『担当は、ひと口ずつ』
町は小さい。自転車なら、海から山まで息を切らさずに行けるくらいの小ささだ。小さい町は便利で、同時に逃げにくい。嫌な空気が出ると、風が回収せずにそのまま巡回してくる。
役場の企画課は、その“巡回”の起点みたいな部屋だった。四月の終わりから、ずっと微妙に熱っぽい。誰かが風邪をひいているわけじゃないのに、机の間を歩くと、空気が少しだけ重い。
「今年の『陽だまり市』、ステージ要るの?」
係長が、プリンターの前で腕を組んだ。
「去年は要ったって言ったの、課長ですよ」
向かいの先輩が、抑えた声で返す。
「去年は去年。今年は今年。予算がない」
「予算がないのは私のせいじゃない」
「誰もそんな話してない」
言葉の端と端が、互いをつまんで引っ張り合っている。まるで食べ終わった包装紙みたいに、くしゃくしゃで、音だけ大きい。
平尾透は、その会話の隙間に自分の席を置いていた。二十七歳。地元採用。都会に出たこともあるが、結局戻ってきた。戻った理由を聞かれると、答えを薄くして笑う癖がある。今日は笑わない。笑う余裕が、朝からない。
「透、屋台の配置、どうなった」
係長がこちらを向く。
「はい。仮の案なら」
「仮とか言わず、決めて」
言い方が、疲れている。係長も“微熱”の側だ。
陽だまり市は、町の埋立地の端にある小さな広場でやる。海風が抜ける場所で、晴れると気持ちがいい。問題は、晴れないときだ。雨だけならまだいい。風が強いと、テントも看板も、全部“飛ぶ”。飛ぶと、責任も飛ぶ。飛んだ責任は、だいたい企画課に落ちる。
落ちる前提で、みんな喋っている。だから言葉が尖る。尖ると、さらに落ちやすい。
昼休み、透は一人で給湯室に立ち、ポットのお湯を注いだ。紙コップから湯気が上がる。湯気は嘘をつかない。湯気を見るだけで、少しだけ呼吸が下がる。
「最近、部屋が熱いよね」
同僚の芽衣が入ってきて言った。芽衣は笑いながら言うのに、目の下にクマがある。
「冷房入れます?」
「冷房じゃない。なんか……心の」
「心の冷房、どこに売ってるんだろ」
「売ってたら課長が買い占める」
二人で小さく笑った。笑うと、熱が一段落ちる。
芽衣が紙コップを握りしめたまま、ぽつりと言った。
「透さ、今年の市、嫌になってない?」
「嫌だよ。そりゃ」
「正直でよろしい」
「でも、嫌だから投げるのも、嫌だ」
言ってから透は思った。嫌が二段になっている。どっちにも行けない。こういうとき、町は狭い。逃げ道が、目の前の棚に見えてしまう。
午後の会議が始まる。資料は揃っている。数字も揃っている。揃っているのに、空気が揃わない。
「風が強い予報なら中止でいいだろ」
「中止って言うのは簡単ですけど、商店会の顔が」
「顔、顔って、顔の借金で回すのやめろ」
「借金じゃない、関係だ」
「関係があるなら、手も出せ」
出せ、と言われると、手が止まる。出す手は、だいたい“担当”だ。担当は増やせるが、体温は増えない。増やすと熱が出る。今がそうだ。
透は思わず、手元の付箋を一枚抜いた。勢いでペンを走らせる。
《裏読み 本日休業》
自分で書いて、自分で噴き出しそうになる。子どもみたいだ。でも、子どもみたいな札が、今は必要だと思った。
「……透、それ何」
芽衣が見た。
「貼っていい?」
「貼るな、ふざけてるだろ」
係長が眉を寄せる。
透は息を吸って吐いた。短く言わないと、また薄くして逃げる。
「ふざけてます。でも、効きます。今、みんな裏読みして怒ってます。裏読みを止めないと、手が出ない」
部屋が一拍静かになった。静かになると、言葉が入る。
透は続けた。
「提案があります。今日の会議、いったん『食べる』にしませんか」
「食べる?」
「はい。苦いのも、固いのも、噛んで飲み込む方向」
係長が鼻で笑った。
「何言ってんだ」
「具体にします」
透は立ち上がって、ホワイトボードに四角を描いた。中に、丸を一つ。
「これ、広場です。ここに“お困りごと皿”を置きます。白い紙を用意して、各担当が“いま一番めんどいこと”を一つだけ書く。で、皿に入れる」
「愚痴大会?」
「逆です。書いたら終わりじゃない。書いたら、食べる」
透は丸を二つ描いた。
「一人一枚、くじ引きで引く。引いたやつを、その人が“噛めるサイズ”に切って、対処の手順にする。つまり、でかい塊をそのまま飲み込まない」
「……面倒が面倒を呼ぶだけでは」
課長が初めて口を挟んだ。低い声。眠そうな声。
透は頷いた。
「面倒は消えません。だから“形”を変えます。あと、ひとつだけルール。引いた人が無理なら、隣に投げていい。ただし、投げるときは『ここから先、手伝って』って言う。黙って投げない」
芽衣が先に笑った。
「それ、ちょっと好き」
係長も黙った。黙るのは、拒否じゃない時がある。頭の中で“裏読み”が止まっている時だ。
結局、採用になった。採用というより、試すしかない、という顔だった。微熱のとき、人は新しい薬に手を伸ばす。
*
当日まで、残り一週間。企画課の机の上に、白い皿が一枚置かれた。百円ショップの、軽い皿だ。軽いのがいい。重い皿だと、最初から構えてしまう。
最初に紙を入れたのは、透だった。書いたのは短い。
《音響ケーブルが毎回足りない》
次に芽衣が入れた。
《司会の台本、誰が直す?》
係長も、しぶしぶ入れた。
《雨天時の導線が死ぬ》
課長は最後まで渋っていたが、最後に一枚だけ入れた。字が小さい。
《商店会との連絡役が一人に寄ってる》
皿が、少しだけ重くなった。紙の重さは軽い。でも、書いた人の体温が少しだけ乗る。
翌朝、透は宣言した。
「引きます。まず僕が」
「お前が引くと、全部抱えるだろ」
芽衣が言う。
「抱えない。噛む」
透は皿から一枚引いた。係長の《雨天時の導線が死ぬ》だった。
「はい。でかい」
透は笑って、紙を半分に折った。
「今日の噛めるサイズにします。まず、雨の日だけの入口を一つ決める。次に、テントを二つ“風避け”に配置する。最後に、誘導札を三枚増やす。以上」
「それだけ?」
「それだけ。全部は無理。全部は当日増やす」
係長が少しだけ眉を落とした。怒りの角が削れる合図だ。
次に芽衣が引いたのは《音響ケーブルが毎回足りない》。芽衣は一拍考えて、透に言った。
「これ、私が噛む。ケーブルを買い足すんじゃなくて、借り先を二つ作る。自治会と高校」
「高校?」
「軽音部。あそこ、ケーブルの森」
二人で笑った。森、は言い過ぎでも、頼れる場所があると思うと熱が下がる。
課長が引いた紙は、《司会の台本、誰が直す?》だった。課長はしばらく黙って、珍しく言った。
「……俺が直す」
係長が目を丸くする。
「課長が?」
「俺が直す。直すっていうか、削る。長い。長いと滑る」
その一言で、部屋の空気が少しだけ軽くなった。課長が「やる」と言ったのは、それだけで事件だ。
*
陽だまり市の当日。空は薄曇りで、風は“少しだけ意地悪”な顔をしていた。テントが揺れる。旗がぱたぱた鳴く。けれど飛ばない。まだ飛ばない。
広場の端に、白い皿が置かれた。看板には、芽衣が書いた文字。
《お困りごと 一口ずつ》
透はそれを見て、笑った。タイトルが先に出来ると、現場は回る。
午前十時。来場者が増える。子どもが走る。屋台の油の匂いが流れる。ステージから音が出る。ケーブルは足りている。森のおかげだ。
ただ、風が一段強くなった。テントが大きく揺れた瞬間、誰かが叫ぶ。
「やば、あっちの看板!」
看板が倒れかけている。係長が走り、透も走る。二人で支える。支えながら、係長が苦い顔で言った。
「ほらな、風は嘘つかない」
「嘘つかないですね」
「で、どうする」
透は息を吸って吐いた。
「噛みます。ここで」
透は看板を寝かせ、ロープを増やし、重りを二つ追加した。重りは、屋台の米袋。商店会のおじさんが「持ってけ」と投げてよこす。投げるのが“助ける合図”になっているのが、今日は嬉しい。
昼過ぎ、商店会の会長が企画課ブースに来た。顔が硬い。硬い顔は、要件がある顔だ。
「透くん。悪いけど、焼きそばの列が詰まってる。苦情が来そうだ」
透は皿を見た。今さら引くまでもない。
「一口でいきます。列を二本にします。受け渡し口を増やします」
「人がいない」
「います。僕が一人、回します」
会長が眉を寄せる。
「お前、全部抱える癖あるだろ」
透は首を振った。
「抱えません。噛みます。ここから先、手伝ってください」
言った。言えた。黙って抱えない。
会長は一拍止まってから、笑った。
「……よし。じゃあ、俺が隣に立つ」
隣。たったそれだけで、列はほどけた。受け渡し口が増える。笑い声が戻る。焼きそばは相変わらず美味い匂いを撒き散らす。
夕方、ステージの最後。課長が削った司会台本は短くて、滑らなかった。子どもたちが歌う時間になった。曲は知らない。けれど声は知っている。腹から出す声だ。
透は広場の端で、その声を聞きながら、白い皿を片づけた。皿の底には、紙の端が少し残っている。誰かの“めんどい”の端っこ。小さくなって、今は持てる形だ。
係長が近づいてきて言った。
「透。今日、助かった」
「係長も助かりました」
「……裏読み、休業って札。あれ、明日も貼りたい」
「貼りましょう。休業日、増やしていい」
係長が笑う。笑うと、微熱が下がる。
帰り支度のころ、風がやっと弱まった。空の薄曇りがほどけて、夕日が一枚だけ広場を照らした。埋立地の端の、小さい広場。たったそれだけの場所が、今日は妙に大きく見える。
透は胸の内側で、ひとつだけ合図を鳴らした。
(今、ここ。まだいける)
帰り道、企画課のグループチャットに、課長から短いメッセージが来た。
『来年もやる?』
係長が返す。
『やる。……一口ずつな』
芽衣がスタンプを飛ばす。笑っている顔。
透はスマホをポケットに戻して、深呼吸した。
町は小さい。だから逃げにくい。
でも小さいなら、声も届く。隣も作れる。
明日また微熱が出ても、皿は洗ってまた置けばいい。
担当は、ひと口ずつでいい。
月曜の朝、企画課の机の上には、昨日の砂と塩が少しだけ残っていた。海の匂いは、やり切った匂いでもあるのに、同時に「また来るぞ」と脅してくる匂いでもある。
「来年のことは、来年の新人に考えさせりゃいい」
誰かが冗談みたいに言った。冗談のふりをした本音が、机の上に落ちる音がした。
透は白い皿を見た。皿の縁に、焼きそばソースの小さな点が乾いている。乾く前に拭けばよかった、という後悔は、いつも翌日に来る。
でも今日は、後悔を皿に乗せたままにしない。
「それ、言い方が雑です」
透が言うと、部屋が一瞬静かになった。
「新人に“全部”は渡さない。渡すなら一口。噛めるやつだけ。で、噛むのは俺らも一緒です」
自分で言って、ちょっと熱くなった。熱くなると恥ずかしい。恥ずかしいから、透は続けて笑いに逃げた。
「丸呑みさせたら、喉詰まります。うちの町、救急車一台しかないんで」
芽衣が吹き出し、係長も鼻で笑った。笑いが出れば、空気は回収される。
課長が珍しく頷いた。
「来年の資料、今年のうちに“切って”残す。で、誰がどれを噛むか、最初に決める」
「最初に?」係長が言う。
「最初に。最後に決めると、最後に揉める」
課長は短く言った。眠そうな顔のまま、妙に正しい。
芽衣が皿を洗いながら言った。
「さ、透。もう一枚、皿いるね」
「何用?」
「栄養用。愚痴だけ食べると、また熱出る」
芽衣はそう言って、冷蔵庫から小さなトマトジュースを三本出した。差し入れだ。赤い。見ただけで元気のふりができる色。
透は笑って、紙を一枚切った。
《今日の栄養》
そこに、三つだけ書く。昨日の“よかった”を、噛めるサイズで。
《投げてくれた米袋》
《課長の「俺がやる」》
《隣に立った会長》
書いた瞬間、胸の奥の微熱がすっと下がった気がした。熱が下がると、次の熱を怖がらずに済む。
窓の外は晴れていた。昨日の風が嘘みたいに、空が澄んでいる。太陽は、誰かが本気かどうかに関係なく昇る。でも、昇った光の下で何をするかは、人が選べる。
透は白い皿を棚の上に置いて、指で軽く叩いた。
とん、とん。
(次も、一口ずつだ)




