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短編集  作者: 科上悠羽
24/71

『螺旋の真ん中は、まだ』

 音楽室の鍵は、いつも少しだけ引っかかる。古い建物の癖なのか、私の指先の癖なのか、どっちでもいい。鍵穴にぐっと押し込んで、回す。カチ、と小さな音がして、夜の練習が始まる。


 「遅い」


 先に来ていた先生が、譜面台の影から言った。声は低いのに、叱っているわけじゃない。むしろ、楽しそうに待っている。


 「バスが……」

 「言い訳は、音で返せ」


 先生の名前は、柏木かしわぎ。市民オーケストラのコーチで、私の師匠みたいな人だ。みたい、なのは、私が勝手にそう思っているだけで、先生は「教えてるだけ」と言う。その「だけ」が、いつも腹立たしいほど上手い。


 私はケースからヴァイオリンを出して、肩当てを付け、弓の毛を少し張った。準備している間だけは、心が静かになる。静かになると、先生の視線がやけに大きく感じる。見られていると、音が逃げ道を失う。逃げ道がない音は、気持ちいいのに怖い。


 「今日は、あそこ」

 先生が譜面を指で叩いた。曲の真ん中。いちばん言いたい旋律が来る場所。

 私が一番弾きたい場所。


 「やっと、そこやります?」

 「やらない」

 「え?」

 「周りをやる。中心は、まだ」


 まただ。先生はいつも、肝心なところの手前で止める。私が「ここを弾きたい」と思う場所の直前で、ぷつりと灯りを消すみたいに話を変える。焦らされているのが分かっているのに、引っかかってしまうのが悔しい。


 「なんでですか」

 「弾けるから」

「弾けますよ。たぶん」

 「たぶん、が出た時点で、中心は危ない」


 先生は椅子に座らず、立ったまま私の弓の先を見た。弓の先を見る人は、嘘を見抜く。私は分かっている。分かっているのに、言い返したくなる。


 「先生、意地悪です」

 「意地悪は、上達の近道」

 「それ、どこで覚えたんですか」

 「現場」


 現場、という言葉がずるい。反論すると、すぐ「じゃあ現場で学べ」と返ってくるからだ。私は息を吸って、吐いて、譜面の周りを弾き始めた。


 最初の一音が、少しだけ硬い。硬いとすぐ分かるのは、先生の目が真っ直ぐだから。目が真っ直ぐだと、音が逃げない。逃げない音は、きつい。でも、きついから残る。


 「肩」

 先生が短く言う。

 私は肩を落としたつもりで、落とせていない。

 「もっと」

 「落としてます」

 「落としてる顔をしてるだけ」


 言い方が腹立つ。腹立つのに、正しい。腹が立つ正しさは、いちばん効く。


 先生は私の演奏を途中で止めた。手を上げるだけで空気が止まる。これも腹立つ。指揮者でもないのに、空気を止めるのが上手い。


 「今、真ん中に行こうとして、手が固くなった」

 「行きたいんです」

「行きたいのはいい。行きたいのに、焦ると、音がつぶれる」

 「じゃあ、どうしたら」

 「周りを、ちゃんと愛せ」


 愛せ、って言葉が出るのが先生のずるいところだ。指導の話なのに、急に胸の奥に刺さる。私は小さく舌打ちして、また弾いた。周り、周り、周り。中心を避けながらぐるぐる回る。まるで螺旋階段を上っているみたいだ。登っているのに、同じ景色しか見えない。


 十五分後、指先が汗ばんだ。弓が少し滑る。私は苛立ちで笑いそうになり、笑えなかった。苛立ちが増えると、呼吸が浅くなる。浅い呼吸は、音を薄くする。薄い音は、さらに苛立ちを呼ぶ。悪循環は、とても親切に回ってくれる。


 「……先生、私、中心が怖いんですかね」

 「怖い」

 先生は即答した。迷いがない。

 「え、即答なんですか」

 「怖いのは正常。怖くないふりをすると、音が嘘をつく」

 「じゃあ、怖いまま弾けばいいじゃないですか」

 「怖いまま弾くには、支えがいる」

 「支え?」

 「周り」


 先生は譜面の端を指でなぞった。中心じゃなく、外側の小さな記号たち。休符、スラー、強弱。全部が、中心を守るためにあるもの。守る、という言い方がまたずるい。中心が王様みたいになる。私は王様が嫌いだ。王様が嫌いなのに、王様の前でひざまずきたがっている自分も嫌いだ。


 「もう一回。今度は、中心に行く前で止めていい。止めたら、呼吸」

 「止めたら、怒られません?」

 「怒らない。止めるのは、逃げじゃない。整える」


 整える。先生の口からその言葉が出ると、やけに現実味が増える。私は頷いて、弓を置き直した。


 周りを弾く。音が揺れる。揺れても、戻る。先生の言葉が頭の中で反復する。揺れても戻る。揺れても戻る。

 中心の手前で、私は止めた。指を離す。音が途切れる。途切れた瞬間、胸がきゅっとする。失敗したみたいで怖い。怖いから、すぐ次の音を出したくなる。


 でも、先生が言った。

 「呼吸」

 私は息を吸って、吐いた。

 呼吸のあと、音を出すと、さっきより少し柔らかい。柔らかいのに、芯がある。芯がある音は、無理をしていない。


 「……今の、いい」

 先生がぽつりと言った。

 ぽつり、が嬉しい。大げさに褒められると逃げたくなる癖がある。ぽつりなら、持って帰れる。


 そのまま、私は同じ箇所を何度も回した。中心の手前で止めて、呼吸して、また回る。螺旋は、たぶんこういうものだ。まっすぐじゃない。ぐるぐるする。ぐるぐるするのに、少しずつ近づいている。近づいているのに、まだ触れない。この距離が、じれったい。じれったいのに、嫌いじゃないのが腹立つ。


 時計を見ると、二十一時を回っていた。窓の外で、虫の声が細く鳴っている。夜は、何でも大げさにさせるくせに、こういう小さな音は真面目に残す。ずるい。


 「今日は終わり」

 先生が言った。

 「え、中心は」

 「まだ」

 「……やっぱり意地悪」

 「意地悪は、上達の近道」

 「その台詞、もう聞き飽きました」

 「飽きたら勝ちだ。次は自分で言える」


 先生は楽譜を閉じ、私のケースの蓋を軽く押さえた。

 「家で、中心を弾くな」

 「え」

 「弾きたくなるだろ。弾きたくなるのを、今日は我慢しろ」

 「なんでそんな拷問」

 「我慢じゃない。熟成」


 熟成。料理みたいな言い方に、私は笑ってしまった。笑うと、肩の力が抜ける。先生はそれを見て、少しだけ目を細めた。


 「明日、本番だ」

 私ははっとした。明日のリハーサル。明後日は小さな本番。市民ホール。照明。観客。空気の重さ。中心を避けて通れない場所。

 「私、無理かも」

 「無理、って言えるなら大丈夫」

「なんでですか」

 「無理、って言える人は、助けを呼べる」

 「……呼べますかね」

 「呼べ。呼び方は教える」


 先生はポケットから小さな付箋を出し、ペンで書いて私に渡した。

 《止まったら、まず呼吸。次に、周り。最後に、中心。》

 「武器?」

 「装備」

 「またその言い方」

 「好きなんだよ。人は手ぶらだと、心が暴れる」


 帰り道、付箋を指でなぞりながら歩いた。駅までの坂道は暗く、街灯がときどき途切れる。途切れるたびに不安が増えるのに、今日は不思議と増えなかった。増えそうになったら、息をした。息のたびに、さっきの音が戻ってくる。柔らかいのに芯がある音。


 駅のホームで、同じ団のコントラバスの先輩に遭遇した。大きなケースを背負っているのに、表情は軽い。

 「お、今日も柏木に鍛えられた?」

 「鍛えられたというか、焦らされました」

 「あるある」先輩は笑った。「あの人、真ん中を簡単に触らせない。焦ると壊すって知ってるから」

 「焦ると壊す……」

 「壊すって言うと怖いけどさ。要は、息が止まるってこと。息が止まると、音が途切れる。途切れると、周りが支えにくい」

 先輩は私の付箋を覗き込み、「いい装備もらってるじゃん」と言って、肩で笑った。

 「本番はさ、中心だけじゃないよ。周りの音を食べて、中心を出す。食べすぎると太るけど」

 「太るんですか、音で」

 「太る。腹じゃなくて気持ちが。気持ちが太ると、逆に震えなくなる。いい意味でね」


 家に着いて、私はヴァイオリンをケースのまま机に置いた。先生の言いつけ通り、中心を弾かない。弾かない代わりに、譜面を開いて、中心の前後を指で追った。目で、周りを愛する。指で、周りを確かめる。

 そうしているうちに、中心の旋律が勝手に頭の中で鳴り始めた。鳴るけれど、まだ出さない。出さないまま、寝る。熟成。先生の嫌な言い方が、今夜は少しだけ優しく聞こえた。



 翌日。ホールの空気は、練習室と別物だった。広い。響く。息が見えないのに、息が重い。舞台袖の床が少し冷たくて、足の裏が現実を思い出させる。

 リハーサルの途中、私は中心で指が震えた。弓が跳ねそうになる。跳ねたら音が割れる。割れたら恥ずかしい。恥ずかしいのが怖い。怖いのに、怖いと言う暇もない。音は待ってくれない。


 私は一瞬止まった。

 止まったら、終わりそうで怖い。

 でも、付箋を思い出す。止まったら、呼吸。周り。中心。


 息を吸って、吐く。

 周りの音を聴く。隣のヴィオラ、奥のチェロ、遠くの管の息。みんなが周りを弾いている。周りがあるから、中心が来る。私だけが中心を背負っているわけじゃない。背負っているふりをして、勝手に潰れそうになっていただけだ。


 私は弓を置き直し、中心を弾いた。

 完璧じゃない。

 でも、音が嘘をつかなかった。

 怖いままの音だった。


 リハが終わったあと、先生が客席の通路から親指を立てた。派手じゃない合図。なのに、心臓が少しだけ落ち着いた。合図は、相手のためじゃなく、自分のためにもあるのだと初めて思った。


 夜、本番。照明が落ち、舞台が光る。

 中心の手前で、私は一瞬だけ先生の顔を思い出した。「周りを愛せ」。腹立つのに、助かる言葉。

 私は周りを聴いて、中心に踏み込んだ。音が螺旋みたいに回って、真ん中に着地する。着地した瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。到達、というより、受け取りに近い。


 演奏が終わり、拍手が来た。大きい。眩しい。

 眩しさに逃げそうになって、私は息を吸った。吐いた。

 ぽつり、でいい。今日の私は、ぽつりを持って帰る。


 楽屋へ戻ると、先生が言った。

 「中心、触れたな」

 「触れました」

 「どうだった」

 「……怖かったです」

 「うん」

 「でも、怖いままでも、音が出ました」

 「それが“でかい一歩”だ」


 先生は笑って、私の付箋を軽く叩いた。

 「次は、中心の後ろも怖くなる。終わるのが怖いから」

 「終わるの、怖いです」

 「怖いなら、また周りを使え。周りは、逃げ道じゃない。帰り道だ」


 打ち上げの帰り、団員たちがラーメン屋の前で盛り上がっていた。私は普段なら遠慮するのに、今日はふらっと列に混ざった。

 「お、中心弾けた顔してる」誰かが言う。

 「顔で分かるんですか」

 「分かる。目が起きてる」

 からかわれて笑って、私はスープをすすった。熱い。熱いのに、喉が通る。今日は何でも通る日だ。


 帰宅して、ケースを閉じた。鍵穴が引っかかる音が、今日は少しだけ優しく聞こえた。螺旋の真ん中は、もう怖いだけじゃない。

 そこに行けるって知ったことが、次の夜の装備になる。


 机の上に、先生にもらった付箋がまだ残っていた。角が少しだけ丸まっている。紙の角が丸まるのは、持ち歩いた証拠だ。私はその裏に、今日の自分用の追記をした。


 《じれったい時ほど、近い》

 《周りを食べて、息を太くする》

 《拍手は抱えない。ひと呼吸で返す》


 書いてから照れくさくなって、冷蔵庫の横に貼った。家の中の合図は、見える場所に置いた方が効く。


 スマホが震えた。先生からだった。短いメッセージが一行だけ。


『次は、終わり方も練習だ。帰り道を覚えろ』


 相変わらず腹立つ言い方なのに、今日は素直に頷けた。終わり方が怖いのは、終わりが始まりにもなるからだ。

 私は窓を少し開けて、夜の空気を吸った。遠くで虫の声が鳴っている。あの細い音が、今日の私には拍手みたいに聞こえた。


 螺旋はまだ続く。真ん中に触れたから終わりじゃない。むしろ、ここからが面白い。

 そう思えるくらいには、私はちゃんと一歩、大きく踏んだのだと思う。

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