『ほどけない結び目』
午前一時三分。眠れない夜は、だいたいスマホが悪い。
枕元で画面が震えた瞬間、沙希の体は勝手に起き上がった。心はまだ布団の中なのに、指だけが先に世界へ出ていく。これがいちばん情けない。
『今から会える?』
短い。軽い。なのに重い。
つい三時間前、「今日は無理、寝る」と言っていた人からの連絡だ。人は寝るって言った三時間後に、わりと平気で起きている。問題は、起きている理由だ。
沙希は返信欄を開いたまま固まった。
胸の奥が熱くなる。怒りっぽい熱じゃない。焦げつきそうな、変な熱だ。
そして頭の中で、嫌な推理が勝手に完成する。彼は今夜、別の誰かに振られた。あるいは、振られそうで逃げてきた。だから「会える?」が飛んでくる。
自分でも笑う。名探偵でもないのに、こういう時だけ冴えるのは卑怯だ。
――返さなきゃいい。
――でも返したら、また同じになる。
沙希は指先を見つめた。爪の先が少し欠けている。乾燥した季節、レジ袋を開く時にやられた。
沙希は昼はコンビニで働き、夜は通販の梱包もする。手はいつも何かを開けたり閉じたりしている。なのに、いちばん開けるべき「自分の心」だけは、いつも後回しだ。
スマホがもう一度震えた。追撃。
『ちょっとだけでいい』
ちょっと。便利な言葉。
ちょっとだけのつもりで会って、ちょっとだけのつもりで一緒にいて、ちょっとだけのつもりで傷つく。ちょっとの積み重ねが、いつも一番深い。
沙希はベッドから抜け出して、リビングの薄暗い鏡の前に立った。
パジャマのままの自分が映る。目は半分怒っていて、半分泣きそうだ。
その手首で、小さく光るものがあった。細いチェーンのブレスレット。彼が去年、駅前の雑貨屋で買ってくれたものだ。
沙希はそれを指でつまんで、軽く揺らした。
金属が、かすかな音を立てる。音は正直だ。嘘をつかない。
「まだ付けてるの?」って、彼に言われたことがある。
その言い方が、妙に腹立たしかった。買ったのはそっちなのに、なぜ咎める。
でも沙希はその時、笑ってごまかした。笑えば場が丸くなると信じている人間は、だいたい自分を削っている。
スマホの画面に戻る。返信欄は空白のまま。
空白は、彼のことを待たせる。
空白は、沙希自身も待たせる。
――会う?
――会わない?
答えの代わりに、沙希の記憶が勝手に再生された。
真夜中の呼び出し。駅前のベンチ。冷えた缶コーヒー。
彼はいつも「ごめん」と言う。言いながら、沙希の肩に額を預ける。
その重さが、悲しいほど“慣れ”になっている。
沙希はそれを支えながら、心のどこかで思う。
(私、何の係だっけ)
恋人? 友達? 避難所? 救急箱?
どれも当てはまる気がして、どれも違う気がする。
沙希は台所の電気を点けた。眩しさで少し目が覚める。
冷蔵庫を開けると、昨日買ったプリンが一個だけ残っていた。
「これ食べたら、会いに行くのやめよ」
自分にそう言い訳して、スプーンを突き刺す。
甘い。甘いのに、喉の奥が苦い。
言い訳はいつも甘くて、後味が悪い。
玄関の方で、何かがカタンと鳴った。気のせいだ。
でも沙希の耳は、こういう時だけ大きくなる。誰かが来たわけでもないのに、来る気配を探してしまう。
――来ない。来るのは、メッセージだけ。
沙希はスマホを持って、床に座り込んだ。
送信ボタンの色が、やけに鮮やかだ。押せば簡単。押さなければ、勇気がいる。
勇気って、行動するためだけのものじゃない。行動しないためにも要る。今日、初めて知った。
沙希はまず、友だちにメッセージを送った。
相手は千紘。夜更かし仲間で、言葉が辛口で、手が早い人。
『今、例の人から「会える?」が来た』
『何時?』
『1:03』
『深夜の“ちょっと”は毒。寝ろ』
『寝れない』
『じゃあ起きろ。起きて洗濯回せ。洗濯は裏切らない』
『いま洗濯物ない』
『なら自分を洗え。顔でも歯でも』
『雑』
沙希は思わず笑った。笑ったら、涙が出そうになって慌てて瞬きをした。
千紘の雑な励ましは、妙に効く。きれいな言葉より、乱暴な正しさのほうが、今は安心できる。
スマホがまた震えた。
『返事ないと困る』
困る、って何が。
困るのは、いつも私じゃないか。
沙希の中で、熱が一段階上がった。今度は怒りに近い。
その瞬間、ブレスレットの鎖が皮膚に触れて、ひやりとした。
沙希はそれを外した。
外すと、手首が軽い。軽いのに、心が重い。こういう矛盾が、一番嫌いだ。
ブレスレットをテーブルの上に置く。
置いた音が、部屋に小さく響く。
その音に合わせて、沙希は呼吸をした。吸って、吐く。
自分の呼吸だけが、今この部屋で一番確かなものだった。
返信欄に、言葉を打つ。
『今夜は無理。寝る』
送信ボタンの手前で止まる。
“無理”なんて言ったら、責められるかもしれない。
“寝る”なんて言ったら、呼び出しが増えるかもしれない。
想像はどこまでも悪い。想像は、彼の得意技じゃなくて、沙希の得意技だ。
千紘から新しいメッセージが来た。
『送れ。送ったら、プリンもう一個買ってやる。明日。いや今日』
プリン一個で人生が変わるほど、沙希は単純じゃない。
でも、プリン一個で今日の一歩くらいは変えられる。
沙希は、指に力を入れた。
送信。
画面が静かになる。
既読はつかない。すぐには。
その“すぐじゃない”の時間が、逆に沙希の心を守った。
それでも布団に戻る勇気は、まだ足りなかった。
沙希はクローゼットを開け、丸めたまま放置していた毛布を引っぱり出す。冬の匂いがした。
「洗濯、裏切らないんだっけ」
自分に言いながら、エコバッグに毛布を詰めた。洗濯物がないと言った直後に出てくるのは、だいたい“見ないふりしてたもの”だ。
深夜のコインランドリーは、意外と明るい。蛍光灯が白くて、床がやけに清潔に見える。
回っている乾燥機の窓に、毛布がふわっと貼りついて、はがれて、また貼りつく。あの動きはいつ見ても可笑しい。もこもこした怪獣がガラスに突進しては、ぺしゃんこになる感じ。
沙希はそこでやっと、小さく笑えた。
隣の機械の前に、年配の女性がいた。パジャマの上にコートを羽織っていて、手には小さな紙袋。
目が合うと、女性は先に話しかけてきた。
「今どき、こんな時間に回す人いるんだねえ」
「……いますねえ」
「うちね、孫が泊まりに来てさ。ジュースこぼして。明日までに乾かさないと怒られるの」
怒られる、という言い方が軽くて、沙希は少し楽になった。
「私も……明日までに乾かしたいものがあって」
「心?」
女性が笑った。冗談みたいに言うのが上手い人だ。
「心は、乾かしすぎると割れるよ。ほどほどがいい」
その一言が、やけに染みた。ほどほど。沙希の辞書にはあまりない単語。
洗濯機が回り始めると、低い音が続く。一定の音は、余計な想像を黙らせる。
沙希はベンチに座り、スマホを見ないまま時間をやり過ごした。
見ないでいられる時間が伸びるほど、彼との距離も伸びる気がした。
帰宅して顔を洗い、今度こそ布団に潜る。
スマホは枕元に置かない。リビングに置いたままにする。
届く音が怖いなら、距離を取ればいい。距離は、気持ちを冷ますためにある。
しばらくして、リビングの方から通知音が一つ鳴った。
心臓が跳ねた。跳ねたけれど、起き上がらなかった。
沙希は布団の中で、指を握りしめた。
握りしめるのはスマホじゃなくて、自分の意志だ。
朝、カーテンの隙間から光が差し込んだ。
沙希は起きて、リビングへ行った。
テーブルの上には、昨夜置いたブレスレットがそのままあった。
スマホには通知が一件。
『わかった。ごめん』
たったそれだけ。
それだけなのに、沙希の胸は少しだけ緩んだ。
緩んだ瞬間に、また戻りたくなる自分がいる。
だから沙希は、先に動いた。
ブレスレットを小さな袋に入れ、玄関の靴箱の上に置いた。
袋にはペンで書く。『寄付』
捨てるんじゃない。奪われるんでもない。次の誰かに渡すんでもない。
ただ、昨日までの自分から、少し距離を取るための作業だ。
出勤前、沙希は制服に着替えながら、千紘に報告した。
『送った。寝た。洗濯回した』
『偉い。深夜に自分を選んだな』
『まだ、ちょっとだけ震えてる』
『震えるのは、動いた証拠。止まってる人は震えない』
コンビニのバックヤードに入ると、コーヒーの香りがした。機械の蒸気は朝の肺に優しい。
沙希がレジに立って三十分後、ドアベルが鳴った。
やけに遅い足音。見なくても分かった。こういうのも、卑怯な才能だ。
彼だった。寝不足の顔で、帽子を深くかぶっている。
手にはエナジードリンクと、ガム。いつも同じ。
沙希は心の中で、昨日のランドリーの音を思い出した。一定の音。一定の呼吸。
呼吸をしてから、バーコードを読む。
「……昨日、ごめん」
彼が小さく言う。レジの前で謝罪が発生するのは、たいてい不幸だ。
「お会計、三百八十円です」
「いや、その……」
「袋、要りますか」
沙希は笑わなかった。怒鳴りもしなかった。事務的に、でも冷たくない声で進めた。
冷たくしないのは、優しさじゃなくて手順だ。ここで冷たくすると、あとで自分が揺れるから。
彼は財布を出しながら、沙希の手首を見た。ブレスレットがないことに気づいたらしい。
「外したんだ」
「うん」
「……俺、嫌われた?」
嫌われた、の一言に、沙希の中の旧い癖が反応する。安心させなきゃ、という癖。
でも今日は、違う筋肉を使う。
「嫌いかどうかは、今決めない」
沙希は釣り銭を渡しながら言った。
「ただ、深夜の呼び出しには応じない。私の睡眠は私のもの」
彼は目を瞬いた。言い返す言葉を探して、見つけられない顔。
その顔を見て沙希は、意地悪な快感より先に、ほっとした。言えた。嘘じゃない言葉を。
彼は何か言いかけて、やめた。
「……また連絡していい?」
「昼間なら。必要なら」
必要なら、という語尾が、自分でも驚くほど大人だった。
彼が店を出ると、後ろに並んでいたお客さんがぽつりと言った。
「……今の、強いね」
「レジ打ち、ですか」
「そっちじゃなくて」
お客さんは笑って、プリンを二つ、カゴに入れた。
「二本スプーン、いるやつ」
沙希は思わず吹き出してしまった。
「……お付けします」
笑っていい場面で笑えたのは、たぶん勝ちだ。
休憩時間、沙希はコンビニの隅の小さな棚に、寄付箱があるのを思い出した。近所の団体が季節ごとに集めているやつだ。
沙希は靴箱の上の袋を持ってきて、箱の前で少しだけ迷う。
迷いは、未練じゃない。確認だ。自分の手が、ちゃんと自分の意志で動いているかどうかの確認。
沙希は袋を落とした。
落ちた音は小さかった。
でも、その小ささがちょうどいい。大げさにしないほうが続く。大げさにすると、戻りたくなる。
その足でコンビニを出て、プリンを二つ買った。
レジの店員が「スプーンお付けしますか」と聞く。
沙希は笑って答えた。
「二本ください。あと一人分は、未来の私用で」
帰り道、千紘に写真を送る。プリン二個の写真だ。
『買った。約束より先に』
『よし。生存確認』
『生存確認って何』
『夜に自分を消しかける癖、やめろって意味』
『はい』
『素直で偉い。今日は寝ろ。ちゃんと』
沙希はスマホをポケットにしまい、深く息を吸った。
空気が冷たい。肺が目を覚ます。
恋だの愛だのは、今日もきっと面倒くさい。
でも、自分が自分を扱う手順なら、今日からでも練習できる。
部屋に戻って、プリンを一口食べる。
甘い。今度はちゃんと甘い。
沙希はスプーンを置いて、空いた手首を撫でた。
結び目は、ほどけない時がある。
でもほどけないなら、結び目の持ち方を変えればいい。
握りしめるのをやめて、置く。
置いたぶんだけ、手は空く。
空いた手で、次の朝をつかめる。
沙希は自分に小さく言った。
「今日の私は、都合のいい人じゃない」
宣言は大げさじゃなくていい。
小さくても、嘘じゃない朝のほうが、長く続くから。




