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短編集  作者: 科上悠羽
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『冷蔵庫の中の合図』

 強がりって、便利だ。

 「平気」「大丈夫」「一人でできる」――この三つを口に貼っておけば、誰も余計な心配をしない。自分も心配しなくて済む。……はずだった。


 鍵を回して部屋に入った瞬間、空気が軽いのに気づいた。軽いのは、掃除をしたからじゃない。そこにいたはずの気配が、いないからだ。

 リビングの電気を点ける。いつもならソファの端に投げられているはずの上着がない。玄関に並ぶはずのもう一足の靴がない。小さな部屋が、妙に広い。


「……別に」


 誰もいないのに言ってしまう。言うと、少しだけ自分の声が他人みたいに聞こえるから。冷静なふりがしやすい。


 冷蔵庫を開けた。

 光だけが明るくて、中身が薄い。マヨネーズ、醤油、チューブのわさび。あと、賞味期限ギリギリのヨーグルト。

 そして、貼りついたメモが一枚。


《帰るまでに、ちゃんと食べる。できなかったら罰。》


 字は、彼女の字だった。細くて、でも妙に強い。昨日の夜、僕が「一人でも平気」と言ったとき、返事の代わりに貼られたやつだ。

 彼女は怒って出ていったわけじゃない。怒ると分かりやすいのに。僕らが揉めたのは、もっと地味なところだ。言い方が刺さった、とか。忙しさのせいにした、とか。謝るタイミングを逃した、とか。そういう、後からほどけない結び目。


 僕はヨーグルトの蓋を開けて、スプーンで一口すくった。

 味がしない。いや、味はする。舌が受け取り拒否しているだけだ。


 スマホを手に取る。連絡先はすぐ出る。送る文面も頭に浮かぶ。

『ごめん』

『帰ってきて』

『さっきの言い方、悪かった』

 どれも短いのに、送信ボタンだけが遠い。指先が、そこを避ける癖を知っている。


 画面を伏せて、深呼吸した。

 息を吸うと、胸の奥に空洞がある。空洞は痛くない。痛くないのが怖い。痛いなら、ちゃんと何かが壊れたって分かるのに。


 僕は台所の引き出しを開け、油性ペンを取り出した。意味は分からない。手が勝手に動く。動くときだけ、頭の騒音が減る。

 コピー用紙に、でかく書いた。


《いくつか、やる》


 雑だ。小学生の反省文みたいだ。なのに、文字がそこにあるだけで、部屋の空気が少しだけ整理された気がした。


 次の紙に書く。


《まず、買う》


 当たり前すぎる。けど、当たり前は一番難しい。

 僕は財布とエコバッグを掴んで外に出た。夜のスーパーは、明るいのに静かだ。人の生活音が、棚の間をぬるく流れている。カゴを持ったまま、僕は立ち止まった。

 何を買えばいい? 彼女はいつも、何を買ってた?


 分からない。

 分からないけど、分かることから拾う。

 卵。豆腐。ネギ。冷凍うどん。味噌。

 それから、彼女が好きだった柑橘の飴を一袋。これは役に立たない。役に立たないけど、役に立つ。意味が後から付くやつだ。


 帰宅して鍋に湯を沸かし、具材を放り込んだ。切り方は雑。味噌の量も適当。だけど、湯気は真面目に立つ。湯気が立つと、部屋に「いま」が戻ってくる。


 食べながら、もう一度スマホを開いた。

 さっきの言葉に、別の言葉を足す。


『帰ってきて』じゃない。

 それは縛りだ。


『ごめん』だけでもない。

 それは軽い逃げ道になる。


 僕は、音声メッセージを選んだ。文字より声のほうが、言い逃げしにくいからだ。

 録音の赤い点が点灯する。心臓がうるさくなる。


「……今日、部屋が広い。広いの、嫌だ」


 言えた瞬間、喉の奥が熱くなった。恥ずかしい熱。だけど、熱があるなら生きてる。


「一人で平気って言ったの、強がりだった。……君がいないと、たぶん、俺は『考えすぎる癖』が悪化する」


 言いながら、笑ってしまった。自分の癖を口に出すのは、なんだか負けみたいで、でも楽だ。


「帰ってきて、とは言わない。代わりに、明日、十分だけ会ってほしい。スーパーの前のベンチでもいい。……そこで、俺のダメなところ、笑ってもいいから、言って」


 最後に、一息。


「……辛さ、分けたい。俺だけで抱えるの、もう飽きた」


 送信した。指が震えて、送信ボタンを二回押しそうになった。


 送った瞬間に後悔が来るかと思った。来なかった。代わりに、鍋の中の湯気が見えた。湯気は、今夜の僕の味方だった。


 返事はすぐには来ない。来ない方がいい。相手にも息継ぎがいる。

 僕は食器を洗い、床に落ちていた糸くずを拾い、さっき書いた紙を冷蔵庫に貼った。


《いくつか、やる》

《まず、買う》


 その下に、もう一枚足す。


《悪い癖は、ひとりで噛まない》


 言葉が変だ。噛むって何だ。自分でも分からない。でも、分からない言葉は、たまに効く。考えすぎる脳が、意味を探す前に止まるから。


 風呂から上がると、スマホが震えた。

 画面には短い返事。スタンプじゃない。文字だ。


『広いの、嫌なの、わかる。』

『十分じゃ足りないけど、まず十分。』

『あと、柑橘の飴、買ってきて。あなたの口、酸っぱいと黙るから。』


 僕は声を出して笑った。笑うと、部屋の広さが少しだけ縮む。縮むというより、壁が「ちゃんとここにいる」と返事をする。


 僕は返信した。短く。


『買った。明日、持ってく』


 送信して、スマホを伏せた。冷蔵庫のメモが目に入る。

《帰るまでに、ちゃんと食べる。できなかったら罰。》


 罰って、何だろう。きっと、大げさなものじゃない。

 明日、彼女の前でちゃんと「悪かった」と言うこと。言ったあと、逃げないこと。笑われても、笑い返すこと。そういう、小さな手順の罰だ。


 布団に入る。暗闇は相変わらず静かだ。でも、静かさの質が違う。

 届くと分かった声は、胸の奥でまだ温かい。


 目を閉じる直前、僕はもう一枚、紙を貼った。いちばん小さな紙に、いちばん短く。


《さぁ、寝る》


 言葉は命令形だけど、誰かを急かすためじゃない。自分を前に進めるための合図だ。

 明日、十分のベンチで、僕らはちゃんと笑ってみせる。噛み砕けないものは、二人で噛む。そういうふうに、いくつかやる。


 部屋はまだ広い。でも今日は、広さが少しだけ優しかった。



 翌日、仕事は相変わらず「急ぎ」の顔をしていた。けれど僕は、定時になった瞬間に立ち上がった。逃げじゃない、と自分に言い聞かせる。逃げじゃなくて、約束だ。

 駅前のスーパーの横、金属のベンチは昼でも冷たい。触れると、生活の現実みたいにひやっとする。


 彼女は先に座っていた。髪をまとめ、紙コップを両手で包んでいる。いつもなら真っ直ぐな背中が、今日は少しだけ丸い。丸いのに、こちらのほうが安心する。頑張りすぎてない形だから。


「二分」

「……すみません」

「許す。代わりに、飴」

 促されると逃げ道が消える。僕は袋を差し出す。彼女は一粒口に入れて、わざと顔をしかめた。


「酸っぱ。で、言うことは?」

 笑われてるのに、責められていない。だから言える。


「昨日、言い方が悪かった。『平気』って言ったの、強がりだった」

 彼女はすぐに返事をしないで、飴を転がした。待ってくれる沈黙は、怒鳴り声より優しい。


「昨日のメッセージさ」彼女が言った。「帰ってこい、って言わなかったの、えらい」

「えらいとか言うな」

「言う。縛らないの、あなたの優しさだもん。……その代わり、会うって言った。逃げ道を残しながら前に出るの、ずるいけど上手」

 ずるい。上手。両方とも、少しだけ嬉しい言葉だ。


「私も悪い癖がある」

「なに」

「黙って出ていく癖。言うと泣きそうで、泣くのが悔しくて、先に歩く」

 彼女は飴を指先でつまんで見せた。

「だから昨日、札だけ残した。あれ、謝罪じゃなくて“置き手紙”」

「……届いた」

「ならよかった。次は、札じゃなくて口で言う。あなたが先に“平気”を貼りそうになったら、私が三回。私が黙って歩きそうになったら、あなたが三回」

 合図が相互になると、急に心が軽くなる。片方だけが頑張ると、いつか折れる。二人だと、折れ方が変わる。


 僕らが揉めたのは、派手な理由じゃない。帰宅が遅い日が続いた、とか。返事が雑だった、とか。『あとで』が増えた、とか。そんな小さな欠けが、気づくと靴の中の小石みたいに痛くなる。それを僕は「気にしてない」で済ませた。彼女は済ませなかった。済ませない方が、たぶん正しい。


「迷惑はあるよ」

 胸が一瞬きゅっとなる。

「でも、黙って“迷惑ゼロの顔”を作る方が、もっと迷惑」

 彼女はさらっと言って、ベンチの端を三回こつこつ叩いた。合図みたいに。

「いったん止まる、の合図。作っとく。取り合い禁止ね」


 僕は笑いかけて、途中で止まった。照れが先に来た。

「……俺、考えすぎる」

「知ってる」

「止めて」

「止めない。噛み砕く」

 彼女は顎を動かす真似をして、僕を笑わせた。笑った分だけ、喉がほどける。


「じゃあ交換」

 彼女が言う。「あなたが黙ったら飴。私が言い過ぎそうなら水。二人とも無理なら、三回」

 僕は頷いた。手順は、今日を越えるための装備だ。


「延長は買い物」

 彼女が立ち上がる。

「強制」

「強制。冷蔵庫、空っぽだったでしょ」

「……見たの?」

「見なくてもわかる。あなた、冷蔵庫の前で固まる顔してる」


 スーパーで卵と豆腐とネギをカゴに入れる。僕は罰の代わりに約束を出した。

「次、ちゃんと食べられなかったら、翌日の朝ごはん係、俺」

「自滅」

「取り戻し」

 彼女は笑って「じゃあ私も」と言った。「感じよく、で逃げたら指摘していい券あげる」

「券とか言うな」

「許可があると、あなた踏み込めるでしょ」


 会計の列で、彼女がふいにベンチの合図を試した。指で三回、カゴの縁をこつこつ。

「なに」

「いったん止まる。あなた、ポイントカード探す顔して固まってた」

「してない」

「してた。だから止めた。ほら、息」

 僕は息を吸って吐いて、笑った。こういう小さな止まり方なら、恥ずかしくない。


 帰宅して鍋を温め直す。昨日の適当が、一晩で少し丸くなっていた。湯気が立つと、部屋が「いま」を思い出す。

「昨日の声」彼女が言う。

「……やめて」

「やめない。『飽きた』って言ってた」

 恥ずかしさで耳が熱くなる。

「飽きたは次の言葉。次は分ける。いま分けてる」


 僕は冷蔵庫の古いメモを剥がし、代わりに新しい紙を貼った。二人の字で、短く。


《困ったら、三回》

《酸っぱいのと、水》

《最後に、いったん寝る》

 貼り終わって、彼女が僕の肩にもたれた。

「今日の罰、もう一個」

「まだあるの」

「ある。あなた、明日“平気”って言いそうになったら、先に『いったん』って言う」

「いったん?」

「うん。『いったん』は魔法。すぐ決めなくていいって合図」

 彼女は笑って、飴の袋を枕元に置いた。生活の武器が、また一つ増える。


 夜、部屋はまだ広い。でも、広さの意味が変わった。空っぽの広さじゃない。二人が動ける広さだ。

 布団の中で彼女が小声で言った。

「平気の札、貼りたくなったら剥がしてね」

「怖い」

「怖くていい。怖いまま剥がす」


 僕は目を閉じる前に、昨日貼った小さな紙を思い出す。

《さぁ、寝る》

 合図みたいな言葉。命令じゃない、前へ進むための短いやつ。


「……さぁ、明日もやろう」

「うん」

 返事は短いのに、ちゃんと届いた。


 翌朝、目覚ましの前に彼女が台所で水を飲む音がした。冷蔵庫には昨夜のメモが貼られたまま、ぴんと背筋を伸ばしている。

 僕は寝起きの声で「平気」と言いかけて、途中で止めた。

「……いったん、顔洗う」

 彼女が布団の中で笑った。笑い声があるだけで、部屋の広さはもう怖くない。今日も、やろう。

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