほとんどラブレターだ。ラブレターは恥ずかしい。恥ずかしいものほど、届く。
風鈴本体は、楓の好きな色を選んだ。青でも白でもなく、その間の色。空が曇る前の薄い水色。楓は昔から、派手な色より“間”の色を好んだ。
短冊には、文字を書かなかった。文字は説明になる。説明は楓を追い詰める。短冊は、ただ揺れていればいい。
翌朝、蒼はそれを箱に入れ、発送伝票を書いた。宛先の字が揺れた。揺れは緊張だ。緊張は悪くない。緊張するくらい、今の楓が大事だということだから。
メッセージは、結局こう送った。
『変な荷物送る。窓辺に吊るして。風が吹いたら、たぶん僕がしゃべる。怖かったら外していい』
送信して、蒼は机を軽く叩いた。こつ、こつ。自分の合図。勝手に頑張りすぎない、の合図。
*
楓から返事が来たのは、二日後の夜だった。
『届いた。なにこれ…ずるい』
ずるい、は楓の中では褒め言葉だ。心の角が少しだけ丸くなったときに出る言葉。
その次のメッセージが、少し長い。
『今日は、教室で急に泣きそうになって、トイレに逃げた。逃げたら負けだと思ってたけど、逃げないと倒れる日もあるんだね。帰ってきて窓を開けたら鳴った。びっくりした。声が出て、笑ってしまった。笑ったら、涙が止まった。くやしい』
蒼は返事を短くした。
『くやしいなら合格。明日も、倒れる前に逃げていい。倒れたら返ってこれないから』
数日後、楓から写真が届いた。窓辺に吊るされた風鈴。背景には洗濯物。生活の匂いがする一枚。写真の端に、付箋が貼られている。楓の字だ。
《聞こえたら、一口水》
蒼は笑って返した。
『それ、売りたいくらい正しい』
それから、ふたりのやりとりは少し変わった。長文は減った。代わりに、短い報告が増えた。
『今日は給食の牛乳こぼした子がいて、みんなで雑巾リレーした。カオス。勝った』
『保護者会、声が裏返った。死んだ。けど帰ってきた』
『風鈴、今日は鳴らなかった。鳴らないときもある。鳴らないときは、寝る』
蒼も負けずに短く返した。
『鳴らないのは、風が休んでるだけ』
『裏返った声は、ちゃんと生きてる声』
『寝ろは正解。寝るは勝ち』
ある夜、楓がこう送ってきた。
『蒼の声、最初の一言だけ、毎回同じだね』
蒼は返した。
『同じでいい。迷子のときは、同じ場所に看板がある方が戻れる』
『…ていうか、それしか言えない』
すると楓から、すぐに来た。
『それがいい。変に上手いと信じられない』
蒼はその言葉を読んで、胸が少し熱くなった。上手くない声が、役に立つ。そんなの、昔の自分が一番欲しかった許可だ。
そして楓は、真似を始めた。窓辺の風鈴の短冊の裏に、毎晩一行だけ書く。
《今日のよかった》
《今日のやだ》
《明日のお願い》
三行が揃わない日もある。揃わない日は「二行だけ」と書いて寝る。それでいい、と自分に許可を出す。蒼に報告するのは、だいたい「やだ」の方だった。
『今日は、だめな先生だった気がする』
蒼は返した。
『だめな先生だった“気がする”なら、まだ回収できる。気がする、は余白だ』
翌朝、楓から一通。
『余白って言い方、腹立つ。ちょっと効く。ムカつく』
蒼は笑って、工房の床を一回だけ踏み鳴らした。ムカつくは、生きてる合図だ。
*
五月の終わり、海の風が強い日に、工房の電話が鳴った。番号は知らない。知らない番号はだいたい仕事だ。蒼は出る。
「もしもし」
『…もしもし、蒼?』
楓の声だった。久しぶりの生声。少し掠れている。けれど、逃げていない声だ。
「どうした」
『風鈴がさ。鳴らない日が続いて…ちょっと不安になって。壊れたのか、私が壊れたのか分かんなくて』
「風が止まってるだけかも」
『分かってる。でも、分かってるのに不安ってあるじゃん』
「ある」
蒼はそう言って、机の上の風鈴を一つ鳴らした。自分用のやつ。澄んだ音が、電話越しに乗る。
『…今の音、そっちの?』
「うん。風がないなら、手で鳴らしていい」
楓が鼻で笑う。
『ずるい』
「ずるくていい。倒れないためのずるさ」
『……ねえ、蒼。私も、返事したい』
「返事?」
『声。あなたの声ばっか届くの、ずるい』
蒼は一瞬、間抜けな声を出した。
「……できるよ。短冊の根元に小さいボタンある。長押しすると録音できる。十秒だけ。で、次に風が吹いたら、こっちが受け取る」
『え、まじで?』
「まじで。試作品だから、たまに機嫌悪いけど」
『機嫌悪いの、私と同じ』
「同じなら扱える」
数日後、蒼の工房の窓辺で、吊るしてあった試験用の風鈴がふいに鳴った。音のあと、楓の声が、小さく流れた。
『今日も、なんとか…帰ってきた。水、飲んだ。偉い?』
蒼は笑って、声に出して答えた。
「偉い。…って言うと重いか。じゃあ、よし」
風鈴は返事をしない。返事をしないのに、胸の奥の渦が少し遅くなる。遅くなれば沈まない。
その夜、楓からメッセージが来た。
『今の、聞こえた? 恥ずかしくて死ぬ』
蒼は返した。
『死なない。恥ずかしいのは生きてる証拠』
『あと、返事、ちょっと好きだった。ここだけの話』
『言えよ』
『……一回だけ。生きててくれて、助かった』
『うん』
うん、の一文字が、十秒より強いことがある。
*
六月のはじめ、蒼は休みを取って楓の町へ行った。遠征というほど遠くない。けれど、海の匂いが薄くなるだけで、空の色が変わる。
駅前で待っていた楓は、制服のようなジャケットを着ていた。先生の顔だ。でも目の奥が少しだけ柔らかい。
「来た」
「来た」
短い挨拶のあと、楓が笑った。
「なんか、照れるね。物理で会うの」
「物理って言うな」
「言い方が好き」
楓の部屋は小さかった。窓辺の風鈴が、昼の光に透けている。風は弱い。だから鳴らない。鳴らないのに、そこにあるだけで“戻る場所”みたいだ。
蒼は黙って窓を開け、手で風鈴を軽く揺らした。音のあと、蒼の声が流れる。
「楓。今日、無理って言えたの、えらい」
楓がすぐ顔を隠した。
「やめて。本人の前で流すな」
「本人の前で聞けるくらいなら、回復してる」
「腹立つ。効く」
楓は窓辺の付箋を指で叩いた。《聞こえたら、一口水》。それから、冷蔵庫からペットボトルを一本取って、蒼に投げた。
「はい。水」
「僕が飲むのか」
「あなたも倒れそうな顔してる」
蒼は受け取り、ひと口飲んだ。確かに喉が乾いている。人を支えると、自分が乾く。
楓は窓の外を見ながら言った。
「ねえ、蒼。私、まだ怖い日ある」
「うん」
「でも、怖いって言えるようになった。…それ、たぶん、あなたのせい」
「僕のせいって言い方はやめろ」
「じゃあ、あなたのおかげ。……も重いか」
「重い」
「よし。じゃあ、共犯」
楓はそう言って笑った。共犯は軽い。軽いのに、味方の匂いがする。
帰り際、楓が小さな紙袋を渡した。中には、同じ色の風鈴がもう一つ。
「これ、あなたの窓にも付けて。返礼。風が吹いたら、私がしゃべる。…逃げないで聞け」
「命令」
「命令。今日は命令が要る日」
蒼は頷いた。命令でも、これは鎖じゃない。通路の札だ。
*
海の工房に戻った夜、蒼は自分の窓辺に新しい風鈴を吊るした。風は強い。音が鳴り、楓の声が乗る。
『蒼。今日も、作ってくれてありがとう。…それだけ』
それだけ、が胸に効いた。説明じゃない。飾りじゃない。短くて、逃げ道のないやつ。
蒼は作業台に戻り、新しい短冊を切った。文字は書かない。代わりに、穴を一つ多めに開けた。風が通る場所を増やすための穴。
その穴を見て、蒼は小さく言った。
「届かないなら、届く形を作る。それだけ」
外の風がもう一度鳴らした。ひと口ぶんの音。
蒼は窓を閉める前に、もう一度だけ海を見た。月明かりの筋が水面に落ちて、風がその筋を細かく刻んでいる。遠くで船の音が一つ鳴る。あの音も、誰かの「帰る」の合図だ。
蒼はスマホを取り出し、新しい録音を十秒だけ仕込んだ。言葉は短くする。短いほうが、明日まで持つ。
「楓。今日は、笑えた? 笑えなくてもいい。息が通ったなら合格。……あと、水」
自分で言って、自分で可笑しくなった。水ばかりだ。でも水は大事だ。声は乾くと尖るし、尖ると刺さる。刺すためじゃなく、通すために声を出したい。
翌朝、工房に子どもが見学に来た。庄司さんが風鈴を鳴らして見せると、子どもたちは一斉に笑った。笑い声は、風より速く広がる。蒼はその笑いを聞きながら、ふと思った。楓の教室でも、こんな笑いが起きているのだろうか。起きていない日があっても、いつか起きる。起こすために、楓は今日も立っている。
蒼は作業台の端を、こつん、と叩いた。合図。焦らない。盛らない。ためらいを溜めない。
風が鳴らす。声が乗る。届く日もあれば届かない日もある。それでも、窓辺に吊るした“置き場”がある限り、ふたりは迷子になりきらない。
夜、風鈴が一度だけ鳴って、楓の声が落ちてきた。
『笑えた。…ちょっとだけ。だから明日も行く』
蒼は「うん」とだけ返して、電気を消した。




