『ささくれの取扱い』
最悪な朝って、ちゃんと形がある。
まず、まぶたが重い。鏡を見なくても分かる。泣いたか、寝てないか、どっちか。次に、頭がふわふわする。記憶の端が濡れていて、掴もうとすると指が滑る。最後に、床がべたつく。
キッチンの手前で足裏が止まった。靴下がほんの少しだけ吸い付く。
視線を落とすと、薄い赤の染みが広がっていた。グラスが倒れたらしい。どこかに欠けたガラス片があるはずで、それを探すのが怖い。怖いくせに、怖いと言う前に「早く片づけなきゃ」が口を塞ぐ。
テーブルの上には、小さな輪が置かれていた。指輪。
外したのか、外されたのか。どっちでもいいのに、どっちかにしたがるのが私の悪癖だ。
指先が震えて、触らないようにしているのに、視界の真ん中にずっといる。金属って、黙っているだけで主張が強い。
スマホが鳴った。
目覚ましの音……のはずが、違った。短いフレーズ。耳の奥に刺さるような、聞き慣れた合図。
私の喉が、勝手にきゅっと締まった。
“二人で決めた音”って、こんなに残酷なんだ。鳴った瞬間に、部屋の空気が昨日に戻る。戻ってほしくないのに、戻り方だけは正確だ。
「……やだ」
声に出したら、少しだけ現実になった。現実になると、やっと対処できる。
指先で画面を滑らせて、着信を止める。
続けて設定を開き、音を変えようとして、指が止まった。
変えたら終わる。終わったら、次に進まなきゃいけない。次に進むのが怖い。
怖いのに、今のままも痛い。二択っていつも乱暴だ。
そのとき、右手の親指の脇が、ちくりとした。
セーターの袖に、ささくれが引っかかった。ほんの小さな皮がめくれて、赤くなっている。
たったそれだけなのに、痛みがしつこい。布に触れるたび、同じところが擦れて、痛いのに、指は勝手にそこをいじろうとする。
やめればいいのに、やめない。むしれば一瞬で終わるのに、その一瞬の代わりに長いヒリヒリが残るのを知っているのに。
「……似てる」
思わず呟いてしまって、笑いそうになって、笑えなかった。
ささくれと、私の今が。
シンクの前で水を出し、指先を冷やした。痛みが少し引く。引くと、また触りたくなる。人間、ほんとに学ばない。
私は濡れた指で、床の染みを拭き始めた。キッチンペーパーを何枚も使って、赤い色が薄くなるまで。
薄くなっても消えない。消えないのに、薄くなっただけで「よし」と思ってしまう。これも悪癖だ。完全じゃなくても、進んだ気になる。
ガラス片は見つからなかった。見つからない方が怖いのに、見つからないことにほっとしてしまう。
私はテーブルの上の指輪を、小さな皿に移した。指輪の横に、鍵があった。
あの人の合鍵。
返すタイミングを逃したやつ。返せなかったというより、返したらもう戻れない気がして、机の上で眠らせたやつ。
鍵って、持っているだけで生活が変になる。
使わないのに持っている。捨てられないのに持っている。
持っていること自体が、まだ繋がっているみたいで、安心する。安心するのに、息が詰まる。
スマホがもう一度震えた。今度は通知。
短いメッセージが一行だけ届いていた。
内容を見る前に、指が止まる。見たらまた、ささくれをむくみたいに痛い。見ないなら見ないで、ずっと気になる。
私は画面を伏せた。伏せると安心する。安心すると、次に罪悪感が来る。この順番も、もう覚えてしまった。
外に出よう。
部屋の空気が薄い。薄いときは、いったん違う空気を吸う。
コンビニまでの道は、朝の光が妙に綺麗だった。綺麗だと腹が立つ。こういう日に限って世界は平気な顔をする。
私は絆創膏と、小さいハンドクリームと、柑橘味の飴を買った。理由は説明できる。指が痛いから。喉が乾くから。気持ちがささくれるから。
レジの店員さんが「お大事に」と言った。
それだけで、胸の奥がちょっとだけゆるんだ。誰にでも言う言葉なのに、今日の私はそれを“受け取っていい”気がした。
帰り道、商店街の端にある小さなネイルサロンの前で足が止まった。
ガラス越しに見える椅子とライト。爪を整えるだけの場所。こんなにボロボロの日に行くのは場違いな気がして、でも“場違い”って言葉も便利な逃げ道だ。
私は入った。
ベルが鳴って、若いスタッフが笑った。笑顔が仕事の笑顔なのに、目がちゃんと人を見ている。
「今日はどうされますか」
「……ささくれ、切ってほしくて」
言った瞬間、情けなくて笑いそうになった。爪でもない、ささくれ。大人が頼むことじゃない気がして。
でもスタッフは、笑わなかった。
「いいですね。早めに手当てしたほうが痛み、増えません」
その言い方が、妙に胸に刺さった。
早めに手当て。痛みが増えない。
私の中の何かが「それ」と言った気がした。
ライトの下で指先を出すと、スタッフは小さなハサミでささくれを切った。切るだけ。むしらない。
そのあと、オイルを塗って、そっと押さえる。
触れられているのに痛くない。痛くないと、呼吸が深くなる。
「ささくれって、気になるんですよね」
スタッフが言った。
「うん。気になって、いじっちゃう」
「いじると悪化しやすいです。癖みたいに」
私は笑ってしまった。癖。まさに。
「癖、どうしたらいいですか」
「合図を作るといいですよ。触りたくなったら、クリーム。クリーム塗るまで触らない、みたいな」
合図。
私の頭の中で、テーブルの上の鍵と指輪と着信音が、同時に点滅した。
サロンを出るとき、指先は絆創膏で小さく守られていた。
守られていると、触らなくて済む。触らなくて済むと、痛みは勝手に引く。
勝手に引く痛みがあるなら、勝手にほどけるものもあるかもしれない。そんな都合のいい期待が、今日は許せた。
帰宅して最初にやったのは、テーブルの上の鍵を封筒に入れることだった。
宛名は書かない。書けない。
でも封筒に入れた瞬間、鍵が“机の上の爆弾”じゃなくなる。爆弾は扱うと爆発する。封筒は、保留の箱だ。
私は封筒の表に、短く書いた。
《返す》
日付も理由も書かない。ただ、返す。
それだけで、部屋の空気が一段だけ軽くなる。
次に、スマホの設定を開いた。
着信音の一覧。
あの音。二人で決めた、あの音。
指が震えた。震えるのは怖いから。でも怖いのは、動ける証拠だとも思った。今日だけは、そう思ってみる。
私は音を変えた。
無難な音。誰の記憶にも結びつかない、ただの電子音。
“終わり”じゃない。“手当て”だ。そう言い聞かせた。
最後に、指輪をどうするかで止まった。
捨てられない。持っていると痛い。
ささくれみたいだ。
私はキッチンの引き出しから小さな缶を出して、指輪を入れた。缶の蓋を閉めると、音がした。カチッ。
その音は、鍵の音より軽い。軽いのに、ちゃんと区切りの音だ。
夕方、スマホが鳴った。
名前が表示された。
心臓が一段跳ねる。指先が、絆創膏の上からささくれを探そうとする。ない。守られている。
呼吸が浅くなる。
出る? 出ない?
出たらまた傷が開く。出ないと罪悪感が増える。
私は画面を見つめて、机の上の封筒を見た。缶を見た。絆創膏を見た。
手当て。
今日は手当ての日。
私は出なかった。
スマホは数回鳴って、止まった。
その後、通知が一件来た。短い文。
見るか迷って、見た。
内容は、責める言葉じゃなかった。心配の形をした言葉だった。
私は返信欄を開いて、短く打った。
『今は出られない。明日、十分快ける』
送信して、スマホを伏せた。
胸の奥の空洞が、少しだけ埋まった気がした。埋まったのは、相手の言葉じゃなく、自分が“選んだ”という感覚だ。
夜、鍋に湯を沸かした。紅茶でもコーヒーでもなく、ただのお湯。湯気が立つだけで部屋が柔らかくなる。
私は冷蔵庫に、新しいメモを貼った。
《むしらない》
《触りたくなったら、塗る》
《戻りたくなったら、息》
書いてから、笑った。
自分の生活が、急に“取扱説明書”みたいになっている。格好悪い。でも格好悪い手順のほうが、たぶん効く。
絆創膏の上から指先を押す。痛くない。
痛くないって、こんなに安心するんだ。
痛みが減ると、考えすぎも少し減る。考えすぎが減ると、部屋の広さが怖くなくなる。
布団に入る前、私は封筒を玄関の靴箱の上に置いた。明日、持って出る場所。
持って出るだけで、きっと手が震える。でも震えてもいい。震えながら出せばいい。
ささくれは、むしらなければ治る。
治るまでの間、手は少しだけ不器用になる。
不器用な手で、今日はここまで。
電気を消すと、部屋は静かだった。
でもその静かさは、昨日の“薄い静けさ”じゃない。
守られている静けさだ。
眠る直前、私は小さく言った。
「……よし」
それだけで、明日が少しだけ来やすくなった。




