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短編集  作者: 科上悠羽
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『辛口粉末、使用上の注意』

 朝の満員電車は、だいたい胃に悪い。

 押されて、揺れて、息が自分のものじゃなくなる。肩が誰かの肘に当たり、肘が自分の肋に当たり、肋が「ここに居ます」と妙に律儀に痛む。僕は痛み止めの箱を鞄の奥で探しながら、心の中だけで悪態をついた。声にすると、さらに疲れるからだ。


 改札で足が止まった。残高が足りない。たった数十円。たった数十円なのに、朝の世界は容赦なく「止まれ」と言う。僕はチャージ機の前に回り込み、背後の列の圧に押されながら、画面を連打した。

 焦りが焦りを呼ぶ。指が滑り、二回入力し直し、結局ちょうどよく入金できなくて、また腹が立つ。

 たぶん足りていないのは、電子マネーじゃなくて僕のほうだ。


 会社に着くと、空気が薄いまま時間だけが太い。

 メール、会議、確認、差し戻し、再確認。どれも正しい顔をして並んでいる。正しいものは殴れない。殴れないものが積み重なると、人は自分を殴り始める。

 僕はその「自分殴り」が得意だった。得意って言うと嫌な才能みたいだけど、実際、誰にも見えない場所で拳を振るうのは上手い。傷も残らない。残らない代わりに、鈍くなる。


 昼休み、机に突っ伏していたら、隣の席の寺尾が僕の頭の上に何かを置いた。紙袋。

「ほら。昼飯」

「ありがとう……って、これ何」

「スパイス市」

「市?」

「一階のロビーでやってる。社内イベント。よく分かんないけど、今日のお前、色が薄いから連れてく」


 寺尾はそう言って、僕の腕を引っぱった。引っぱられるのは助かる。自分で歩き出すのが一番難しいから。


 ロビーは妙に賑わっていた。小さな屋台が並び、瓶と袋と木のスプーンがぎっしり。匂いが強い。鼻の奥が勝手に目を覚ます。

 その中心に、「調合します」と書かれた札があった。白衣ではなくエプロンの女性が、透明な小瓶を振っている。振るたびに粉が舞って、光に当たってきらきらした。


「お兄さん、顔が“味なし”だね」

 いきなり刺されて、僕は笑いそうになって笑えなかった。

「味なしって何ですか」

「塩も胡椒も足りない顔。火も足りない。水分は…足りてないね」

「水分は今、コーヒーで」

「それは水分じゃなくて勢い」


 寺尾が横で吹き出した。

「ほら、当てられた。こいつ、朝からカリカリしてる」

「カリカリは乾燥の音」

 女性は頷いて、僕の方をまっすぐ見た。

「ねえ。今日、何が欲しい? 元気? 落ち着き? それとも…言い返す勇気?」

「言い返す勇気って、スパイスで出るんですか」

「出るよ。舌が痛いと、人は嘘をつきにくい」


 意味が分からないのに、分かる気がする。

 僕は小さく息を吐いた。

「……元気、というより。動けるやつ」

「いいね。“動ける”は味の話じゃなくて生活の話だ」

 女性は棚から小瓶を二つ三つ出し、香りを嗅がせた。甘い、苦い、鼻に抜ける、喉に残る。

「これが“気合い”で、こっちが“平常心”。こっちは“むしゃくしゃ”」

「むしゃくしゃ?」

「むしゃくしゃは必要。むしゃくしゃは燃料。ただし爆発させない」


 女性は小瓶の蓋を指で叩いた。こつん、こつん。

「燃料の使い方、知りたい?」

「……知りたいです」

「じゃ、選んで。こっちの目盛りの端から端まで、どこにする?」

 彼女は台紙を見せた。赤い印が並んでいる。左が淡く、右ほど濃い。

 僕は反射で真ん中を指しそうになった。無難の癖だ。無難は失敗しにくい。失敗しにくいから面白くない。

 寺尾が横で言った。

「お前、今日くらい右寄せにしろ。どうせ帰り、家でため息増える」

「増えるな」

「増える。だから先に増やせ。増やし方を選べ」


 僕は指を迷わせ、いつもより一つだけ右を選んだ。端じゃない。端は怖い。でも、いつもよりは先。

 女性が満足そうに頷いた。

「よし。じゃあ“今日の粉”」

 彼女は小さなボウルで粉を混ぜた。乾いた粒同士が擦れて、さらさらと音がする。その音が妙に気持ちいい。

「これ、使い方」

 小瓶と一緒に、小さな紙が渡された。


《口に入れる前に、ひと呼吸》

《一振りだけ。足りないなら明日》

《勢いで二振りするな》


 僕は紙を見て、思わず言った。

「料理の話ですよね?」

「生活の話」

 女性は平然と言った。

「勢いで増やすと、だいたい後で泣く。泣くほどじゃないのに、目が痛いっていうやつ」


 寺尾が「それそれ」と頷き、僕は苦笑した。

 小瓶を鞄に入れる。中身は粉。なのに妙に重い。期待の重さだ。



 午後、会議室で僕はまた“正しいもの”に囲まれた。

 数字、納期、優先順位。全部が正しい顔で並ぶ。正しい顔は、噛んでも味がしない。

 上司が言った。

「これ、明日の午前まで。頼める?」

 頼める、の語尾が軽い。軽いのに重い。軽いから断りにくい。

 僕の口はいつもの返事を作りかけた。「はい、大丈夫です」。便利な鎧。鎧は着るのが早い。脱ぐのが遅い。


 僕は机の下で、小瓶を指で触った。

 紙の言葉が浮かぶ。口に入れる前に、ひと呼吸。


 息を吸って、吐いて、言った。

「明日の午前だと品質が落ちます。夜に仕上げて、朝イチで確認の時間をください。確認が取れれば午前中に出せます」

 会議室が一瞬静かになった。

 上司の眉が動いた。怒られる、と胃が言った。

 でも上司は舌打ちの代わりに、短く頷いた。

「……分かった。確認は十五分だけ確保する。頼む」

「はい」


 心臓が一段落ち着く。

 言い返したわけじゃない。喧嘩したわけでもない。

 ただ、言えた。

 言えたことが、今日一番の辛さで、今日一番の救いだった。


 夜。残業は残業で重かったけれど、どこかが違った。

 焦りが出るたび、僕はひと呼吸した。仕事の速度が落ちるというより、ブレが減る。ブレが減ると、余計な自分殴りが減る。

 “自分殴り”は、減らせる。今日知ったのはそれだ。



 終電近く、会社を出ると、駅前広場で音が鳴っていた。

 金属の明るい音。息で膨らむ音。歩く足が自然にそちらへ向かう。

 小さなブラスバンドが、屋根の下で演奏していた。制服じゃない。プロでもない。だけど音が太い。太い音は、人の背中を押す。


 僕は思い出してしまった。

 高校の吹奏楽部。楽器ケースの匂い。譜面の角の丸まり。練習後の喉の痛さ。

 大人になって、あの音を「自分の生活から消した」ことを。忙しい、を理由に。向いてない、を理由に。

 理由はいつだって正しい顔をしている。正しい顔をした理由のせいで、僕は随分いろんなものを静かに手放してきた。


 演奏が終わると、リーダーらしき女性が集金箱を持って回っていた。箱にはこう書いてある。


《次回、飛び入り枠あります》


 飛び入り。

 僕の喉がきゅっと締まった。

 飛び入りなんて、絶対無理だ。笑われる。間違える。息が上がる。恥をかく。

 頭の中の悪口係が、いつもの調子で並べ立てる。

 でも今日は、その悪口係の声が少し遠い。さっき会議室で言えたからだ。言える日は、世界が少しだけ広い。


 僕は財布を出し、千円札を入れた。

 入れただけで、胸が熱くなる。何をしてるんだ。

 リーダーが僕を見て笑った。

「ありがとうございます。……あ、もしかして、経験者?」

「昔、少し」

「じゃあ、次回、来ます?」

 来ます? って言い方がずるい。断る余地を残すのに、誘いとして真っ直ぐだ。


 僕は一瞬迷って、答えた。

「……行きます」

 声が震えた。でも、震えたまま出た。

 リーダーは「よし」と短く言った。

「楽器、何でした?」

「……トランペット」

「いいね。うち、欲しい」

 その「欲しい」が、商品みたいに軽いのに、心には重かった。



 翌朝。

 僕は台所で目玉焼きを焼き、皿に盛り、例の小瓶を取り出した。

 一振りだけ。紙の通りに。

 香りが立つ。鼻が目を覚ます。舌が、少しだけ身構える。


 ひと口。

 最初に来るのは刺激。次に来るのは、意外な甘さ。最後に残るのは、喉の奥の熱。

 熱が残ると、言葉が出やすい。嘘をつきにくい。

 僕は笑ってしまった。たかが粉、されど粉。生活の合図って、だいたいこういう形をしている。


 出勤前、鞄の中を点検した。財布、鍵、定期。

 そして小瓶。

 武器じゃない。装備だ。

 装備は、使うためじゃなく「持ってると分かるため」にある。


 玄関を出る前に、僕は自分に言った。

「今日は、増やす日じゃない。選ぶ日」

 選ぶ。

 それだけで、胸の奥が少し起きる。


 電車に乗る。人波に揉まれる。改札の前で、今度は残高が足りていた。足りているだけで、世界が少しだけ優しい。優しさは、勝手に来たり来なかったりする。

 来ない日に備えるために、僕は小さな辛さを持つ。


 会社に着くと、上司が「昨日の続き」と言った。

 僕は息を吸って吐いて、短く答える。

「はい。確認、十五分お願いします」

 言えた。

 今日も言えたら、たぶん次も言える。


 昼休み、寺尾が僕の弁当を覗き込んで言った。

「お、辛そう」

「一振りだけ」

「えらい。勢いで二振りしそうな顔してるのに」

「人を何だと思ってる」

「回転しがちな人」

 寺尾は笑った。僕も笑った。

 笑いながら、胸の奥のどこかが言った。

 この感じなら、次の“飛び入り”も、怖いまま行ける。


 帰り道、駅前広場の屋根を見上げた。

 まだ誰も演奏していない。静かな屋根。

 でも僕の中では、もう小さな金属音が鳴り始めている。

 音は、勝手に鳴る。

 鳴ったなら、責めなくていい。

 鳴った分だけ、前へ出ればいい。


 僕はポケットの中の小瓶を指で叩いて、こつん、と小さく合図を出した。

 今日の刺激は、これで十分。

 足りなければ、明日また一振り。

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