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短編集  作者: 科上悠羽
19/71

『風下の花壇』

 ビル風って、悪意がある。

 駅前の交差点を渡った瞬間、紙袋がふわっと持ち上がって、手の中から抜けそうになった。慌てて握り直すと、今度は髪が目に張りつく。息を吸うと、喉の奥が乾いたまま鳴った。

 今日、私は「屋上花壇プロジェクト」の担当だ。言い方はかわいい。中身は、地味に命綱だ。来週から始まる会社の採用キャンペーンに合わせて、社屋の屋上に花壇を作る。写真を撮って、SNSに出して、「働きやすい会社です」って顔をする。顔をするために、土と水と人手と、あと、私の神経を使う。


「油断しないでね。今回は“感じよく”ね」

 朝のミーティングで言われた台詞が、まだ耳に残っている。

 油断、感じよく。

 どっちも便利で、どっちも毒だ。便利だから、毎回飲まされる。飲み続けると味が分からなくなる。味が分からなくなると、自分がどこで息をしてるかも分からなくなる。


 屋上へ運ぶための苗は、近所の園芸店から届いた。小さなビニールポットが箱にぎゅうぎゅうに詰まっている。私はその箱を抱えてエレベーターに乗った。途中階で降りた別部署の人が、箱の中身を覗き込んで笑った。

「え、花? いいね。癒しじゃん」

「癒しになるように頑張ります」

 反射で言って、心の中で舌打ちした。癒しって言葉、簡単に投げると重い。癒されない側が悪いみたいになるから。


 屋上に出ると、風はさらに強かった。

 空は青い。青いのに、胸の中は落ち着かない。柵の向こうに、碁盤の目みたいな街が広がっている。道がまっすぐで、信号が規則正しくて、人が点みたいに動く。

 こんなふうに人生も整頓されてたら楽なのに、と一瞬思う。

 思って、すぐ自分で笑ってしまった。整頓されてたら、迷いも悩みもなくて、でも、たぶん私の頭の中だけが退屈で暴れる。


「おーい、新人担当さん。風、やばいね」

 声をかけてきたのは、設備担当の矢口さんだった。背が高くて日焼けしてて、手がいかにも工具の人の手。矢口さんは手すりに腕を乗せ、風に向かって平然としている。

「やばいです。苗、飛びそうです」

「飛ばすなよ。飛んだら回収が地獄」

「地獄って言わないでください」

「言う。現場は言葉が短い方が助かる」

 矢口さんは笑って、私の箱の角を軽く押さえた。風下に寄せるだけで、少し楽になる。

「ほら、風上で頑張るな。物も人も」


 花壇は、屋上の端にある小さな区画だ。すでに土は入っていて、枠も組まれている。今日の作業は、苗を並べて配置を決めること。

 私は図面を広げた。上司が作った、きれいすぎる図面。色のバランスも背丈のバランスも完璧で、完璧すぎて息が詰まる。

「こう並べれば映えるよね」

 その“映える”が、私の首に紐をかける。映えるために植物はここに来たわけじゃない。けれど会社は植物を“映え”で使う。腹が立つのに、腹が立つと言うと仕事が増える。


 ポットから苗を出し、土に置く。置いた瞬間、風で葉が震えた。震えた葉が、まるで「ここでいいの?」と聞いてくるみたいで、私は手を止めた。

 私は、絵が好きだ。子どものころから、紙の上なら何でも咲かせられた。色鉛筆で夜の青も昼の黄色も自由に混ぜられた。現実は違う。現実は乾くし、枯れるし、予定どおりにいかない。

 だから私は「無難」を選ぶ癖がついた。

 無難は、夢を笑う。

 少し先の曲がり角で、夢が小馬鹿にしている気がする。あっちへ来いよ、と。来れるなら来てみろよ、と。


「止まると風に負けるぞ」

 矢口さんが言った。

「負けたくないです」

「負けてもいい。負け方を覚えろ」

「矛盾してません?」

「矛盾がないと人間じゃないだろ」

 矢口さんは工具袋を開け、細い紐と小さな杭を取り出した。

「こういうときは固定。苗が根を張るまで支える。見た目はちょっとダサいけど、倒れるよりマシ」

 矢口さんの手つきは迷いがない。支えることに慣れている手。

 私はその紐を受け取った。指先が少し震えた。風じゃない。自分の焦りだ。


 昼休み、屋上の隅にある古いベンチで、私はおにぎりを食べた。風が強くて海苔がめくれる。めくれた海苔を慌てて押さえながら、笑いそうになって笑えなかった。

 スマホを見ると、母から「元気?」だけのメッセージが来ていた。母は植物が好きだ。小さな庭で、毎年同じ場所に同じ花を咲かせる。咲くたびに「今年も生きてるね」と言う。

 私は返信欄に「元気」と打って、消した。元気は便利な単語だ。便利だから、本当を隠すときに使ってしまう。

 代わりに、こう打った。

『風が強い。花が揺れてる。』

 送ると、すぐ返事が来た。

『揺れるのは生きてる証拠。水はケチるな。』

 母はいつだって短い。短いのに刺さる。


 午後、上司が屋上に上がってきた。

「進捗どう? 写真、今日撮れる?」

「配置はだいたい……」

 私は図面を見せようとして、言葉が詰まった。

 図面の通りに並べれば確かに綺麗だ。でも、風が強い日は一部が倒れそうだし、陽の当たり方も図面の想定より偏っている。何より、並べてみると、綺麗すぎて息ができない。

 私は、また「無難でいいね」って言われる未来が見えた。

 その未来で、自分がしおれていくのも見えた。


 胸の奥がぎゅっとなって、目が熱くなった。泣きたいわけじゃない。悩んで迷って、こぼれ落ちそうなものがあるだけだ。

 私は息を吸って吐いて、言った。

「配置、少し変えたいです」

 上司が眉を上げた。

「え? 図面は?」

「図面は綺麗です。でも、ここ、風が強いです。高さのある花を端に置くと倒れやすい。……それと、全部を綺麗に揃えると、写真は映えるけど、ここに来た人が息をしにくい気がします」

「息?」

「はい。花壇って、息をする場所になった方が長持ちします。…たぶん」

 たぶん、で逃げた自覚がある。でも、逃げながら前に出た。これが今の限界だ。


 上司はしばらく黙って、土を覗き込んだ。

「君、面倒くさいこと言うね」

 心臓が一段跳ねる。

「すみません」

「いや。…面倒くさいの、悪くないかも。写真だけなら図面でいい。でも、枯れたら意味ないし」

 上司が肩をすくめた。

「じゃあ、理由を添えて提案書。今日中ね」

「今日中……」

「今日中。だけど、ちゃんと書けば通す。…言い切れ。逃げるなよ」

 最後の一言が、矢口さんの言葉と同じ温度だった。腹が立つのに、少し嬉しい。


 上司が去った直後、広報の長谷部さんが屋上に顔を出した。スマホを片手に、もう“映える角度”で立っている。

「ねえ、図面変えるの? 困るなあ。統一感が崩れる」

「統一感?」

「うん。みんな同じテンション、同じ色味。ほら、会社って“揃ってる”方が安心じゃん」

 揃ってる方が安心。確かに。だけど、揃いすぎると窒息する。

「揃ってるのは、写真の中だけで十分だと思います」

 私が言うと、長谷部さんは「えー」と子どもみたいな声を出した。

「真面目だなあ。遊びじゃん、花壇なんて」

「遊びにするなら、長持ちする方がいいです」

「……面倒くさい」

「はい。面倒くさいです」

 言い返した自分に驚いた。いつもなら笑って流すのに。今日は流したくなかった。

 長谷部さんは肩をすくめて去った。去り際に小声で「結果出してね」と投げてくる。

 結果。結局そこだ。

 私は風に向かって、こっそり舌を出した。大人がやると幼稚だけど、幼稚は時々必要だ。


 夜、デスクに戻って提案書を書いた。

 “風対策のため配置変更”。それだけじゃ足りない気がして、私は一行だけ添えた。

 “整然さより、長く息をする花壇を優先します”。

 書いてから、少し照れた。こういうのは、いつも胸の中で思って終わらせる。文字にすると責任が生まれる。でも責任は、逃げなければ味方になる。


 提出ボタンを押したあと、私は引き出しからスケッチブックを出した。学生のころの名残。ページの端に、雑な花がいくつも描いてある。花の横に、小さな文字。

 不安、焦り、劣等感、言い訳。

 私はそれらを“種”と呼んでいた。嫌なものを嫌なまま握ると毒になる。だから紙の上で一度、形にする。形にすると、土に埋められる気がした。

 私は新しいページに、今日の屋上を描いた。風で揺れる花。少し乱れた配置。落ちた花びら。揺れるほど光が跳ねること。

 そして余白に、短く書いた。

 見せたいのは、くすんだ勝ちじゃない。今日みたいな、生きてる揺れだ。


 翌週、撮影の日。

 カメラマンが屋上に上がり、スタッフが「こっち向きで」と叫び、太陽が遠慮なく照りつけた。風は相変わらず真正面から来て、髪が乱れ、スカートが揺れ、誰かが「うわ、強っ」と笑った。

 それでも花壇は踏ん張っていた。低い花が面を作り、ところどころ高さの違う緑がリズムを作る。完璧な左右対称じゃない。だから、目が休める。

 風で花が揺れるたび、光が跳ねた。花びらがひらひら舞って、空に小さな紙吹雪みたいな一瞬ができる。

 その一瞬が、なんだかたまらなく綺麗だった。


「いいね。…こっちの方が“生きてる”」

 カメラマンが言った。

 広報の長谷部さんが、悔しそうに笑った。

「……確かに。なんか、目が疲れない」

「それです」

 私が言うと、長谷部さんは「うるさいな」と言って、でもスマホで花壇を撮っていた。


 上司が頷いた。

「採用。君の案、通してよかった」

 私は「ありがとうございます」と言いかけて、少しだけ言い直した。

「……よかったです」

 よかった、は小さい言葉だけど、今日はちゃんと熱を持っていた。


 撮影が終わり、人が引けた屋上で、私は母に電話をかけた。普段は用事がないとしない。用事がないからこそ、今日は用事にしたかった。

「もしもし。…今、屋上にいる」

『仕事中?』

「うん。でも、今だけ。…花壇、できた」

『へえ。見せて』

 母の声が少しだけ弾んだ。私はカメラを起動して、風に揺れる花を映す。画面越しでも花びらが動く。

『いいじゃん。揺れてる』

「うん。揺れてる。…揺れるの、怖かったけど」

『怖いのは、根を張る前だよ。根を張ったら、揺れても戻る』

 短い言葉が、胸の奥の空洞に落ちて、ゆっくり広がった。


 通話を切ったあと、私は一つだけポットを残した。端に、小さな名札を挿す。

 社名でもスローガンでもない。鉛筆で短く。

《もう一回》

 書いて、自分で笑った。誰に見せるでもない合図。

 この花壇がいつか枯れて、また芽が出る日が来ても、そのときの私が、同じ言葉で立ち上がれますように。


 風はまだ強い。時間も遠慮なく過ぎる。

 でも私は、風下に立つことを覚えた。

 隙を隠すためじゃない。隙があっても、根を張れるために。


 帰りのエレベーターで、別部署の人にまた言われた。

「癒し、できた?」

 私は一瞬迷って、笑って答えた。

「癒し、というより……呼吸、です」

「呼吸?」

「はい。ここで息が深くなると、明日も少しだけ働けるので」

 相手はぽかんとして、それから笑った。

「変な言い方。でも、なんかいいね」

 変でいい。変は記憶に残る。記憶に残れば、次の揺れのときに思い出せる。


 家に帰って、靴を脱ぐ前に、私はベランダの鉢に水をやった。小さな芽が一つ、顔を出していた。いつ蒔いた種だったか分からない。たぶん、落ちていたやつ。たぶん、私がうっかり埋めたやつ。

 芽は小さい。小さいけれど、ちゃんと生意気に立っている。

 私はその芽に向かって、小さく言った。

「……よし」


 寝る前、私は玄関の鏡を見て、自分の顔に向かって言った。

「値踏みしてる場合じゃない」

 誰かに言われた言葉みたいで照れくさい。でも今日は、照れくさい言葉が効く日だ。

 冷蔵庫に貼ったメモに、もう一行だけ足す。

《揺れたら、水。詰まったら、ひと息。》

 明日また揺れたら、また水をやる。言葉も、少しだけ出す。

 花壇みたいに、何度でも。


 明日も風は吹く。街は整然としない。迷いもほどけない。

 それでも、芽が出るなら、今日の不安は無駄じゃない。

 そう思えた夜は、少しだけ眠りが近かった。

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