『止まっていた時計に手を伸ばす』
お祝いが苦手だ。
苦手というより、受け取り方が分からない。拍手を向けられると、どこに置けばいいか分からない荷物を渡された気分になる。持って帰るには大きすぎて、置いて帰るには申し訳なくて、結局、抱えたまま玄関で立ち尽くす。
だから僕は、節目というものを極力つくらない。誕生日も、勤続も、再会も、ぜんぶ「たまたま今日だった」に丸める。丸めておけば、誰も困らない。僕も困らない。そう信じていた。
五月の終わり、空気が少しだけ湿りはじめるころ。僕の自転車修理店のシャッターに、小さな紙が貼られていた。
『本日 店、開けますよね? 夕方、寄ります 差出人:いつもの人たち』
文字は乱暴で、でも端がきれいに揃っている。貼り方も真っ直ぐ。こういう“整ってる乱暴さ”を持つのは、あの三人しかいない。
僕は紙を剥がしてポケットに入れた。剥がす指先がほんの少し震えたのは、寒いからじゃない。シャッターの鍵が重いからでもない。
開ける、という動詞が、ここ数ヶ月ずっと僕の胸の奥で引っかかっていたからだ。
この店は、去年から何度も“開けようとして、開けられなかった”。事情は簡単で、でも説明すると途端に野暮になる。大きなことが一つ起きて、僕の時間が、そこで止まった。止まったというより、止めた。止める方が楽だったから。
それでも三人は来た。
シャッターが閉まっていても、前に立って、紙コップのコーヒーを置いて、ひとことだけ残して帰る。
「焦らなくていいよ」
「今日も生きてたら勝ち」
「部品、頼んどいたから。逃げるなよ」
優しいのか厳しいのか、よく分からない。分からないけれど、彼らの言葉はやけに軽いのに、風で飛ばない重さがある。僕はその重さに救われているくせに、救われていることを認めたくなかった。
紙を貼られた今日も、同じだ。
開けますよね? なんて、疑問形のふりをした命令だ。命令に見えるのが嫌で、僕は反抗したくなる。反抗できるだけの元気が残っているのが、また悔しい。
夕方まで、僕は店の中でひとり、磨き続けた。
工具の取っ手。作業台。床。ガラス。磨けば磨くほど、店が“稼働してるふり”を始める。ふりが上手くなるほど、自分が追いつけない。
時計を見る。針が進んでいる。当たり前だ。
僕だけが取り残されているようで、当たり前が少し腹立たしい。
コン、コン、とシャッターが叩かれた。ノックというより、確認だ。生存確認みたいな音。
僕が鍵を回してシャッターを少し上げると、そこに三人がいた。
背の高い莉央、髪の明るい恵、手ぶらに見えて必ず何かを持っている慎。いつもの顔。いつもの距離。なのに今日は、三人の後ろに紙袋がやけに多い。
「開いたね」
恵が言う。
「……ちょっとだけ」
「ちょっとでいい」莉央が肩をすくめる。「ちょっとが積もると、ちゃんとになる」
「今日、ちゃんとにしよ」慎が言った。「勝手に」
「勝手にって言うなよ」
「言う。勝手にするから」
慎が笑って、店内へずかずか入ってくる。靴のまま。いつもなら注意するのに、今日は口が動かなかった。
彼らは勝手に、店の真ん中に折り畳みの小さなテーブルを置いた。紙袋から、丸い箱が出てくる。次に、紙コップ。次に、ろうそく。ろうそくの数はひとつ。小さい。控えめ。僕の逃げ道みたいに小さい。
「なにこれ」
「お祝い」恵が即答した。
「やめろよ、そういうの」
「やめない」莉央が言う。「だって今日、店が息してる」
「息してるって言うな」
「息してるよ」慎が、ろうそくに火をつけながら言った。「ほら、火が揺れない。風が止んでる」
「店内だからな」
「そういうとこ」恵が笑う。「そういう現実の返し、嫌いじゃない」
僕は立ったまま、手のやり場が分からなくなった。拍手が来る前の、あの嫌な感じ。
受け取れない荷物を渡される前の、嫌な感じ。
ろうそくの火が小さく燃えている。
僕の胸の奥の止めた時間が、そこだけ照らされているみたいだった。
「言っとく」慎が、箱の蓋を開けずに言った。「これは“頑張った”祝いじゃない」
「じゃあ何だよ」
「“戻ってきた”祝い」
慎は指でテーブルを軽く叩いた。いつもの合図。
「帰ってきたって、言えない人いるだろ。だから、先に言っとく。ここ、戻ってきた場所」
僕は口を開けて、閉じた。
戻ってきた、なんて言葉は重い。重い言葉は、言うと形が変わる。形が変わると、もう元に戻らない。元に戻らないのが怖い。
恵が紙コップを僕に押しつけた。
「飲め。まず飲め」
「……またそれか」
「それが手順」
僕は渋々、温かい飲み物を一口飲んだ。甘い。甘いのに、胸が少しだけ苦い。
苦いのは、嬉しいの成分だと、どこかで聞いたことがある。信じたくないのに、今日は信じてもいい気がした。
「ろうそく、消して」莉央が言う。
「お願いの形が雑だな」
「雑でいい」
莉央が笑う。「お前、丁寧にされると逃げるだろ」
僕はろうそくの火を見つめた。
小さい火。小さい火でも、確かに明るい。
息を吸って、吐いた。
火が消えた。
その瞬間、三人が拍手した。ぱちぱち、じゃない。ぱん、ぱん、と短い拍手。褒める音というより、合図みたいな音。
僕の時間の針が、そこで一回だけ動いた気がした。大げさじゃなく。ほんとに、カチ、と。
「で?」恵が言う。「何て言うの、こういう時」
「……知らない」
「知ってるくせに知らないふり」
「本当に知らない」
僕は笑ってしまった。笑ったら喉が少しほどける。ほどけた勢いで、言葉が出た。
「……来てくれて、ありがと」
言えた。
たったそれだけなのに、胸の奥が急に熱くなった。熱は涙じゃなくて、呼吸の熱だ。呼吸が深くなると、目の奥が勝手に湿る。
「返せた」慎が言った。
「何を」
「受け取り」
慎は紙袋をひとつ差し出した。「部品、頼んどいたやつ。ついでに、店の看板用の小さいライト。暗いと見つけにくいから」
恵も紙袋を差し出す。「タオル。汗拭け。今日、汗かいた顔」
莉央も差し出す。「……レンチ。お前のやつ、手に馴染むの割れてたから」
僕は紙袋の重さを、ちゃんと手のひらで受けた。
さっきまで受け取れないと思っていた荷物が、なぜか持てる。持てるのは、彼らが小さくしてくれたからだ。ろうそく一つ分に。
「お前さ」莉央が言った。「祝われるの苦手なの、分かる」
「分かるならやめろよ」
「やめない」
莉央は笑う。「苦手は、練習で薄まる。逃げっぱなしの方が後で痛い」
「痛いの嫌い」
「じゃあ、今ここで少し痛いのやれ」
「乱暴」
「乱暴は優しさの近道」
恵が、どこかで聞いたような言い方をして笑った。
僕は店の奥を見た。工具が並び、油の匂いがして、床の傷がそのまま残っている。
この場所は、止まっていたのに、ずっと待っていたのかもしれない。僕が鍵を回すのを。
「……明日も、開ける」
僕が言うと、三人が同時に「お」と声を出した。
大げさに喜ばないのが彼らの優しさだ。大げさにすると、僕が逃げるのを知っている。
「明日も、来る?」
僕が続けると、恵が眉を上げた。
「それ、誘い?」
「……そう」
「いいじゃん」莉央が言う。「じゃあ明日は、客としてじゃなく、手伝いとして来る」
「手伝いは要らない」
「嘘つけ」
「じゃあ、少しだけ」
「少しだけがいいんだよ」恵が笑う。
僕らは店の前に椅子を出して、紙コップの続きを飲んだ。商店街の灯りが点いて、空気がぬるくなる。
誰かが通り過ぎるたび、僕の店をちらりと見る。シャッターが上がっているだけで、世界が少し変わる。世界が変わるんじゃない。僕のほうが、世界に戻っていく。
帰り際、慎が振り向いて言った。
「今日さ、言っとく」
「何」
「お前が遅かったとか、準備ができてないとか、誰も気にしてない」
慎は真顔で言った。真顔の慎はずるい。
「戻ったなら、それでいい。遅れた分、これから面白い」
僕は返事を探して、結局、笑った。
「……面白いは、まだ早い」
「いい」恵が言う。「早くなくていい。面白いは、そのうち勝手に来る」
莉央が手を振った。「じゃ、また明日。鍵、ちゃんと閉めろよ」
「それは言われなくても」
「言う。言わないと不安になる」
「不安、出していいんだ」
僕が言うと、莉央は一瞬だけ黙ってから言った。
「出していい。出した方が長持ちする」
三人が去ったあと、僕は店の中に戻った。
テーブルを片づけ、紙コップを捨て、工具を整える。いつもの作業。いつものはずなのに、指先が少し軽い。
シャッターを下ろす前に、僕は一度だけ振り返った。
作業台の上に、ろうそくの燃え残りがちょこんと残っている。
小さい。小さいけれど、ちゃんと焦げ跡がある。今日があった証拠だ。
僕はその燃え残りを、捨てずに小さな缶に入れた。保存のためじゃない。忘れないためでもない。
明日、また開けるときに、指で触れるためだ。
止まっていた時計に、もう一度手を伸ばすためだ。
鍵を回す。
カチ、と音がする。
今度の音は、さっきより少しだけ軽かった。




