『湯気の停戦』
昼休みの休憩室は、やたらと平和だった。
電子レンジが「チン」と鳴り、誰かが「いただきます」と言い、誰かが「午後の会議、地獄だよね」と言って笑う。地獄が予定に入っているのに笑えるのは、地獄のほうがまだ遠いからだ。
僕は紙コップの温かい飲み物を前に、二回、かき混ぜた。砂糖もミルクも入れていないのに。無駄に回るスプーンは、頭の中の余計な選択肢みたいだ。
スマホが震えた。通知の送り主は、部署の先輩の千葉さん。
内容は短い。
『今夜、駅前。二人で話す。逃げるな』
逃げるな。昼休みの平和が、そこだけ切り取られて刃物みたいに光った。
僕は紙コップを握り直した。熱い。熱いのは現実だ。現実はいつも熱いか冷たいかのどちらかで、丁度いい温度をくれない。
「佐伯、顔が真面目」
同僚の古賀が、弁当箱の蓋を閉めながら言った。
「いつも不真面目みたいに言うな」
「いや、普段は“やり過ごす顔”だからさ。今日は“戦う顔”」
「戦わない。……戦わないけど、話す」
口にした瞬間、僕は自分で笑いそうになった。“話す”を戦闘用語みたいに扱う社会人、かわいそうすぎる。
でも、かわいそうだからこそ、今日の夜は怖い。
僕は千葉さんに返信した。文章は一行で済ませた。長文にすると、腹を括る前に言い訳が増える。
送信して、机に戻った。戻ったのに、心は休憩室に置き忘れたまま。
午後の会議は、予告通り地獄だった。数字が足りない、見通しが甘い、責任の所在が曖昧。誰もが正しいことを言い、誰もが正しくない顔をする。
僕は途中で三回、ペットボトルの水を飲んだ。飲んだ分だけ喉が乾くのは、緊張が水分を奪うからだろうか。それとも、言いたいことを飲み込むたび、体が乾いていくのだろうか。
定時を過ぎ、ようやく席に戻ったころ、もう一度通知が来た。
『場所、前に言ったとこ。時間は二十時。遅刻するな』
前に言ったとこ。こういう曖昧さが仕事の会話には便利で、私生活には毒だ。
僕はふと、恋人の直の顔を思い浮かべた。直は疑い深い人じゃない。むしろ人を信じすぎる。だからこそ、信じてる相手から曖昧な影を見せられると、胸の中で勝手に物語が始まってしまう。
――今夜、駅前。二人で。
その文字だけでも、物語は作れてしまう。
直に言うべきだ。言うべきなのに、言うときの言葉が見つからない。
「今夜、先輩と話してくる」
それだけでいいはずなのに、“なぜ”の部分が怖い。
怖いのは、事情じゃない。直の顔が変わる瞬間だ。自分のせいで、誰かの安心がひび割れる瞬間を見るのが苦手だ。
だから僕は、帰り道のコンビニで、ティーバッグを一箱買った。
理由は明確じゃない。明確じゃないけど分かっている。僕は困ると、温かい飲み物に逃げる。温かい飲み物は、手を温めてくれる。手が温まれば、言葉が出る気がする。気がするだけで、出るとは限らないのに。
家に着くと、直はキッチンで野菜を切っていた。テレビはつけっぱなしで、バラエティが笑っている。包丁の音が規則的で、直の背中も規則的で、僕だけが不規則だった。
「おかえり」
「ただいま」
直は振り返って、いつもの笑顔を見せた。ここで言えばいい。今なら言える。
そう思ったのに、僕の口は別のことを言った。
「……今日、寒いね」
「遅い帰りの日ほど言うね、それ」
「体感温度がね」
「体感の前に、胃袋。ごはんできるよ」
言えなかった。言いたくて言えなかった、というより、言うための筋肉が動かなかった。
夕食を食べ、片づけをして、ソファに座った瞬間、僕は落ちた。電池が切れるみたいに。スマホを握ったまま、画面もつけっぱなしで。
次に目を開けたとき、部屋の空気が違っていた。
音が少ない。テレビが消えている。
キッチンのテーブルの向こうに、直が座っている。背筋がまっすぐで、手元のアイスコーヒーは、氷がまだ角ばったまま。つまり、飲むより先に待っていた。
テーブルにはスマホが伏せられている。僕のやつ。
伏せられているものは、だいたい罪悪感を増幅する。
「起きた?」
直の声は柔らかい。柔らかいのに、逃げ道がない。毛布みたいな網。
「……起きた」
「座る?」
「うん」
椅子を引く音が、やけに大きい。
直がスマホをくるりと回して、画面をこちらへ向けた。通知が一件、表示されている。
二人で、逃げるな、遅刻するな。
言葉は短いのに、圧だけが重い。
「これ、何?」
「……仕事」
「仕事の通知って、こんな言い方する?」
「千葉さんはする。……する人」
直は目を細めた。怒っているわけじゃない。観察している。直は普段、観察しない人だ。だから余計に怖い。
僕の頭の中に、選択肢が現れる。否定、謝罪、説明。どれを選んでも、言い方を間違えると危ないスイッチになる。
そのとき、キッチンのケトルが小さく「ぴ」と鳴った。沸騰の合図の一歩手前。咳払いみたいな音。
僕はそれにすがった。
「……お茶、淹れていい?」
「この状況で?」
「この状況だから。手が、震えてる」
僕は立ち上がって、さっき買ったティーバッグの箱を開けた。箱の中には色んな味の小袋がぎゅうぎゅうに詰まっている。選ぶのが苦手な人間には、やさしくない世界だ。
僕は一番無難そうなものを選んだ。無難は、たいてい間違いない。たいてい、というところが問題だけど。
カップに小袋を落とし、湯を注ぐ。湯気が立ち上る。湯気は、目に見える時間だ。上にのぼって薄くなっていく。
僕は湯気の薄さに合わせて呼吸をした。息を吸って、吐く。
直にも同じカップを置くと、直は一度だけそれを見て、そっと手のひらで包んだ。
「……で」直が言う。「何の話?」
「辞めるかもしれない話」
僕の口から、意外とすんなり出た。湯気ってすごい。人間の喉のハードルを、二センチくらい下げる力がある。
「辞める?」
「うん。今の部署。正確には、今の働き方」
「急だね」
「急じゃない。……ずっと、考えてた」
「なのに言わなかった」
「言えなかった。心配させたくなかった」
「心配はする。でも、黙って進められるほうが怖い」
直が同じ言葉を繰り返す。繰り返されると、言葉が“本気”になる。
僕はカップを持ち上げ、熱さに助けられて言った。
「ごめん。本当にごめん。今日の夜、千葉さんと会うのは、退職の相談。書類とか、引き継ぎとか、あと……僕が逃げないように見張られる」
「見張るって言い方」
「本人がそういうノリの人なんだよ。脅しがコミュニケーションみたいな」
「嫌な人?」
「嫌じゃない。むしろ優しい。優しいから、怖いことも笑って言う」
直はカップの縁を指でなぞった。考えるときの癖だ。僕はその癖を知っている。知っているのに、言えなかったことが山ほどあるのが、急に恥ずかしくなる。
「辞めたら、どうするの」
「貯金は三ヶ月分くらい。生活を縮めれば、もう少し」
「縮めるって、どこを」
「外食とか、コンビニとか……あと、君に頼れない見栄」
言った瞬間、頬が熱くなった。言葉にすると、見栄が見栄の形をして現れる。
直は少し黙ってから、アイスコーヒーを一口だけ飲んだ。ようやく氷が鳴る。
「頼っていいよ」
「……うん」
「止めない。辞めるなら辞めて。でも、話して。通知で知るのはやだ」
「はい。……すみません」
直は息を吐いた。
「あと、これ見たときさ」
「うん」
「ちょっとだけ、嫌な想像した。あなたが誰かと、って。自分が嫌だった」
「想像するのは普通だよ。通知が悪い」
「通知を出したのはあなた」
「うん。僕が悪い。……でも、想像した自分を嫌わないで。嫌うなら僕のほうを嫌って」
直が目を細めた。
「言い方が下手」
「下手。だから飲み物に逃げた」
「逃げたけど」直はカップを持ち上げて言った。「今日の逃げ、ちょっと良かった。湯気があると、私も息ができた。いきなり詰めてたら、もっと強い言葉を使ってた」
僕はそこで、初めて笑った。やり過ごす笑いじゃなく、息を通す笑い。
直も少し笑って、ストローで氷をかき混ぜた。
「じゃあ、手順にしよう」直が言う。
「手順?」
「大事な話の前に、まず一口。温かいのでも冷たいのでも。手を落ち着けてから話す」
「……いいね」
「合図も決める。言葉が詰まったら『湯気』って送る。そしたら逃げないために、まず飲む」
「湯気、って言葉かわいい」
「かわいく言わないと、重い話が重すぎる」
僕は頷いた。言葉が詰まるのは弱さじゃない。詰まったまま黙るのが弱さだ。今日は、黙らない方法を一つ増やせた。
「今日の夜は?」直が言う。
「会議室、終わったら連絡する。帰ってきたら、また一杯」
「今度は私が淹れる。あなた、こういうとき変な味選びそう」
「ひどい」
「当たってるでしょ」
「……当たってる」
直が立ち上がり、シンクでカップをすすいだ。水の音が一定で、僕の心臓よりずっと安定している。
戻ってきた直は、ティーバッグの箱の横に小さな付箋を貼った。ペンで一言だけ。
『まず飲む』
それだけで、部屋が少し明るくなるのが分かる。呪文みたいだ。
僕はその付箋を見て、腹の底の怖さが完全には消えないまま、でも立てる気がした。
「いってらっしゃい」直が言う。
「……いってきます」
「戻ってきたら、停戦じゃなくて、ちゃんと“会議”ね」
「うわ、仕事みたい」
「生活も仕事も、たまに会議が必要」
「議事録は?」
「湯気が議事録。ほら、覚えるでしょ」
僕は笑って、玄関で靴を履いた。
外は寒い。でも指先は、さっきより少しだけ温かい。
駅へ向かう途中、僕は直に短いメッセージを送った。
『着いた。まず飲む、守る』
すぐに返事が来た。
『よし。帰りにケーキも買え。会議に糖分は必要』
僕は息を吸って、吐いた。湯気は今、目の前にはない。
でも、胸の中に小さな白い幕が残っている。言葉を選ぶための、短い息継ぎ。
駅前のレンタルスペースは、コンビニの上にあった。階段を上がると、廊下がやけに静かで、僕の靴音だけが裁判の木槌みたいに響く。
扉の前で深呼吸して、ノック。
「入れ」
中から返事が来る。やっぱり脅しが挨拶だ。
千葉さんは机に肘をつき、紙コップを二つ並べて待っていた。片方は水、片方はコーヒー。どっちもぬるい。
「遅刻してないな。えらい」
「小学生の採点みたいに言わないでください」
「まず飲め」
「……はい」
僕が紙コップを持つと、千葉さんは腕を組んだ。
「で、辞めるんだっけ」
「辞めたい、が正確です」
「気持ちと手続きは別物だ。気持ちは揺れる。手続きは揺らすな」
千葉さんは怖い顔で、意外と優しいことを言う。
僕は今日までの経緯を、なるべく短く話した。残業の積み重ね、責任の曖昧さ、疲れの自覚。話しているうちに、言葉が自分の背中を押す。
「折れたくない」
そう口にした瞬間、千葉さんが一回だけ頷いた。
「よし。じゃあ“折れない案”も並べろ。辞めるだけが答えじゃない」
千葉さんはメモを出し、選択肢を三つ書いた。部署異動、業務の切り分け、期間限定の休職。
「選べ。どれも怖い。でも怖さの種類が違う」
……怖さの種類。僕は直と同じことを言われている気がして、少し笑ってしまった。
「笑うな。真面目に怖がれ」
「はい」
一時間ほどで、僕の中の“辞める”は少し形を変えた。今すぐ投げ出すより、まず条件を交渉してみる。交渉がだめなら、そのとき辞める。順番を作るだけで、心が少し軽くなる。
千葉さんは最後に、紙コップを指で叩いて言った。
「帰れ。で、ちゃんと話せ。逃げたら、次は俺が彼女に怒られる」
「それ、僕のためじゃなく千葉さんのためですよね」
「両方だ。両方にしとけ」
帰りにケーキを買って家に戻ると、直はソファで待っていた。テーブルの上には、さっきの付箋『まず飲む』が、ちゃんと見える位置にある。
「おかえり」
「ただいま。……会議、終わった」
「まず飲む?」
「うん。まず飲む」
僕らはカップを持ち上げて、一口。湯気がふっと立つ。
それから僕は、千葉さんがくれた三つの選択肢と、今日の僕の決意を話した。直は頷き、ケーキの箱を開けて言った。
「よし。じゃあ次の会議は、フォークで」
「武器が甘い」
「甘い武器が一番効くときもある」
笑いながら、僕は思う。
湯気は逃げ道じゃない。踏み込む前の、一歩分の間。
その一歩があるだけで、人は間違えにくくなる。




