『相談窓口は、閉店しました』
朝からずっと、イラッとしていた。自販機のコーヒーがぬるい。改札の人波が遅い。エレベーターが満員なのに、笑顔で「どうぞ」と詰めてくる人がいる。詰めるな、と思うくせに、詰めないと悪者になる空気も分かっている。だから余計にイラつく。
結局、僕が一番イラついている相手は、僕だ。そういう結論を出せるくらいには、今日の僕は性格が悪い。
会社に着くなり、三連発で“頼りにされる人の儀式”が始まった。
「ねえ松浦、これどう返すのが角立たない?」
「今日の飲み会、断り文句、何が一番丸い?」
「彼氏に送るLINE、既読ついたけど返事ない。どう思う?」
僕は笑って、「こうじゃない?」と短く返しながら、内心では舌打ちをしていた。角を立てない返事が得意だと、角のある気持ちが置き去りになる。置き去りになった気持ちは、あとで必ず踵を掴んでくる。
昼休み。自席でコンビニのおにぎりを食べていたら、後輩の浅井が椅子を寄せてきた。
「松浦さん、ちょっといいすか。恋の話なんすけど」
「……いいけど、三口で」
「三口って何すか」
「僕のおにぎりの寿命」
冗談で逃げる。逃げるのに、浅井は本気の目をしていた。
「俺、彼女に嫌われたかもっす」
「嫌われてない。たぶん」
「たぶんが怖いっす」
「怖いのが正常」
自分でも嫌になるほど、どこかで聞いたような言葉が出る。相談を聞くたび、僕の中で小さな棘が一本ずつ増える。刺さるのは相手じゃない。僕だ。
浅井が去った直後、スマホが震えた。
表示された名前で、胃が一段だけ沈む。坂上ゆい。同期。社内で一番「話しやすい人」と言われているのは、たぶん彼女だ。彼女が誰かの愚痴を受け止めているのを何度も見た。笑いながら、相づちを打って、最後にちょっとだけ背中を押す。
それなのに、彼女が「話しやすい」と言う相手は、なぜか僕だった。
『今日、屋上いける? ちょっとだけ』
ちょっとだけ。便利な言葉。逃げ道も一緒に付いてくる。
僕は「無理」と返しそうになって、指を止めた。無理、と言えば、いまのイラつきは誰にも渡らない。でも、無理と言った瞬間、彼女の「ちょっとだけ」が行き場を失う。行き場を失ったものは、だいたい夜に増殖する。僕はそれを知っている。
だから、いつもの返事をした。
『いいよ』
送信してから、息を吐いた。勝手に決めたくせに、勝手に疲れる。
*
屋上は風が強かった。フェンスの向こうで、街がまっすぐに並んでいる。まっすぐなのに、誰もまっすぐに歩けていない。
ゆいはベンチに座って、紙コップを両手で包んでいた。目の下が薄く青い。仕事が忙しいのか、別の何かが忙しいのか、どっちかだ。
「ありがとう。来てくれて」
「うん。で、ちょっとだけって何」
「重くないよ。重くない……はず」
ゆいは笑って、すぐに笑いを引っ込めた。引っ込める癖がある。笑いを引っ込める人は、いまは笑う番じゃないって知っている。
「ねえ、松浦」
「なに」
「恋の相談、していい?」
来た。
僕の胸の奥が、反射で固くなる。恋の相談は地雷じゃない。地雷じゃないのに、僕にとっては地雷だ。踏んでも爆発しないけど、ずっと足首に引っかかるタイプ。
「……いいよ」
僕は平気な顔で言った。平気な顔の貼り方だけは上手い。
「私さ、今の部署の先輩、いるじゃん。話が面白い人」
「ああ」
「あの人にさ、ちょっと……気があるかもって思って」
ゆいは紙コップの縁を指でなぞった。なぞり方が小さくて、慎重で、だから余計に本気っぽい。
「でもね、言えない。言ったら変になる。変になったら、今の関係が壊れそうで」
「……怖いんだ」
「うん。怖い。で、怖いから冗談ばっかり増える。余計な一言が増える。ね、最悪」
僕は笑いそうになって、笑えなかった。最悪、の中に自分の影がある。
僕も同じだ。言えないから、冗談を増やす。冗談を増やして、距離が縮まった気になって、実は何も縮まっていない。
「それでさ」ゆいが言った。「松浦、どう思う?」
どう思う、って言葉が急に重い。
僕は彼女の相談に答えたい。彼女が苦しくない方向に押したい。
でも同時に、僕は知っている。彼女が誰かを好きになる話を聞くたび、僕の中の小さな棘が増える。増えた棘が、朝のイラつきに化ける。誰のせいでもない。僕の弱さのせいだ。
「……行けるなら、行った方がいい」
口が勝手にそう言った。友だちとしての正しい答え。
ゆいが少し安心した顔をする。その顔を見て、胸の棘が一本、静かに刺さる。
「でも、さ」
僕は続けてしまった。続けると戻れないのに。
「行く前に、一個だけ決めたら」
「なに?」
「“言うこと”を短くする。長いと、逃げ道が混ざるから」
「逃げ道……」
「うん。『好き』とかじゃなくてもいい。まず、会いたいとか。話したいとか。そういうやつ」
ゆいはしばらく黙って、風に前髪を揺らされながら言った。
「……会いたい、なら言えるかも」
「それでいい」
「松浦、慣れてるね」
「慣れてないよ」
「慣れてる顔してる」
「それは……仕事の癖」
「仕事の癖、便利だね」
「便利だけど、よく刺さる」
言ってから、しまったと思った。刺さる、なんて言うつもりじゃなかった。
ゆいが目を細めた。
「刺さるの?」
「……刺さる」
僕は紙コップを握った。熱いのに、手を離さない。離すと、言葉も離れそうだったから。
「ねえ」ゆいが声を落とした。「松浦、今日なんか変」
「変じゃない」
「変。朝からイラついてたでしょ。いまも、笑ってない」
当たってる。怖いくらい当たってる。
僕は視線を逸らして、フェンスの向こうのまっすぐな道を見た。まっすぐは、いつだって逃げ道だ。
「……ごめん」
「謝るなら理由」
「理由って」
「私、話しやすいって言ったよね。だから、私も聞く権利ある」
権利、なんて言い方が可笑しくて、僕はやっと笑った。
「ずるい言い方」
「ずるいのは優しさの近道」
どこかで聞いたみたいな台詞を、ゆいが真顔で言うから、余計に笑ってしまった。
笑いが落ち着いて、僕は息を吸った。
ほんのわずかな勇気。たぶん、これ。今ここで、数ミリだけ前に出るやつ。
「……俺さ」
声が少し震えた。恥ずかしい。
「相談されるの、嬉しいんだよ。ほんとに」
「うん」
「でも、今日は……ちょっと、きつい」
言えた。言ったら終わると思っていたのに、終わらなかった。
ゆいは驚いた顔をして、それから、ゆっくり頷いた。
「……そっか」
「ごめん。勝手だよね」
「勝手じゃない。人間」
ゆいは紙コップを持ち上げた。
「じゃあ、今日は相談、閉店」
「閉店って」
「うん。代わりに、松浦の話を聞く。十分快ける?」
十分快ける。
その言い方が、僕の胃を少しだけ軽くした。長時間を約束されると怖い。でも十分なら、持てる。持てるから、ちゃんと渡せる。
「……十分、で」
「よし。じゃあ、いまから十分」
ゆいはスマホのタイマーを押した。ピッ。
残酷なくらい現実的な音。なのに、安心した。終わりがあると、始められる。
「で?」ゆいが言った。「何がきついの」
僕は笑って、でも逃げずに言った。
「君が、誰かを好きになる話」
ゆいが目を丸くした。
「え」
「え、って言うな」
「……ごめん、でも」
「謝らなくていい。俺が勝手にきついだけ。君が悪いわけじゃない」
「……松浦」
ゆいはタイマーを見た。残り九分半。
「じゃあ、これ、私の“板ばさみ”」
「言い方が硬い」
「硬いのが好き。逃げないから」
ゆいは真面目な顔のまま続けた。
「私、先輩のこと“気があるかも”って言ったけど、半分だけ嘘」
「半分?」
「うん。先輩の話、面白いのは本当。でも、相談したい相手は……前から決まってた」
僕の心臓が、また跳ねる。
ゆいは笑って、でも目はまっすぐだった。
「松浦、私さ。あなたに相談しやすいって言ったの、逃げ道でもあった」
「逃げ道?」
「好きって言うのが怖い時、相談に変えれば、隣にいられるから」
言い切ってから、ゆいは急に照れたみたいに紙コップを見た。
「……ずるいよね」
「ずるい」
「でも、今日やっと飽きた」
「飽きた?」
「この、相談にして誤魔化すの。ね、こういうの続けると、冗談だけ増えて距離が縮まらないじゃん」
ゆいはベンチの端を指でこつこつ叩いた。合図みたいに。
「だから、実地」
実地。
僕は息を吸って吐いた。短く。逃げない。
「……会いたい」
言った瞬間、風が一段強く吹いた。ベンチの下で空き缶が転がる音。遠くのクラクション。全部が急に現実に戻る。戻るのに、怖くない。
ゆいが笑った。引っ込めない笑い。
「言えた」
「言えた……」
「じゃあ、次。どこで会う?」
「え?」
「会いたいって言う練習、実地じゃないと意味ないでしょ」
ゆいはタイマーを止めて、立ち上がった。
「十分、延長。相談じゃなくて、飲み物。下の自販機で、酸っぱいの買おう。酸っぱいと黙るなら、黙った分、私が喋る。喋りすぎたら、あなたが止める。二人でやる」
僕らは階段を降りて、踊り場で風を避けた。会社の中の風は弱い。弱い風は、声を置ける。
自販機の前で、ゆいが迷わず柑橘系の炭酸を押した。
「はい。武器」
「武器じゃない」
「装備。ほら、今日は装備の日」
言い方がどこかの職人みたいで、僕は笑った。
エントランスを出ると、空気が少しぬるい。夜へ向かう途中の、曖昧な温度。
ゆいが缶を開けて、一口飲んで顔をしかめた。
「酸っぱ。……でも、この酸っぱさ、逃げにくい」
「逃げにくいって何」
「笑って誤魔化せない味。だから今日に合ってる」
僕は缶を受け取って一口飲み、確かに黙った。酸っぱいと、言葉が一回止まる。止まると、余計な飾りが落ちる。
ゆいが言う。
「ねえ、松浦。これからさ、相談窓口、曜日限定にしない?」
「曜日?」
「うん。月火水は“相談”禁止。冗談で逃げない日。木金は、相談してもいい。土日は、実地」
「実地好きだな」
「好き。実地は、嘘が減る」
ゆいは笑って言った。
「あと、合図。あなたが“平気”を貼りそうになったら、私が缶を叩く。私が喋りすぎそうになったら、あなたが缶を叩く。こつん、って」
僕は缶をこつんと叩いた。
「いま?」
「いま」
「なんで」
「……嬉しいから」
言った自分が照れくさくて、僕はもう一口飲んだ。酸っぱくて、黙る。黙ると、ゆいが笑う。笑いがあると、息が深くなる。
駅へ向かう道で、ゆいがふいに言った。
「私ね、あなたがイラついてる日、わりと好き」
「最悪の褒め方」
「最悪じゃない。イラついてる松浦、嘘が減る。たぶん、いちばん“いま”が見える」
その言葉が、妙に胸に残った。
改札の前で、ゆいが立ち止まる。
「ねえ、明日」
「うん」
「実地、する?」
「する」
僕は即答してしまって、目を見開いた。即答できる自分に驚いた。
「場所は?」
「……スーパーの前のベンチ」
「安いデート」
「安いのがいい。飾りが落ちる」
「いいね。じゃ、十分じゃなくて、二十分」
「増やすな」
「増やす。勇気の分だけ」
ゆいは笑って、手を振った。
家へ向かう電車の中、僕は指先で缶のふたをいじった。ささくれをいじるみたいな癖が出そうになって、やめた。代わりに、息を吸って吐いた。
今日、僕は相談役を閉店した。代わりに、少しだけ自分の店を開けた。客は一人でいい。むしろ一人がいい。
明日、ベンチでまた酸っぱいのを飲んだら、きっとまた黙る。でも、その黙りは逃げじゃない。次の言葉を選ぶための、短い呼吸だ。




