『街角の装備屋』
商店街のアーケードは、雨の日ほど元気だ。濡れた靴で歩く人たちが、みんな同じ速度で「今日もなんとか」を引きずっている。シャッターの閉まった店の前を通るたび、僕の胃も一枚ずつ下りる気がした。
僕は紐の切れかけた鞄を肩にかけ直し、ふらっと曲がり角を曲がった。帰り道を間違えたわけじゃない。間違えたくなっただけだ。
そこで見つけた小さな店は、看板がやけに控えめだった。
《装備 修理 手入》
文字の下に、鉛筆で描いたみたいな小さな剣と、鍋と、傘。
武器屋? いや、鍋がある時点でだいぶ違う。
僕は笑いそうになって、笑えなかった。今日は一日、上司の「感じよく」を浴び続けた日だ。笑う筋肉が、どこかに置き忘れたまま。
扉の鈴を鳴らすと、店内は意外に明るかった。蛍光灯じゃなく、昼寝みたいな色のライト。棚には金属の棒やら革の紐やら、謎の小瓶やらが並んでいる。奥では小さな研磨機が唸り、火花がぱちぱち跳ねた。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうから顔を出した店主は、白衣ではなくエプロンで、目だけが妙に鋭い。年齢は分からない。年齢を聞く隙を与えない顔だ。
「……ここ、何の店ですか」
「装備屋」
「装備って」
「生活の」
店主は短く言って、僕の鞄を指さした。
「まずそれ。肩紐、瀕死」
「瀕死って言い方」
「瀕死は瀕死。ほら、縫い目が泣いてる」
泣いてるのは僕の方だ、と言いかけて飲み込んだ。代わりに鞄をカウンターに置く。店主は手際よく紐を引っぱり、金具を確かめ、舌で「ふむ」と鳴らした。
「修理、五分。……で?」
「で?」
「本命。ここに来る人は、鞄だけじゃない。大抵、もっと厄介なのを抱えてる」
僕は肩をすくめた。厄介、という単語が、胸の奥に小石を落とす。小石は今日だけじゃない。積み石だ。
「別に」
「“別に”は大抵、別にじゃない」
店主は笑わない。笑わないのに、からかってくる。厄介なのはこの人だ。
僕は棚の端に目をやった。そこに、小さな札がぶら下がっている。
《弱くていい ただし手入はすること》
説教くさいのに、嫌じゃない。嫌じゃないのが腹立つ。
「……装備って、何を売ってるんですか」
「いっぱい」
店主はカウンターの下から、引き出しをひとつ引っぱり出した。中は小物だらけだ。クリップ、紐、布、シール、鈴、そしてなぜか小さな砂時計。
「これ、全部?」
「全部。たとえば」
店主は砂時計をつまんで、ひっくり返した。
「“三十秒”」
「時間?」
「時間じゃない。息継ぎ。喉が詰まったらこれを見る。砂が落ちきるまで返事を作るな」
「そんな余裕、会社にないです」
「ある。作るんだ。余裕がない顔で喋るから、相手も余裕をなくす」
めちゃくちゃ正しいことを、めちゃくちゃ嫌な口調で言う。腹が立つのに、反論が出ない。
店主は次に、小さな鈴を鳴らした。ちりん、と澄んだ音。
「これは?」
「区切り」
「区切り?」
「仕事が頭から抜けない人は、区切りが下手。帰宅しても脳内会議が続く。だから“終わりの音”を作る」
「家で鈴を鳴らすんですか」
「鳴らせ。家族が驚くなら、それも区切りだ」
「迷惑」
「迷惑は、笑って回収できるなら合法」
僕は鼻で笑ってしまった。久しぶりに、声が出る笑いだった。
「……敵、って言うと大げさですけど」
「敵って言った?」
「言ってない。言ってないです」
「じゃあ言ってないまま続けて」
店主は研磨機のスイッチを切り、鞄を作業台に移した。手が早い。手が早い人は、余計な言葉が少ない。
僕は深呼吸して、言った。
「職場が、しんどいです」
言った瞬間、店内の空気が一段落ち着いた気がした。言葉を口に出すと、形ができる。形ができると、握れる。
「どんな」
「全部です。メール、会議、急ぎ、至急。あと……“感じよく”」
「出た」
店主は大げさに首を振った。
「“感じよく”は毒。塗っても塗っても乾かないやつ」
「乾かない、です」
「だろ。で、誰を倒したい」
「……倒したいって」
「比喩。お前の中で一番でかい邪魔者は何」
邪魔者。僕の喉が一瞬つまる。上司の顔が浮かび、すぐ消える。上司は敵ではない。たぶん。敵にしたら、明日もっとしんどい。
浮かんだのは、鏡の中の自分の顔だった。薄く笑って、薄く頷いて、薄く生きてる顔。
「……僕の、逃げ癖」
「ほう」
「嫌なことがあると、先に“無理”って言いたくなる。言ったら楽です。でも、楽の後が怖い」
店主は頷いた。頷き方が、妙に職人っぽい。
「それなら武器は要らない」
「え」
「要るのは……装備の付け方」
店主は棚から小さな箱を出した。中には、札みたいなものがぎっしり入っている。紙、布、革。形も色もバラバラ。
「何ですか、それ」
「タグ」
「タグ?」
「背中に貼るやつ。見えないけど効く」
「宗教ですか」
「宗教じゃない。手順」
店主は一枚抜いて、僕の手のひらに置いた。小さな布に、太い字でこうある。
《こわがり》
「……悪口?」
「自己紹介」
「自己紹介って」
「臆病なら臆病でいい。臆病を隠して強がると、背中が丸くなる。丸くなると転ぶ」
「転ぶのは嫌です」
「なら貼れ。背中に。今日は臆病って札を背負って行け」
「会社に?」
「心に。会社は見えない」
僕が布札を握りしめた、そのとき。
扉の鈴が乱暴に鳴って、別の客が飛び込んできた。スーツ姿の男性で、顔が真っ赤だ。手には壊れたペンが握られている。
「おい! これ直せるって言っただろ! 昨日ここで買ったんだぞ!」
店主は表情を変えず、ペンを受け取った。
「直せる。直るとは限らない」
「詐欺だろ! 俺は今日これで決裁を通す予定だったんだ!」
「なら代替を出す。決裁はペンで通すんじゃなくて、お前の口で通す」
「口が回らねぇんだよ!」
僕は息を呑んだ。客の怒りは、見覚えがある。怒りというより、追い詰められの形だ。
店主は引き出しから、薄い紙の札を一枚出した。そこには《怒っていい》と書いてある。
「ほら。今」
「ふざけてんのか!」
「ふざけてない。怒りは燃料。爆弾にすると周りも自分も燃える。燃料にするなら、扱い方を覚えろ」
店主はそう言って、男性のスーツの胸元に、その札をぽんと貼った。まるで会議の名札みたいに。
「……貼るなよ」
「貼られてる間は、怒っていい。貼りっぱなしはダメ。帰宅したら剥がせ。剥がしてから飯を食え」
男性はわけが分からない顔をして、でも怒鳴るのをやめた。
「……で、ペンは」
「これだ」
店主が差し出したのは、普通のボールペンだった。何の飾りもない。値札もない。
「これ、安物だろ」
「安物でいい。今日は“通す”が目的だ。見栄は売れ」
「……見栄?」
店主は肩をすくめた。
「見栄は重い装備だ。今日は外せ」
男性はしばらく黙って、最後に小さく言った。
「……悪かった。怒鳴った」
「謝れたら勝ちだ。ほら、行け」
「勝ち負け嫌いだ」
「嫌いだから勝て。反抗だ」
男性は鼻で笑って、札を貼られたまま帰っていった。扉の鈴が今度は静かに鳴る。
店内に戻った静けさが、妙に温かかった。僕は店主を見た。
「……今の、慣れてるんですね」
「慣れてない。毎回腹立つ」
「腹立つ顔してなかったですよ」
「店の顔だ。プロだからな」
その“プロ”が、やけに優しい単語に聞こえてしまって、僕は視線を逸らした。
店主は僕の手首を見て言った。
「お前にも似たのがある。怒りじゃなく、逃げのほう」
「逃げは……ずるいですか」
「ずるくない。逃げは生存技術。問題は“逃げっぱなし”」
店主は別の札を抜いた。紙の端に小さな穴が空いている。
《装備》
「それは何です」
「今、お前が既に持ってるもの」
「持ってないです」
「持ってる。例えば」
店主は指を折った。
「今日ここに来た。逃げ癖のくせに来た。十分」
「……それ、装備?」
「装備。忘れて外に置いて帰るなよ。ちゃんと身につけろ」
店主は紙札の穴に細い紐を通し、僕の手首に軽く結んだ。ミサンガみたいに。
「落ちない程度。きつくしない。きついと嫌になる」
鞄の修理が終わると、店主は肩紐を引っぱって見せた。縫い目がきれいに整っている。僕の生活もこうやって縫い直せたらいいのに。
「はい。これで落ちない」
「ありがとうございます」
「礼より先に、最後。選べ」
店主はカウンターに二枚の札を並べた。
《剣を取る》と《剣を売る》。
「意味が分からない」
「意味は分かれ。明日、お前はどっちをやる」
「剣って、何の」
「言葉。行動。交渉。黙るのも剣だ。取るか、売るか」
僕は二枚を見比べた。取る。売る。勇ましいか、諦めか。二択はいつも乱暴だ。乱暴なのに、助けになる時がある。
僕は息を吸って吐いた。
「……取ります」
「何を」
「剣。……じゃなくて、言うやつ。上司に一個だけ言う。『その急ぎ、理由ください』って」
「具体的でえらい」
「えらいとか言わないでください。恥ずかしい」
「恥ずかしさは証拠だ。まだ生きてる」
店主は引き出しから小銭入れを出した。
「じゃあ手入代」
「え、料金」
「札は無料。手入代は取る」
「ずるい」
「ずるいのは優しさの近道だ。気づかれたら商売あがったりだがな」
「言ってますよ、今」
「言った上で開ける。毎日ドアは開ける。矛盾を抱えて働くのが大人だ」
店を出ると、商店街の雨は止んでいた。アーケードの外に、細い光が落ちている。水たまりが鏡みたいに揺れて、そこに僕の顔が映った。相変わらず疲れている顔。でも、目だけが少しだけ起きている。
僕は背中に“こわがり”の札を貼る真似をして、肩を一度だけ上げ下げした。見えない札は、見えないからこそ格好がつく。
翌朝。会社の受信箱は相変わらず小さな嵐だった。至急、至急、至急。僕は机の下で手首の紙札を指で撫でる。装備。忘れるな、ってやつ。
上司が言った。
「これ、今日中。感じよくまとめて」
僕の口がいつもの返事を作りかけて、止まった。止まるだけで勇気が要る。勇気は、きっと一握りでいい。
僕は息を吸って、吐いて、言った。
「承知しました。……確認だけ。これ、今日中の理由、教えてください。優先を間違えたくないので」
上司が一瞬、目を瞬いた。怒鳴られなかった。机も叩かれなかった。代わりに、上司は鼻で笑った。
「理由? ……上が焦ってる。だから。悪いな」
「分かりました。じゃあ、先にこれやります」
僕は椅子に座り直した。膝が少し震えている。でも、手は動く。剣を取った、ってこういう感じかもしれない。派手じゃない。けれど、逃げない。
昼休み。コピー機の横で、同僚がぼそっと言った。
「また至急? やってらんないよな」
いつもなら、僕は「ですね」で終わらせた。終わらせて、胸の小石を増やした。
今日は違う。机の下で結んだ紐が、軽く手首を引っぱる。
「……一回、三十秒だけ休憩しない?」
「は?」
同僚が変な顔をする。僕も変な顔だと思う。でも続けた。
「息継ぎ。今、ちょっとだけ。戻ったら手を動かす」
同僚は一瞬黙って、それから笑った。
「お前、急に何。……でも、いいなそれ」
僕らは廊下の窓辺で、三十秒だけ無言で立った。砂が落ちるのを眺める代わりに、呼吸の音を数える。たった三十秒。たった三十秒なのに、背中の重さが一段落ちた。
帰り道、鞄の肩紐は落ちそうにならなかった。肩が少しだけ軽い。僕は空を見上げて、小さく笑った。
今日倒した敵は、ドラゴンじゃない。今日ほどいたのは、いつもの自分の「はいはい」で濁す癖。ボロボロの冒険でもない。
でも、章は進む。明日も、ちょっとだけ。
商店街の角で、あの控えめな看板が見えた気がして、僕は歩幅を少しだけ速めた。行くわけじゃない。道があるのを確かめただけだ。
確かめただけで、胸の奥が少し温かい。装備って、案外そういうものなのかもしれない。
家に着くと、僕は靴を脱いで、玄関で一度だけ立ち止まった。いつもならスマホを開いて、仕事の通知を確認して、勝手に残業を始める。
今日はポケットから小さな鈴を取り出し、ちりん、と鳴らした。音は小さいのに、部屋の空気が「はい終了」と言った気がする。
手首の札を指で撫でて、背中の“こわがり”を思い出して、笑った。
怖いままでも、手入れはできる。そういうことにして、僕はお湯を沸かした。




