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短編集  作者: 科上悠羽


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『胸を叩くリズム』

 笑顔って、貼れる。剥がすときに痛いだけで。

 受付カウンターのガラスに映る自分は、ちゃんと口角が上がっていた。上がっているのに、奥歯がずっと噛み合っている。音が出ない歯ぎしりは、外から見えないぶん厄介だ。顔だけが先に「大丈夫です」を言い、体のほうが後から「待て」と言う。今日はそのズレが、皮膚の内側でむずむずしていた。


「お待たせしました。こちらの書類で間違いないですね」

 向かいの男性は頷く。頷きはいつも、確認という名の通行許可だ。許可が出ると、次の列が動く。列が動けば、仕事は回る。回るから、僕の胸の中のざらつきは、置き去りにしていいことになる。


 窓口の仕事は、毎日それだ。市役所の臨時窓口。年度末の手続きが雪崩みたいに押し寄せる季節だけ、増員される。僕の名札には「案内」と書いてある。案内という言葉は優しそうなのに、実態は交通整理だ。詰まらせない。怒らせない。泣かせない。止めない。


 止めないために、僕は止まってはいけない。

 それがいつの間にか、人生のルールみたいになっていた。


 昼休み、裏口の階段に座る。外へ出ると遠回りになるから、建物の影に風だけを通す。ポケットの中で指が勝手に胸元を探し、布越しに二回、軽く叩いた。とん、とん。誰にも聞こえない程度の合図。

(今、ここ)

 それだけで、少しだけ呼吸が下がる。下がると、胃のあたりの熱が薄まる。僕は、下げ方だけは覚えてしまった。


 踊り場には、非常灯の小さな窓がある。昼でも薄く光っている。光は弱いのに、やけに目に残る。夜になると、その光に虫が寄る。羽のある小さな影が、ぐるぐる回って、何度もぶつかって、また回る。

 あれを見ていると、胸の奥がむずむずする。似ているからだ。僕も、弱い光に寄っていく。通知の赤丸。上司の「助かる」。窓口での「ありがとう」。小さいのに、反射的に追いかけてしまうやつ。


 追いかけて、ぶつかって、また追いかける。

 その繰り返しが、ある日、かさぶたみたいに固まる。固まると、動くたびに痒い。痒いのに掻けない。掻けば剥がれて血が出るのを知っているからだ。剥がれて困るのは自分だけじゃない、と頭が言う。僕は今日も、掻きたい衝動を笑顔の裏に押し込めた。


 休憩の終わり際、同じ臨時の先輩が階段に来た。佐伯さん。四十代、声が低くて、要点だけを切り取って言う。

「今日、荒れそう。午前から空気が尖ってる」

「……列、長いですね」

「長いほど、群れになる。群れるほど、怒りが増える」

 佐伯さんは自販機の缶を手にして、淡々と続けた。

「こういうとき、謝罪だけで止めると燃える。原因を作った人じゃなくても、火の前に立つ人が必要になる。君、今日そこに立てる?」

 立てる? という問いは、励ましじゃない。現場の確認だ。

「……立ちます」

「じゃ、立つ前に一個だけ。自分の胸、叩け。自分が空っぽだと、相手の怒りが入ってきて終わる」


 胸を叩く。変な助言だ。でも僕はすでに、勝手にやっていた。だから頷いた。


 午後、窓口が一度だけ荒れた。

「おかしいだろ! 昨日はできたって言った!」

 男性が机を叩く。叩く音は、僕の胸を叩く音と違って、誰にでも聞こえる。周りの視線が集まり、空気が硬くなる。硬くなると、次に来るのは連鎖だ。怒りは群れで増える。列の後ろで、小さな舌打ちが伝染する。スマホを握る手が強くなる。そこにいる全員が、見えない綱で同じ方向へ引っ張られる。


 僕は一歩前に出た。反射で「申し訳ありません」を出しそうになって、止めた。便利な謝罪は、火種の上に紙を置く。燃え広がるだけだ。ポケットの中で指が胸に当たる。とん、とん。合図。


「確認します。三分ください」

 自分の声が、思ったより低かった。三分、と言った瞬間、列の人たちの足が少し止まった。止まると呼吸が戻る。呼吸が戻ると、言葉が戻る。

 男性は苛立ったまま頷いた。頷きは、まだ話ができる合図だ。


 確認の結果、昨日の案内が誤りだった。僕のミスじゃない。でも現場の顔は僕だ。僕が「違いました」と言えば、誰かが僕を嫌いになりそうで怖い。怖いのに、言わないと次の人が詰まる。詰まると、別の誰かが泣く。泣くと、僕の胸のかさぶたがまた痒くなる。


「昨日の説明が間違っていました。こちらが正しい手順です。今日ここで、最後まで一緒にやります」

 僕が言うと、男性の眉の角が少し落ちた。落ちる眉は、怒りが“人”に戻る兆しだ。

「……最初からそう言えよ」

「はい。最初から言います」

 言えた。謝って終わらせない言い方が、僕にもできた。列の後ろで誰かが小さく息を吐く。硬い空気が一段だけ緩む。


 終業後、名札を外す。シャッターを下ろす音が、ようやく自分に戻る合図になる。

 更衣室で鏡を見ると、笑顔の糊が少し剥がれていた。剥がれた顔は疲れている。でも、生きている顔でもある。ポケットの中の指をもう一度、胸に当てる。とん、とん。

(今日、変だった)

 変、という言葉は曖昧だ。でも曖昧なままでも、胸は正確に鳴る。鳴っているなら、何かがおかしい。


 帰り道、駅前の小さな公園を抜けると、野外ステージの看板が立っていた。商店街のイベントで、今夜だけ“誰でも三分”の枠があるらしい。マイク一本。照明二つ。客席はベンチが三列。公園の木が、適当に天井を作っている。

 僕は立ち止まった。止まると、いつもの癖が出る。やめておけ。目立つな。疲れてるだろ。家に帰れ。正しい声が、順番に並ぶ。正しさの列は、いつも丁寧だ。だから厄介だ。


 僕はその列を、胸の内側で見送った。代わりに、別の声を拾う。

(歌ってみたい)

 昔、ギターを抱えていた。高校の文化祭で、ステージに立った。ライトが眩しくて、指が震えて、コードを一回盛大に間違えた。それでも拍手が来た。拍手の音で、心臓のテンポが少しだけ揃った。あの日、僕は初めて「生きてる音」を外に出せた気がした。


 その後、バンドは解散した。進学、就職、忙しさ。理由は全部正しい。正しい理由は、夢を畳むのに便利だ。畳んだ夢は小さくなる。小さくなると、押し入れの奥に入る。奥に入ると、存在しないことにできる。

 僕は存在しないふりが上手くなった。上手いぶん、胸の内側だけが増えていった。増えたぶんだけ、たまに溢れる。今日がそれだ。


 ステージの横に、受付のテントがあった。紙の申込書。ペン。出演順の札。ボードの上には、ふざけた注意書きが一行。

『上手い下手は、当日どうでもよくなります』

 どうでもよくなる、が今の僕には救いだった。上手さで勝負したくない。けれど、黙り続けるのはもう飽きた。


 僕は名前を書く欄で止まった。名札の文字は、今日は外したばかりだ。代わりに、ひらがなで小さく書いた。自分の名前の“音”だけ。音なら、まだ持てる気がした。受付のお姉さんが笑う。

「本名ですか?」

「……音だけ、です」

「いいですね。音だけの人、結構います」


 順番が回ってくるまで、ベンチで待つ。待っている間、ステージの明かりに小さな虫が集まってきた。ぐるぐる回って、たまにライトの縁で弾かれて落ちる。落ちた虫は、芝生の上でしばらく動かない。死んだのかと思うと、また動き出す。

 僕はその小さな復帰に、なぜか励まされた。人間の復帰はもっと遅い。でも、遅くてもいい。遅いまま歩けるなら、十分だ。


「次の方、どうぞー」

 呼ばれて立つ。三分。短い。短いから逃げられない。逃げられないから、本気になる。

 マイクの前に立つと、ライトが眩しい。客席は少ない。なのに胸がうるさい。心臓が、勝手にテンポを刻む。とん、とん、とん。僕はそのテンポを、歌の始まりにした。


 言葉は選ばなかった。選ぶと整えたくなる。整えると嘘になる。今日、僕が欲しいのは正解じゃなくて、呼吸だ。

 歌ったのは、今日の僕の話だった。走っているふりをして止まっていること。笑っているふりをして噛みしめていること。弱い光に寄って、何度もぶつかること。それでも、胸の中に小さな「変だ」が残っていること。変だ、は恥ずかしい。けれど恥ずかしいまま出したほうが、嘘にならない。


 最後の音が消えたあと、拍手がまばらに起きた。大きくない。けれど安っぽくもない。拍手の間に、子どもの笑い声が混じった。木の上の鳥が一羽、驚いて飛んだ。ライトに寄っていた虫が、一斉に散る。

 それが、妙に嬉しかった。世界は僕の歌で変わらない。でも、僕の呼吸は変わった。胸の中の渦が、少しだけ遅くなった。


 ステージを降りると、受付の女性が小声で言った。

「今の、刺さりました。私、今日ずっと笑って疲れてたんで」

 笑って疲れる。僕と同じだ。

「……おつかれさまです」

 僕が言うと、女性は笑って頷いた。頷きは、ここでも通行許可だった。


 公園を出ると、夜の風が冷たい。駅へ向かう人の流れが、相変わらず速い。僕もその流れに乗れる。けれど今日は、流れに飲まれないで歩ける気がした。非常灯の窓を思い出す。弱い光。寄ってくる虫。ぐるぐる回る影。

 でも今日は、ぶつかる前に一回だけ、胸を叩けた。とん、とん。

(待て)

 それは誰かに向けた命令じゃない。自分を止めるための札だ。札があると、群れの速度に引っ張られすぎない。


 コンビニで小さい肉まんを買う。熱い袋を握ると、指先が現実に戻る。ついでに、明日のための喉飴も買った。自分に甘いのは照れる。でも、照れながらやるほうが続く。


 部屋に帰ると、窓を少し開けた。夜風が入ってくる。机の上のメモ帳に、短く書く。


《今日の歌:止まっていい》

《明日の僕へ:笑顔の下で、胸の音を聞け》


 書いてから、もう一行足したくなった。足すと大げさになる。でも今日は大げさでもいい日だ。

《夢は、踏まれたくない》

 書いて、すぐ自分で笑った。子どもみたいだ。でも、子どもみたいな言葉が胸の奥に残っているなら、僕はまだ終わっていない。


 翌朝、窓口へ向かう途中、昨日の男性がふいに頭をよぎった。怒っていた人。眉が落ちた人。最後に「最初から言えよ」と言った人。

 僕はその言葉を、悪口としてじゃなく、合図として受け取り直した。最初から言え。最初から、止まれ。最初から、胸を叩け。


 受付カウンターのガラスに映る自分に、今日は少しだけ別の顔が混じっていた。貼った笑顔の下で、歯ぎしりをする前に、胸のテンポを聞く顔。

 僕は名札を付け、列の前に立つ。列は今日も長い。長いけれど、昨日より怖くない。胸の中に、三分の歌が残っているからだ。


 遠くで、非常灯の窓が薄く光っている気がした。弱い光は、虫だけじゃなく、人間にも必要だ。ぶつかってもいい。回ってもいい。胸を叩けるなら、戻れる。

 僕は一度だけ、ポケットの中で指を鳴らした。とん、とん。

(行ける日もある。行けない日もある。だから、今日の分だけ)


 午前の列が少し落ち着いたころ、若い職員が小走りで来た。隣の窓口の子だ。名札の角がまだ固い。

「すみません、あの……怒ってる方がいて、何て言えばいいか」

 僕はその顔を見て、昨日の自分を思い出した。笑顔を貼る前の、呼吸が浅い顔。

「まず水、飲める?」

「え、今ですか」

「今。喉が乾くと、言葉が尖る」

 彼女は戸惑いながら紙コップを一口飲んだ。それだけで肩が一段下がる。


「次に、三分って言う。謝る前に、三分」

「三分……」

「うん。確認の時間を作ると、怒りが“群れ”になる前に足が止まる」

 僕はポケットからメモ帳を出して、短く書いた。

《胸:とん、とん》

「それ、何ですか」

「自分の合図。焦って相手の声が全部入ってきそうなとき、二回だけ叩く。今ここ、って戻る」

 彼女は笑いそうになって、真面目に頷いた。「やってみます」


 午後、彼女の窓口から「確認します、三分ください」という声が聞こえた。声は震えていた。震えているのに、止まらない。止まらないのは、勇気じゃなく手順だ。僕はガラス越しに、胸の内側で小さく拍手した。


 帰り道、昨日の公園の前を通る。ステージは片づけられて、木だけが残っている。ライトは消えているのに、非常灯の窓みたいな淡い明かりが、遠くでひとつだけ揺れていた。

 僕はその明かりに向かって、声にしない鼻歌を一節だけ置いた。歌詞のない、息だけの歌。

 息が通るなら、それでいい。今日の僕は、まだ回れる。ぶつかっても、戻れる。

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