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短編集  作者: 科上悠羽
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『りんごの音で、呼吸する』

 自分が「できる側」だと勘違いしていた時期がある。

 できる側っていうのは、才能があるとか頭が回るとかじゃなくて、失敗しても顔色を変えない側。どんな場でも余裕の顔を貼れて、言い訳を笑いに変えられて、次の一手を出せる側。


 広告代理店に入って一年目の春、僕はそういう顔を練習していた。練習のわりに、周りにバレない程度には上手くなってしまった。上手くなると困る。上手くなった自分が、本物みたいに振る舞い出すからだ。


 今週の月曜、課長に言われた。


「木曜の最終プレゼン、直人が出て。三分。資料はもうできてる。喋るだけ」


 喋るだけ。

 喋るだけって言葉は、何も分かってない人だけが使う。喋るだけのために喉があるわけじゃない。喋るだけのために心臓があるわけでもない。喋るだけのために、頭の中で何十回も本番をやり直しているわけでもない。


「はい」

 僕は、余裕の顔で返事をした。


 その日の夜、帰宅してから吐きそうになった。

 吐かない。吐くほどじゃない。吐くほどの理由を自分で用意したくない。だから、喉の奥に詰まったまま、息だけが浅くなる。


 翌日、同期の西園にしぞのが、さらっと言った。


「直人、今回いけるでしょ。うまいもん。あんた、いつも余裕だし」


 余裕。

 それは僕の鎧で、僕の嘘で、僕の弱点だ。余裕のせいで誰も助けに入れない。余裕のせいで自分も助けを呼べない。余裕って、便利な毒だ。


「……余裕じゃないよ」

 つい口から漏れた。

 西園は目を丸くして、すぐ笑った。


「え、なにそれ。弱音? 珍し」


 珍しい、で済ませないでほしかったのに、僕はそれ以上言えなかった。言えば終わる気がした。終わったら、次に進まなきゃいけない。進むのが怖い。


 水曜。資料の読み込みをしても、口が回らない。

 読み上げるたび、どこかの単語が尖って聞こえる。あまりに正しい言葉は、現場の空気を刺す。刺す言葉を「刺さるコピー」と勘違いしてしまう癖も、僕にはある。


 昼休み、会議室の前で、少しだけ目眩がした。

 世界が回るというより、自分の足場が一枚だけずれる感じ。深呼吸して、何もなかった顔を作る。作ってしまう。作れる自分が嫌で、でも作らない自分はもっと怖い。


 そのとき、背中から声が落ちてきた。


「直人」


 声の主は、更科さらしなさんだった。二つ上の先輩で、コピーも企画も強いのに、やたら雑な人。雑というのは言葉の温度の話で、仕事の精度は異常に高い。


「顔、空っぽ」

「失礼ですね」

「褒めてない。観測」

 更科さんは僕の手元を見て、コンビニ袋を差し出した。

「これ。食え」


 中身は、カットりんごだった。透明のパックに、薄い扇形がぎっしり。

 僕は思わず笑った。


「小学生の遠足?」

「うるさい。顎を動かせ。顎が動くと、頭の騒音が減る」

「そんな雑な科学」

「雑な科学が一番効く日がある」


 僕はパックを開けて、一切れ噛んだ。

 しゃく、と音がした。

 音が、思ったより大きかった。会議室の廊下なのに、耳の中で鳴る。甘さより先に、冷たい水分が広がる。喉が「通った」と言う。


「……うるさい」

「うるさくていい。今日はうるさい方が勝つ」

「何と戦ってるんですか」

「お前の“余裕顔”」


 更科さんは自販機でコーヒーを買い、紙コップを二つ持って戻ってきた。片方を僕に押しつける。

「木曜のプレゼン、出るんだろ」

「……はい」

「怖い?」

「怖いです」

 言ってしまってから、僕は息を止めた。言ったら壊れると思っていたのに、壊れなかった。むしろ、背中が一段だけ軽い。


「だろ」

 更科さんは、当たり前みたいに言った。

「怖いのは正常。怖くないのは、たぶん嘘か、鈍感か、経験者」

「経験者は怖くないんですか」

「怖いよ」

「え」

「経験者は、怖いの扱い方を知ってるだけ。怖いが消えると思うな」


 しゃく、ともう一切れ。

 音が、僕の中で小さな合図になる。いま息をしてる、っていう合図。逃げてない、っていう合図。


「直人さ」更科さんが言う。「届かない場所があるって知ってる顔してる」

「……あります」

 嫉妬とか、自信とか、才能とか。自分には辿り着けない“場所”。そこにいる人たちを見て、勝手に負けた気がする。負けた気がして、勝ってるふりをする。最悪だ。


「届かない場所があるの、当たり前」

 更科さんは紙コップの縁を指で叩いた。

「でも、届かないって分かった瞬間が、スタートでもある。届くふりをやめられるから」


「届くふり、してますか」

「してる。余裕顔で」

「……やめたい」

「やめろ。今日やめろ」


 更科さんは、僕のりんごパックを指さした。

「ほら。噛め。焦りを噛め。噛んで、飲み込まずに、いったん砕け。砕いたら次に進める」

「砕いたら、何が残るんですか」

「残るのは、まだ死んでないって事実」


 言い方が雑で、でも妙に優しい。

 僕は紙コップを飲んで、りんごをもう一口噛んだ。しゃくしゃく。

 その音が、胸の奥の空洞に落ちて、少しだけ埋まる。


「明日さ」更科さんが言う。「余裕の顔、貼ってもいい」

「え」

「貼るなとは言わない。貼った上で、裏側も持っとけ」

「裏側?」

「“怖い”って札。見えないところに貼っとけ。で、喉が詰まったら……」

 更科さんはりんごを指で弾いた。

「しゃく、だ」


 僕は変な笑いを漏らした。

「合図が食べ物」

「食べ物は裏切らない。たぶん」



 木曜。

 会議室は明るすぎた。照明が白くて、プロジェクターの光が目に刺さる。クライアントの表情は読めない。読めないのが普通。なのに僕は読もうとする。読もうとすると、勝手に怖さが増える。


 自分の順番が来た。

 立ち上がる。椅子の脚が床を擦る音が、妙に大きい。喉が乾く。心臓が速い。頭が「逃げろ」を連打する。

 僕はポケットの中で、指先を握った。りんごの冷たさを思い出すみたいに。


「では、提案をご説明します」


 声は出た。

 出たけど、途中で言葉が絡まった。いつもなら、ここで「すみません」と笑って誤魔化す。余裕の顔で。

 でも今日は違う。更科さんの雑な合図を思い出した。


「……失礼しました。一回、呼吸します」


 言ってしまった。言った瞬間、世界が一秒だけ止まった気がした。

 止まったのに、誰も怒らない。誰も笑わない。止まっていい空気が生まれる。呼吸を許す空気。

 僕は息を吸って、吐いて、続けた。


 資料の要点を二つに絞った。言いたいこと全部を詰めるのをやめた。詰めると息が止まる。

 途中、クライアントの一人が眉を動かした。指摘が来る。怖い。

 でも、怖いのは正常だ。

 質問に、正面から答えた。曖昧に逃げず、でも攻撃せず。手順で返す。

 自分の声が、少しだけ柔らかい。柔らかいのは媚びじゃない。喉が通っているからだ。


 最後に、僕は言った。


「この提案は、完璧じゃありません。けれど、ここから改善できます。改善の余地がある状態で、まず一歩出したいです」


 言い切ったあと、自分で驚いた。

 完璧じゃない、と言うのは、負けに見える。僕はずっと負けが怖かった。

 でも“負けたくない”のために余裕の顔を貼るより、“負けても死なない”を先に言えたほうが、たぶん強い。


 会議室が静かになった。

 それから、クライアントが短く言った。


「いいですね。生きてる案です」


 生きてる。

 その一言で、胸の奥の石が一個、軽くなった。



 会議が終わって廊下に出た瞬間、膝が遅れて笑った。遅れてくる震えは、身体が正直だからだ。

 更科さんが自販機の前に立っていて、僕を見るなり言った。


「しゃく、できた?」

「……しゃくは、してないです」

「してないのに通したの?」

「通したというか……生きてました」

「それで十分」


 更科さんはコンビニ袋を差し出した。

 中身は、またカットりんご。

「ほら。終わった後の分」

「終わった後も噛むんですか」

「噛め。成功も噛め。成功って飲み込むと窒息するから」

「意味がわからない」

「意味は後で付く。とりあえず顎」


 僕は笑って、りんごを噛んだ。

 しゃく。

 しゃくしゃく。

 音が、今日は少し違って聞こえた。逃げる音じゃない。確かめる音だ。

 まだやれる。まだ死なない。まだ、何回でも。


 更科さんが言った。

「直人。お前、余裕の顔、上手い」

「褒められてない感じがする」

「褒めてる。ただし続き」

 更科さんは指を一本立てた。

「余裕の顔の裏に、“怖い”を置け。怖いを隠すな。隠すと爆発する」

「……はい」

「で、爆発しそうになったら」

「しゃく」

「そう。しゃく」


 僕はりんごの最後の一切れを見つめて、口に入れた。

 噛む。砕ける。飲み込める。

 喉が通る。


 廊下の窓から、街が見えた。

 相変わらず忙しそうで、相変わらず眩しくて、相変わらず勝手に回っている。

 だけど今日は、その回り方が少しだけ優しい。僕が、回る世界に一回合わせられたから。


 僕は紙コップを持ち上げて、軽く言った。

「……次も、やります」

「最初からそう言え」

「言えないから、噛みます」

「噛め」

 更科さんは笑った。僕も笑った。


 余裕の顔を貼る日がまた来る。

 そのたびに、僕はポケットの中で“しゃく”の合図を思い出す。

 怖いまま進む。空っぽだと思っても、顎を動かして呼吸を通す。

 それだけで、明日は少しだけ近くなる。

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