『ランドリーの心臓』
コインランドリーは、夜になると急に正直になる。
昼は白い蛍光灯の下で「洗って乾かす場所」って顔をしているのに、深夜は別の顔を出す。洗濯機の回転音が低いドラムになって、乾燥機の熱風がベースみたいに床を震わせる。誰も意図してないのに、勝手に演奏が始まる。
店の隅の椅子に座って、僕はその音を聴いていた。
聴いているというより、勝手に胸の中に入ってくる。脈拍と同じ速さで。いや、脈拍が勝手に合わせにいっている。
「また来た。ランドリーでうっとりするおじさん」
カウンターの向こうから、店主の直さんが笑った。直さんは僕より二つ年上で、言い方が雑で、でも変なところが優しい。
「おじさんじゃない」
「じゃあ何」
「……ちょっと型が古い人間」
「それは自分で言うな。ダメージ増える」
僕は乾いた笑いを出して、空の紙コップを指で転がした。
今夜ここにいるのは、家に帰りたくないからじゃない。帰りたい。帰りたいけど、帰る前に一回だけ、心のどこかを洗ってから戻りたい。
僕は四十三歳。厄年らしい。厄年って、身体のあちこちが同時に「そろそろ気づけよ」って騒ぐ年なんだと思う。肩、腰、目、胃、そして気持ち。
仕事は普通。家庭も普通。普通だから、急に「普通が怖い」になる時がある。
直さんが壁の貼り紙を指差した。
「ほら。今日の禁止事項」
貼り紙には大きく書いてある。
《言い訳を言い訳で上塗りしない》
「誰のための貼り紙」
「お前のため」
「やめて」
「やめない。ここは装備屋じゃなくても、お前には手入れが必要」
そんな会話をしていると、入口の鈴が鳴った。
深夜のランドリーに入ってくる足音は、だいたい疲れている。だけど今夜の足音は、疲れてるのに速い。追い立てられているみたいな速さだ。
入ってきたのは、駅前のビルで時々すれ違う女性だった。名前は知らない。いつも背筋がまっすぐで、髪がきれいで、急いでいる人。
今日はまっすぐじゃなかった。コートの襟が片方だけ折れていて、髪も少し乱れている。なのに顔だけは「平気」の形を貼っている。
彼女は洗濯物の入った袋を持ち上げ、空いている洗濯機を探した。
番号が大きく書かれた機械が並ぶ。2、1、4、6、3。並び順が妙で、初めて来た人は必ず戸惑う。直さんの趣味だ。
「空いてるの、2番と4番だけだね」
直さんがさらっと言う。
「……じゃあ、2で」
女性は短く答えて、洗濯機に袋を放り込んだ。放り込む動きが乱暴で、乱暴の中に疲れが混じっていた。
僕は見てしまった。
洗濯機のふちに、彼女の指が一瞬だけ止まったのを。止まって、離れた。深呼吸の代わりの動き。
ああ、と思った。
この人、今日、言いたいことが喉の奥に溜まってる。
直さんが僕の膝を軽く蹴った。
「お前、目がうるさい」
「うるさくない」
「うるさい。余計なお世話の目」
「……違う」
「違わない。ほら、行け。行って、黙ってる練習しろ」
意味が分からないまま、僕は立ち上がった。
洗濯機の前で硬くなっている彼女の背中に、声をかける勇気なんてない。だから僕は、カウンター脇の棚から取り出したものを持って行った。
使い捨ての紙コップと、粉の紅茶。直さんが置いているやつ。甘くない、香りだけのやつ。
「……これ、よかったら」
僕は彼女の横に、紙コップを置いた。
彼女が振り向く。目が少しだけ驚いて、それから警戒に戻る。戻る速さが、慣れすぎている。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
大丈夫。便利で、危ない言葉。
「大丈夫なら、飲んで大丈夫です」
僕は変なことを言ってしまった。言った自分が一番驚いた。
彼女は一拍置いて、鼻で小さく笑った。
「……何それ」
「僕も分かりません」
自分で言って、少しだけ楽になった。分からないって言えると、肩が落ちる。
彼女は紙コップを両手で包んだ。
「……あったかい」
「はい」
「こういうの、久しぶり」
その言い方が、胸に当たった。久しぶり。あったかいのが久しぶり。
彼女は洗濯機の表示を見た。残り時間、27分。
「待ち時間、長いですね」
「長いです」
「……長いと、考えちゃう」
「考えると、回っちゃう」
僕が言うと、彼女が目を細めた。
「回っちゃう?」
「洗濯機みたいに。ぐるぐる」
「……最悪」
彼女は笑って、すぐに笑いを引っ込めた。引っ込めた時の顔が、昼間の彼女の顔に似ていた。
僕は勢いで言った。
「最悪の時って、音を聴くといいですよ」
「音?」
「ここ、意外と鳴ってます。洗濯機も、乾燥機も。勝手に」
「……勝手に、が好きなんですか」
「好きじゃないです。でも、勝手に鳴るものは、責めなくていい」
彼女は黙った。
黙って、耳を澄ませた。
乾燥機の低い唸り、洗濯機の回転、鈴みたいな小さな金属音。遠くの道路の音。全部が混ざって、でも不思議とまとまっている。
「……確かに、鳴ってる」
「はい」
「こういうの、なんて言うんですか」
「……たぶん、心臓の外付け」
「へんな言い方」
「へんな人間なので」
彼女が笑った。今度は引っ込めなかった。
その笑いで、僕は勝手に胸の奥が熱くなった。変な熱。照れでもないし、恋でもない。たぶん、火種みたいなもの。
彼女が言った。
「私、今日、ずっと平気な顔してて。平気な顔のまま、帰り道で急に息ができなくなって」
「……うん」
「ここに逃げた。洗う理由もないのに」
「あるじゃないですか。洗う理由」
「何を」
「……今日の顔」
言ってから、僕は焦った。踏み込みすぎた。
でも彼女は、怒らなかった。少しだけ目を潤ませて、それを慌てて瞬きで乾かした。
「ねえ」
「はい」
「私、叫びたい」
「……叫びましょう」
「ここで?」
「ここだと、直さんに怒られます」
カウンターの向こうで直さんが手を上げた。
「怒らない。叫ぶなら、乾燥機の前でやれ。音で隠れる」
雑な許可が出た。
彼女は笑って、でも首を振った。
「叫ぶほどじゃない。叫ぶほどの理由を、ちゃんと持ってない」
「理由が薄いほど、しんどいんですよ」
僕が言うと、彼女が目を見開いた。
それから、紙コップを握り直して、ぽつりと言った。
「……今日ね。私が頑張って作った資料、上司に“無難でいいね”って言われた」
「うわ」
「うわ、って言った」
「言いました。声に出てました」
「ありがとう。うわ、って言ってくれる人、初めて」
「僕、うわの担当です」
「担当、増やさないで」
洗濯機が、脱水に入った。回転が速くなる。音が太くなる。
彼女はその音に合わせるみたいに、肩を上下させた。
「私、負けた気がした」
「負けでいいです」
「さっきもそれ」
「負けたら、やめられます。やめたら、別の形で続けられます」
「……続けるの、好きなんですか」
「好きじゃないです。でも、止まると怖い」
僕は笑ってしまった。
「寂しいと、僕、わりとすぐ死にそうになるタイプなんで」
「軽く言うな」
「軽く言わないと重いんです」
彼女が小さく頷いた。分かる、の頷き。
残り時間がゼロになって、洗濯機が止まった。
世界の音が一段だけ静かになる。静かになると、また考えが戻ってくる。だから僕は、つい言ってしまった。
「もしよかったら、乾燥が終わるまで、ここで一曲作りません?」
「は?」
「曲っていうか、合図。今日を越えるための、短いやつ」
「そんなの作れるの?」
「作れないです。でも、作ろうとするだけで、ちょっと面白い」
僕は机の上のメモ帳を引き寄せて、ペンを渡した。
「単語、四つでいいです」
「四つ?」
「うん。喜、怒、哀、楽。どれでも。好きな順番で」
彼女が眉を上げた。
「それ、子ども向け教材みたい」
「強いんです。子ども向け」
彼女は少し迷って、書いた。
怒。哀。怒。楽。
「怒が多い」
「いま怒ってる」
「いいですね」
「いいの?」
「怒りは燃料です。爆弾にしなければ」
僕が言うと、彼女が笑った。
「あなた、変な理屈ばっかり」
「僕、言い訳ばっかりの人間なんで」
「自覚あるのがムカつく」
「自覚あるとウザいでしょ」
「うざい」
「うざいまま、続けます」
「続けるの嫌いなんじゃなかった?」
「嫌いだから続ける。反抗です」
彼女は声を出して笑った。洗濯物を取り出す手が、少しだけ軽い。
乾燥機に服を放り込み、コインを入れる。
2番機が回り始め、次に1番機が止まり、4番機の表示が点滅する。数字がずれてるのに、全部ちゃんと動いている。
僕はその機械の並びを見て、ふと思った。順番が変でも、回っていればいいんだ。きれいな直線じゃなくても、鼓動は鳴る。
彼女はメモ帳を僕に見せて言った。
「じゃあ、あなたの四つは」
僕は少し迷って、書いた。
哀。楽。哀。喜。
「哀が多い」
「いま哀しい」
「でも、最後が喜」
「……最後だけは、火を点けたい」
言ってから、僕は照れた。
彼女は照れを拾って、優しく笑った。
「誰に」
「……今日の自分に。あと、たぶん、あなたにも」
乾燥機の窓の中で、洗濯物がぐるぐる回る。
回るものは、止まったら終わりじゃない。回っている限り、熱が入る。熱が入ると、柔らかくなる。柔らかくなったら、次に畳める。畳めたら、明日をしまえる。
「ねえ」彼女が言った。
「はい」
「ここ、また来てもいい?」
「もちろん。……ただし、叫ぶなら乾燥機の前で」
「叫ばない」
「叫びたくなったら、紙コップです」
「それ、手順?」
「手順です。僕が勝手に決めました」
「勝手に決めるの好きだね」
「好きじゃないです。でも、勝手に回るものには勝てない」
彼女は鼻で笑って、頷いた。
乾燥が終わって、彼女は服を抱えて出ていった。
出ていく前に一回だけ振り返って、言った。
「……ありがとう。今日、息が深い」
それだけ言って、走り去る。走り方が少しだけまっすぐに戻っていた。
僕は椅子に座り、機械の音を聴いた。
鳴り止まないとか、そういう大げさなことは言わない。
ただ、今夜の鼓動は、確かにここにある。五臓六腑って言葉を、あまり堅くしないで思い出せるくらいには。
僕は胸に手を当てて、小さく息を吐いた。重くないやつを。
直さんがカウンターから言った。
「お前、久しぶりにいい顔してる」
「いい顔って何」
「火がついてる顔」
「……火、勝手に点いた」
「勝手は最高だよ」
直さんは笑って、貼り紙の横に新しい札を貼った。
《回るなら、いったん回れ》
僕はその札を見て、声に出して笑った。
明日も回る。回りながら、少しずつ、自分の音を拾う。
それが僕の、古い人間のロックだ。




