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短編集  作者: 科上悠羽
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『嘘にならない朝』

 祐真ゆうまは朝が、だめだ。

 だめ、というより、朝という概念そのものが「やる気のない足音」で近づいてくるのが苦手だ。目覚ましの電子音は、毎回初対面の敵みたいに不意打ちしてくるし、カーテンの隙間の光は「起きろ」と言わずに起きる前提で照らす。そんな横暴が許されるのは朝だけだと思う。


 台所のテーブルに突っ伏したまま、祐真は大きく欠伸した。

 すると背後で、同じ欠伸が返ってくる。


「うつった……」

「うつすな……」

「うつるのは、そっちが見てるからだろ」

「見てない。音で分かるだけ」


 莉子りこはソファの上で毛布を巻いたまま、もぞもぞとスマホを探している。髪は寝癖の小さな暴走族で、目は半分だけ起きている。なのに、洗面所へ向かう段になると、急に“段取りの人”へ変身する。歯磨き、洗顔、化粧水、下地、そして、入念すぎるほど入念なメイク。面倒そうな顔をしているのに、手だけは迷わない。


「今日も、やるの?」

「やる。やらないと、外に出られない」

「外に出るのが仕事だもんな」

「そう。出たら勝ち」

「朝の勝ち負けって、何」


 祐真はマグカップに湯を注いで、インスタントの粉を溶かした。湯気が立つと、部屋の空気が少しだけ柔らかくなる。朝の硬さは、熱に弱い。


 莉子が鏡の前で眉を描きながら言った。

「ねえ、今日、帰り遅くなるかも」

「……どれくらい」

「二十一時とか。たぶん」

「誰と?」

 言ってしまってから、祐真は口の中で舌を噛んだ。質問というより、探り。探りというより、針。


 莉子の手が止まった。眉ペンの先が空中で固まる。

「……打ち合わせ。新しい案件。チームで」

「ごめん。変な聞き方した」

「うん。変」

「……朝だから」

「朝のせいにするな」


 莉子はそう言いながら、怒っている顔ではなかった。怒りより、困りに近い。困りは、ほつれの入口だ。祐真はその入口に自分で足をかけてしまったのが分かる。


 最近、祐真たちはなんとなく噛み合わない。

 大きな喧嘩をしたわけでもないし、嫌いになったわけでもない。むしろ、好きなはずだ。好きなのに、言葉が毎回ひとつ余計に尖る。尖った言葉は相手の肌に当たって、当たったことに気づくころには、もう引っ込められない。


 原因は分かっている。分かりやすすぎて、言いづらい。

 莉子の異動の話だ。


 昨日の夜、祐真はたまたま見てしまった。リビングの机の上に置かれた封筒。会社のロゴ。開いていないのに、妙に重そうな厚み。莉子は「ただの案内」と言って、ひょいと引き出しにしまった。

 ただの案内なら、しまう必要はない。

 その時点で、祐真の胸には小さな火種が落ちた。落ちた火種は、静かに熱を持ち続ける。煙は出ない。だから、周りには見えない。


 祐真は欠伸をもう一度して、わざとらしく湯気に顔を埋めた。

「打ち合わせ、ね」

「ね」

「……俺、今日、残業しないで帰るよ」

「珍しい」

「珍しいから帰る」

「変な理由」


 莉子はメイクを終えて、鏡の中で自分に軽くウインクした。ウインクは自分に向けると、少しだけ効く。祐真はその仕草が好きで、好きだと言う代わりに、マグカップをもう一つ出した。


「飲む?」

「飲む」

 莉子は受け取り、ふうっと息を吹きかけた。

「熱い」

「朝は熱いほうが勝つ」

「朝の勝ち負け、そこにあったの?」


 玄関で靴を履きながら、祐真は言葉を探していた。探しているのは、質問だ。封筒のこと。異動のこと。いつか離れるかもしれない、という可能性のこと。

 でも、質問には答えがついてくる。答えが怖いと、質問は喉で引っかかる。


 駅までの道で、祐真はスマホを握りしめたまま会社へ向かった。握りしめるくらいなら、打てばいいのに。打てない。

 打ってしまったら、何かが決まる気がした。決まるのは、現実じゃなくて、祐真の覚悟のほうだ。


 会社に着くと、同僚の安西がカップ麺を持って早弁していた。

「おはよ。顔、溶けてるけど大丈夫?」

「朝がだめ」

「それ昨日も言ってた。てか毎日言ってる」

「毎日だめだから毎日言う」

「筋が通ってるようで通ってないな」


 安西の軽口に笑い返せるうちは、まだ平常だ。祐真は自席でメールを捌きながら、頭の片隅で封筒の重さをずっと持っていた。持っていると、手が塞がる。だから仕事の手つきが少し荒くなる。荒くなると、画面の文字まで尖って見えてくる。


 昼休み、祐真は屋上に逃げた。風が強い。風は余計な考えを散らしてくれるようで、散らさない。散らすのは髪だけだ。

 ポケットの中でスマホが震えた。莉子からだ。


『朝の質問、変だった。ごめん。打ち合わせはほんとに仕事。あと、封筒のこと、今夜話す。逃げない』


 祐真はその文を読んで、息を止めた。止めてから、ゆっくり吐いた。

 逃げない、という言葉は強い。強い言葉は、時々、嘘になりやすい。強がりにもなる。でも、莉子は強がる時、句点をつけない。今日はついていない。だから、たぶん本気だ。


『俺も変だった。夜、スープ作る。話そう』


 送信ボタンを押した瞬間、胸の火種が少し落ち着いた。火が消えたわけじゃない。火が「扱える温度」になっただけだ。


 午後、得意先からの電話が鳴った。声が低く、要件が多い。祐真の脳内では早送りで最悪の結末が並びかけたが、そこでふと思い出す。“息を吸ってから話す”。朝に自分で言い訳にしたはずの、あの小さな間。

 祐真は一秒だけ黙って、呼吸を整えた。

「承知しました。整理しますね。確認したい点が二つあります」

 言えた。言ってしまうと、相手も少し落ち着く。焦りは感染するけれど、落ち着きも、たぶん感染する。


「今日、声が優しいな」電話を切ったあと、安西が言った。

「昼の風、吸った」

「風で優しくなるなら、屋上勤務にしろ」


 夜。祐真は約束どおり、残業を切り上げた。会社の出口の自動ドアが開くと、外気が冷たくて、でも頭は妙に冴えている。冴えていると余計な想像が増えるのに、今日は増えなかった。増える前に、帰ると決めたからだ。


 台所で鍋を火にかけ、野菜を刻む。刻む音は、余計な言葉を切り落としてくれる。人参の薄い輪が増えるたび、「もしも」が減っていく気がした。

 チャイムが鳴る。莉子が帰ってきた。


「ただいま」

「おかえり」

「いい匂い」

「スープ。勝ち」

「まだ勝ち負け言ってる」


 二人はテーブルに向かい合って座った。湯気が間に立ち上る。湯気は壁じゃない。むしろ、薄いカーテンだ。直接見えないものを、少しだけ柔らかく見せてくれる。


 莉子は箸を置き、引き出しから例の封筒を持ってきた。封を切っていない。祐真の心臓が、勝手に早くなる。

「これね、異動の“候補”の紙」

「候補」

「うん。確定じゃない。でも、来月から、別の部署に移るかもしれない。場所は……隣の県」

 隣の県。遠すぎない。近すぎない。ちょうど、週末を削る距離。

 祐真は笑うべきか、黙るべきか迷って、結局、正直に言った。

「嫌だ」

 莉子は少しだけ笑った。

「“平気”って言ってほしい?」

「言ってほしい。でも、嘘なら要らない」

「うん。私も」


 祐真は一瞬だけ、卑怯な願いが喉元まで上がってきた。

 “じゃあやめてよ”。それを言えば、楽だ。相手の未来を自分の都合で止められた気になれる。でも、それは多分、愛じゃなくて支配に近い。

 祐真はその言葉を飲み込んだ。飲み込むのは得意だ。けれど今日は、飲み込み方を変えたかった。


「さ」祐真が言った。「俺さ、聞きたかったんだ。いつか、離れる日が来たら、どうする?って」

「……うん」

「でも、その質問、答えに嘘が混ざりそうで、言えなかった」

「分かる。私も、言えなかった。言ったら、どっちも“正しい答え”を探しちゃう」

「正しい答えって、だいたい苦しい」

「うん」


 莉子は封筒を膝に置いたまま、指先で角をなぞった。紙が微かに鳴る。小さな音が、二人の会話の足場になる。


「じゃあ、どうする」祐真が言った。

「“ずっと一緒”って言う?」

「言えるなら言いたい」

「でも、言った瞬間に嘘っぽくなる」

「……なる」

「だからさ。別の言い方にしない?」

「別の?」

「手順。約束の代わりに手順」


 莉子は、封筒の中からメモ用紙を一枚抜いた。会社の備品っぽい、味気ない紙だ。でも、その紙の余白に、莉子の字で箇条書きがある。


・遅くなる日は「場所」と「だいたいの時間」

・不安になったら短文で刺さない。声で言う

・週に一回は一緒に朝ごはん(欠伸込み)

・もし隣の県になっても、最初の一ヶ月は毎週末会う

・会えない週末は、同じスープをそれぞれ作る

・“大丈夫?”は、急に投げない。投げるなら、先に息継ぎ


 祐真はその最後の行を読んで、笑ってしまった。

「息継ぎ、推してくるな」

「推す。あなた、息継ぎすると優しくなるから」

「風のせいじゃないのか」

「風は補助。主役は息」


 祐真はメモを指で押さえ、もう一度、正直を置いた。

「俺、怖かった」

「うん」

「置いていかれるのが」

「うん」

「だから朝、変な聞き方した」

「うん。見えてた」

「見えてたなら、言ってよ」

「言うと、あなたがもっと固くなると思った」

「……当たってる」


 莉子は椅子から立ち上がり、祐真の隣へ回った。背中に手を置く。重くない。押しつけない。温度だけが乗る。

「言うね」莉子が言った。「私、あなたのこと、ちゃんと好き。だから、候補の紙、隠したくなかった。でも、怖くて隠した」

「俺も、ちゃんと好き。だから、怖かった」

「同じじゃん」

「同じだな」


 祐真は隣の椅子を少し引いて、莉子を座らせた。向かい合うんじゃなく、同じ方向に並ぶ。並ぶと、未来が少しだけ“二人のもの”に見える。


「ねえ」莉子が言った。「言ってみる?」

「何を」

「例の、三文字」

「……言うと、嘘になる?」

「嘘にしなきゃいい。今の分だけでいい」


 祐真は喉の奥で息を吸って、吐いた。息継ぎ。音の前の小さな決意。

「好き」

 莉子は欠伸みたいに口を開けて、笑った。

「それ、三文字じゃない」

「日本語にした」

「ずるい」

「ずるくない。丸い」

「じゃあ、私も。……好き」


 言葉は二つ並んだだけなのに、部屋の空気が柔らかくなった。湯気が薄くなる。スープが冷める前に、二人はもう一度、匙を動かした。


 食後、祐真は裁縫箱を出して、シャツの取れかけたボタンを直した。莉子がそれを覗き込む。

「糸、ほつれてる」

「引っ張るなよ。悪化する」

「知ってる。だから結び直す」

 莉子はそう言って、祐真の指の動きを真似して、糸をそっと整えた。指先が触れて、少し笑う。笑いは、ほつれをほどく。


 そのまま二人で冷蔵庫にメモを貼った。磁石は、昔旅行先で買った猫の形で、片耳が欠けている。欠けているのに、落ちない。

「うちっぽい」莉子が言った。

「欠けてるのに便利って、褒めてるのか」

「褒めてる。欠けは、取っ手」


 寝る前、莉子がスマホを持って言った。

「練習しよ。今から私、外に出る設定」

「設定って言うな」

「じゃあ、想定。はい。……『駅前のカフェ。二十一時。仕事の人たちと』」

 莉子はニヤニヤしながら送信ボタンを押すふりをした。

 祐真もふざけて、息を吸ってから返す。

「……『了解。刺したくなったら電話』」

「刺したくなったら、って何」

「俺のことだろ」

「自覚あるなら、よし」


 布団に入ると、祐真はすぐに眠れる気がしなかった。けれど、眠れない夜の怖さは薄かった。怖さの代わりに、やることがある。明日、湯を沸かす。スープを温める。息継ぎしてから言う。刺さる前に、声で言う。

 約束は折れるかもしれない。でも手順は、繰り返せる。


 朝六時四十二分。目覚ましが鳴るより先に、祐真は欠伸をした。

 背後で、同じ欠伸が返ってきた。


「うつった……」

「うつすな……」

「見てるからだろ」

「音で分かるだけ」


 昨日と同じやり取りなのに、今日は少しだけ笑える。

 祐真がコーヒーを淹れていると、莉子のスマホが鳴った。会社のチャットだ。莉子は眉をひそめてから、画面を閉じる。閉じたあと、祐真を見る。

「……今日、早めに帰れるようにする」

「無理しなくていい」

「無理じゃなくて、手順。あなた、今日、先に寝てて」

「それも手順?」

「うん。刺さる前に寝る」


 祐真は笑って、マグカップを差し出した。莉子は受け取り、ふうっと息を吹きかける。

「熱い」

「朝は熱いほうが勝つ」

「また勝ち負け」

「じゃあ引き分けでいい」


 引き分け、という言葉が口から出た瞬間、祐真は少しだけ救われた。勝たなくていい。負けなくていい。二人で同じ温度を持てれば、それでいい。


 玄関で靴を履く。祐真が息を吸う。

「行ってきます」

「いってらっしゃい」


 言葉は短い。短いのに、嘘にならない。

 祐真はドアを閉める直前、振り返って言った。

「……好き」

 莉子はメイク途中のまま、眉ペンを持って笑った。

「それ、朝の勝ち」


 祐真は笑いながら外へ出た。空気は冷たいのに、胸の中の火種は、ちゃんと温度を保っていた。嘘にならない、ちょうどいい熱で。

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