『剥がれないシールに、風を入れる』
朝、鏡の前でネクタイを締めるときだけ、僕は自分の顔を「道具」だと思える。結び目の角度、シャツの襟、口角の高さ。全部が整っていれば、今日もなんとか回る。そういう種類の仕事をしている。
整っていれば、の話だ。
駅のホームで自販機の前に並びながら、僕は指先でスマホをいじっていた。天気でもニュースでもなく、占い。色だの数字だの「気をつける一言」だの。読むたびに腹が立つのに、やめられない。自分で決めるのが怖いから、誰かに決めてもらった“ふり”をしたいのだと思う。
改札の前で、同僚の加賀谷が肩を叩いた。
「お、今日も“勝ち顔”」
「勝ち顔って何」
「負けてない顔。ほら、眉間に皺がない。尊敬するわ」
加賀谷は笑いながら言う。僕は笑って返す。こういう会話が、僕の毎日の潤滑剤だ。潤滑剤は滑らかにする。滑らかにしすぎると、止まれなくなる。
会社のフロアは、いつも通り速かった。「至急」「確認」「今だけ」「ちょっとだけ」が飛び交って、誰も悪くない顔をしているのに、空気だけが尖る。
僕は尖った空気が苦手なのに、尖らせる側にもなれる。むしろ得意だ。言葉を丸め、目線を丸め、責任だけを四角く置く。仕事が回る。回るから褒められる。褒められるから、またやる。回転は気持ちいい。けれど、回転するものは止まると倒れる。
昼前、会議室で一つ事故が起きた。
僕が仕上げた提案書に、数字の出典が一つ、古いままだった。致命的ではない。けれど、こういう「致命的ではない」が積もると、信用が削れる。
上司の目が僕に刺さり、次に、部長の眉が動いた。
「これ、どこから持ってきた数字?」
喉の奥で、言い訳が勝手に組み上がる。「更新が遅くて」「前の資料が」「確認が間に合わなくて」。便利な言葉が、整列して行進する。いつもなら、その行進をそのまま口から出す。そうすればその場は抜けられる。抜けたあとで、別の場所が崩れるのに。
そのとき、胸の奥で何かがべたっと張り付いた。
「またか」という感触。自分の中の、剥がれないシール。
僕は一秒だけ息を止めて、それから言った。
「僕の確認が甘かったです。最新版に差し替えます。五分ください」
会議室が一瞬静かになった。部長が「五分で?」と聞き、僕は頷いた。
「五分で。出典のリンクも添えます」
逃げなかった、と思った。逃げなかっただけで、膝が少し震えた。
会議は続き、僕はその場を保った。差し替えも間に合った。大きな事故にはならなかった。ならなかったのに、胸のべたつきは消えなかった。
終わったあと、加賀谷が言った。
「さすが。危ないところで踏ん張るなあ」
僕は笑って、いつもの返しをしようとして、できなかった。
「……踏ん張ったっていうか」
「ん?」
「……見苦しかったと思う。自分が」
言ってしまってから、舌を噛みそうになった。言葉は出した瞬間に形になる。形になると戻せない。
加賀谷は「へえ」とだけ言って、僕の肩を軽く叩いた。
「じゃあ今日、見苦しい記念日な」
「記念日って」
「見苦しいって言えた日。めでたいじゃん」
そう言って、加賀谷は自席へ戻っていった。あっさりしている。あっさりが、今日は救いだった。
*
帰り道、僕はわざと一駅手前で降りた。寄り道をすると、家に帰る速度が遅くなる。遅くなると、考える時間が増える。増える時間は怖いのに、今日は増やしたかった。
商店街の端に、小さなジムがある。前から気になっていた。ガラス越しに見えるサンドバッグが、妙にまっすぐで、嘘をつかない感じがしたからだ。
入口のドアを押すと、ベルが鳴り、ゴムの床がきゅっと鳴った。汗と消毒液と、少しだけ金属の匂い。
「体験?」
カウンターから顔を出したのは、年配の女性だった。髪は短く、目が鋭い。鋭いのに声は柔らかい。
「……体験です」
「じゃあ手続き。名前」
「三浦です」
「三浦くん。今日は何を落としたい?」
「落としたい?」
「べたっとしたやつ。今日の顔についてきたやつ」
僕は息を吸って吐いて、正直に言った。
「……自分の、べたべたを」
「いいね。粘着は厄介」
女性は頷いて、グローブを投げてよこした。受け取ると、想像より軽い。
「まずは縄跳び。身体が温まらないと、心は出てこない」
縄跳びは二分で息が上がった。情けない。情けないのに、身体が正直で助かる。正直なものは、言い訳を許さない。
女性が言った。
「よし。次、サンドバッグ。力は要らない。音を出せ」
「音?」
「そう。音で区切れ。べたべたは区切りが嫌いなんだ」
僕はサンドバッグの前に立った。黒い袋がぶら下がっているだけなのに、妙に威圧感がある。威圧感は、こちらが勝手に付けている。
拳を構える。膝を曲げる。教えられた通りにやってみる。いざ打つ瞬間、躊躇が出た。
誰かを殴るのは嫌だ。たとえ袋でも、殴るって動詞が怖い。怖いのは、僕が「良い人」だからじゃない。傷つけたあとに責任が来るのが怖いからだ。
「当てようとしない。まず出す」
女性が言った。
「外してもいい。外したら笑え。笑えたら次が出る」
僕は息を吸って、拳を出した。
手応えは鈍い。音も小さい。弱い。弱いのに、胸が少し熱い。
もう一発。少しだけ音が大きくなる。さらに一発。今度は袋が小さく揺れた。揺れた瞬間、僕の中のべたつきが、一枚だけ剥がれた気がした。
「いい。今の、剥がれた」
女性が言う。
「何が」
「自分の“綺麗にやりたい”」
図星すぎて、僕は笑ってしまった。笑うと呼吸が戻る。
そこへ、仕事帰りらしい男性が一人入ってきた。シャツの襟が乱れて、ネクタイは外して手首に巻いている。彼はサンドバッグの前で、いきなり拳を振った。
……空を殴った。袋には当たらない。拳はただ、虚しく前へ出て戻る。
「お、空振った」
女性が声を出した。
「うるせぇ。狙いすぎて当たらねぇんだよ」
「狙いすぎ。そういう日は当たらない」
男性は舌打ちして、こちらを見た。目が合う。
「お前もか。見た目だけ整えてるタイプだろ」
「……たぶん」
「たぶんじゃねぇよ。俺もだ」
彼は笑って、もう一度拳を出した。今度は袋に当たり、低い音が鳴った。
「ほら。恥かいて当てろ。恥は筋肉になる」
言い方が乱暴なのに、妙に正しい。
女性が僕に言った。
「ねえ三浦くん。どんな人でも、軽く叩けば何かしら粉が落ちる。落ちない人はいない。落ちない“ふり”をする人がいるだけ」
僕はグローブの上から手を握った。確かに、今日の僕は粉を落とした。落としたことを、誰かに見られた。見られたのに死ななかった。
「じゃあ最後。仕上げ」
女性が言った。
「仕上げって」
「一発だけ、ちゃんと決める。力じゃない。決めるのは、気持ち」
僕は袋を見た。袋は黙っている。黙っているからこそ、こちらの声がはっきり聞こえる。
僕は心の中で、今日の自分の嫌いなところを並べた。確認不足、見栄、逃げ癖、運任せ、先延ばし、正しい顔の貼り付け。嫌になる。嫌になるのに、全部僕だ。
僕はそれを「消したい」と思った。でも、消すって言葉は乱暴だ。消すと、穴が空く。穴が空いたら、もっと怖い。
だから、別の言葉を選んだ。
剥がす。
僕は拳を振った。小さな音。だけど、今までで一番まっすぐな一発。
袋が大きく揺れた。揺れた袋が、少し遅れて戻ってくる。戻ってくるのが、妙に気持ちいい。戻るって、こういうことか。
女性が短く言った。
「よし。今日はそれでいい。人間は残る。粘着だけ剥がす」
僕は汗を拭きながら頷いた。人間は残る。残るなら、悪くない。
帰り際、乱暴な男性が僕に言った。
「明日、会社でまた見栄貼りたくなったらさ。貼っていい。でも、剥がす時間も作れ」
「どうやって」
「……俺は風呂。お前は知らん」
言いながら笑う。笑うと、乱暴が少しだけ丸い。
*
帰宅すると、部屋は静かだった。静かさはいつも通りなのに、胸の中だけが少し違う。べたべたが減った分、風が入る。
僕はシャワーを浴びて、冷蔵庫を開け、適当に作り置きの味噌汁を温めた。味は普通。普通がありがたい。
食べながら、スマホを開く。未送信の下書きが山ほどある。謝罪、断り、提案、お願い、弱音。どれも書きかけで止まっている。止まっていること自体が、僕の“集積”だ。
僕はその中の一つを開いた。宛先は、部長。内容は、今日の数字の件の再発防止案。書きかけで止まっていた。送らなくても済むなら送らない。そういう癖がある。
でも今日は、送る。
拳を振った後の手は、意外と震えなかった。震えは汗と一緒に流れたのかもしれない。
短く書き直す。
・出典リンクの添付を必須にする
・差し替え前に第三者チェックを入れる
・時間がないときは「間に合わない」を先に言う
それだけ。見栄の飾りは削る。
送信。
送ったあと、僕は机の端に積んでいた付箋の山を見た。“いつかやる”“後で返す”“時間ができたら”。どれも未来に預けた言葉だ。未来は便利な倉庫だけど、預けすぎると取りに行けなくなる。
僕は付箋を一枚ずつ剥がして、丸めて、輪ゴムで束ねた。輪ゴムの色は、今日の占いのラッキーカラーだった。腹が立つけど、今日は使ってやる。縁起を利用してやる。
束をゴミ箱に向けて投げる。
外れた。壁に当たって落ちた。
「……はい、外した」
誰もいない部屋で、僕は小さく笑った。外してもいい。外したら笑え。今日聞いた合図が、ここでも効く。
二投目。今度は入った。ぱさ、と軽い音。
たったそれだけなのに、胸の中に空気が入った。べたつきの下に、風が通る。
スマホに通知が来た。母からだ。
『おつかれ。飯は?』
僕は短く返した。
『食べた。あと今日は少し汗かいた。だから寝れるかも』
送信。
スマホを伏せると、部屋が一段だけ広い。広いのに、怖くない。広いって、風を入れる場所なんだ。
鏡の前で、ネクタイはもうない。顔は道具じゃない。今日だけは道具じゃない顔で見てやる。
僕は自分に言った。
「見苦しいの、上等」
口に出すと、ちょっと笑える。笑えるなら、まだいける。
寝る前に、占いアプリを開こうとして、指が止まった。代わりに、ホーム画面の端っこへ移動させた。消せないなら、距離を取る。剥がせないなら、まず角を浮かせる。そういう小技を、今日覚えた。
メモ帳に一行だけ書く。
《迷ったら、まず動く。外してもいい》
誰にも見せない札。だけど自分には効く札。
布団に入って、息を吸う。吐く。胸の中に、さっきのサンドバッグの揺れが残っている。揺れて、戻る。揺れて、戻る。
僕は小さく言った。
*
翌朝。ホームの占いアプリは、端っこで静かにしていた。僕は開かずに、駅の階段を上がった。少しだけ足が軽い。軽いからといって、世界が優しくなるわけじゃない。
午前のフロアで、例の「今だけ」が飛んできた。
「三浦、これ、昼までにまとめて。できるよね?」
上司が笑って言う。笑顔は刃物じゃない。刃物じゃないのに、断りにくい。
僕の喉の奥で、いつもの行進が始まる。“はい”“なんとかします”“大丈夫です”。便利な兵隊たち。
僕は机の下で、昨日のサンドバッグを思い出した。外してもいい。外したら笑え。まず出す。
息を吸って、吐いて、言った。
「昼までだと、品質が落ちます。夕方なら、ちゃんと出せます。どっちにします?」
上司が一瞬だけ固まった。空気が、きゅっと張る。
「……急ぎなんだけど」
「急ぎです。だから、選んでください」
言い切ったあと、手のひらが少し汗ばむ。けれど逃げない。逃げると、またべたつく。
上司は舌打ちの代わりに笑って、肩をすくめた。
「じゃあ夕方。代わりに、途中経過を一回くれ」
「はい」
胸の中で、小さなガッツポーズが起きた。勝ったじゃない。剥がれた。それだけ。
昼休み、加賀谷が席を寄せてきた。
「今日、口が強いね。なんかあった?」
僕は少し迷ってから、笑って答えた。
「昨日、べたべたを落としに行った」
「何それ。風呂?」
「……運動。殴らないやつ」
「殴らない運動って、なに」
「顎を引くやつ」
加賀谷が吹き出した。
「今度、連れてって。俺もべたべた落としたい」
その言葉が、妙に嬉しかった。僕だけの恥じゃない。僕だけの粉じゃない。みんなそれぞれ、何か貼り付けて歩いてる。
夕方、僕はちゃんと資料を出した。出典も添えた。途中経過も渡した。完璧ではない。けれど、逃げない範囲でやれた。
帰り道、僕はジムの前を通って、扉の鈴を鳴らすか迷った。
迷って、今日は鳴らさなかった。
代わりに、夜の風を胸いっぱい吸った。
剥がすのは、一日で終わらない。終わらないなら、終わらないまま続ければいい。
僕は小さく言った。
「さあ、明日も剥がす」




