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短編集  作者: 科上悠羽
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『余白に落ちる言葉』

 たぶん、正しいんだろうな。そう思ってしまうのが、もう負けに近い。

 朝の改札で、志摩しま春人は定期入れをかざしながら、横で靴紐を結び直す彼女を待った。人の流れは急で、背中が次々に押してくる。けれど彼女は焦らない。焦らないふりじゃなく、本当に焦らない。そういうところが、ずるいくらい胸に残る。


「お待たせ。……あ、今日は早いじゃん」

 隣に並んだのは、篠宮しのみや紗良。会社の同期で、昼休みにも帰り道にも、気づけば同じ景色にいる人。

 紗良は春人の肩に軽く拳を当てて、笑った。痛くないのに、ちゃんと当たる笑い方。

「恋人でもできた?」

 それ、また来た。春人の中で反射的に“場を丸くする返事”が組み上がる。笑えば会話は転ばない。転ばなければ、距離は保たれる。

 ……なのに、その一言は、ときどきホッチキスの針みたいに残る。刺さらない場所を選んで打たれるから、抜くタイミングが分からない。


「できたら苦労しない」

「はいはい。じゃ、作りな?」

「命令形やめて」

「命令じゃないよ。助言。ほら、世話焼きの顔してるでしょ、私」

 自分で言って自分で頷くのが紗良らしい。春人は「そうだね」と返して、ホームへ向かった。


 電車に揺られながら、春人はスマホのメモを開く。タイトルは「言いそびれ」。中身は短い文の墓場だ。

 “今の、その笑い方が好き”

 “同じ景色にいるのが嬉しい”

 “君の隣が落ち着く”

 “今日も無事でよかった”

 どれも、送信先がない。送信先があるのに、送れない。たぶん彼女の笑いが、いちばん近い壁だから。


 紗良は気づいている気がする。いや、気づいていないほうが不自然だ。春人が視線を外すタイミングも、沈黙が長くなる瞬間も、彼女は一歩だけ引いてくれる。

 たとえば飲み会。終電間際に二人きりになりそうになると、紗良は必ず誰かを巻き込む。「このまま帰る?」「あ、先輩も同じ方向じゃん」みたいな、自然な手つきで。

 たとえば席。隣ではなく、必ず斜め前。触れない、でも視界には入る、絶妙な位置。

 その線が、優しさなのか、拒否なのか、春人には判別できない。ただ一つ分かるのは、その線を越えそうになるのはいつも自分だということだ。


 会社に着くと、午前中は数字とメールで潰れた。昼、社内の売店でコーヒーを買うと、紗良がいつものように現れる。

「その顔、寝不足。夜更かし?」

「ちょっとね」

「ちょっとの夜更かしは毒。……って誰か言ってた」

 紗良は笑いながら、春人のカップに自分の砂糖を一つ落とした。

「甘くしときな。今日は会議で心が削れる日だし」

「予言やめて」

「予告だよ。私、当てるの得意」

 言いながら紗良は、自分のカップを指で二回、こつこつと叩く。癖だ。考え事がある時ほど回数が増える。春人はその癖まで覚えていて、覚えていることを言えない。


 当たった。会議で春人は軽く詰められ、軽くへこみ、軽く笑ってやり過ごした。軽いふりをするほど、帰り道の足は重くなる。

 帰り際、デスクに戻ると紗良がメッセージを送ってきた。

『顔、紙。帰り、栄養。あと睡眠』

 “紙”という単語が、妙に救いだった。笑われているのに、見捨てられていない感じがする。


 駅までの道で、紗良がふいに言った。

「春人さ、最近、笑い方が上手になったよね」

「褒めてる?」

「褒めてない。上手になるものじゃないから」

 春人は足を止めかけて、やめた。止まると、言葉が出る気がした。出ると、線が割れる気がした。

「……じゃあ、下手に戻す」

「戻すな。戻すなら睡眠」

 紗良はいつもの調子で、いつもの距離で言う。肩は触れない。けれど視線だけが、少し心配そうに留まる。


 夜、布団に入っても眠れなかった。眠れない時、脳は勝手に最悪を作る。

 紗良が遠い部署に異動する。あるいは、誰かと付き合う。春人に相談もせず、当然のように生活の外側へ移っていく。

 夢の中で、春人は人混みの駅にいた。改札の向こうに紗良の後ろ姿が見えて、呼ぼうとするのに声が出ない。喉にガムが詰まったみたいに、音だけが潰れる。彼女は振り返らないまま、波に飲まれて消える。

 そこで目が覚めた。胸が重い。現実になりそうで、嫌な重さだ。

 春人は起き上がって、暗い部屋の中でメモを開いた。書きかけの文を一つ削除して、代わりに“消えないで”とだけ打った。送れないのに、打つ。打たないと、息が詰まる。


 翌日、春人はいつもより早く家を出た。早く出ても、言えることは増えないのに。

 改札前で待っていると、紗良は小走りで来た。息が白い。

「ごめん、遅れた。……その後どう? 昨日の会議」

 何も言っていないのに、知っているみたいな聞き方。春人は笑ってしまった。

「どうして分かるの」

「顔。あと、靴の音。へこんでる日は歩幅が変」

「靴の音まで監視しないで」

「監視じゃない。観測。私は観測者です」

 紗良は胸を張る。ふざけているのに、妙に真面目だ。


 ホームで電車を待つ列に並んだ時、紗良が急に視線を泳がせた。指先がコートのボタンをいじる。さっきの癖より速い。

「ねえ、今日さ。帰り、ちょっと時間ある?」

 春人の心臓が一回、余計に鳴る。

「あるけど」

「じゃ、商店街の方。……相談、したい」

 相談。その言葉だけで春人の頭は勝手に選択肢を増やす。新しい恋の相談。異動の相談。愚痴。どれでもありそうで、どれでも怖い。

 怖いのに、春人は「うん」と言った。ここで断るのは、もっと怖い。


 夕方、約束の場所で紗良は紙袋を抱えて待っていた。中から、薄い長方形の箱が覗く。

「それ、なに」

「新商品。……という名の、試作品。うちの部署で作ってる、メッセージカードセット」

 紗良は箱を取り出し、春人に差し出した。白い箱に、小さく「余白」とだけ印刷されている。触ると、紙がほんの少しだけざらつく。高級そうでもないのに、真面目な手触り。

「余白?」

「うん。カードに、言いそびれた一言を書くの。で、封をして、相手に渡す。……ってコンセプト」

 春人の喉が乾いた。世界が急に、自分に向けて仕掛けてきたみたいだ。


「……それ、売れるの?」

「さあね。売れなくてもいい。私は、これを作りたかった」

「なんで」

 紗良は箱の角を指でなぞって、笑うのをやめた。

「私ね、人の“言いそびれ”が、ずっと気になってた。冗談で流したり、喉の奥に押し込んだりして、あとで一人で苦しくなるやつ」

 春人は息を止めた。耳の奥が熱い。


「……誰の話」

「誰、っていうか……目の前の人」

 紗良はそう言って、春人の手のひらに箱を乗せた。

「春人さ。私、気づいてたよ。気づいてないふりをしてた。だって、気づいたって言ったら、あなたが笑えなくなるでしょ」

「……笑えなくなる」

「うん。あなた、笑ってやり過ごすの上手だから。上手って、才能じゃなくて癖」

 刺さる言葉なのに、刃がない。紗良の言葉は、切るんじゃなくてほどくためにある。


 春人は箱を抱えたまま視線を落とした。言葉が上がってくる。上がってくるのに、出口がない。出口があるのに、怖い。

「じゃあ、なんで……距離」

「保ってた」

「うん」

「……嫌だった?」

 紗良は首を振った。

「嫌じゃない。むしろ、うれしい。……でも、怖かった。答えを出さなきゃいけない空気になるのが」

「答え、って」

「友だちを失うかもしれない答え」

 紗良は視線を落として続けた。

「昔ね、近い人に、急に“答え”を迫られたことがあって。『今ここで決めて』って。決められなくて、そのまま連絡も途切れた。……私、ああいうの、二度と嫌」

 軽く言っているのに、指先が少し震えていた。春人はその震えに、勝手に救われる。震えるのは、真面目な証拠だ。


「私、今すぐ『はい』とか『いいえ』とか言えない。気持ちって、そういう単純な箱じゃないんだよね」

「……うん」

「でもね」

 紗良は紙袋から、もう一つ同じ箱を出した。自分の分らしい。

「手順なら作れる。今日、ここで。逃げない手順」


 商店街のベンチに並んで座った。人通りは少なく、焼き鳥の匂いが少しだけ漂う。紗良がペンを二本渡してくる。ペンの軸が温かい。たぶん、彼女がポケットで握っていた。

「一枚ずつ書こ。内容は自由。……言葉は短くていい」

 春人は笑った。

「短いほうが苦手なんだけど」

「じゃあ一行。苦手なことをやると、人は少し生き返る。私の持論」

「雑だな」

「でも効く。私、これで何人か救ったことある。主に自分」


 カードを取り出す。真っ白な紙は怖い。真っ白だから、何でも書ける。何でも書けるから、責任が出る。

 春人は最初、“ありがとう”と書きかけた。違う。次に“そばにいたい”と書きかけて、線で消した。心の中では言えるのに、紙に載せると急に重くなる。

 息を吸って吐く。呼吸だけは嘘をつかない。

 書けたのは三つの単語だった。

 “大切”

 “隣”

 “失くしたくない”


 封をして、紗良に渡す。紗良も同じように封をして、春人に渡す。

「同時に開ける?」

「……怖い」

「だよね。じゃあ、数える。三、二、一」


 春人は封を開けた。紙を引き出す。紗良の字は少し丸い。

 “あなたの笑い方”

 “守りたい”

 “でも、私も欲張り”


 春人はその“でも”で、胸の底が少し明るくなるのを感じた。明るいのに、泣きそうだ。

「……ずるい」

「ずるいのはお互い」

 紗良は自分のカードを読んで、ふっと目を細めた。

「『失くしたくない』、って書けるの、強いよ」

「強くない。怖いから書いた」

「怖いって言えるのが強い」

 言い返せなくて、春人は笑った。今度の笑いは、やり過ごすためじゃなく、息を通すための笑いだった。


 紗良はベンチの背もたれにもたれて、空を見上げた。

「ねえ。これ、続けない? 余白の箱」

「なにそれ」

「一週間に一回、カード一枚。言いそびれを溜めない。冗談で流し過ぎない。苦しいのを一人で抱えない」

「……続けたら、いつか答えが出る?」

「出るかも。出ないかも。でも、少なくとも、黙って消えることは減る」

 春人は、夢の中の駅を思い出した。呼べないまま、背中が遠ざかるやつ。

 減るなら、十分だった。


 紗良が急に立ち上がった。

「よし。じゃ、第一回の締め。甘いもの食べよ」

「急に現実」

「現実は甘さがないとやってられない。はい、移動」

 商店街の小さな喫茶店に入り、二人で同じプリンを頼んだ。店主が「スプーン二本ね」と迷いなく出す。こういう迷いのなさが、今はありがたい。


 プリンを一口食べた紗良が言う。

「さっきの三つの単語さ」

「うん」

「順番、逆のほうが良くない?」

「順番?」

「“失くしたくない”が先。次に“隣”。最後に“大切”」

「……なんで」

「いちばん言いたいこと、先に置く練習。あなた、いつも最後に置くから」

 紗良は笑う。春人も笑う。笑いが同じ速度で出ると、世界が少しだけ揃う。


「じゃあさ」春人が言った。「次は、俺も一行にする」

「えらい」

「その代わり、紗良も一行にして」

「私、長文派なんだけど」

「癖だよ、それ」

「うわ、刺してくる」

「刺してない。観測」

「やめろ、その単語」

 紗良は指でテーブルをこつこつ叩いてから、ふっと止めた。

「合図、決めよ。私たち用の」

「合図?」

「言葉が詰まったら、メッセージで“余白”って送る。そしたら、その週のカードは前倒し。逃げないための小技」

「小技ばっかりだな」

「大技は怖いから小技で積むの」

 春人は頷いた。積む、という言い方が好きだった。消える話じゃなく、残る話になる。


 店を出て駅へ歩く。並ぶ歩幅が、今日は少し揃っている。途中、風が強くて紗良の前髪が崩れ、彼女が「やだ、顔が終わる」と言う。春人が笑うと、紗良はむっとしてから、自分も笑った。

 こういう、くだらない瞬間が、いちばん失くしたくない。


 改札の前で別れる時、紗良が手をひらひらさせた。

「また明日。……遅れないでよ」

「遅れない。たぶん」

「その“たぶん”が弱い」

「じゃあ、言い切る。遅れない」

「よし」


 春人はホームへ降りる階段の途中で、もう一度メモを開いた。「言いそびれ」のページに、新しい行を追加する。

 “言葉は、余白に落としてから渡せばいい”

 送信先は、まだ確定じゃない。けれど、今日の彼には一つだけ確かなことがある。

 喉の奥にしまって終わりにしない。小さくても、紙に置く。目の前に渡す。


 帰宅してから、春人は初めて“送信”をした。短いメッセージ。

『明日、遅れない』

 すぐに返事が来る。

『言い切れて偉い。おやすみ、観測者じゃない人』

 春人は笑って、スマホを伏せた。息が、ちゃんと通る。

 それだけで、夢の駅は少し遠ざかる気がした。


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