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短編集  作者: 科上悠羽


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88/122

『窓辺の風鈴レター』

 海沿いの工房は、夕方になると風の匂いが変わる。昼の風は塩と日焼け止め、夕方の風は洗った布と遠い夕飯。大げさに言えば、同じ風が一日の終わりの顔に着替える。

 相田蒼あいだ・あおは窓を少しだけ開け、作業台の上の小さな金具を指先で回した。風鈴用の舌。短い板に穴を開け、糸を通して、音の芯を作る部品だ。


「まだやってんの?」

 背中から声がする。工房の大家で、同時に師匠でもある庄司さんが、段ボールを抱えて入ってきた。

「今日、風がいいんで」

「風がいいと手が止まらない病、そろそろ治せ」

「治ったら僕、何を握ればいいんですか」

「理屈。お前は理屈を握れ」


 蒼は笑いそうになって、笑わなかった。今日は笑うと喉の奥がくしゃっとなる気がした。さっき届いた短いメッセージが、まだ胸の真ん中に刺さっている。


『無理。ちょっとじゃない。ほんとに無理』


 送り主は、かえでだ。高校の同級生。卒業後は別々の街で別々の暮らしをして、連絡は「元気?」の往復みたいに薄くなった。薄くなったのに、切れてはいなかった。切れていない糸は、いざというとき痛い。


 高校の文化祭で、蒼はステージに立った。ギターが下手で、声は腹まで届かなくて、最後のサビでコードを間違えた。それでも楓だけが、体育館のいちばん後ろで手を振ってくれた。

「今の、ひどい。でも好き」

 終演後、楓はそう言って笑った。褒めてるのか貶してるのか分からないのに、蒼は救われた。上手さじゃなく、出そうとしたところを拾われた気がしたからだ。

 それ以来、蒼にとって“声を出す”は、誰かのための道具になった。格好つけたくて出す声じゃない。届けばいい、の声。


 楓は今、内陸の町の小学校で働いている。春から担任。初めてのクラス。初めての保護者会。初めての“先生は全部知っている前提”の視線。

 蒼は彼女の話を、電話越しに何度も聞いた。笑ってごまかす癖も、真面目に抱え込みすぎる癖も。大丈夫、と言ってから黙る癖も。


 なのに今日の「無理」は、いつもの薄さじゃなかった。紙が破れる音のする無理だった。


 蒼はスマホを握り、返信欄に指を置いた。

『大丈夫?』

 消す。

『何があった?』

 消す。

『休め』

 消す。

 命令は、正しさのふりをした乱暴だ。楓が今欲しいのは、たぶん命令じゃない。だけど、じゃあ何を渡せばいいのか分からない。

 分からないとき、蒼の手はいつも“作る”へ逃げる。逃げだけど、逃げた先で何かが出来るなら、まだマシだ。


「庄司さん。今日、これ、貸してください」

 蒼は棚の上の小箱を指さした。箱の中身は、風鈴の揺れを拾って、一定以上揺れると録音を再生する小さなモジュール。試作品。まだ売り物にならない、ちょっと変な道具。

「また変なもんに手を出す」

「変なの、今必要なんで」

「必要の根拠は」

「……届かない相手がいる」

 庄司さんは一拍黙って、箱を投げるように渡した。

「壊すなよ。あと、壊れるならお前が先に壊れろ」

「順番、逆じゃないですか」

「逆が効く日もある」



 蒼はその夜、工房の片隅で“声”を録った。

 言葉を考えるほど、嘘が増える。嘘が増えるほど、楓は見抜く。だから、短くする。


「楓。今日、無理って言えたの、えらい」

 それだけ言って、止めた。えらい、が重い気がして、すぐ付け足す。

「えらいって言い方が嫌なら、じゃあ…助かった。無理って言われると、こっちも手順が作れる」


 次に、少しだけ笑い声を入れた。真面目な声だけだと、楓は余計に泣く。泣くのが悪いわけじゃない。でも、泣いたあとに息が戻らない日がある。

 だから、蒼は小さく鼻歌を混ぜた。歌じゃない。メロディとも言えない。口の中で転がすだけの、三秒の音。

 録音を止めて、蒼は自分で自分に照れた。これ、ほとんどラブレターだ。ラブレターは恥ずかしい。恥ずかしいものほど、届く。


 風鈴本体は、楓の好きな色を選んだ。青でも白でもなく、その間の色。空が曇る前の薄い水色。楓は昔から、派手な色より“間”の色を好んだ。

 短冊には、文字を書かなかった。文字は説明になる。説明は楓を追い詰める。短冊は、ただ揺れていればいい。


 翌朝、蒼はそれを箱に入れ、発送伝票を書いた。宛先の字が揺れた。揺れは緊張だ。緊張は悪くない。緊張するくらい、今の楓が大事だということだから。


 メッセージは、結局こう送った。

『変な荷物送る。窓辺に吊るして。風が吹いたら、たぶん僕がしゃべる。怖かったら外していい』

 送信して、蒼は机を軽く叩いた。こつ、こつ。自分の合図。勝手に頑張りすぎない、の合図。



 楓から返事が来たのは、二日後の夜だった。

『届いた。なにこれ…ずるい』

 ずるい、は楓の中では褒め言葉だ。心の角が少しだけ丸くなったときに出る言葉。


 その次のメッセージが、少し長い。

『今日は、教室で急に泣きそうになって、トイレに逃げた。逃げたら負けだと思ってたけど、逃げないと倒れる日もあるんだね。帰ってきて窓を開けたら鳴った。びっくりした。声が出て、笑ってしまった。笑ったら、涙が止まった。くやしい』


 蒼は返事を短くした。

『くやしいなら合格。明日も、倒れる前に逃げていい。倒れたら返ってこれないから』


 数日後、楓から写真が届いた。窓辺に吊るされた風鈴。背景には洗濯物。生活の匂いがする一枚。写真の端に、付箋が貼られている。楓の字だ。


《聞こえたら、一口水》


 蒼は笑って返した。

『それ、売りたいくらい正しい』


 それから、ふたりのやりとりは少し変わった。長文は減った。代わりに、短い報告が増えた。

『今日は給食の牛乳こぼした子がいて、みんなで雑巾リレーした。カオス。勝った』

『保護者会、声が裏返った。死んだ。けど帰ってきた』

『風鈴、今日は鳴らなかった。鳴らないときもある。鳴らないときは、寝る』


 蒼も負けずに短く返した。

『鳴らないのは、風が休んでるだけ』

『裏返った声は、ちゃんと生きてる声』

『寝ろは正解。寝るは勝ち』


 ある夜、楓がこう送ってきた。

『蒼の声、最初の一言だけ、毎回同じだね』

 蒼は返した。

『同じでいい。迷子のときは、同じ場所に看板がある方が戻れる』

『…ていうか、それしか言えない』

 すると楓から、すぐに来た。

『それがいい。変に上手いと信じられない』


 蒼はその言葉を読んで、胸が少し熱くなった。上手くない声が、役に立つ。そんなの、昔の自分が一番欲しかった許可だ。


 そして楓は、真似を始めた。窓辺の風鈴の短冊の裏に、毎晩一行だけ書く。

《今日のよかった》

《今日のやだ》

《明日のお願い》

 三行が揃わない日もある。揃わない日は「二行だけ」と書いて寝る。それでいい、と自分に許可を出す。蒼に報告するのは、だいたい「やだ」の方だった。

『今日は、だめな先生だった気がする』

 蒼は返した。

『だめな先生だった“気がする”なら、まだ回収できる。気がする、は余白だ』


 翌朝、楓から一通。

『余白って言い方、腹立つ。ちょっと効く。ムカつく』

 蒼は笑って、工房の床を一回だけ踏み鳴らした。ムカつくは、生きてる合図だ。



 五月の終わり、海の風が強い日に、工房の電話が鳴った。番号は知らない。知らない番号はだいたい仕事だ。蒼は出る。

「もしもし」

『…もしもし、蒼?』

 楓の声だった。久しぶりの生声。少し掠れている。けれど、逃げていない声だ。


「どうした」

『風鈴がさ。鳴らない日が続いて…ちょっと不安になって。壊れたのか、私が壊れたのか分かんなくて』

「風が止まってるだけかも」

『分かってる。でも、分かってるのに不安ってあるじゃん』

「ある」

 蒼はそう言って、机の上の風鈴を一つ鳴らした。自分用のやつ。澄んだ音が、電話越しに乗る。

『…今の音、そっちの?』

「うん。風がないなら、手で鳴らしていい」


 楓が鼻で笑う。

『ずるい』

「ずるくていい。倒れないためのずるさ」

『……ねえ、蒼。私も、返事したい』

「返事?」

『声。あなたの声ばっか届くの、ずるい』

 蒼は一瞬、間抜けな声を出した。

「……できるよ。短冊の根元に小さいボタンある。長押しすると録音できる。十秒だけ。で、次に風が吹いたら、こっちが受け取る」

『え、まじで?』

「まじで。試作品だから、たまに機嫌悪いけど」

『機嫌悪いの、私と同じ』

「同じなら扱える」


 数日後、蒼の工房の窓辺で、吊るしてあった試験用の風鈴がふいに鳴った。音のあと、楓の声が、小さく流れた。


『今日も、なんとか…帰ってきた。水、飲んだ。偉い?』


 蒼は笑って、声に出して答えた。

「偉い。…って言うと重いか。じゃあ、よし」

 風鈴は返事をしない。返事をしないのに、胸の奥の渦が少し遅くなる。遅くなれば沈まない。


 その夜、楓からメッセージが来た。

『今の、聞こえた? 恥ずかしくて死ぬ』

 蒼は返した。

『死なない。恥ずかしいのは生きてる証拠』

『あと、返事、ちょっと好きだった。ここだけの話』

『言えよ』

『……一回だけ。生きててくれて、助かった』

『うん』


 うん、の一文字が、十秒より強いことがある。



 六月のはじめ、蒼は休みを取って楓の町へ行った。遠征というほど遠くない。けれど、海の匂いが薄くなるだけで、空の色が変わる。

 駅前で待っていた楓は、制服のようなジャケットを着ていた。先生の顔だ。でも目の奥が少しだけ柔らかい。

「来た」

「来た」

 短い挨拶のあと、楓が笑った。

「なんか、照れるね。物理で会うの」

「物理って言うな」

「言い方が好き」


 楓の部屋は小さかった。窓辺の風鈴が、昼の光に透けている。風は弱い。だから鳴らない。鳴らないのに、そこにあるだけで“戻る場所”みたいだ。

 蒼は黙って窓を開け、手で風鈴を軽く揺らした。音のあと、蒼の声が流れる。

「楓。今日、無理って言えたの、えらい」

 楓がすぐ顔を隠した。

「やめて。本人の前で流すな」

「本人の前で聞けるくらいなら、回復してる」

「腹立つ。効く」

 楓は窓辺の付箋を指で叩いた。《聞こえたら、一口水》。それから、冷蔵庫からペットボトルを一本取って、蒼に投げた。

「はい。水」

「僕が飲むのか」

「あなたも倒れそうな顔してる」


 蒼は受け取り、ひと口飲んだ。確かに喉が乾いている。人を支えると、自分が乾く。

 楓は窓の外を見ながら言った。

「ねえ、蒼。私、まだ怖い日ある」

「うん」

「でも、怖いって言えるようになった。…それ、たぶん、あなたのせい」

「僕のせいって言い方はやめろ」

「じゃあ、あなたのおかげ。……も重いか」

「重い」

「よし。じゃあ、共犯」

 楓はそう言って笑った。共犯は軽い。軽いのに、味方の匂いがする。


 帰り際、楓が小さな紙袋を渡した。中には、同じ色の風鈴がもう一つ。

「これ、あなたの窓にも付けて。返礼。風が吹いたら、私がしゃべる。…逃げないで聞け」

「命令」

「命令。今日は命令が要る日」

 蒼は頷いた。命令でも、これは鎖じゃない。通路の札だ。



 海の工房に戻った夜、蒼は自分の窓辺に新しい風鈴を吊るした。風は強い。音が鳴り、楓の声が乗る。


『蒼。今日も、作ってくれてありがとう。…それだけ』


 それだけ、が胸に効いた。説明じゃない。飾りじゃない。短くて、逃げ道のないやつ。

 蒼は作業台に戻り、新しい短冊を切った。文字は書かない。代わりに、穴を一つ多めに開けた。風が通る場所を増やすための穴。

 その穴を見て、蒼は小さく言った。

「届かないなら、届く形を作る。それだけ」


 外の風がもう一度鳴らした。ひと口ぶんの音。


 蒼は窓を閉める前に、もう一度だけ海を見た。月明かりの筋が水面に落ちて、風がその筋を細かく刻んでいる。遠くで船の音が一つ鳴る。あの音も、誰かの「帰る」の合図だ。

 蒼はスマホを取り出し、新しい録音を十秒だけ仕込んだ。言葉は短くする。短いほうが、明日まで持つ。


「楓。今日は、笑えた? 笑えなくてもいい。息が通ったなら合格。……あと、水」


 自分で言って、自分で可笑しくなった。水ばかりだ。でも水は大事だ。声は乾くと尖るし、尖ると刺さる。刺すためじゃなく、通すために声を出したい。


 翌朝、工房に子どもが見学に来た。庄司さんが風鈴を鳴らして見せると、子どもたちは一斉に笑った。笑い声は、風より速く広がる。蒼はその笑いを聞きながら、ふと思った。楓の教室でも、こんな笑いが起きているのだろうか。起きていない日があっても、いつか起きる。起こすために、楓は今日も立っている。


 蒼は作業台の端を、こつん、と叩いた。合図。焦らない。盛らない。ためらいを溜めない。

 風が鳴らす。声が乗る。届く日もあれば届かない日もある。それでも、窓辺に吊るした“置き場”がある限り、ふたりは迷子になりきらない。


 夜、風鈴が一度だけ鳴って、楓の声が落ちてきた。


『笑えた。…ちょっとだけ。だから明日も行く』


 蒼は「うん」とだけ返して、電気を消した。

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