『終点までの、ひと呼吸』
車両基地の朝は、まだ眠い。金属の匂いが冷えていて、線路の上にだけ薄い霧が残っている。人の声も控えめで、点呼の返事がやけに綺麗に揃う。揃いすぎると、逆に怖い。
航平は胸の前で手袋を握りしめて、そっと息を吐いた。白くはならないけれど、息が出たことに安心する。
「おーい、顔、固まってるぞ」
背中から落ちてきた声に振り向くと、指導担当の榊さんがいた。短髪、目が鋭い、なのに口元がいつも笑っている。怖いのに怖くない人の顔だ。
「すみません」
「謝るな。今日は“初便”だろ。固まるのは仕様」
「仕様って言い方やめてください……」
「仕様は便利だ。責めなくて済む」
航平は、今日が初めての“ひとり立ち”だ。正確には、車掌としての初めての本番。乗務員室の窓に貼られた時刻表の文字が、やけに細く見える。細いのに重い。
昨日の夜は、アナウンスの練習をしながら鏡に向かって笑ってみて、笑いが「ひきつる」とはこういうことか、と学んだ。笑顔は筋肉だ。筋肉は裏切らない……と言われたけれど、筋肉はたまにストライキを起こす。
榊さんが、航平の胸ポケットを指でつんと押した。
「それ、入ってるか」
「え?」
「紙。あれだ。お前が毎回、メモしてるやつ」
航平は胸ポケットを探り、小さなメモを出した。
《言葉は短く》
《語尾は伸ばさない》
《迷ったら、ひと呼吸》
ぎゅっと詰めた手順。自分の恐怖を、紙に押し込んだみたいな文字。
「よし。武器は持ってる」
「武器って言うと物騒です」
「物騒な時に効くのが武器。平和な時は飾りでもいい」
航平は笑いそうになって、笑えなかった。笑えないのに、榊さんは笑っている。その差が、眩しい。
*
列車は、出発の合図で急に生き物になる。
ドアが閉まる音。床の微かな震え。車輪がゆっくり回り始める、あの低い唸り。航平は乗務員室で指差し確認をしながら、心臓の速さが異常なことに気づいていた。速度計じゃないほうの速さ。
(落ち着け)
(落ち着いたら、もっと怖い)
頭の中が勝手に喧嘩する。喧嘩のせいで、さらに息が浅くなる。息が浅いと、声が薄くなる。声が薄いと、乗客に舐められる……とか、余計な想像が増える。想像は便利な凶器だ。勝手に自分を殴る。
「車内放送、入るぞ」
榊さんの声がインカムに落ちた。今日は添乗で隣の車両にいる。完全に一人じゃない。それなのに、航平は一人で立たされている気がした。
マイクのスイッチに指を置く。指先が汗ばんで、滑りそうになる。
「……本日は、ご乗車、ありがとうございます」
声が出た。自分の声がスピーカーで反響して戻ってくる。少し遅れて戻る声は、他人みたいで、だから少しだけ冷静になれる。
航平は次の文を言い、次の文を言い、最後に「お忘れ物のないよう」と締めた。噛まなかった。奇跡だ。
奇跡に安心すると、次の奇跡を要求してしまう。そういう癖がある。航平はそれを知っているから、安心しすぎないようにした。
次の駅。乗降が多い。人の流れが太い川になる。
ドアが開くたび、風と匂いが車内へ入り、また閉まる。開閉のリズムが、妙に心臓と似ている。開いて、閉じる。開いて、閉じる。
航平はそのリズムに合わせるように、指先でメモの角をなぞった。
ところが、三駅目で予定が崩れた。
乗務員室の窓から、ホームの端で立ち尽くしている人影が見えた。小柄な女性。荷物が多い。目線が右往左往している。迷子の目だ。
航平はドア監視の合間に、その女性が同じ場所で何度も立ち位置を変えているのを見た。動いているのに進んでいない。
嫌な予感が、喉の奥に張り付いた。
発車合図の直前、女性がいきなりこちらに向かって走り出した。
走り出して、止まった。
止まったまま、声だけが飛んできた。
「すみません! あの、これ、どっち……」
言葉が最後まで出ない。焦りが先に出てしまう人の声。
航平は一瞬固まった。発車時刻は迫っている。運行は時間で動く。時間は容赦がない。
でも、目の前で困っている人も容赦がない。困ってる時の世界は狭い。狭い世界の中で、駅のアナウンスはただの雑音になる。
(どうする)
(榊さんに任せる?)
(でも榊さんは別車両)
(時間が)
頭が加速する。加速すると、手が止まる。手が止まると、さらに焦る。
航平はメモを握った。
《迷ったら、ひと呼吸》
息を吸って、吐く。
吐くと、声が出る。
「大丈夫です。どこまで行かれますか」
自分でも驚くほど、声が落ち着いていた。落ち着いて聞こえるのは、言葉が短いからだ。
女性は「え」と目を丸くして、それから駅名を言った。航平はすぐに答える。乗り換え、ホーム番号、次の電車の目安。
たった数十秒。
それなのに、女性の肩が一段下がった。肩が下がると、人は息を思い出す。
「ありがとうございます……!」
「間に合います。今、乗ってください」
女性が乗り込み、ドアが閉まる。発車は数秒遅れ。微妙な遅れ。けれど大事故じゃない。
航平はインカムで榊さんに報告した。
「すみません、数秒遅れました。案内しました」
『いい。よくやった。数秒の正解は、大きく残る』
榊さんの声が、さらっと刺さった。数秒の正解。大きく残る。
航平は胸の奥が少し熱くなるのを感じた。熱いのは怖さじゃない。たぶん、戻ってきた感覚だ。
*
午後に入って、もう一つ“試験”が来た。
信号確認のため、列車が区間で一時停止した。いわゆる、遅延。
車内の空気が、すぐにざわつく。遅れは正体の見えない敵だから、誰もが「何が起きたの?」を抱えたまま揺れる。
揺れると、苛立ちが増える。苛立ちは声になる。声は車内を刺す。刺された人がまた刺す。連鎖だ。
航平はマイクを握った。
この放送が下手だと、余計に荒れる。荒れると、次の駅でさらに時間が取られる。悪循環。
でも、完璧にやろうとすると固まる。固まると、声が死ぬ。
航平は“完璧”を諦める代わりに、“伝わる”に寄せた。
息を吸う。吐く。短く。
「ただいま前方確認のため停車しています。安全確認が取れ次第、発車します。ご迷惑をおかけします」
それだけ言って、間を置いた。
間を置くのは怖い。沈黙は「不安が増える時間」だから。
でも今日は、沈黙を“安心のための時間”にしてみた。
航平は続けた。
「お急ぎの方もいらっしゃると思います。私たちも急ぎたいです。ですが、安全を一番にします。ご協力ありがとうございます」
言い切った瞬間、自分の胸の奥がふっと軽くなる。
“私たちも急ぎたいです”。
それは謝罪の文章に載らない言葉だ。でも、人間が言うと届く。お客様と敵対しないための言葉。
車内のざわつきが、一段だけ落ちた気がした。完全には静かにならない。静かにならなくていい。少し落ちれば、連鎖が切れる。
数分後、列車は動き出した。
窓の外の景色が、ゆっくり流れ始める。動き出すと、人の心も少し動く。止まっている時の不安は、動いている時の不満に変わる。不満は扱える。まだ手があるから。
次の駅で、さっきの女性が乗務員室の近くまで来て、小さく会釈した。
会釈は拍手より軽い。軽いのに、持って帰れる重さがある。航平は会釈を返した。
返せたことが嬉しかった。受け取りだけじゃなく、返す。返すと循環になる。
*
終点。
回送の準備をしながら、航平はようやく自分の足がだるいことに気づいた。遅れてくる疲れは、身体が正直だからだ。
榊さんが乗務員室に顔を出した。
「おつかれ。初便、どうだった」
航平は答えに詰まった。
“上手くやれた”と言うのは嘘になる。噛みそうになった瞬間もあったし、汗で手袋が気持ち悪かったし、心臓はずっと早かった。
でも、“最悪だった”とも言えない。さっきの会釈が残っている。数秒の案内が残っている。遅延放送で落ちたざわつきが残っている。
つまり、ちゃんとやったのだ。怖いまま。
「……怖かったです」
「うん」
「でも、怖いままでも、できました」
「それが一番強い」
榊さんは、航平の胸ポケットのメモを指で弾いた。
「その紙、更新しろ」
「更新?」
「今日覚えたことを書け。ほら。新しい手順」
航平は少し考えて、ペンを出した。
メモの裏に、短く書く。
《数秒は大きい》
《相手の息を思い出させる》
《急ぎたい、は味方になる》
書いてから、照れくさくなって紙をしまった。
榊さんが笑う。
「いい。で、次の一歩は?」
「……次も乗る」
「それだけ?」
「それだけで十分です。今日は、十分です」
基地の外へ出ると、空が広かった。線路が遠くまで伸びていて、端が見えない。
端が見えないのは怖い。けれど、端が見えないからこそ、進める。今日の自分は、そのことを少しだけ知った。
航平は改札へ向かう帰り道、足元を見そうになって、やめた。
足元を見ると、転びそうで怖い。
代わりに、視線を少し上げた。風が頬を撫でる。風は勝手に吹く。勝手に吹く風を、敵にしなくていい。
胸の奥で、心臓がちゃんと鳴っている。
鳴っているなら、明日もいける。
航平は小さく言った。
「……よし。次」




