『ジャンプの証明写真』
会社の自動ドアは、いつだって元気よく開く。こちらの心拍数など知らん顔で、ぱあっと光を入れてくる。
月曜の朝九時、真琴はその無邪気さに負けて、いきなりつまずいた。段差はない。気持ちだけが転んだ。
「真琴くん、これ。今日中」
机に置かれたファイルは、厚みだけで胃を鳴らす。さらに上から、追い打ちの一言。
「あとさ、先週の件。あれ、ちょっと…いや、だいぶ良くなかった」
係長の声は丁寧で、内容は容赦がない。丁寧な容赦のなさほど、背中の骨に刺さる。
真琴は「すみません」と言った。言いながら、心の中で別の言葉が湧く。
無理。無茶。もうやめたい。
でも言わない。言うと、そこで話が終わる気がするからだ。終わらせたいのか、終わらせたくないのか、自分でも分からないのに。
昼休み、コンビニの駐輪場でホットコーヒーを買い、缶の熱で手を温めていると、背後から肩を叩かれた。
「顔、紙みたい」
振り向くと、同じ部署の美緒が、パンの袋をぶら下げて笑っていた。美緒はいつも“笑ってる側”の人間だ。笑うのが仕事じゃなく、呼吸みたいに出る。
「紙じゃない。人だ」
「紙でもいいけど、折れたら困るやつ。ねえ、今日、帰り寄れる?」
「残業確定」
「確定を確定させるの、好きだね」
「現実は好きじゃない」
「じゃあ現実にちょっと穴、開けよ。十五分だけ」
十五分。便利な単位だ。十五分なら、人生は変わらない気がする。だから引き受けてしまう。
「…どこ」
「商店街の端。例の、変な店」
例の変な店。
それだけで、真琴は思い出してしまった。駅前の古いアーケードの外れにある、妙に清潔な小さな写真館。看板には大きく「ジャンプ」とだけ書いてある。証明写真の店なのに、なぜか“跳ぶ”ことを推してくる店だ。
「やだよ、あれ。恥ずかしい」
「恥ずかしいをやると、少しだけ生き返るよ」
「雑な理論」
「でも効く。ほら、紙みたいな顔がちょっと動いた」
その日の残業は、確定が確定になった。ファイルは厚く、メールは増え、係長の「確認できた?」は三回飛んできた。
最後にコピー機が紙詰まりを起こして、真琴はコピー機にだけ本気で怒りそうになった。怒る相手が機械なのが、また情けない。
時計が二十一時を回った頃、美緒から短いメッセージが来た。
『十五分、まだある?』
真琴は画面を見て、ため息を飲み込んだ。飲み込むのは得意だ。
でも今日は、飲み込んだ分だけ苦くなる気がした。
『ある。行く』
送信してから、真琴は小さく舌打ちした。
こういう返事をした自分に、なぜか救われるのが悔しい。悔しいのに、足は会社の出口へ向かった。
商店街の夜は、昼より親切だった。人が少なくて、光が柔らかい。焼き鳥の匂い、スーパーの閉店アナウンス、誰かの笑い声。どれも雑多で、でも現実がちゃんと息をしている感じがする。
写真館の前に、美緒はいた。両手をポケットに突っ込み、看板の「ジャンプ」を見上げている。
「ほら。紙、回収」
「紙を回収するな」
「紙じゃないなら、跳べるでしょ」
「論理が飛んでる」
「飛ぶの、得意じゃない?」
「得意ならこんな顔してない」
店の中は意外と静かで、白い光が一定だった。受付の奥に、撮影用の白い背景と、足元に小さな目印が貼ってある。
壁には貼り紙があった。
『うまく跳べなくても大丈夫。空中の顔は、だいたい変です。』
“だいたい変”って、言い方が好きだ。完璧を要求しない貼り紙は、それだけで優しい。
受付の女性がニコニコして言った。
「お二人ですか? ジャンプ証明、撮ります?」
「証明って何の証明ですか」真琴がつい聞く。
「今日、生きてた証明です」
さらっと言われて、真琴は笑ってしまった。笑ったら、肩が少し下がった。重たい荷物は、笑うと一瞬だけ床に置ける。
料金を払い、靴を脱がずに撮影スペースへ。
美緒が先に立ち、真琴を手招きする。
「隣。ここ」
「なんで隣」
「一人で跳ぶと怖いでしょ。二人だと、怖さが分けられる」
「…怖いって言ってない」
「顔が言ってる。紙みたいな顔が」
カメラの前のモニターに、自分たちが映る。蛍光灯の下の顔。仕事帰りの顔。
真琴は思った。こういう顔を、毎日繰り返してる。
繰り返して、いつの間にか“これが自分”になっていくのが、一番怖い。
スタッフがカウントを始めた。
「いきますよ。三、二、一」
真琴は跳んだ。
足が床を離れる瞬間、腹の奥がきゅっと縮む。体が軽い。軽いのに、心が遅れてくる。
空中で、隣の美緒が笑っていた。声じゃなく、顔が笑っている。
その笑いが、真琴の中の“後ろに引っ張る何か”を、ぐいっとほどいた。
着地は、想像よりうるさかった。
自分の靴底が床を叩く音で、真琴は現実に戻る。現実は戻ってくる。でも、戻ってきた現実の温度が、さっきより少しだけ良い。
「はい、確認どうぞ」
モニターに映った写真を見て、真琴は息を止めた。
二人とも、顔が変だった。
目が丸い。口が半開き。髪が浮いている。笑っているのか驚いているのか、判断がつかない。
なのに、変なのに、目が離せない。
「やば」真琴が言う。
「やばいでしょ」美緒が得意そうに言う。
「変すぎる」
「変ってさ、悪口にもなるけど、証拠にもなるよね。ほら、空中。現実の重さから離れてる」
スタッフが追加の一枚を提案した。
「もう一回、いきます? 今のは“驚き”でしたから、次は“決意”でも」
「決意って、顔でできます?」
「できます。だいたい変ですけど」
“だいたい変”がまた出た。店の標語なのか、店員さんの癖なのか。どっちでもいい。効く。
二回目のカウント。
三、二、一。
真琴は跳んだ。
今度は、ほんの少しだけ息を吐いてから跳んだ。
空中で肩の力が抜け、目だけが前を見た。前、というのはカメラじゃなくて、たぶん未来の方向だ。
着地してモニターを見ると、さっきよりマシだった。変なのは変だけど、“変の種類”が違う。
こっちは、少しだけ楽しそうだ。
写真を受け取って店を出ると、商店街の風が冷たかった。
美緒は封筒を揺らしながら言った。
「ねえ、真琴。今日のこれ、会社の名札に入れなよ」
「死ぬ」
「死なない。生きてる証明だし」
「これが証明なら、人生のハードル低いな」
「低いほうがいい。跳べる回数が増える」
真琴は封筒を開け、写真を指でつまんだ。
紙の質感。インクの匂い。自分の顔。変な顔。
それを見ていると、さっきまでの“やめたい”が、別の言葉に変わっていく。
「…なあ」
「ん」
「俺、向いてないのかな」
「何が」
「今の仕事。周りは器用にやってるのに、俺だけ毎日…重い」
美緒はすぐに答えなかった。パンの袋を持ち替えて、少しだけ考える間を作った。
「向いてる向いてないってさ、今の自分の呼吸に合うかどうか、だと思う」
「呼吸」
「合わないなら、酸素が薄い場所にいる。そういう時はね、場所を変えるか、歩幅を変えるか、どっちか」
「歩幅…」
「いきなり走らなくていい。今日みたいに、十五分だけでもいい。十五分の穴が、次の空気になる」
真琴は写真を封筒に戻した。
穴。空気。跳ぶ。
言葉は全部、明るい方向に寄っているのに、現実は相変わらず月曜から金曜まである。
でも、現実があることと、現実に潰されることは、同じじゃない。たぶん。
「美緒さ」
「なに」
「なんで俺を連れてきた」
「さあね」
「さあね、じゃ困る」
「困らせると、紙が人になるから」
「…性格悪い」
「良い性格してるって言って」
真琴は笑って、封筒をポケットに入れた。
その瞬間、ポケットの中で写真が少し折れた気がして、慌てて取り出す。
「うわ、折れた」
「いいじゃん。折り目、付いたって。持ち歩いた証拠」
「証拠、好きだな」
「好き。だって見えないもの、すぐ消えるから。だから私は、写真とか、メモとか、変な店とか、残るものを作る」
歩きながら、美緒がぽつりと言った。
「真琴さ。もし、場所を変えたいなら、変えていいよ」
「…急に重いこと言う」
「重いのは真琴が持ってる。私は言葉で持ち上げる係」
「係、勝手に作るな」
「じゃあ、提案。真琴が“持ち上げてほしい日”は、私にメッセージ。短く。“紙”って」
「紙?」
「うん。紙って来たら、ジャンプの店、連行」
「連行するな」
「連行されると、ちょっと生き返るよ」
「雑な理論」
「でも効く」
同じ言葉が繰り返されるのに、不思議と嫌じゃなかった。
繰り返しは、呪いにもなる。でも手順にもなる。
手順なら、明日も使える。
駅前で別れ際、美緒が最後に言った。
「今日の写真、捨てないで。仕事がきつい日に見て。変な顔してる自分、案外強いから」
「強くない」
「強いよ。だって跳んだ。床から離れた。自分で」
家に帰ると、真琴は封筒を机の上に置き、スーツを脱いだ。
シャワーを浴びて、濡れた髪のまま、写真をもう一度見る。
変な顔。空中の自分。隣の笑ってる人。
その写真を、スマホで撮って保存する。
誰にも見せない。見せるためじゃない。忘れないためだ。
寝る前、会社の求人サイトを開きかけて、やめた。今夜は決めない。決めるのは、勢いのためじゃなく、呼吸のためだ。
代わりに、カレンダーに一行だけ打ち込む。
『十五分、穴を開ける』
穴は小さい。小さいけれど、空気は通る。
真琴は布団に入り、息を吸って吐いた。今日は苦しくない。
明日が楽とは限らない。でも、明日も跳べる気がした。
後ろに下がるためじゃなく、前の空気を取りに行くために。




