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短編集  作者: 科上悠羽
14/70

『磨きすぎのグラス』

 紗都さとは、だいたい「いい感じ」の人だ。

 受付でお客さまが眉をひそめても、レストランでクレームが飛んでも、宴会場の段取りが一個ずれても、顔の角度を変えずに「承知しました」を出せる。声の温度も、目線の高さも、きれいに一定。人間なのに、照明みたいだ。


 ホテルのバックヤードで、僕が段ボールを抱えてよろけたときもそうだった。


「手、空いてる? そっち持つよ」


 紗都は軽く言って、僕の箱の底を支えた。

 重さの受け渡しだけが、妙に正直だった。細い腕なのに、迷いなく荷重を受ける。受けることに慣れすぎている。


「ありがとう。いつも助かる」

「ううん。いつもは、あなたが助けてる」


 そういう返しができるのが、紗都だ。

 たぶん本人は、これを才能だと思っていない。手順だ。染みついた手順。だから怖い。手順は、疲れても回り続けるから。


 その日の午後、客室フロアでトラブルが起きた。

 予約の重複。しかも、どっちも「絶対に譲れない」タイプのお客さま。声の音量が、先に勝負を決めに来る。フロントは一瞬で戦場になる。


 紗都が前に出た。

 僕は端で、電話を切り替えながら見ていた。彼女は笑わない。笑う余裕がないからじゃない。笑うと逆に火に油になる場面を、ちゃんと選んでいる。落ち着いた声で、短い言葉で、相手の呼吸を整えさせてから、条件を一つずつ並べた。


 十分後、二組とも納得はしていない顔で、でも怒鳴るのはやめて立ち去った。

 納得はしていない顔、ってのが一番しんどい。勝ったようで勝ってない。負けてないけど、削れてる。


 カウンターの奥で、紗都が小さく息を吐いた。

 それが、今日初めて見た「人間っぽい音」だった。


「……頭、痛い」

「え」

「言っても意味ないけど」

「意味、あるよ。聞ける」


 僕が言うと、紗都は一瞬だけ目を丸くした。

 それから、いつもの“いい感じ”に戻りかけて、戻り切れずに、眉間だけが少しだけ歪んだ。


「イライラして、何も手につかない感じ。分かる?」

「分かる。分かるけど、君のそれは初めて聞いた」

「初めて言ったもん」


 ああ、と思った。

 言うと崩れると思ってたんだ。崩れると、もう二度と戻れないと思ってたんだ。


 夕方、仕事が一段落しても、紗都の顔は晴れなかった。

 スタッフルームで、彼女は水を飲む。飲むのに、目が落ち着かない。空気の硬さだけが残って、体の内側でずっと鳴っている。


「ねえ」僕は言った。

「なに」

「今日、最後にひとつだけ仕事がある。手伝ってくれる?」

「……残業?」

「残業だけど、危険じゃないやつ」


 紗都は半目で僕を見て、ため息をつきかけてやめた。

「危険じゃない残業って、存在する?」

「ある。たぶん。たぶんだけど」


 僕らは宴会場の裏へ向かった。明日の披露宴の準備で、グラスが山ほど並んでいる。透明なものが多い空間は、妙に気持ちが整う。光が通るからだ。


 ハウスキーパーの先輩が、布を渡して言った。

「このグラス、指紋が残るとめんどいから。磨いといて」

「了解です」

 僕が答えた横で、紗都が布を受け取る。受け取った瞬間、彼女の手が少しだけ止まった。

 磨く、って言葉が効いたのかもしれない。


 僕らは並んで、無言でグラスを拭き始めた。

 布がガラスをこする音は静かで、でも確かに進む音だ。言葉みたいに誤解しない。やれば、きれいになる。やった分だけ、結果が出る。ここだけは世界が素直だ。


「さっきさ」紗都がぽつりと言った。

「うん」

「私、ほんとは叫びたかった」

「うん」

「でも叫んだって、改善しないんだよね」

「改善はしない」

「じゃあ、なんでみんな叫ぶの」

「叫ぶと、まだ生きてるって分かるからじゃない」

「……それ、いい言い方」

「適当だよ」

「適当でも、助かる。今日、私は助かってないから」


 紗都はグラスを持ち上げ、天井のライトに透かした。

 透明な円が、薄い虹を作る。


「私さ、悪い人になれたら楽なのかなって思う」

「なれないでしょ」

「……うん」

「だから、君は好かれてる」

「褒め方が雑」

「雑でいい。今日は雑が似合う日」


 紗都は口の端を上げて、でも笑い切らずに言った。

「良い人でいるの、疲れる」

「疲れたって言えばいい」

「言ったら終わりそう」

「終わりじゃない。メンテ」

「メンテ?」

「磨き直し。ほら、グラスみたいに」


 そう言うと、紗都の手が少しだけ速くなった。

 布がガラスを走る。音が増える。音が増えると、胸の中の騒音が減る。


 磨き終わったグラスが積み上がり、山が低くなってきたころ、厨房から甘い匂いが流れてきた。柑橘の皮をちぎったみたいな、乾いてるのに元気な匂い。


 通りがかったシェフが言った。

「今日、余りのオレンジあるけど飲む? ジュース作った」

「……飲みます」

 紗都が即答した。珍しい。言い切るのが早い。


 紙コップに注がれた橙色は、なんだか暴力的に明るい。

 僕らは控室の片隅で、同時に一口飲んだ。甘いより、酸っぱい。酸っぱさが、頭の奥を叩く。さっきまでのモヤが、ちょっとだけ散る。


「うわ、効く」紗都が言った。

「顔、ちょっと戻った」

「戻ってない。まだギザギザ」

「ギザギザでもいい。ギザギザは、生きてる証拠」

「また証拠って言う」

「証拠が好きなんだよ。見えないものが消えるの、嫌だから」


 紗都はコップを見下ろして、小さく言った。

「ねえ、私、明日もたぶん“いい感じ”の顔する」

「する」

「断言しないで」

「癖は断言できる。でも、癖には手順が効く」

「手順って?」

 僕は紙コップを軽く持ち上げた。

「こういうの。酸っぱくて、明るくて、こぼれそうなやつを、ちゃんと飲む」

「……飲むだけで変わる?」

「全部は変わらない。でも、ひとつは変わる」

「ひとつ?」

「今日みたいに、言えなかった一言を言える。たとえば」

 僕は少し迷ってから、言った。

「今日、よく踏ん張った。君がいると助かる」


 紗都の目が細くなった。涙じゃない。熱が上がった目だ。

「そういうの、今さら言う?」

「今さら言う。今さらしか言えないタイプだから」

「じゃあ私も、今さら言う」

 紗都はコップを持ったまま、肩をすくめた。

「今日、ほんとは、全部ぶちまけたかった。でも、ぶちまける相手を間違えたくなかった」

「……うん」

「だから、あなたがここにいて助かった」

 言ってから紗都は、やっと笑った。声は出さない。出さないけど、目が笑うやつ。

 僕はそれを見て、胸の奥が少しだけ軽くなった。


 最後のグラスを並べ終え、宴会場の灯りを落とす。

 暗くなると、外の夜景がガラス窓に映る。遠くの信号、車のライト、川みたいに流れる白い線。

 僕らはその前で、少しだけ立ち止まった。


「希望とか絶望とか、そういうの混ざりすぎてよく分かんない日あるよね」紗都が言った。

「ある」

「でも、こういうの飲むと、なんか…明日も一回は立てる気がする」

「一回立てたら、次が来る」

「来るかな」

「来る。来なかったら、また磨けばいい」


 紗都は笑って、僕の肩を軽く小突いた。

「あなた、磨くの好きだね」

「好き。磨くと、錆びにくい」

「錆び」

「心もね。たぶん」

「たぶんが多い」

「たぶんがないと、息が詰まる」


 帰り道、エレベーターの中で紗都が言った。

「明日さ、私が“いい感じ”やりすぎそうだったら」

「うん」

「合図して。紙コップ持って、ここを叩く」

 彼女は指で自分の胸元を軽く叩いた。

「酸っぱいやつ、飲む合図」

「了解」

「で、あなたも同じ。勝手に抱えない」

「了解」

「二人でやる。…これ、手順」


 僕は頷いた。

 ホテルの裏口を出ると、夜風が冷たかった。でも、冷たいだけじゃない。どこか柑橘の匂いが残っている。さっき飲んだ酸っぱさが、まだ喉の奥で生きている。


 紗都は空を見上げて、短く言った。

「明日も、会うよね」

「会う」

「会うなら、今日よりちょっとだけ光ってる顔してやる」

「期待してる」

「期待しないで」

「じゃあ、確認する。光ってたら、言う」

「……それなら許す」


 紗都は笑って、駅の方へ歩き出した。

 背中は相変わらずまっすぐだ。だけど今日のまっすぐは、無理に伸ばした線じゃなくて、磨き直した線に見えた。


 僕は手のひらを見た。

 ガラスを磨いた布の匂いと、オレンジの酸っぱさが混ざって、妙に“生きてる日”の匂いがする。

 大げさな奇跡は起きない。でも、明日また会えるなら、今日のため息は盗まれずに済む。

 そう思って、僕は小さく息を吐いた。重くないやつを。

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