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短編集  作者: 科上悠羽
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『襟元を正す合図』

 朝、鏡の前でネクタイを結ぶときだけ、さかき慎吾は「勝負」の顔になる。

 勝負といっても、営業成績でも株価でもない。結び目がきれいに真ん中に来るかどうか、ただそれだけだ。そこが曲がっていると、今日の自分が一日じゅう斜めに見える。だから三回はやり直す。三回で済んだ日は、だいたい何かが起きる。


 その日も、結び目は一回で決まった。

「嫌な予感」

 慎吾はわざと結び直した。世界に対して小さな反抗をすると、気分が少しだけ整う。

 玄関を出ると、隣室の小学生が竹刀袋を背負っていた。ランドセルより長い袋を引きずり気味に歩いている。

「おはようございます!」

「おはよ。……それ、重くない?」

「重いっす。でも、重いほうが強そうじゃないっすか」

 強そう、という理屈が可愛くて、慎吾は笑った。笑いながら、なぜか胸の奥がくすぐったい。

 慎吾も昔、そんなふうに竹刀を持っていた。重いほど、未来が軽くなる気がした。いつか、試合で一本取れば世界がひっくり返る気がした。

 ひっくり返らなかったけど。


 電車は混んでいた。吊り革にぶら下がりながら、慎吾は広告を眺める。転職サイト、資格講座、英会話。どれも「別のレール」を用意してくれる顔をしている。レールはいつだって優しい。乗る人間の足裏が擦り切れることには、あまり関心がないだけで。

 スマホを開くと、会社のチャットがすでに騒がしい。朝から「至急」が飛び交っている。人は「至急」を投げると仕事をした気になるらしい。


 出社して席に着いた瞬間、予感は形になった。メール件名は短く、内容は長い。


『本日16:00、役員向けプレゼン。榊くん登壇。資料は最新版で』


 慎吾は椅子に座ったまま固まった。自分の名前が、画面の中でやけに大きい。

 隣の席の先輩、宮本がカップ麺をすすりながら言った。

「お、出るの? やったじゃん」

「やった、の意味が複数あるんですけど」

「役員の前でやらかしたら“やった”だな」

 宮本は笑って、麺を一本だけ口から垂らした。朝から世界は平常運転だ。


 慎吾が詰むのはプレゼンだけじゃない。今日は、もう一つ“勝負”が入っている。

 昼休みの社内剣道部の稽古だ。

 剣道部といっても、体育会の熱ではなく、福利厚生のぬるま湯寄り。会議室の端に竹刀と木刀を置き、ストレスを竹刀で殴るだけの会だ。だが慎吾はこの“殴るだけ”に救われている。仕事で殴ってはいけないものを、稽古で殴っていい。世の中には、殴っていい場所が必要だ。

 慎吾がこの部に入ったのは、単純に「黙って汗をかける場所」が欲しかったからだ。言葉を選び続ける仕事は、最後に自分の舌を疲れさせる。疲れた舌は、肝心なときに黙る。


 午前中の会議で、係長はさらっと言った。

「今回は“感じよく”まとめてね。突っ込まれないように」

 感じよく、という言葉の便利さに慎吾はいつも腹が立つ。感じよくの中には、内容も責任も全部しまえる。感じよく、で殴られる側は、どこを直せばいいか分からないまま修正を繰り返す。やがて自分の形が薄くなる。

 薄くなるのが怖い。だから今日は、妙に怖かった。


 さらに悪いことに、同じチームの大橋が口を挟んできた。

「榊さん、役員向けなら、あんまり踏み込まないほうがいいっすよ。無難に」

 大橋は成績がいい。成績がいい人の「無難」は、だいたい刃物だ。無難に、の中に「君の分は僕が取っておく」が混ざっている。

 慎吾は笑って受け流した。癖だ。そうやって今日まで生き延びた。

 でも今日は、稽古がある。稽古は、癖をそのまま持ち込むと痛い目を見る。


 午前中は資料の修正で溶けた。数字の桁、脚注の表現、言い回しの温度。役員に“刺さらない”ように、でも“薄くならない”ように。妙な料理を作っている気分だ。塩を足すと辛い、引くと味がない。胃だけが先に疲れる。

 慎吾は一度だけ、画面の隅に小さな付箋を出した。

「逃げない」

 たった二文字。気合いの旗は、短いほど倒れにくい。


 昼、多目的室に行くと、汗の匂いと笑い声が混ざっていた。壁際にコピー用紙の箱が積まれ、床には養生テープで小さな四角が貼られている。四角の中が“間合い”らしい。社内らしさが間合いにまで侵入している。

「おう、榊。今日は勝負顔だな」

 道場着姿の総務の矢島が言う。矢島はいつも軽い。軽いのに、打突だけは重い。

「勝負が二本立てでして」

「一本にしとけ」

「それができたら今ここにいません」

 慎吾が竹刀を握ると、掌が少しだけ落ち着く。木の温度は、人間の嘘を剥がしてくる。


 そこへ部長が入ってきた。白い道着が意外と似合う。似合ってしまうのが腹立たしい。

「お、みんな。今日はね、僕も“真面目”をしに来た」

 部長は笑いながら防具を付ける。笑いながら、面を締める。口元が見えなくなると、人は少し怖くなる。

「部長、稽古っていうか、勝ちに来てません?」

 矢島が言うと、部長はさらっと返した。

「勝ちたいよ。勝てるかは別として」

 別として、が上手い。こういうところが刺さる。


 準備運動、素振り、打ち込み。竹刀が空を切る音は、余計な考えを散らしてくれる。散らし切れない分は、汗に混ぜて出せばいい。

 慎吾は面を付けながら思い出す。子どものころ、竹刀を握ると大人に褒められた。「いいね、まっすぐだ」。まっすぐ、という言葉が好きだった。社会人になってから、まっすぐは損だと教えられた。斜めに当てる、遠回しに言う、感じよくする。まっすぐは、折れる。

 でも、折れるのは木だけじゃない。人も折れる。折れたまま感じよく働くのは、もっと折れる。


 地稽古が始まり、相手が回ってくる。慎吾は矢島に一本取られ、宮本に取られ、取られまくって笑われた。

「榊、今日、足が会議してる」

「足に会議させないでください」

「決裁は足で取れ!」

 誰も意味が分かっていないのに、笑いだけが成立していく。こういう時間が、社内でいちばん健全だと思う。


 慎吾の相手が回ってきたのは最後だった。部長が前に出て、竹刀を構える。

「榊くん、やろうか」

「……よろしくお願いします」

 面越しの部長の声は、少しだけ低い。仕事の声より、正直な音が混ざっている。


 始め。礼。

 慎吾は一歩目で悟った。部長、意外とちゃんとやる。

 怖いのは速さじゃない。迷いのなさだ。部長の竹刀は、ためらいなくまっすぐ来る。仕事でもそうだ。遠慮のない“正論”が、距離を詰めてくる。

 最初の打突で、慎吾は面を打たれた。カン、と金属が鳴って視界が揺れる。一本。周りが「おお」とざわつく。

「すみません」

 反射で謝りかけて、慎吾は飲み込んだ。稽古で謝るのは、変だ。謝る癖が出ている。


 慎吾は受けに回りそうになる自分を、内側から引っぱたいた。

 ここは稽古だ。逃げる癖を増やす場所じゃない。

 息を吸って、吐く。足の裏で床を掴む。竹刀の先が少しだけ軽くなる。

 部長が踏み込んでくる。次は胴か、小手か。慎吾の頭は予想を並べる。予想は大事だが、予想に縛られると体が遅れる。

 慎吾は“当てにいく”のをやめた。“出る”ことだけを決めた。


 踏み込む。声を出す。


「めん!」


 自分の声が、自分の耳にいちばん響いた。打った瞬間、部長の竹刀がわずかに上がり、面金に手応えが返る。一本にはならない。けれど、当たった。ちゃんと前へ出た。

 部長が半歩下がった。たった半歩。それだけで世界が少し逆転する。


 部長が「ほう」と小さく言った。面の奥で、きっと笑っている。

「いいね。そういうの、会社でもやればいいのに」

「会社で“めん”は、だいぶ問題です」

「比喩だよ」

「比喩ならもっと安全なのにしてください」

 矢島が横で吹き出した。部長も、面の奥で肩が揺れた。


 稽古が終わり、面を外すと、部長の額に汗が光っていた。汗は人を平等にする。少しだけ。

 全員で整理体操をしていると、部長が近づいてきた。

「榊くん」

「はい」

「今日のプレゼン、君が出るんだって?」

 慎吾は固まった。稽古場にも仕事が侵入してくる。世界は境界線を守らない。

「……はい」

「怖い?」

「怖いです」

 慎吾は言ってしまってから驚いた。怖い、なんて、部長に言ったことがない。言うと評価が下がる気がしていた。怖いを隠して感じよくするのが、社会人の礼儀だと思い込んでいた。

 部長は少し黙ってから、竹刀を床に置いた。

「怖いのは、真面目ってことだ。……ちゃんと怖がって、ちゃんと前に出な」

 慰めではない。命令でもない。変な、合図みたいな言い方だった。

「あと、無難にまとめるな。無難は誰かの利益になる。君のじゃない」

 部長はそこで、ほんの少しだけ笑い、先に部屋を出た。

 慎吾はその背中を見ながら思った。部長は嫌な人だ。けれど今日は、嫌な人が言った言葉のほうが、優しい言葉より役に立った。


 午後、慎吾は資料の最後の一枚に、こっそり小さなメモを入れた。

“結論は一つ。迷いは外で捨てる。”

 誰にも見せない、自分用の合図だ。


 16:00。会議室の前の廊下は、空気が硬い。ドアの向こうで役員の声がする。笑い声がしているのに怖い。笑い声は、剣より鋭いときがある。

 慎吾はネクタイの結び目を触った。朝、わざと結び直した結び目。真ん中にいる。今日は斜めじゃない。

 廊下の端に、大橋が立っていた。資料を覗き込むような視線で言う。

「榊さん、まあ、波風立てずに。役員は“結論”しか聞きませんから」

 慎吾は一瞬、昔の癖で笑いかけた。だが笑いは喉で止まった。

「……結論は聞きますよ。だから結論、真っ直ぐ出します」

 言った瞬間、慎吾は自分に驚いた。真っ直ぐ、なんて言い方を会社で使うと浮く。浮くのが怖い。でも今日は浮いてもいい。浮いた分だけ、床から離れられる。


「入るぞ」

 係長が言う。慎吾は頷き、息を吸って吐いた。稽古の呼吸だ。


 資料を映し、話し始める。声は震えない。震えているのは膝だ。でも膝は、声ほど目立たない。人間は、目立たないところで踏ん張ればいい。

 途中、役員の一人が数字の根拠を突っ込んできた。

「ここ、前提が甘いんじゃない?」

 いつもの慎吾なら、笑って誤魔化して、あとで胃を痛める。でも今日は、稽古で一度“前に出た”体が、そのまま動いた。


「ご指摘の通りです。前提は二つあります。ひとつは——」

 慎吾は言い切った。言い切ると、世界が少しだけ整列する。質問が攻撃ではなく、手順になる。

 慎吾は二つの前提を説明し、代替案を出し、リスクを短く添えた。完璧ではない。でも逃げなかった。言葉の角度をごまかさなかった。

 係長が横で小さく頷いた。珍しい。係長が頷く日は、世界が少しまともだ。


 最後に慎吾は一呼吸置いて言った。

「以上です。ご判断に必要な材料は、ここに揃えました」

 “判断”という言葉が自分の口から出た瞬間、慎吾は少し笑いそうになった。役員に判断を渡すために、慎吾は戦っている。戦っているのに、剣は持っていない。だから声を持つ。


 会議が終わると、役員の一人が短く言った。

「榊くん、今日は良かった。逃げない説明だった」

 逃げない。耳に残る言葉だ。慎吾は「ありがとうございます」と頭を下げた。頭を下げながら、胸の中で小さく竹刀を構える。礼と構えは両立する。今日だけは、そう信じられた。


 席に戻る廊下で、部長が待っていた。道着ではなくスーツに戻っている。戻っても、さっきより少しだけ人間に見える。

「お疲れ。どうだった」

「……怖かったです」

「うん」

「でも、踏み込みました」

 慎吾が言うと、部長は笑った。

「よし。じゃあ次は、怖いのを“普通”にしよう。慣れじゃなくて、鍛錬で」

「それ、どっちが辛いんですか」

「どっちも。だから面白い」

 部長はそこで立ち去り、慎吾はその背中に向かって、小さく頭を下げた。ありがたいからじゃない。自分の礼儀を、他人に握らせたくないからだ。


 帰り道、慎吾は駅前の自販機で温かいお茶を買った。缶の熱が掌に染みる。今日の汗と同じ種類の熱だ。

 ふと、朝の小学生が頭に浮かんで、慎吾は遠回りして町の小さな道場の前を通った。窓から見えるのは、子どもたちの素振り。竹刀が空を切る音が規則正しい。

 入り口の掲示板に「見学歓迎」と書いてある。慎吾は立ち止まり、しばらく眺めた。

 レールは一つじゃない。選び直すのは、逃げじゃない。そう思える夜が、たまにある。


 スマホのメモを開き、行を一つ追加する。


“勝負は、勝つことじゃなく、逃げない手順のこと。”


 電車の窓に映る自分の顔は、疲れているのに少しだけ真ん中に戻っていた。斜めに見えない日が、たまにある。それだけで、人は明日を引き受けられる。

 慎吾は缶をもう一度握り直し、結び目を触らずに歩いた。今日は、もう十分正面だったから。

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