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短編集  作者: 科上悠羽


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『未送信のまま、息をほどく』

 連絡先の一覧で、彼女の名前だけが妙に明るい。画面の白さのせいじゃない。指先がそこだけ避けて通ろうとするから、余計に光って見える。


 瑞希――と打つ。打って、消す。もう一度打つ。打ったまま、通話ボタンの手前で止まる。駅のホームを渡る風が冷たくて、スマホが薄い氷みたいに思えた。


 「終わらせたんだろ」

 「これで良かったんだろ」


 声に出してないのに、胸の内側で誰かが囁く。自分の声に似ているのが厄介だ。


 僕は、こういう「止まる」をたくさん持っている。玄関で靴を揃える前に止まる。返信ボタンの前で止まる。鍋の火を弱める前に止まる。止まっている間に、正しい言葉を探す。探しているうちに、時間が先に行く。時間に置いていかれそうになると、僕はいつも“整える”へ逃げる。


 瑞希と暮らしていた頃も、同じだった。


 彼女が冷蔵庫に貼ったメモは、三行だけだった。


 一、今日のよかった

 二、今日のやだ

 三、明日のお願い


 僕はそれを「家計簿みたい」と笑って、内心で安心していた。やり方があると、怖さの出口が見えるからだ。けれど本当は、三行で済むうちに言わなきゃいけないことがあった。


 たとえば、彼女が転職の話を持ってきた夜。


 湯気の上がる味噌汁の向こうで、瑞希は目を光らせた。「受かった。研修があって、二週間だけ向こうに行く」――たった二週間。なのに僕の胸の奥では、何かが決定したみたいに音がした。決定、は怖い。怖いから、僕は便利な盾を出した。


 「危ないよ」


 たった四文字で、彼女の足首に細い糸を巻いた。守るための糸のふりをした、僕の不安の処理だった。


 瑞希は笑わなかった。笑わない代わりに、湯気の冷めた味噌汁を見て「へえ」とだけ言った。へえ、は刃物より静かな拒否だと、そのとき初めて知った。


 それでも翌日から数日、部屋は普通だった。普通の鍋、普通の洗濯、普通のテレビ。普通が続くと、人は「壊れてない」と勘違いする。僕は勘違いしたまま、彼女の心の引っ越しを見送った。


 研修に出る前夜、瑞希はキャリーケースを開けたまま、ソファに座っていた。僕はそれを見て、「手伝う?」と聞けなかった。聞いたら、止めたくなる気がしたからだ。代わりに、洗い物を丁寧にした。丁寧さは、ときどき逃げだ。


 寝る前に、彼女がぽつりと言った。


 「私ね。あなたの優しさ、好きだったよ」

 「……うん」

 「でも、好きだけだと、息が詰まる日がある」


 そこで僕は「ごめん」と言えば良かったのに、言えなかった。ごめんは便利すぎて、彼女が嫌いだった言葉だと知っていたから。便利だから嫌い、というのも変な話だけど、彼女はそういう人だった。だから僕は、別の言葉を探して止まった。止まったまま、時間が寝落ちした。


 翌朝、玄関の靴は揃っていた。揃った靴は、終わりの丁寧さだ。テーブルには付箋が一枚。


《湯気のある部屋、好きだった。だから、ちゃんと換気してね》


 換気。彼女は冗談みたいに僕をからかう。僕が設備点検の仕事をしているからだ。あの人の冗談は、いつも少しだけ優しい。優しいのに、置いていく。


 その日から僕のポケットは、よく震えるようになった。彼女からの連絡じゃない。仕事の通知が増えただけだ。なのに僕は、震えるたびに一瞬だけ期待してしまう。期待した自分に腹が立つ。腹が立つと、余計に眠れない。


 眠れない夜に、僕はよくボイスメモを再生した。昔、瑞希が好きだと言ってくれたやつ。僕の歌。上手くない。腹から出ていない。声だけが頑張っている。だからこそ、彼女は笑いながら言った。


 「それ、いい。下手なのに、作り物じゃない」


 作り物じゃない。あの言葉だけが、いまだに僕の胸に刺さっている。


 改札を出ると、夕方の交差点がせわしなく回っていた。信号、歩行者、車の列。全部が「前へ」の顔をしているのに、僕だけが一歩遅れている。


 ポケットが震えた。メール。仕事の確認。返信が遅れたら、また誰かが困る。いつもの癖で、僕はすぐ画面を開いて、指を動かした。


『確認に5分ください。整えて返します』


 送信。息を吐く。仕事の息は、吐けば回る。生活の息は、吐くだけじゃ回らない。


 ――だから、また名前の画面に戻ってしまう。


 瑞希。彼女の頭文字だけ打って、途中でやめる。発信欄の手前で閉じる。そんな動作を、僕は何回繰り返しただろう。回数が増えるほど、手は慣れる。慣れるほど、心が遅れる。


 交差点の赤信号で人の流れが止まり、視界が開く。そこで、瑞希が立っていた。薄いコート。髪は少し短くなっている。隣に男の人。肩が近い。ふたりの距離が、当たり前みたいに馴染んでいる。


 僕の喉が乾く。乾くと、脳が勝手に映画を再生する。

 「気づくな」

 「見つけるな」

 「見つかったら、終わる」


 でも目は勝手に見つけてしまう。彼女が笑った。僕に向けてじゃない笑顔。見せたことのない角度で、隣の人に笑った。


 胸の奥が、ずるっと滑った。

 滑ったのに、倒れない。倒れないのがいちばん苦しい。倒れれば「痛い」で終われるのに、痛みのまま立っていなきゃいけない。


 信号が青になり、人が動く。瑞希たちも動く。流れの中に吸い込まれていく背中。背中を追いたくて、足が一歩出そうになる。出たら、もう戻れない気がした。


 僕はその場で、ポケットの中の指を二回こつんと叩いた。自分に合図する癖。今は映画に入るな、の合図。


 深呼吸。吸って、吐く。

 吸うと、昔の匂いが混じる。彼女のシャンプー、コンビニの揚げ物、夜更かしの部屋。吐くと、それが少し薄まる。薄まるだけで、消えない。消えないものは、置き場が要る。


 僕は歩き出した。交差点を渡らずに、一本裏の細道へ。逃げではない、と言い訳したくなる。けれど今日は言い訳を増やしたくなかった。裏道は、ただ人が少ない。それだけで呼吸が通る。


 路地の端に、小さなライブバーがある。看板は薄暗く、店の前だけがいつも微妙にうるさい。中から、誰かの歌が漏れてくる。上手いか下手かじゃない。今夜ここにいる人の声だ。


 その声を聞いた瞬間、僕は思い出した。瑞希が好きだったのは、僕の歌の上手さじゃない。僕が「歌おうとするところ」だった。下手でも、冴えなくても、腹の底から出そうとするところ。


 僕はバーに入らず、店の外の段差に腰を下ろした。スマホを開く。瑞希の名前。通話ボタン。押せない。代わりに、メッセージの画面を開いた。


 文面を打っては消す。

『元気?』

違う。軽すぎる。

『会いたい』

重すぎる。

『ごめん』

便利すぎる。

『今さらだけど』

逃げ道の匂いがする。


 結局、いちばん小さい言葉だけが残った。


『あのとき、止めたのは怖かったからです。君の幸せを邪魔したくない。けど、あの温度は作り物じゃなかった。ありがとう』


 送信ボタンの上で、指が止まる。送ったら世界が壊れる気がした。送らなかったら、自分が壊れる気がした。二択はいつも、どっちも怖い。


 そのとき、ポケットが震えた。今度は彼女からだった。件名だけが表示される。


「元気にしてる? 急に思い出しただけ。返事は、無理しなくていいよ」


 画面が滲んだ。涙じゃない。目が乾きすぎて、水分が遅れて追いついただけだ。遅れて追いつくのが僕らしい。


 僕は笑った。笑って、いったん打った長い文章を全部消した。今夜は、長い言葉で彼女を引き止めたくない。代わりに短くした。短いほうが、本気になる。


『元気じゃない日もある。でも生きてる。思い出してくれてありがとう。君も元気で』


 送信。胸の奥の渦が、少しだけ遅くなる。消えない。けれど、渦の真ん中に空気の穴が開く。穴があると、沈まない。


 瑞希の返事はすぐ来た。


「それなら十分。じゃあ、今夜はそれで。おやすみ」


 十分。そう言われると、初めて「足りないままでもいい」と思えた。愛は、正しさの証明じゃない。続いたかどうかでもない。あのとき確かにあった体温のことだ。


 僕は立ち上がり、バーの扉を少しだけ開けた。中の音が膨らむ。誰かが拍手している。誰かが笑っている。僕の番じゃないのに、僕も息が楽になる。


 受付の人が「お一人ですか」と聞いた。僕は頷き、席に座る。ステージの上で、さっきの人が歌っている。歌詞は聞き取れない。けれど、声が「今」を運んでいる。


 次の出演者を募る札が回ってきた。三分だけ、という紙。僕は思わず手を挙げかけて、止まった。止まったまま、ポケットの中で指を二回こつんと鳴らす。合図。今の僕は、やれるか。


 やれる。大きくは無理。でも小さくなら。


 僕は札に丸をつけた。ステージへ上がる前に、喉が乾く。乾いた喉は、嘘をつけない喉だ。


 マイクの前で、僕は一言だけ言った。

「上手くないです。今日は、息を通しに来ました」


 それから、短い歌を歌った。言葉は曖昧で、メロディも怪しくて、でも腹の底から出した。拍手は大きくない。けれど、笑いが一つだけ混ざった。瑞希が好きだったのは、たぶんこういう種類の笑いだ。


 ステージを降りると、隣の席の人が言った。

「今の、良かったですよ。なんか……正直で」

 正直。僕は小さく頭を下げた。頭を下げるのは、みっともないんじゃない。受け取ったものを落とさない手順だ。


 外へ出ると、雨の匂いが少しだけ残っていた。交差点はまだ回っている。回っているなら、僕も回れる。遅くてもいい。渦の外側へ、ちゃんと歩けばいい。


 帰り道、コンビニで変なパンを一つ買った。袋の中で、紙が擦れる音がした。懐かしくて、可笑しくて、僕は小さく笑った。


 家に着くと、部屋は静かだった。静かで、でも窒息はしない。窓を少し開ける。夜風が入ってくる。換気。瑞希の置き土産みたいな言葉を、今日はちゃんと実行した。


 スマホを伏せ、メモ帳に短く書く。


《未送信の愛は、未回収じゃない。》

《今夜は、息が通った。》


 布団に入る前、僕は一度だけボイスメモを再生した。あの、下手な歌。前は聴くたびに胸がざらついて、最後まで聴けなかった。今日は、最後まで流した。上手くならない声が、途中で息を吸い直すところが、妙に愛おしい。あれは当時の僕の精一杯で、精一杯は嘘じゃない。


 再生を止めて、ファイル名を変えた。派手な名前は付けない。重くなるから。フォルダも新しく作った。


《置き場》


 そこへ入れる。捨てない。抱えもしない。置く。置けるなら、生活は回る。


 連絡先の瑞希の名前も、そっと変えた。フルネームじゃなく、頭文字だけ。光りすぎないように。忘れるためじゃない。突然光って、僕がまた渦に飲まれないための手順だ。


 翌朝、いつもより五分早く家を出た。五分は、走らずに作れる余白だ。交差点の信号待ちで、僕は昨日と同じ場所に立った。昨日の瑞希はいない。代わりに、スマホに頭を下げているスーツの人がいた。昔の僕なら、心の中で笑っていたかもしれない。今日は笑わなかった。代わりに、胸の内側で小さく言った。


(掴みにいってるんだな)


 青になって、人が動く。僕も動く。歩いても世界は壊れない。渦が回る日は来る。でも、息の穴が一つあるなら沈まない。


 会社に着く前、僕は自分にもう一枚だけ許可を出した。


《今日は、急がない。まず整える》


 昼休み、スマホが一度だけ震えた。短い通知。瑞希からの一行だった。


「昨日、返信ありがとう。変な時間にごめんね。無理はしないで」


 僕は画面を見て、すぐに返さなかった。すぐ返す癖は、相手の温度を拾い損ねるからだ。水を一口飲んでから、短く打つ。


『大丈夫。じゃなくて、今日は整えながら行く。瑞希も、いい一日を』


 送信して、ポケットに戻す。胸の奥で、渦がまた少しだけ遅くなった。


 僕は指先で机を一度こつんと叩き、今日の息を確認した。


 あれは作り話じゃなかった。だからこそ、今はちゃんと前へ行ける。

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