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短編集  作者: 科上悠羽
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『指先の境界』

 夜の国道は、昼より正直だ。車が少ないぶん、音が減る。音が減ると、匂いが目立つ。アスファルトの湿り、遠くの海の塩、そして、白い塗料のつんとした刺激。

 僕はその匂いの中で働いている。白線を引く仕事。きれいに、まっすぐに、迷いなく。迷いがにじむと、ラインが揺れて、揺れたラインは次の日の朝に誰かを怖がらせる。


「松永、焦るなよ。今夜は風が変だ」


 運転席から班長の岸本さんが言う。僕は車の荷台で道具箱を開け、ローラーを取り出した。反射材の粉が入った白い塗料、ガスバーナー、刷毛、コーン。

 作業は手順だ。手順なら、眠くてもできる。手順なら、余計なことを考えなくて済む。

 ……考えなくて済む、はずだった。


 路肩にコーンを並べ終えたころ、ポケットのスマホが震えた。通知。

 見る前に分かってしまう。分かるのが嫌だ。嫌なのに指が勝手に画面を点けた。


『今、帰った。玄関の電気、また切れてたよ』


 文面だけで声が聞こえる。短いのに怒ってない。怒ってないのが、いちばんきつい時がある。

 送ってきたのは、隣の部屋の三枝さえぐささん。僕より少し年上で、マンションの管理組合の連絡係みたいな顔をしながら、実は誰より気が回る人。僕が夜勤で帰れない日は、宅配便の不在票を拾ってくれたり、共有廊下の水漏れを先に見つけたりする。

 親切を受け取るたび、僕の中で妙な借りが増える。借りは返さないと腐る。腐る前に返したいのに、返し方が分からない。


『ありがとう。明日換える』

 打って、送る。

 それだけの返信が、今夜はやけに重かった。


 班長が僕の顔を見て笑った。

「お前、夜に引っ張られすぎ。線がよれるぞ」

「よれません」

「よれる。人間はよれる。よれないふりすると、もっとよれる」


 刺さる。班長はいつだって刺さる言い方をするくせに、刺したあとにちゃんと救急箱を置く人だ。

 僕は深呼吸して、ローラーに塗料を含ませた。白がつやっと光る。

「よし。一本目、いくぞ」

 班長の声。

 僕はアスファルトにローラーを落とし、前へ押した。白い筋が伸びる。伸びるのは、気持ちいい。こういう“結果が目で見える仕事”に逃げたのは、僕自身だ。



 休憩はコンビニの駐車場だ。缶コーヒーを二口飲んだだけで、舌が苦い。苦いのに、それが安心する。

 ふと、明かりの下に人影が見えた。店の入り口じゃない。駐車場の端。灰皿の横。

 見覚えがある背中だった。


 白い息。細い肩。髪をまとめる癖。

 隣の部屋の三枝さんが、コートの襟を立てて立っていた。


「……え」

 僕が声を出すと、彼女が振り向いた。驚いた顔のあと、すぐに“平気の顔”を貼る。貼る速さが、上手すぎて腹が立つ。

「あ、松永さん。お仕事?」

「はい。え、こんな時間にどうしたんですか」

「ゴミ出しのついでに、牛乳なくて。……ついでが長かっただけ」

 ついで、は便利な言葉だ。理由を薄くしてくれる。薄い理由は追及されにくい。追及されない代わりに、本人も自分を見失う。


 僕は班長のトラックをちらりと見た。班長は気づいていないふりをして、缶を振っている。気づいてる。絶対気づいてる。

 僕は三枝さんに言った。

「……玄関の電気の件、明日じゃなくて、今でも」

「今はいい」

 即答だった。即答で断る人は、たぶん本当は断りたくない。断りたくないのに断る人の顔は、目が少しだけ硬い。


「じゃあ」

 僕はポケットから作業用の小さなライトを出した。クリップで挟めるやつ。

「これ、仮で。玄関の棚に挟んで使ってください」

「そんなの持ってるんだ」

「線引き屋なので」

 言ってから、変な言い方だなと思って笑いかけて、途中で止めた。笑うと誤魔化しになる。誤魔化しは便利で、今日はそれが嫌だった。


 三枝さんはライトを受け取って、指先でスイッチを押した。白い光が点く。彼女の目の下の薄い青が、少しだけ見えた。

「……ありがとう」

「どういたしまして」

 言葉が短い。短いのに、間が長い。

 間が長いと、余計なものが浮かぶ。


 たとえば。

 三枝さんの薬指に、指輪がないこと。

 僕がそれに気づいたのが、今日が初めてじゃないこと。

 初めてじゃないのに、聞けないままにしてきたこと。


「ねえ」

 彼女が先に口を開いた。

「松永さんって、毎晩、道路に線を引いてるじゃないですか」

「まあ……はい」

「線って、越えたくならない?」

 心臓が一段跳ねた。

 質問が乱暴すぎて、たぶん彼女も自分で驚いている。目が泳いで、すぐに言い直そうとしている。

 言い直される前に、僕は返した。


「越えたくなる時、あります」

「あるんだ」

「あるけど、越えると危ない所もある」

「……危ない所」

「たとえば、中央線」

 僕は笑った。今度はちゃんと笑えた。彼女も小さく笑った。笑いがあると、息が通る。


 でも笑いの下に、熱いものが残る。

 越えたい、という衝動。

 それが危ない衝動だと分かっているのに、分かっているだけじゃ止まらない夜がある。


 班長のトラックの方から、ガスバーナーの点火音がした。

 ボッ、と小さな炎が上がる。白線を乾かすための火。作業の火。

 その火が、やけに綺麗に見えたのがまずかった。


 三枝さんが続けた。

「私ね、今日、帰り道で思ったんです。全部ちゃんとするの、飽きたって」

「……うん」

「飽きたのに、飽きたって言う相手がいない」

 彼女は紙パックの牛乳を胸に抱えて、笑った。笑いが薄い。薄い笑いは、割れる前のガラスみたいだ。


 僕の中の悪い癖が、顔を出した。

 誰かのものを欲しがる癖。

 ちゃんとし続けてる人の隙を、勝手に自分の入口にしてしまう癖。


 僕は一歩だけ近づきかけて、止まった。

 止まったのは、正しさのためじゃない。

 止まらないと、自分が自分を嫌いになるのが分かったからだ。


「……三枝さん」

「なに」

「越える、の話なんですけど」

 僕は言葉を探して、いったん息を吐いた。作業で覚えた手順。迷ったら呼吸。

「越えたいなら、越え方を決めた方がいいです」

「越え方?」

「勢いで越えるのは、だいたい痛い。痛いのは、あとで長引く」

 彼女が目を見開く。

 それから、ゆっくり頷いた。頷きが遅いのは、真面目に受け取っている証拠だ。


「……じゃあ、どう決めるの」

「簡単に」

 僕は自分の手袋を見た。塗料の白が少しついている。剥げない白。

「まず、今夜は越えない」

「……うん」

「次に、越えたくなったら、言う。『越えたくなった』って」

「言ったら、終わりそう」

「終わりじゃない。始まりの合図です」

 言ってしまってから、照れくさくなった。始まり、なんて言葉は重い。重いのに、今日は重い言葉が必要だった。


 三枝さんは紙パックを指でこつこつ叩いた。合図みたいに。

「……それ、言っていい?」

「いいです」

「今夜は越えないけど」

 彼女は視線を落として、小さく言った。

「越えたくなった。たぶん、前から」

 胸が熱くなる。熱は危険だ。

 危険だからこそ、手順が要る。


「……僕もです」

 僕は言った。短く。逃げ道を混ぜないように。

「僕も、前から」

 言ってから、すぐ続けた。

「だから、今夜は越えない」

 彼女が息を吐いた。笑いそうになって、笑わなかった。

「真面目だね」

「線をよれさせたくないので」

「また線」

「線の人間なんです」


 そのとき、班長が遠くから叫んだ。

「松永! 休憩終わり! 線が待ってるぞ!」

 最高に間が悪い。最高に助かる。

 僕は班長に手を振って、三枝さんを見る。


「……帰れます?」

「帰れる」

「玄関、ライト使ってください」

「うん」

 彼女は小さく頷いて、牛乳を抱え直した。

「松永さん」

「はい」

「今夜、越えない代わりに」

 彼女は一度だけ、僕の手袋を指でつんと触れた。

 白い塗料のついた指先。

 それだけ。

 それだけなのに、胸がもう一回跳ねた。


「これ、合図にしていい?」

「……いいです」

「触りたくなったら、触る前に言う。越えたくなったって」

「うん」

「嘘つかない?」

「つかない」

 言い切ると、少しだけ怖い。怖いのに、背中がまっすぐになる。


 三枝さんは駐車場を小走りで去っていった。

 僕はトラックへ戻り、ローラーを握り直した。班長がニヤニヤしている。

「お前、顔が燃えてる」

「燃えてません」

「燃えてる。火がついた顔」

「仕事の火です」

「はいはい。じゃあその火、道路に使え。余計な所に落とすな」


 僕は笑った。

 その笑いは、逃げじゃなかった。



 夜明け前、最後の区間を塗り終えた。白線はまっすぐに伸びている。まだ乾ききっていない部分が、街灯を受けてうっすら光る。

 僕は一歩下がって、全体を見た。

 境目は、守るためにある。

 でも、境目は近づくためにも使える。近づき方を間違えなければ。


 スマホが震えた。

 三枝さんから、短いメッセージ。


『ライト、点いた。ありがとう。…越えたくなったら言う』


 僕は親指で短く返した。


『了解。今夜は越えない。明日、玄関の電気換える』


 送信して、空を見上げた。

 朝の空は薄い。薄いのに、ちゃんと明るい。

 白線は、夜の仕事の証拠だ。誰かを縛るためじゃない。迷わないための道具だ。


 僕は手袋を外して、指先の白い塗料を見た。

 剥がれない。剥がれないけど、洗えば薄くなる。

 薄くなるなら、怖くない。薄くなるなら、また塗り直せる。


 班長が言った。

「帰るぞ。今日はよく引けた」

「はい」

「お前の中の線も、よれんなよ」

「……がんばります」

「がんばるな。手順でやれ」


 手順でやる。

 それでいい。

 僕はトラックの荷台に道具をしまいながら、胸の奥の熱をいったん呼吸で冷ました。熱は敵じゃない。扱い方を間違えると火事になるだけだ。


 見えない境界は、たぶん誰の中にもある。

 越えたい夜が来るのも、たぶん自然だ。

 だからこそ、越える前にひと呼吸。言葉を短く。手を止める。

 そして、守る。


 白い境界を、まっすぐに。


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