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短編集  作者: 科上悠羽
12/66

『襲ってくる改札』

 改札の前は、いつも人が急いでいる。急いでいない人まで、急がされる。スーツの肩も、コートの裾も、みんな同じ方向へ流れていく。

 その流れの端っこで、僕は手を振っていた。振るしかないから振っているみたいな、頼りない手の振り方で。


「じゃあね、わたる。ほんとに、ありがと」


 美咲みさきは笑って言った。笑ってるのに、目の奥が少しだけ濡れている。泣きそうというより、泣いたあとをごまかす濡れ方だ。

 僕の喉は、いつもの通り固くなった。言いたいことほど、喉の奥で角を持つ。出すと誰かが怪我をする気がして、口の中で丸めてしまう。


「うん。……体、気をつけて」

「それ、親戚のおじさん」

「親戚のおじさんでもいい。海外、乾燥するって言うし」

「乾燥は保湿で勝てる」

「勝てるの、すごいね」


 美咲は笑いながら、キャリーケースの持ち手を握り直した。飛行機に乗る日らしい現実味が、その握り直しだけで伝わってくる。

 僕はその手元を見て、ポケットの中の指をぎゅっと握った。そこには、小さなキーホルダーがある。駅前のガチャガチャで出た、変な形の鍵。二人で笑って回して、僕が「当たり」と言い張って持ち帰ったやつ。

 当たりって、何の当たりだよ。今さら思う。


「……ねえ」

 美咲が言った。

「うん」

「友達で、いてよね」


 その言い方が、ずるい。お願いなのに、確認みたいに落ち着いている。逃げ道をふさぎながら、優しく蓋をする声。

 僕は笑った。反射で。場を丸くするための、得意技。得意技のせいで、ずっと丸くならないところがあるのに。


「もちろん」


 改札の向こうで、電車の到着音が鳴った。あの音は、たいてい「時間切れ」の合図だ。

 美咲は手を振って、振り返らずに歩き出した。背中が小さくなっていく。背中に向けて「待って」を投げるのは、みっともない気がして、僕は唇の内側が痛くなるほど噛んだ。

 結局、僕は何も言えないまま、背中に手を振っている。


 改札が、ぱたんと閉まった。


 閉まった、のに。

 僕の胸の中だけが、いつまでも閉まらない。



 美咲が突然泣いたのは、二年前の春だった。会社の近くの公園で、昼休みに買ったパンを半分こしていたとき。いきなり、目の端から涙が落ちた。

 僕は「え?」としか言えなくて、手に持っていた紙袋だけがカサカサ音を立てた。


「ごめん。なんでもない」

「なんでもない人、泣かない」

「泣くよ。……泣く日もある」


 そのときの僕は、立ち尽くすしかできなかった。肩に手を置く? 背中をさする? 抱きしめる?

 どれも正しい気がしたのに、どれも間違いの気がした。

 美咲には、当時付き合っていた人がいた。きっとその人のせいだ。そう決めつけたほうが、僕は楽だった。

 抱きしめる役は、僕じゃない。そう言い訳できたから。


 結局、僕は公園の自販機で温かいお茶を買って、渡しただけだった。

「ほら、手、冷たい」

「……航って、こういうとこ、優しいよね」

 美咲は笑った。泣き腫らした目で、僕の顔を覗き込んで。

 その覗き込みが、いまも胸の奥に刺さったままだ。


 あの日から僕は、何度も「言いそびれ」を積み上げた。

 言いそびれは、行き場がなくなると勝手に死ぬ。死んだものは、あとから拾えない。拾えないはずなのに、僕は拾おうとしてしまう。

 だからポケットの中に、変な鍵をしまったままにした。

 これだけは譲れない、って言えるものを一つ持っていたら、いつか言える気がした。自分に少しだけ、根拠のない勇気を許せる気がした。



 改札が閉まったあと、僕はしばらく動けなかった。

 周りの人はみんな通り過ぎていく。「じゃあね」は毎分どこかで言われて、毎分どこかで終わっている。

 終わるものの数が多すぎて、僕の「終わらせたくない」が埋もれていく。


 ポケットの中の鍵を握りしめた。指が痛い。

 痛いのは、今この瞬間だけでいい。あとでずっと痛いより、マシだ。


 僕は走った。

 改札に向かって。閉まったはずの場所へ向かって。

 自動改札機の前で、僕は一度止まった。定期入れを出して、息を整える。

 その間にも、美咲は遠ざかる。電車が来る。時間切れが迫る。


 僕は定期をタッチして、ゲートを抜けた。

 ゲートは、あっさり開いた。さっきの「ぱたん」が嘘みたいに。

 世界はいつだって、僕が勝手に諦めるのを待っているだけなのかもしれない。


「美咲!」


 ホームの向こうで、美咲が振り返った。驚いた顔。次の瞬間、困ったみたいに眉が下がる。

 その顔を見るのが怖かったのに、見たかった。


「どうしたの、航。切符……」

「切符じゃない」

 言いながら、僕は笑いそうになった。こんなときに笑いが出るのは、癖だ。癖は直らない。だから手順を作るしかない。

 僕は息を吸って吐いた。胸の中の鍵を、言葉にするために。


「遅いのは分かってる。いまさらだって、分かってる」

 美咲の目が大きくなる。

「でも、言わないまま“過去の箱”に放り込むのが、もっと嫌だ」


 電車の到着音が鳴った。タイムリミットが、耳元でカウントダウンする。

 僕は掌を開いて、ポケットの中の鍵を見せた。小さくて、変で、何の役にも立たない鍵。

「これ、ずっと持ってた。笑われてもいい。……だけど、僕にとっては当たりだった」


「航……」

 美咲の声が震えた。震えの種類が、怒りじゃないことを祈る。

 僕は続けた。途中で止まったら、また背中に手を振るだけになる。


「好きだ」

 言葉は簡単なのに、言うまでが長かった。

「君の涙を見たとき、笑顔に変えたいって思った。そういうの、傲慢だって分かってる。でも、思った」

 僕は一度、笑った。自分の情けなさが喉に引っかかって、笑いの形でしか出てこない。

「友達でいて、って言われたとき、僕も笑ってた。本当は、笑うしかなかった」


 美咲は、さっきの僕みたいに唇を噛んだ。それが胸を締め付けた。

 僕のせいで、誰かが噛むのが怖い。

 でも、逃げないと決めた。


「答え、今すぐじゃなくていい」

 僕は手のひらを閉じて、鍵を握り直した。

「引き止めたい。でも、足を縛りたいわけじゃない。君が行くのは、君の決めたことだから」

 美咲の目から、ぽろっと涙が落ちた。突然じゃない。ちゃんと理由のある涙。

 僕は一歩だけ近づいて、でも触れなかった。触れるのは、許可がいる。

「だから、お願いが一つだけ」


「……なに」

「もう一回、会って。出発の前に。ちゃんと、顔を見て話したい」

 僕は苦笑いした。

「僕、今まで“ちゃんと”を後回しにしすぎた。今日くらいは、ちゃんとしてみたい」


 美咲は涙を指で拭って、鼻で笑った。

「……航ってさ。いちばん大事なとこ、遅刻するよね」

「うん。遅刻の常習犯」

「なのに、改札だけは走るんだ」

「走れるって、今日知った」


 そう言いながら僕は、変な確信に触れていた。確かさが霧に隠れても、線を引き直す手は自分の側にある。全部を描き変える必要はない。一本だけ、足すだけでもいい。

 いまこの瞬間、僕は線を足した。


 電車がホームに滑り込んできた。扉が開く。人が降りる。人が乗る。

 美咲はその流れの前で、しばらく立ち尽くしていた。二年前の僕みたいに。

 でも今度は、立ち尽くすだけじゃ終わらなかった。


「……会う」

 美咲が言った。

「一回だけじゃなくて、二回」

「二回?」

「出発までに一回。出発してから、向こうで落ち着いたらもう一回。画面越しでもいいから」

 美咲は泣き笑いのまま、肩をすくめた。

「私もね、怖かったんだよ。抱きしめてほしいのに、抱きしめてって言うのが」


 胸の奥の痛みが、少しだけ言葉になった気がした。

 僕は頷いて、鍵を美咲の手のひらに乗せた。

「じゃあこれは、貸す。鍵っぽいけど、鍵じゃないから」

「なにそれ」

「合図。折れそうになったら、握って。そしたら僕に連絡して。……僕が走る」

「海外から改札は走れないよ」

「じゃあ、心の改札を走る。意味わかんないけど」

「意味わかんないのに、航っぽい」


 美咲が笑った。涙の残った笑顔。僕はそれを見て、やっと呼吸が通った。

 過去はすぐ過去になる。でも、過去になった瞬間に全部が消えるわけじゃない。

 握りしめたものは、手のひらの形のまま残る。


「……ねえ航」

「うん」

「いまさらって、言ったけど」

 美咲は鍵を握りしめたまま、少しだけ首を傾げた。

「いまだから、言えたんじゃない?」


 僕は返事に困って、結局笑った。癖の笑いじゃなくて、救われた笑い。

「じゃあ、いまって最高だね」

「最高、は言い過ぎ」

「言い過ぎくらいがいい。僕、控えめにして失敗したし」


 電車の扉が閉まりかけて、車掌の笛が鳴った。

 美咲は一歩下がって、でも今度は背中を向けない。

「じゃあ、行くね」

「うん。……行ってらっしゃい」

「うん。……ただいまも、言わせて」

「言って」

「帰ってきたら、言う」


 美咲はそのまま電車に乗り込んだ。扉が閉まる。

 でも今度は、胸の中の改札が閉まらなかった。

 閉まらないのは、痛みじゃなくて、予定が入ったからだ。二回会う。話す。笑う。泣いてもいい。

 未来は、まだ引ける。



 電車が見えなくなるまで手を振ってから、僕はホームのベンチに腰を落とした。走ったあとじゃなく、言ったあとに膝が笑う。

 ポケットの中は空っぽだった。鍵を渡したせいで、手のひらの中が妙に寒い。


 スマホが震えた。画面に出た名前に、心臓が一段だけ上がる。


『いま、電車。泣く予定じゃなかったのに泣いた。最悪』

『最悪じゃない。ちゃんと理由のある涙だった』

『それ言うともっと泣くからやめて』


 美咲らしいツッコミに、僕は声を出して笑った。見られてもいい。今日はもう、黙る怖さのほうが大きい。


『来週、空港。……会える?』

『会う。遅刻しない』

『言い切った。えらい』

『学習した』

『じゃあ私も学習する。抱きしめてって言う』

『……言って』


 送信した瞬間、画面の向こうで美咲がどんな顔をしたか、想像できた気がした。泣き腫らした目のまま、僕を覗き込むあの日の顔と、少しだけ似ている。



 空港のロビーは、駅よりも「時間切れ」が露骨だ。けれど、出発ロビーの隅のカフェだけは、妙にぬるい匂いがした。コーヒーとパンの匂いは、人間の背中を少し柔らかくする。


「遅刻してない」

 美咲は開口一番、点呼みたいに言った。目の下にはうっすらクマがある。寝てないやつだ。

「言い切ったからね」

「じゃあ私も言い切る」

 美咲は紙コップを両手で包んで、深呼吸した。

「……私も、好き」


 シンプルな言葉が眩しい。僕は「うん」としか言えなくて、また喉が固くなりかけた。でも今日は、手順がある。

 息を吸って吐く。逃げない。


「ありがとう。……で、行くんだよね」

「うん。行く。これは変えない」

「うん。変えなくていい」

「帰ってきたら、どうする?」

 美咲はポケットから鍵を出した。掌の中でぎゅっと握りしめている。

「これ、まだ当たり?」

「当たり」

「じゃあ当たりの続きをする。帰ってきたら、ちゃんと“始める”」

 美咲は笑って言った。泣きそうな笑いじゃない。腹を決めた笑い。

「その代わり、今は“待ってる”って言い方はやめて。待つって、しんどいから」

「じゃあ、どう言う?」

「“それぞれ進んで、また合流する”」

「いいね。合流」

「そう。航、今日からナビ担当ね」


 保安検査場の前で、美咲が足を止めた。

「……抱きしめてって言う。学習したから」

 美咲は言って、自分で照れて鼻を鳴らした。

「許可、ください」

「ください」

 僕は一歩近づいて、腕を回した。軽く、でも逃げ道がないくらいには。美咲の肩が小さく震えて、すぐに力が抜けた。

「やっとだね」

 耳元で美咲が言う。

「やっとだ」

 僕も言った。


 美咲は一歩下がって、鍵を握ったまま手を振った。

「じゃあ、行ってくる」

「行ってらっしゃい。……好きだ」

 今度は声にした。小さくても、胸の中だけで言うよりずっと確かだ。

 美咲はくるりと振り返って、唇だけで「知ってる」と言った。ずるい。ずるいのに、嬉しい。


 ゲートの向こうで、美咲の背中が遠ざかる。

 でも今日は、唇を噛まなかった。

 僕の手のひらの中には、もう鍵はない。代わりに、合流地点の予定がある。

 それだけで、世界はちゃんと描き直せる気がした。


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