『磨きすぎのグラス』
紗都は、だいたい「いい感じ」の人だ。
受付でお客さまが眉をひそめても、レストランでクレームが飛んでも、宴会場の段取りが一個ずれても、顔の角度を変えずに「承知しました」を出せる。声の温度も、目線の高さも、きれいに一定。人間なのに、照明みたいだ。
ホテルのバックヤードで、僕が段ボールを抱えてよろけたときもそうだった。
「手、空いてる? そっち持つよ」
紗都は軽く言って、僕の箱の底を支えた。
重さの受け渡しだけが、妙に正直だった。細い腕なのに、迷いなく荷重を受ける。受けることに慣れすぎている。
「ありがとう。いつも助かる」
「ううん。いつもは、あなたが助けてる」
そういう返しができるのが、紗都だ。
たぶん本人は、これを才能だと思っていない。手順だ。染みついた手順。だから怖い。手順は、疲れても回り続けるから。
その日の午後、客室フロアでトラブルが起きた。
予約の重複。しかも、どっちも「絶対に譲れない」タイプのお客さま。声の音量が、先に勝負を決めに来る。フロントは一瞬で戦場になる。
紗都が前に出た。
僕は端で、電話を切り替えながら見ていた。彼女は笑わない。笑う余裕がないからじゃない。笑うと逆に火に油になる場面を、ちゃんと選んでいる。落ち着いた声で、短い言葉で、相手の呼吸を整えさせてから、条件を一つずつ並べた。
十分後、二組とも納得はしていない顔で、でも怒鳴るのはやめて立ち去った。
納得はしていない顔、ってのが一番しんどい。勝ったようで勝ってない。負けてないけど、削れてる。
カウンターの奥で、紗都が小さく息を吐いた。
それが、今日初めて見た「人間っぽい音」だった。
「……頭、痛い」
「え」
「言っても意味ないけど」
「意味、あるよ。聞ける」
僕が言うと、紗都は一瞬だけ目を丸くした。
それから、いつもの“いい感じ”に戻りかけて、戻り切れずに、眉間だけが少しだけ歪んだ。
「イライラして、何も手につかない感じ。分かる?」
「分かる。分かるけど、君のそれは初めて聞いた」
「初めて言ったもん」
ああ、と思った。
言うと崩れると思ってたんだ。崩れると、もう二度と戻れないと思ってたんだ。
夕方、仕事が一段落しても、紗都の顔は晴れなかった。
スタッフルームで、彼女は水を飲む。飲むのに、目が落ち着かない。空気の硬さだけが残って、体の内側でずっと鳴っている。
「ねえ」僕は言った。
「なに」
「今日、最後にひとつだけ仕事がある。手伝ってくれる?」
「……残業?」
「残業だけど、危険じゃないやつ」
紗都は半目で僕を見て、ため息をつきかけてやめた。
「危険じゃない残業って、存在する?」
「ある。たぶん。たぶんだけど」
僕らは宴会場の裏へ向かった。明日の披露宴の準備で、グラスが山ほど並んでいる。透明なものが多い空間は、妙に気持ちが整う。光が通るからだ。
ハウスキーパーの先輩が、布を渡して言った。
「このグラス、指紋が残るとめんどいから。磨いといて」
「了解です」
僕が答えた横で、紗都が布を受け取る。受け取った瞬間、彼女の手が少しだけ止まった。
磨く、って言葉が効いたのかもしれない。
僕らは並んで、無言でグラスを拭き始めた。
布がガラスをこする音は静かで、でも確かに進む音だ。言葉みたいに誤解しない。やれば、きれいになる。やった分だけ、結果が出る。ここだけは世界が素直だ。
「さっきさ」紗都がぽつりと言った。
「うん」
「私、ほんとは叫びたかった」
「うん」
「でも叫んだって、改善しないんだよね」
「改善はしない」
「じゃあ、なんでみんな叫ぶの」
「叫ぶと、まだ生きてるって分かるからじゃない」
「……それ、いい言い方」
「適当だよ」
「適当でも、助かる。今日、私は助かってないから」
紗都はグラスを持ち上げ、天井のライトに透かした。
透明な円が、薄い虹を作る。
「私さ、悪い人になれたら楽なのかなって思う」
「なれないでしょ」
「……うん」
「だから、君は好かれてる」
「褒め方が雑」
「雑でいい。今日は雑が似合う日」
紗都は口の端を上げて、でも笑い切らずに言った。
「良い人でいるの、疲れる」
「疲れたって言えばいい」
「言ったら終わりそう」
「終わりじゃない。メンテ」
「メンテ?」
「磨き直し。ほら、グラスみたいに」
そう言うと、紗都の手が少しだけ速くなった。
布がガラスを走る。音が増える。音が増えると、胸の中の騒音が減る。
磨き終わったグラスが積み上がり、山が低くなってきたころ、厨房から甘い匂いが流れてきた。柑橘の皮をちぎったみたいな、乾いてるのに元気な匂い。
通りがかったシェフが言った。
「今日、余りのオレンジあるけど飲む? ジュース作った」
「……飲みます」
紗都が即答した。珍しい。言い切るのが早い。
紙コップに注がれた橙色は、なんだか暴力的に明るい。
僕らは控室の片隅で、同時に一口飲んだ。甘いより、酸っぱい。酸っぱさが、頭の奥を叩く。さっきまでのモヤが、ちょっとだけ散る。
「うわ、効く」紗都が言った。
「顔、ちょっと戻った」
「戻ってない。まだギザギザ」
「ギザギザでもいい。ギザギザは、生きてる証拠」
「また証拠って言う」
「証拠が好きなんだよ。見えないものが消えるの、嫌だから」
紗都はコップを見下ろして、小さく言った。
「ねえ、私、明日もたぶん“いい感じ”の顔する」
「する」
「断言しないで」
「癖は断言できる。でも、癖には手順が効く」
「手順って?」
僕は紙コップを軽く持ち上げた。
「こういうの。酸っぱくて、明るくて、こぼれそうなやつを、ちゃんと飲む」
「……飲むだけで変わる?」
「全部は変わらない。でも、ひとつは変わる」
「ひとつ?」
「今日みたいに、言えなかった一言を言える。たとえば」
僕は少し迷ってから、言った。
「今日、よく踏ん張った。君がいると助かる」
紗都の目が細くなった。涙じゃない。熱が上がった目だ。
「そういうの、今さら言う?」
「今さら言う。今さらしか言えないタイプだから」
「じゃあ私も、今さら言う」
紗都はコップを持ったまま、肩をすくめた。
「今日、ほんとは、全部ぶちまけたかった。でも、ぶちまける相手を間違えたくなかった」
「……うん」
「だから、あなたがここにいて助かった」
言ってから紗都は、やっと笑った。声は出さない。出さないけど、目が笑うやつ。
僕はそれを見て、胸の奥が少しだけ軽くなった。
最後のグラスを並べ終え、宴会場の灯りを落とす。
暗くなると、外の夜景がガラス窓に映る。遠くの信号、車のライト、川みたいに流れる白い線。
僕らはその前で、少しだけ立ち止まった。
「希望とか絶望とか、そういうの混ざりすぎてよく分かんない日あるよね」紗都が言った。
「ある」
「でも、こういうの飲むと、なんか…明日も一回は立てる気がする」
「一回立てたら、次が来る」
「来るかな」
「来る。来なかったら、また磨けばいい」
紗都は笑って、僕の肩を軽く小突いた。
「あなた、磨くの好きだね」
「好き。磨くと、錆びにくい」
「錆び」
「心もね。たぶん」
「たぶんが多い」
「たぶんがないと、息が詰まる」
帰り道、エレベーターの中で紗都が言った。
「明日さ、私が“いい感じ”やりすぎそうだったら」
「うん」
「合図して。紙コップ持って、ここを叩く」
彼女は指で自分の胸元を軽く叩いた。
「酸っぱいやつ、飲む合図」
「了解」
「で、あなたも同じ。勝手に抱えない」
「了解」
「二人でやる。…これ、手順」
僕は頷いた。
ホテルの裏口を出ると、夜風が冷たかった。でも、冷たいだけじゃない。どこか柑橘の匂いが残っている。さっき飲んだ酸っぱさが、まだ喉の奥で生きている。
紗都は空を見上げて、短く言った。
「明日も、会うよね」
「会う」
「会うなら、今日よりちょっとだけ光ってる顔してやる」
「期待してる」
「期待しないで」
「じゃあ、確認する。光ってたら、言う」
「……それなら許す」
紗都は笑って、駅の方へ歩き出した。
背中は相変わらずまっすぐだ。だけど今日のまっすぐは、無理に伸ばした線じゃなくて、磨き直した線に見えた。
僕は手のひらを見た。
ガラスを磨いた布の匂いと、オレンジの酸っぱさが混ざって、妙に“生きてる日”の匂いがする。
大げさな奇跡は起きない。でも、明日また会えるなら、今日のため息は盗まれずに済む。
そう思って、僕は小さく息を吐いた。重くないやつを。




