『襲ってくる改札』
改札の前は、いつも人が急いでいる。急いでいない人まで、急がされる。スーツの肩も、コートの裾も、みんな同じ方向へ流れていく。
その流れの端っこで、僕は手を振っていた。振るしかないから振っているみたいな、頼りない手の振り方で。
「じゃあね、航。ほんとに、ありがと」
美咲は笑って言った。笑ってるのに、目の奥が少しだけ濡れている。泣きそうというより、泣いたあとをごまかす濡れ方だ。
僕の喉は、いつもの通り固くなった。言いたいことほど、喉の奥で角を持つ。出すと誰かが怪我をする気がして、口の中で丸めてしまう。
「うん。……体、気をつけて」
「それ、親戚のおじさん」
「親戚のおじさんでもいい。海外、乾燥するって言うし」
「乾燥は保湿で勝てる」
「勝てるの、すごいね」
美咲は笑いながら、キャリーケースの持ち手を握り直した。飛行機に乗る日らしい現実味が、その握り直しだけで伝わってくる。
僕はその手元を見て、ポケットの中の指をぎゅっと握った。そこには、小さなキーホルダーがある。駅前のガチャガチャで出た、変な形の鍵。二人で笑って回して、僕が「当たり」と言い張って持ち帰ったやつ。
当たりって、何の当たりだよ。今さら思う。
「……ねえ」
美咲が言った。
「うん」
「友達で、いてよね」
その言い方が、ずるい。お願いなのに、確認みたいに落ち着いている。逃げ道をふさぎながら、優しく蓋をする声。
僕は笑った。反射で。場を丸くするための、得意技。得意技のせいで、ずっと丸くならないところがあるのに。
「もちろん」
改札の向こうで、電車の到着音が鳴った。あの音は、たいてい「時間切れ」の合図だ。
美咲は手を振って、振り返らずに歩き出した。背中が小さくなっていく。背中に向けて「待って」を投げるのは、みっともない気がして、僕は唇の内側が痛くなるほど噛んだ。
結局、僕は何も言えないまま、背中に手を振っている。
改札が、ぱたんと閉まった。
閉まった、のに。
僕の胸の中だけが、いつまでも閉まらない。
*
美咲が突然泣いたのは、二年前の春だった。会社の近くの公園で、昼休みに買ったパンを半分こしていたとき。いきなり、目の端から涙が落ちた。
僕は「え?」としか言えなくて、手に持っていた紙袋だけがカサカサ音を立てた。
「ごめん。なんでもない」
「なんでもない人、泣かない」
「泣くよ。……泣く日もある」
そのときの僕は、立ち尽くすしかできなかった。肩に手を置く? 背中をさする? 抱きしめる?
どれも正しい気がしたのに、どれも間違いの気がした。
美咲には、当時付き合っていた人がいた。きっとその人のせいだ。そう決めつけたほうが、僕は楽だった。
抱きしめる役は、僕じゃない。そう言い訳できたから。
結局、僕は公園の自販機で温かいお茶を買って、渡しただけだった。
「ほら、手、冷たい」
「……航って、こういうとこ、優しいよね」
美咲は笑った。泣き腫らした目で、僕の顔を覗き込んで。
その覗き込みが、いまも胸の奥に刺さったままだ。
あの日から僕は、何度も「言いそびれ」を積み上げた。
言いそびれは、行き場がなくなると勝手に死ぬ。死んだものは、あとから拾えない。拾えないはずなのに、僕は拾おうとしてしまう。
だからポケットの中に、変な鍵をしまったままにした。
これだけは譲れない、って言えるものを一つ持っていたら、いつか言える気がした。自分に少しだけ、根拠のない勇気を許せる気がした。
*
改札が閉まったあと、僕はしばらく動けなかった。
周りの人はみんな通り過ぎていく。「じゃあね」は毎分どこかで言われて、毎分どこかで終わっている。
終わるものの数が多すぎて、僕の「終わらせたくない」が埋もれていく。
ポケットの中の鍵を握りしめた。指が痛い。
痛いのは、今この瞬間だけでいい。あとでずっと痛いより、マシだ。
僕は走った。
改札に向かって。閉まったはずの場所へ向かって。
自動改札機の前で、僕は一度止まった。定期入れを出して、息を整える。
その間にも、美咲は遠ざかる。電車が来る。時間切れが迫る。
僕は定期をタッチして、ゲートを抜けた。
ゲートは、あっさり開いた。さっきの「ぱたん」が嘘みたいに。
世界はいつだって、僕が勝手に諦めるのを待っているだけなのかもしれない。
「美咲!」
ホームの向こうで、美咲が振り返った。驚いた顔。次の瞬間、困ったみたいに眉が下がる。
その顔を見るのが怖かったのに、見たかった。
「どうしたの、航。切符……」
「切符じゃない」
言いながら、僕は笑いそうになった。こんなときに笑いが出るのは、癖だ。癖は直らない。だから手順を作るしかない。
僕は息を吸って吐いた。胸の中の鍵を、言葉にするために。
「遅いのは分かってる。いまさらだって、分かってる」
美咲の目が大きくなる。
「でも、言わないまま“過去の箱”に放り込むのが、もっと嫌だ」
電車の到着音が鳴った。タイムリミットが、耳元でカウントダウンする。
僕は掌を開いて、ポケットの中の鍵を見せた。小さくて、変で、何の役にも立たない鍵。
「これ、ずっと持ってた。笑われてもいい。……だけど、僕にとっては当たりだった」
「航……」
美咲の声が震えた。震えの種類が、怒りじゃないことを祈る。
僕は続けた。途中で止まったら、また背中に手を振るだけになる。
「好きだ」
言葉は簡単なのに、言うまでが長かった。
「君の涙を見たとき、笑顔に変えたいって思った。そういうの、傲慢だって分かってる。でも、思った」
僕は一度、笑った。自分の情けなさが喉に引っかかって、笑いの形でしか出てこない。
「友達でいて、って言われたとき、僕も笑ってた。本当は、笑うしかなかった」
美咲は、さっきの僕みたいに唇を噛んだ。それが胸を締め付けた。
僕のせいで、誰かが噛むのが怖い。
でも、逃げないと決めた。
「答え、今すぐじゃなくていい」
僕は手のひらを閉じて、鍵を握り直した。
「引き止めたい。でも、足を縛りたいわけじゃない。君が行くのは、君の決めたことだから」
美咲の目から、ぽろっと涙が落ちた。突然じゃない。ちゃんと理由のある涙。
僕は一歩だけ近づいて、でも触れなかった。触れるのは、許可がいる。
「だから、お願いが一つだけ」
「……なに」
「もう一回、会って。出発の前に。ちゃんと、顔を見て話したい」
僕は苦笑いした。
「僕、今まで“ちゃんと”を後回しにしすぎた。今日くらいは、ちゃんとしてみたい」
美咲は涙を指で拭って、鼻で笑った。
「……航ってさ。いちばん大事なとこ、遅刻するよね」
「うん。遅刻の常習犯」
「なのに、改札だけは走るんだ」
「走れるって、今日知った」
そう言いながら僕は、変な確信に触れていた。確かさが霧に隠れても、線を引き直す手は自分の側にある。全部を描き変える必要はない。一本だけ、足すだけでもいい。
いまこの瞬間、僕は線を足した。
電車がホームに滑り込んできた。扉が開く。人が降りる。人が乗る。
美咲はその流れの前で、しばらく立ち尽くしていた。二年前の僕みたいに。
でも今度は、立ち尽くすだけじゃ終わらなかった。
「……会う」
美咲が言った。
「一回だけじゃなくて、二回」
「二回?」
「出発までに一回。出発してから、向こうで落ち着いたらもう一回。画面越しでもいいから」
美咲は泣き笑いのまま、肩をすくめた。
「私もね、怖かったんだよ。抱きしめてほしいのに、抱きしめてって言うのが」
胸の奥の痛みが、少しだけ言葉になった気がした。
僕は頷いて、鍵を美咲の手のひらに乗せた。
「じゃあこれは、貸す。鍵っぽいけど、鍵じゃないから」
「なにそれ」
「合図。折れそうになったら、握って。そしたら僕に連絡して。……僕が走る」
「海外から改札は走れないよ」
「じゃあ、心の改札を走る。意味わかんないけど」
「意味わかんないのに、航っぽい」
美咲が笑った。涙の残った笑顔。僕はそれを見て、やっと呼吸が通った。
過去はすぐ過去になる。でも、過去になった瞬間に全部が消えるわけじゃない。
握りしめたものは、手のひらの形のまま残る。
「……ねえ航」
「うん」
「いまさらって、言ったけど」
美咲は鍵を握りしめたまま、少しだけ首を傾げた。
「いまだから、言えたんじゃない?」
僕は返事に困って、結局笑った。癖の笑いじゃなくて、救われた笑い。
「じゃあ、いまって最高だね」
「最高、は言い過ぎ」
「言い過ぎくらいがいい。僕、控えめにして失敗したし」
電車の扉が閉まりかけて、車掌の笛が鳴った。
美咲は一歩下がって、でも今度は背中を向けない。
「じゃあ、行くね」
「うん。……行ってらっしゃい」
「うん。……ただいまも、言わせて」
「言って」
「帰ってきたら、言う」
美咲はそのまま電車に乗り込んだ。扉が閉まる。
でも今度は、胸の中の改札が閉まらなかった。
閉まらないのは、痛みじゃなくて、予定が入ったからだ。二回会う。話す。笑う。泣いてもいい。
未来は、まだ引ける。
*
電車が見えなくなるまで手を振ってから、僕はホームのベンチに腰を落とした。走ったあとじゃなく、言ったあとに膝が笑う。
ポケットの中は空っぽだった。鍵を渡したせいで、手のひらの中が妙に寒い。
スマホが震えた。画面に出た名前に、心臓が一段だけ上がる。
『いま、電車。泣く予定じゃなかったのに泣いた。最悪』
『最悪じゃない。ちゃんと理由のある涙だった』
『それ言うともっと泣くからやめて』
美咲らしいツッコミに、僕は声を出して笑った。見られてもいい。今日はもう、黙る怖さのほうが大きい。
『来週、空港。……会える?』
『会う。遅刻しない』
『言い切った。えらい』
『学習した』
『じゃあ私も学習する。抱きしめてって言う』
『……言って』
送信した瞬間、画面の向こうで美咲がどんな顔をしたか、想像できた気がした。泣き腫らした目のまま、僕を覗き込むあの日の顔と、少しだけ似ている。
*
空港のロビーは、駅よりも「時間切れ」が露骨だ。けれど、出発ロビーの隅のカフェだけは、妙にぬるい匂いがした。コーヒーとパンの匂いは、人間の背中を少し柔らかくする。
「遅刻してない」
美咲は開口一番、点呼みたいに言った。目の下にはうっすらクマがある。寝てないやつだ。
「言い切ったからね」
「じゃあ私も言い切る」
美咲は紙コップを両手で包んで、深呼吸した。
「……私も、好き」
シンプルな言葉が眩しい。僕は「うん」としか言えなくて、また喉が固くなりかけた。でも今日は、手順がある。
息を吸って吐く。逃げない。
「ありがとう。……で、行くんだよね」
「うん。行く。これは変えない」
「うん。変えなくていい」
「帰ってきたら、どうする?」
美咲はポケットから鍵を出した。掌の中でぎゅっと握りしめている。
「これ、まだ当たり?」
「当たり」
「じゃあ当たりの続きをする。帰ってきたら、ちゃんと“始める”」
美咲は笑って言った。泣きそうな笑いじゃない。腹を決めた笑い。
「その代わり、今は“待ってる”って言い方はやめて。待つって、しんどいから」
「じゃあ、どう言う?」
「“それぞれ進んで、また合流する”」
「いいね。合流」
「そう。航、今日からナビ担当ね」
保安検査場の前で、美咲が足を止めた。
「……抱きしめてって言う。学習したから」
美咲は言って、自分で照れて鼻を鳴らした。
「許可、ください」
「ください」
僕は一歩近づいて、腕を回した。軽く、でも逃げ道がないくらいには。美咲の肩が小さく震えて、すぐに力が抜けた。
「やっとだね」
耳元で美咲が言う。
「やっとだ」
僕も言った。
美咲は一歩下がって、鍵を握ったまま手を振った。
「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい。……好きだ」
今度は声にした。小さくても、胸の中だけで言うよりずっと確かだ。
美咲はくるりと振り返って、唇だけで「知ってる」と言った。ずるい。ずるいのに、嬉しい。
ゲートの向こうで、美咲の背中が遠ざかる。
でも今日は、唇を噛まなかった。
僕の手のひらの中には、もう鍵はない。代わりに、合流地点の予定がある。
それだけで、世界はちゃんと描き直せる気がした。




