『星図の取扱説明書』
プラネタリウムの暗闇は、静かすぎて嘘みたいだ。入口の自動ドアが閉まる音も、売店のレジの「ピッ」も、ぜんぶ布で包まれて消える。代わりに残るのは、ドームの天井に浮かぶ無数の点と、子どもたちの「わぁ」の息だけ。
僕はその「わぁ」を、いつも客席の端で盗み見している。
名前は架。二十三歳。昼はこの施設の売店で働いて、夜は大学の通信課題をやる。将来の夢、と聞かれたら困る。困るから、聞かれない場所に居続けてきた。
なのに、ここは夢みたいな場所だ。毎時ちょうどに灯りが落ちて、星が出る。説明の声が流れて、星座が線で結ばれて、現実の重さが少しだけ薄くなる。
その声の主が、由利さんだ。学芸員で、投影も解説もできる“全部できる人”。しかも声が良い。良いっていうのは、甘いとか低いとかじゃなくて、聴く人の肩から力を抜く種類の良さだ。
由利さんが「こちらが本日いちばん明るい星です」と言うたび、客席の空気が揃う。僕はそれが羨ましい。羨ましいけど、羨ましいと言うほど自分に自信もない。
自信がない、と言うと格好悪いから、僕は別の言葉を使う。「向いてない」。向いてないは便利だ。努力しなくて済むし、期待されなくて済む。期待されなければ、失敗しても痛くない……はずなのに、胸の奥の変なところが、いつも小さく疼く。
帰宅してスマホを開くと、画面の中には“向いてる人”が溢れている。喋りが上手い人、声が通る人、表情が明るい人。勝手にランキングが付いて、僕は勝手に最下位に座る。誰も座らせてないのに、勝手に。
それが悔しいのに、悔しいと言うのもまた怖い。悔しいは、次に動かなきゃいけない言葉だから。
ある日、売店の棚卸しをしていたら、同僚の遥が段ボールを抱えて入ってきた。遥は投影室のオペレーターで、機械のことなら何でも知っている。なのに人の気持ちも、だいたい当てる。そういう“嫌な便利さ”のある人だ。
「架、顔が曇ってる。雲量九割」
「天気予報やめて」
「じゃあ星予報。今夜、流星群。見たい?」
「見たいけど、見る資格がない」
「資格? 星に免許制あったっけ」
遥は笑って、段ボールを床に置いた。段ボールの側面に太い字で『新・解説台本』とある。
「由利さん、明日休みなんだって。喉やっちゃったらしい」
「え、じゃあ明日の投影、どうするの」
「代役。……架」
「むりむりむり」
「三回言うと呪いになるよ」
「呪いでいいから回避したい」
「回避できない。だって代役、もう決まってる」
遥は引き出しから一冊の小さなノートを出した。表紙に、ちいさく星のシールが貼ってある。中を開くと、手書きの箇条書きがびっしり。
『声が震える時の対処』
・水を一口
・語尾を伸ばさない
・星を見ない(客席を見ると詰む)
『自信が消えた時の対処』
・“上手くやる”を捨てる
・“届けば勝ち”にする
『嫉妬が出た時の対処』
・比較は天井に投げる
・自分の星図を開く
『注意』
・他人の光を奪おうとしない
・自分の光を笑わない
・説明書は読むだけで効かない、実行しろ
「……なにこれ」
「取扱説明書」
「何の」
「架の中にいるやつ」
「僕の中に、やつ?」
「いるじゃん。たまに目が光るやつ。『本当はやりたい』って顔してるやつ」
遥は指で僕の眉間をちょんと押した。
「ここに住んでる。ほら、起きろって書いてある」
「書いてない」
「行間に書いてある」
僕はノートを閉じた。閉じたのに、中身が胸に残る。取扱説明書なんて、僕の人生には無縁だと思っていた。だって僕は壊れないように使われてきた側だ。取扱説明書が必要なのは、壊す側だ。
でも、遥は逆だと言う。壊れないために、説明書がいるのだと。
「無理だよ。僕、声が小さいし」
「小さいなら、近づけばいい」
「客席に?」
「星に。台本に。自分に」
「意味が分からない」
「意味は後で付く。とりあえず、練習」
投影室の脇の小部屋で、僕はマイクを握った。手の汗で滑りそうで、マイクが魚みたいに感じる。逃げるなら今だ。そう思った瞬間、遥が机を小さくぽんと叩いた。
「合図。今から十秒、呼吸」
僕は言われるまま息を吸って吐いた。たった十秒なのに、胸の中の騒音が少し静かになる。
「はい。最初の一文」
遥が台本を開いて指を置く。
僕は口を開けた。
「……えっと、本日は……」
そこで噛んだ。舌が絡まる。声が乾く。最悪。
「今噛んだね」遥が言った。
「終わった」
「終わってない。噛んだのは、生きてる証拠」
「証拠の使い方が雑」
「雑でいい。ここは安全地帯」
それから僕は、三十秒ごとに自爆した。言い間違え、息継ぎ失敗、謎の沈黙、声の裏返り。遥はそのたびに、やけに楽しそうにメモを取る。
「ねえ、悪いけどさ。今の“裏返り”、かわいい」
「かわいくない。死にたい」
「死なない。ここはプラネタリウム。死ぬなら星になってから」
「意味わかんない」
「意味は後で付くって言ったでしょ」
帰り際、遥が真面目な声になった。
「架。君、昔ここ来たことある?」
「ある。小学生の遠足で」
「何覚えてる?」
僕は少し考えて、情けない答えを出した。
「……売店で買った星のシール」
「それな。君、いまも貼ってるじゃん」
遥が僕の名札を指差す。裏に、子どもの頃の癖で貼った小さな星。誰にも見えない場所に、こっそり。
「夢、まだ居座ってる。小さいけど」
胸の奥が、少しだけ熱くなった。恥ずかしい熱だ。でも、捨てられない熱だ。
「ねえ架。自分の声、嫌い?」
僕は答えに困った。嫌いというより、信用していない。声は僕の内側を外へ運ぶ。外へ出た瞬間、誰かに評価される。評価されると、勝手に順位が付く。僕は順位が怖い。
「……嫌いじゃない。でも、怖い」
「うん。怖いのは正常。じゃあ、明日は“怖いまま”やろう」
その夜、僕は家で台本を読み返した。読み返しているのに、目が滑る。頭の中で勝手に“由利さんの声”が再生されるからだ。比較が勝手に始まって、僕の喉が固くなる。
僕はスマホを伏せて、天井を見上げた。部屋の天井は白くて、星がない。だから余計に、余計なランキングが浮かぶ。
そのとき、遥の説明書の一文が頭に刺さった。“比較は天井に投げる”。投げる先はここだ。白い天井。僕は指で空に向かって、ぽいっと投げる真似をした。
「はい、比較、おしまい」
声に出したら、少しだけ笑えた。変な儀式だけど、効く。効くなら採用だ。
翌日。午前の最終回。客席は小学生で満席だった。団体用の黄色い帽子が、暗くなる前から元気に揺れている。僕は投影室でマイクを装着し、台本を膝に置いた。由利さんの席は空だ。空の椅子は、想像より圧がある。
遥がインカムで言った。
「架、いつもの通り。星は嘘つかない。台本も嘘つかない。嘘つくのは君の不安だけ」
「不安が一番しつこいんだけど」
「しつこいのは生き物。餌あげよう。水」
僕は水を一口飲んだ。喉が鳴る。生きてる音がする。
照明が落ちた。ドームに星が灯る。子どもたちが「うわぁ」と声を揃えた。
その「うわぁ」が、なぜか僕を押した。怖いのに、嬉しい。嬉しいのに、声が震える。
僕は取扱説明書を思い出す。語尾を伸ばさない。星を見ない。客席を見ると詰む。
だから僕は、天井の星だけを見た。星なら順位がない。明るいか暗いかはあっても、誰かを蹴落とさない。
「……みなさん、こんにちは。本日は、星を見に来てくれてありがとう」
声が出た。自分の声がスピーカーから返ってくる。少し遅れて返ってくる声は、他人みたいで、だから少しだけ冷静になれる。
子どもたちは静かになった。静かになってくれると、こちらの心臓の音が目立つ。目立つけど、逃げない。
途中、投影機の表示が一瞬だけ乱れた。星座の線がずれて、北の空が回転した。遥の声がインカムで小さく弾んだ。
「ごめん、今、調整入る。三十秒、繋いで」
三十秒。短い。短いけど、空白は怖い。怖いから、僕の中の“やつ”が目を覚ました気がした。
僕は台本から目を上げた。
「……いま、星がちょっとだけ暴れました。星にも寝癖があるんです」
客席で、くすっと笑いが起きた。小学生の笑いは軽い。軽いから、救命具になる。
「寝癖の星は、直す前に一回だけ見てください。今しかない景色です」
言ってしまってから、自分でも驚いた。そんなセリフ、台本にない。けれど嘘じゃない。今しかないのは本当だ。
表示が戻る。星座の線が正しい位置に収まる。遥がインカムで言った。
「今の、最高」
「適当言っただけ」
「適当じゃない。あれは“生”」
投影が終わる頃、子どもたちが拍手をした。拍手の音は、暗闇でやけに大きい。僕はマイクを外して、椅子に座り込んだ。足が震えている。震えるのが遅れてくるのは、身体が正直だからだ。
そのまま出口へ向かう子どもたちの波が、投影室のガラス越しに見えた。ひとりだけ立ち止まって、ドームを振り返る女の子がいる。目が潤んでいる。
僕は反射でインカムを外し、ロビーへ出た。段取り的には余計な行動だ。でも、足が動いた。
「どうしたの」
女の子はびくっとして、帽子のつばを握った。
「……星、こわい」
意外な言葉だった。星はきれいで、楽しくて、憧れのはずだと思い込んでいた。怖い、なんて。
僕は一瞬迷ってから、正直に言った。
「わかる。暗いと、いろいろ見えちゃうもんね」
「見えちゃうって、なに」
「……心配、とか」
女の子は少しだけ考えて、こくりと頷いた。
「わたし、夜、ねれない」
胸の奥がきゅっとなった。僕の中の“やつ”が、今度は静かに目を開けた気がする。
「じゃあ、ひとつだけ、手順。寝る前に“今日見つけた一個”を言う」
「いっこ?」
「うん。今日の一個。星でも、おやつでも、楽しかったことでも。小さいのでいい」
女の子は唇を噛んで、やっと言った。
「……寝癖の星」
僕は笑ってしまった。笑ったら、女の子も少し笑った。
「それ、最高。覚えてるだけで勝ちだよ」
「勝ちってなに」
「……負けないってこと。心配に」
女の子は「ふうん」と言って、走って親のところへ戻っていった。僕はその背中を見ながら、自分の喉が少しだけ楽になったのを感じた。声は、誰かに渡すと軽くなる。
投影室へ戻ると、遥が扉を開けて待っていた。手には、例のノート。
「今、どこ行ってた」
「……ロビー。子どもが」
「よし。取説の最終ページ、使ったね」
「最終ページ?」
遥はノートの最後のページを開いた。そこだけ字が大きい。
『暴れたら、光らせろ』
「意味わかる?」
「わかんない」
「じゃあ今、覚えて。君の中のやつ、暴れた。だから君の声が光った」
遥はそう言って、僕の肩を叩いた。軽く。落ちないようにする叩き方。
施設の外へ出ると、昼の空は薄青だった。さっきまで星を見ていたせいで、青が眩しい。眩しいと、なんだか笑える。
駐車場の端で、由利さんがマスクをして立っていた。喉をやったはずなのに、目だけで笑っている。
「……架くん、ありがとう。代役、助かった」
「いえ、僕、だいぶ噛みました」
「噛むの、いいよ。子どもは噛む人に安心する。完璧は遠いから」
由利さんの言葉は、遥と同じ方向の温度だった。僕は少しだけ胸が軽くなる。
その夜、仕事帰りに施設の裏庭へ寄った。遥が言っていた流星群の日だ。街の灯りのせいで空は明るいけれど、それでもたまに細い光が走る。
僕は一つ見つけて、指で追ってしまった。追ったところで掴めない。掴めないのに、胸の奥が勝手に「よし」と言う。
ほんの一瞬の光。すぐ消える光。
でも、消えるからこそ、目が追いつく。消えるからこそ、今日の僕みたいに“今しかない”になる。
スマホが震えた。遥からだ。
『今日の架:点灯。明日も点く?』
僕は少し迷ってから返した。
『点く。たぶん。でも曇ったら水』
すぐ返事が来る。
『よし。曇りは天気。壊れじゃない』
僕はポケットの中のノートを握った。取扱説明書。僕のための、変なマント。
才能があるとかないとか、比べだしたらきりがない。星だって明るさが違う。でも、明るい星が偉いわけじゃない。暗い星にも名前がある。暗い星にも役目がある。
僕は今日、自分の星図を一枚増やしただけだ。増やしただけで、空はちょっと広い。
明日も、ため息は出るだろう。怖さも出るだろう。
そのたびに、僕は説明書を開いて、ページをめくって、息を入れ替える。
暴れたら、光らせる。
それが僕の、駆け出しの怪物の飼い方だ。




