『郵便口の向こう側』
店の扉には、古い金属の郵便口が付いている。名刺が一枚すべり込むくらいの細い口。雨の日はそこから冷たい匂いが入り、夜はそこから街の灯りが一本だけ刺さる。
僕はその一本の灯りを頼りに、毎晩、紙片を拾う。
拾うと言っても、ゴミじゃない。誰かの“言えない”だ。
匿名で、宛名も署名もない。短い文句、短い嘘、短い願い。僕の小さな喫茶店は、看板に「夜だけ開く」と書いてあるくせに、実際は「夜だけ閉じない」。閉めたあとも郵便口は開いているから。
最初は面白がりだった。冗談半分の愚痴を読んで、紙の端に返事を書いて、また郵便口から返す。返事はいつも短くした。長文は相手の逃げ道になるし、僕の逃げ道にもなる。
だんだん、冗談が減っていった。代わりに、息の薄い文字が増えた。
今夜の紙片も、薄かった。
《ぜんぶ、ちゃんとしてるふりが疲れた》
それだけ。たったそれだけなのに、指先に残る。紙はただの紙なのに、読んだ瞬間から熱を持つ。僕はカウンターの内側で一度、湯を沸かして、湯気の中で呼吸を整えた。
返事を書く。
《ふり、を外す場所が一つあると長持ちします》
書いて、また郵便口へ。
それで終わるはずだった。終わるはずの夜に限って、鈴が鳴る。
カラン、と扉の上の鈴が鳴った。閉店札は掛けてある。だから普通は誰も入ってこない。僕は少しだけ身構えてから、鍵を外した。開けた扉の向こうに立っていたのは、スーツの女性だった。髪は整っている。口角も整っている。整っているのに、目だけが乱れている。
「……ここ、郵便口の店ですよね」
声は小さい。小さいのに、決めて来た声だ。
「そうです」僕は言った。「今は閉店で」
「閉店、でも……」彼女は一歩だけ入った。「返事、もらったんです。さっき」
胸がきゅっとなる。あの紙片の人。僕は彼女の手元を見る。指先が乾いているのに、爪だけが妙に艶っぽい。仕事で磨いた艶だ。
「返事が、いらなかったなら捨ててください」
「捨てません」即答だった。「捨てたら、戻っちゃうから」
「戻る?」
「ちゃんとしてるふりに。……私、それ、得意なんです」
彼女は息を吸って、吐いて、笑おうとして失敗した。失敗した笑顔は、むしろ本物に見えた。
「入っても、いいですか」
「どうぞ」僕は言った。言いながら、心のどこかが警報を鳴らす。匿名の仕組みに、人を入れるのは危険だ。危険は楽でもある。楽しいのは、だいたい危ない。
彼女はカウンターの前の椅子に座らず、立ったまま言った。
「ねえ。あなた、紙、読むんですよね」
「読みます」
「……気持ち悪いこと、書いてもいいですか」
言い方が鋭い。自分で自分を刺している。
「気持ち悪い“気持ち”は、出していいです」僕は選んで言った。「気持ち悪い“行動”は、止めたほうがいい」
彼女は一瞬だけ目を見開いて、それから唇を噛んだ。噛むのは癖か、堪えるためか。どちらでも、今は“止まる”の合図に見えた。
「……じゃあ、気持ちだけ」
「気持ちだけ」
僕は湯を注いだ。香りの強くない、ただ温かいお茶。彼女の前に置くと、彼女は両手で包んだ。包んだ瞬間、肩が一ミリ落ちた。人は温度で正体が出る。
「私、今日ね」彼女が言った。「同僚が褒められて、イラッとした」
「うん」
「で、イラッとした自分を、もっと嫌いになった」
「うん」
「最悪でしょ。祝われてる人を見て、心の中で足引っぱって」
彼女は笑って誤魔化そうとして、また失敗した。誤魔化しが失敗する夜は、救われる可能性がある。
「それで」彼女が続けた。「帰り道、駅のガラスに映った自分の顔が、綺麗だったんです。綺麗に見えるのが、ムカついて」
「綺麗は悪くないですよ」
「悪くない。だから腹が立つ。……ねえ、私、いい人でいるの、上手すぎる」
僕は返事を急がなかった。急ぐと“正解”を出したくなる。正解はここでは毒になる。
代わりに、カウンターの端に小さな紙を出した。夜のメニューに使うメモ用紙。彼女にも一枚渡す。
「書きます?」僕が言う。
「……いま?」
「いま。短く。嫌な気持ちほど、短いほうが握れます」
彼女はペンを受け取って、迷ってから書いた。
《ずるい》
たった三文字。なのに、彼女の手が震えた。
「ずるい、って誰が?」
「私」彼女は言った。「私が、ずるい」
「ずるいの中身は?」
「……分かんない。でも、ある」
ある、の言い方が痛かった。形がないのに確かに痛いもの。だからこそ厄介だ。
僕も自分の紙に書いた。
《見たい》
それを見せると、彼女が眉を上げた。
「見たい?」
「あなたの、ずるいの中身」僕は正直に言った。「僕も、勝手に覗きたがる。だからこそ、あなたが許す範囲だけ」
言ってから、僕は自分で自分が怖くなった。覗きたい、は薄い刃物だ。扱いを間違えると人を傷つける。
彼女は紙を指でなぞって、少しだけ笑った。
「……許す範囲、って言うの、珍しい」
「珍しいですか」
「みんな、最初から“全部”って言う。全部って言う人ほど、途中で逃げる」
刺さる。僕も“全部”を言って逃げたことがある。逃げた側の記憶は、いつまでも手のひらに残る。
「全部じゃなくていい」僕は言った。「まず、隙間で」
「隙間?」
「ほら」僕は扉の郵便口を指さした。「あれ。あそこからなら、必要な分だけ出せる」
彼女は郵便口を見て、息を吐いた。
「……あれ、好き。出しすぎないで済むから」
「出しすぎると、息が止まるから」
「息、止まる」彼女が繰り返す。「私、今日、息してなかったかも」
彼女は紙コップを一口飲んで、眉をしかめた。
「苦い」
「苦くないやつにすると、甘さで誤魔化せます」
「誤魔化し、やめたい」
「じゃあ、苦いまま」
僕が言うと、彼女は小さく頷いた。頷き方が、子どもみたいに素直で、だから危うい。
「ねえ」彼女が言った。「私、もっと汚いのもある」
「言葉で?」
「言葉で。……行動にはしない。したくない」
「じゃあ、聞きます」
僕は自分の拳を握って開いた。机の下で。合図だ。怖いけど聞く、の合図。
「私」彼女は視線を落としたまま言った。「相手が困る顔を見ると、少しだけ安心することがある」
胸の奥が、ひやっとした。けれど僕は顔を変えないようにした。驚くと彼女がまた“綺麗な顔”を貼るから。
「安心?」
「自分だけじゃない、って思える。最低」
「最低って言えるなら、まだ手はある」
「手?」
「最低を“最低のまま”置いておく手。隠すと育ちます」
彼女は笑いかけて、途中で止まった。笑うと軽くなる。軽くなると、また“平気”が戻ってくるのが分かっている顔だ。
「……ねえ」彼女が言う。「あなたは、どうしてこんな店、やってるの」
その質問が来るのは分かっていた。匿名の仕組みを破って人が来た時点で、僕のほうも隠れられない。
「昔、僕も“相談窓口”をやってたからです」
「相談窓口?」
「職場で。友だちで。恋人で。何でも受け取る係」
僕は湯気の向こうを見た。湯気は便利だ。視線を少し曖昧にしてくれる。
「受け取るの、嫌いじゃないんです。むしろ、好きです。……好きだから危ない」
彼女の目が、少しだけ柔らかくなった。
「危ないって、どういう」
「誰かの“言えない”を集めるのが癖になる。集めると、僕が僕じゃなくなる」
言ってから喉が熱くなった。これも僕の汚いところだ。優しさの顔をして、秘密を欲しがる。
彼女はしばらく黙って、それからペンで自分の紙の端をとん、と叩いた。
「……私と似てる。きれいな顔して、別のもの欲しがる」
「似てますね」
「じゃあさ」彼女が言った。「似てる同士で、今日はひとつだけ、やってみない?」
「何を」
「出しすぎない練習。……でも、出す練習」
彼女はコートの袖口をまくった。そこに、小さなほつれがあった。糸が一本、ぴょんと飛び出している。たったそれだけ。けれど、目に入った瞬間から気になる種類のやつ。
「これ、ずっと気になってたのに、直す暇がなかった」
「直します?」
「あなたが? 店主さん」
僕は頷いて、カウンターの下から裁縫箱を出した。喫茶店に裁縫箱があるのも変だが、夜の店はだいたい変でいい。針と糸を選び、色を合わせ、彼女の袖口を指先でつまむ。距離が近い。近いのに、変な緊張は少なかった。触れているのは布で、布の向こうに人がいるからだ。
「引っ張らないでください」僕は言った。
「引っ張らないよ」
「引っ張ると、余計に広がる。ほつれも、気持ちも」
彼女が小さく笑った。「今の、名言っぽい」
「ぽい、でいいです。名言は重い」
針を通す。糸が布をくぐる。ちく、と小さな抵抗。抵抗があるから、ここが境界だと分かる。境界が分かると、越えないで済む。越えないで済むと、安心して近づける。
「ねえ」彼女が言った。「私、誰かに“全部見せて”って言われると怖い」
「うん」
「でも、“見たい”って言われると……ちょっと、うれしい」
「責任、取ります?」
「取らせない。……でも、逃げないで」
「逃げません。郵便口があるから」
縫い目が整っていく。飛び出していた糸が布の中へ戻り、袖口が静かになる。たった数針。なのに、彼女の呼吸が少し深くなったのが分かった。直したのは布なのに、どこか別のところも一緒にほどける。
「これ、さ」彼女が言った。「私の中の“最低”も、縫えます?」
「縫えないです」僕は正直に言った。
「……だよね」
「でも」僕は続けた。「飛び出したままにしない手はあります。いったん、しまう。見えるところで。勝手に育てない」
彼女は袖口を見つめて、ゆっくり頷いた。
「しまう場所、ここにしていい?」
「夜だけなら」
「夜だけでいい。夜だけ、私の変を預ける」
彼女は袖口を撫でて、少しだけ肩をすくめた。
「直った。……直るって、腹立つね」
「腹立ちますか」
「うん。ずっと我慢してたのがバカみたいで」
「バカじゃないです。気づくまでが時間なだけ」
彼女は最後に、店のテーブルの端を指で二回、こつこつ叩いた。
「これ、合図。今日はここまで、の合図」
「いいですね」
「いいね、って言った。……あなた、優しい顔するの、上手い」
「下手です。だから、郵便口に任せてます」
扉の外へ出る前、彼女は振り返って言った。
「次は、紙じゃなくて声、出してもいい?」
「いいです。出す分だけ」
彼女が外へ出る気配を見せた瞬間、僕はふっと思った。郵便口は、逃げ道でもあるが、橋でもある。細い橋だからこそ渡れる夜がある。太い橋は、勢いで渡って落ちる。
僕はカウンターの下に置いた裁縫箱をしまいながら、糸の匂いを吸った。布に通った糸は、見えないところで結び目を作る。結び目があるから、ほつれは戻る。人も同じだ。見えないところに小さな結び目が一つあるだけで、明日はほどけにくい。
それでも、欲しがる自分はまだいる。覗きたい自分もまだいる。
それでも今夜は、その二つを檻に入れず、首輪だけ付けた。引っ張りすぎないように。
彼女は立ち上がって、扉の前に行った。出ていくのかと思ったら、郵便口の前で止まる。ポケットから小さな紙を出して、折り目を付けて、すっと差し込んだ。
「それ、何ですか」
「……次の私」彼女は言った。「今日の私は、ここで置いてく」
扉が閉まる。鈴が鳴る。
僕はすぐに郵便口から紙を引き抜かなかった。引き抜くと、また覗きたがる自分が暴れる。暴れる自分を、今日は飼いならしたかった。
湯が冷めた頃、僕はようやく紙を開いた。短い字。
《また来る。怖いまま。》
その下に、小さく丸が二つ。顔文字でもなく、句点でもなく、ただの丸。息継ぎみたいな丸。
僕は返事を書いた。短く。
《怖いままで、いい。出す分だけで》
書いて、郵便口へ戻した。
細い口の向こうに、夜が広がっている。誰かの“言えない”が、まだそこにある。僕の“覗きたい”も、まだここにある。
どちらも、隠さない。隠さない代わりに、隙間を守る。
扉の下の隙間から、外の光が一本だけ刺した。僕はその一本に向けて、静かに息を吐いた。
今夜は、それで十分だ。




