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短編集  作者: 科上悠羽
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『ふたり用の議事録』

 大きな「これだ!」って理由は、たぶん無い。だからこそ、説明しろと言われると詰まる。

 皿の端に残る米粒みたいな小さな不満が、いつの間にか増えて、台所の隅に溜まって、踏むたびに地味に痛い。痛いのに、誰も救急車を呼ばない。呼ぶほどじゃない、と自分で決めてしまうからだ。


 その夜、僕は会社帰りのコンビニ袋をぶら下げて玄関を開けた。靴を脱ぐ前から、部屋の空気が少し硬い。

 ソファにさやがいた。脚を抱えてスマホを見ている。画面の光だけが元気だ。


「ただいま」

「おかえり」

 返事はある。あるのに、間が長い。間が長いと、頭の中に勝手な字幕が付く。

 不機嫌、拒否、疲れ、諦め。どれも当たっている気がするのが厄介だ。


 僕は台所に立って、袋を置いた。買ったのは、豆腐と卵と、安いパスタソース。料理上手なわけじゃない。手順があると落ち着くから、買う。

 背中に視線を感じて振り返ると、さやは相変わらずスマホをいじっていた。


「……ねえ」僕は言った。

「なに」

「最近、なんか、噛み合ってない気がする」

 言った瞬間、口の中が乾いた。噛み合ってない、は便利な言葉だ。何も具体的に言っていないのに、全部言ったような顔ができる。

 でも、今日はそれをやめたかった。


「噛み合ってないの、今さら?」

 さやは画面から目を上げずに言った。声だけが先に飛ぶ。

 僕は胸の奥で、小さく負けた気がした。


「今さらって言い方、反則だろ」

「反則はそっち。だって、いつも“そのうち”って言うじゃん」

「……言ってたかも」

「言ってたよ。冷蔵庫の電球も。洗剤も。今週の土日も」


 僕は言い返そうとして、止まった。確かに、言っていた。言って、やらないままにしていた。

 やらないのは怠けじゃなく、忙しさのせいだと、ずっと思っていた。忙しさは言い訳じゃない。……はずだった。


「じゃあ、改善しよう」

 咄嗟に出た言葉が、会議のそれだった。

 さやが初めて僕を見た。目が少しだけ笑っていない。

「改善って言うのやめて。私、案件じゃない」

「ごめん。言い方、悪かった」

「うん。悪い」


 悪い、を真正面から言われると、膝が少し笑う。僕は深呼吸して続けた。

「話したい。ちゃんと」

「話してるじゃん」

「話してる“ふり”じゃなくて」


 その瞬間、さやの手が止まった。止まって、次に、スマホがソファの上に放られた。

 投げたというより、置くのを諦めた動きだった。音が小さいのが、逆に痛い。


「じゃあ、どうしたいの」

 さやが言った。

 僕は口を開けた。閉じた。

 どうしたい。いちばん難しい質問だ。


 僕が黙ったせいで、さやの肩が上がった。上がった肩は、戦闘態勢みたいに見える。

「ほら、出た。黙る。そこが一番きつい」

「黙ってるんじゃなくて、考えてる」

「考えてる顔、いつも同じ。遠い」


 遠い。

 その単語が、喉の奥に刺さった。僕は、目の前にいるのに、遠い。

 遠いって言われると、近づき方が分からなくなる。


「俺のこと、ちゃんと見てる?」

 言った瞬間、自分で自分が恥ずかしくなった。子どもの問いかけだ。

 でも恥ずかしい問いほど、本音の芯がある。


 さやは一拍置いて、立ち上がった。

「……今、その質問、いる?」

「いる」

「私は、いま、喉が乾いてる」

「は?」

「喉が乾いてる。あと、ちょっと頭も空っぽ。だから、その質問に正面から答えたら、たぶん、私、変なこと言う」


 言いながら、さやは洗面所の方へ歩いた。

 ドアが閉まる。鍵がかかる音。

 立てこもりだ。僕の恋人は、いま洗面所に立てこもっている。


「……鍵、かけるのかよ」

 僕が言うと、ドアの向こうから声が返ってきた。

「かける。自分が暴れないように」

「暴れるって……」

「暴れるよ。私は、たまに。自分でびっくりするくらい」


 僕は洗面所のドアの前に立った。手を上げて、ノックする。

 コン、コン。二回。

 返事はない。あるのは水道の音だけ。

 水道の音って、こんなに腹が立つんだな、と初めて知った。


「ねえ」

 僕はドアに向かって言った。

「俺、ちゃんと話したい。……でも、うまく言葉が出ない」

 言った瞬間、胸が少し軽くなった。言えないと言えたら、少しだけ言える。


 しばらくして、さやの声が返ってきた。

「じゃあ、先に、うまく言えないまま、言って」

「え」

「うまく言えないまま、言って。上手に言うまで待ってたら、ずっと待つことになる」


 さやの声は、少しだけ笑っていた。怒りじゃなく、疲れの笑い。

 僕は息を吸って吐いて、言った。

「……怖い。変になるのが」

「何が?」

「俺たちが。ちゃんと話したら、壊れる気がする」

「壊れる時は、黙ってても壊れるよ」

 その言い方は、優しくなかった。でも、嘘でもなかった。


 ドアの向こうで、さやが小さく息を吐いた。

「ねえ、まずさ」

「うん」

「ごはん、作って」

「……え」

「今すぐじゃなくていい。でも、作って。食べながらじゃないと、私、言葉が出ない」


 そこで僕は、やっと笑った。

 腹が立ったからじゃない。救われたからだ。

 議事録みたいな話し合いの途中で、唐突に「ごはん」が出る。現実は、こういう横入りをしてくる。横入りがあると、息ができる。


「了解。何食べたい」

「温かいやつ。汁があるやつ」

「味噌汁?」

「味噌汁でいい。できれば卵落として」

「要求が具体的で助かる」

「具体がないと、私たち迷子になるから」


 僕は台所に戻って鍋に湯を沸かした。豆腐を切って、ネギを切って、味噌を溶かす。卵を落とすタイミングだけ、妙に慎重になる。

 慎重さが、いまの僕らに似ていて、少しだけ笑える。


 味噌汁の匂いが立つ頃、洗面所の鍵が外れた。

 さやが出てきた。目が赤い。泣いたわけじゃない。たぶん、水を浴びたのだ。水は偉い。顔をリセットできる。


「……話、続き、する?」

 さやが言った。

「する。でも、まず食べよう」

「うん」


 テーブルに味噌汁と卵焼きを置く。卵焼きは焦げた。焦げたけど、焦げた匂いは生活の匂いだ。

 さやが箸を持って、味噌汁を一口飲んだ。

 そこで肩が落ちた。落ちた肩は、戦闘態勢じゃなくなる。


「おいしい」

「焦げてるけど」

「焦げてるのがいい。今日に合ってる」

「今日に合ってるって何だよ」

「ちょっと苦い日」


 僕らは少しだけ笑った。笑うと空気が柔らかくなる。

 柔らかくなったところで、さやが言った。

「私さ、スマホ触ってるとき、逃げてる」

「知ってる」

「言わないで。恥ずかしい」

「ごめん」

「逃げるのは悪くない。けど、逃げっぱなしが嫌」

 さやは箸を置いて、僕を見た。

「あなたも、黙るのは逃げでしょ」

「……うん」

「じゃあ、二人とも逃げる癖がある。癖なら、手順で直せる」


 手順。

 また会議みたいな単語が出てきたのに、今度は腹が立たなかった。

 僕らに必要なのは、綺麗な結論じゃなく、次の一手だ。


「手順、決めよう」僕が言った。

「うん。まず一つ」

「何」

「あなたが黙りそうになったら、私が“水飲んで”って言う」

「水?」

「うん。黙ってる間に喉が乾くから。乾くと、声が硬くなる」

「なるほど」

「私が洗面所に逃げそうになったら、あなたが“味噌汁”って言う」

「味噌汁?」

「うん。戻る合図」

 さやは少し照れて、鼻で笑った。

「今日の合図。だって、今日は戻れた」


 僕は頷いた。

「じゃあ、もう一つ。大事なやつ」

「うん」

「俺、君のこと、手放したいわけじゃない」

 言い切った瞬間、胸の奥が熱くなった。

 言葉にすると、やっぱり怖い。怖いけど、言えた。

「ただ、ちゃんと“これから”の話をしたい」

「これからって、どのくらい」

「……近いこれから」

「遠いこれからじゃなく?」

「遠いのは、まだ怖い」

 さやが頷いた。

「じゃあ、近いのから。明日、どこか行こう」

「どこ」

「遠くじゃなくていい。コンビニの先でもいい。歩いて、何か食べて、帰る」

「それ、デート?」

「デート。私たち、最近、議事録しかしてないから」

「議事録、してたっけ」

「してた。あなた、“改善”って言った」

「それは忘れて」

「忘れない。ネタにする」


 さやが笑った。今度の笑いは、引っ込めないやつだった。

 僕は味噌汁を飲み干して、言った。

「明日、晴れるといいな」

「晴れなくてもいい」

「え」

「雨でも、歩ける。雨を笑えるくらいになりたい」

 さやはそう言って、テーブルの端を指で二回こつこつ叩いた。

「ほら。合図。今日はここまで」


 僕は同じように、二回叩いた。

「了解」


 寝る前、僕は冷蔵庫にメモを貼った。

《黙りそうになったら 水》

《逃げそうになったら 味噌汁》

《明日、散歩》

 字が雑で、でも雑なのがいい。綺麗に書くと、約束が重くなる。重すぎる約束は、また息を止める。


 布団に入ると、さやが小声で言った。

「ねえ」

「うん」

「さっきの質問」

「どれ」

「ちゃんと見てる? ってやつ」

 僕の心臓がまた跳ねた。

 さやは照れたまま言った。

「見てる。……見てるのに、見失いそうになる」

「同じだ」

「じゃあ、見失いそうになったら、合図」

「水と味噌汁」

「そう。あと、たまに“ごはん”」

「了解」


 部屋の暗闇が、少しだけ柔らかかった。

 大きな理由は、まだ言えない。たぶん一生言えない。

 でも小さな手順なら、今夜決められた。

 それで十分だと思えた夜は、眠りがちゃんと近かった。


 翌朝、目覚ましより先に雨音がした。窓を叩くほど強くない、でも確実に世界を濡らす雨。

 僕は布団の中で「晴れなくてもいい」を思い出して、少し笑った。さやは隣で丸くなっていて、寝息がまだ柔らかい。昨日の夜の硬さが、どこかに溶けている。


 台所で湯を沸かし、コップに水を入れる。合図の準備だ。自分でやっておくと、守りたい気持ちが形になる。

 味噌汁も作ろうとして、昨日の鍋を見て思い直した。今日は外で食べる日だ。味噌汁は“戻る合図”だから、今日は持ち出さない。代わりに、冷蔵庫のメモの横に小さく足す。

《外に出たら まず深呼吸》


 さやが起きてきて、髪を指でまとめながら言った。

「雨だね」

「雨だね」

「行く?」

「行く」

 即答できる自分が、また少し照れくさい。


 傘は一本だけ持った。二本だと距離が生まれる気がして、一本にした。一本だと、肩がぶつかる。肩がぶつかると、今ここにいるって分かる。

 コンビニの先まで歩いて、ホットコーヒーを二つ買う。さやはレジ横の揚げ物を見て、唐突に言った。

「コロッケ、食べたい」

 昨日の「味噌汁」みたいな横入り。

「了解」

 僕が言うと、さやが笑った。

「こういう“了解”は好き」

「仕事の了解と違うからな」

「違う。温度がある」


 雨の中でコロッケをかじると、妙に美味しかった。熱いのに、雨で冷えるからちょうどいい。バランスって、こうやって勝手に取れるときがある。

 川沿いの遊歩道まで来ると、さやが立ち止まった。水面に雨粒が落ちて、小さな輪がいくつも広がっている。輪はすぐ消える。でも消える前に、ちゃんと広がる。


「ねえ」さやが言った。

「うん」

「昨日のさ……怖いってやつ」

 僕は反射で肩が硬くなりかけて、すぐに思い出した。水。

 ポケットのペットボトルを取り出して、一口飲む。喉が通ると、言葉が出る。

「まだ怖い」

「うん」

「でも、怖いって言えるのは、昨日よりマシだ」

 さやは頷いて、コーヒーのカップを指でこつこつ叩いた。

「じゃあ私も。まだ、逃げたくなる」

「味噌汁?」

「今日は味噌汁ない」

「じゃあ……コロッケ」

「それでいい」

 さやが笑う。笑いが小さいのに、ちゃんと明るい。


 僕らは雨の輪を眺めながら、決めきれない話を少しだけした。引っ越すかどうかとか、仕事の忙しさとか、休日の過ごし方とか。結論は出ない。出さなくてもいい、と二人とも思えたのが不思議だった。

 結論を急ぐと息が止まる。息が止まると、また洗面所の鍵が増える。だから今日は、結論の代わりに“次の一手”だけ持ち帰る。


 帰り道、さやが言った。

「ねえ、議事録ってさ、悪くないかも」

「え」

「会議みたいなのは嫌いだけど、二人用のメモは欲しい。忘れるから」

「忘れるなよ」

「忘れる。人間だもん」

 さやは肩をすくめて続けた。

「一日一行でいい。今日の一行、とか。明日の一行、とか」

「それならできる」

「じゃあ今日の一行」

 僕は少し考えて、雨粒の輪を思い出して言った。

「消える前に、広がる」

「何それ」

「今日の僕ら」

 さやが一拍置いて、頷いた。

「じゃあ私は……“傘は一本”」


 家に着く頃には、雨が少し弱くなっていた。

 玄関で靴を脱ぎながら、僕は言った。

「味噌汁、作る?」

 さやが笑って、腕を軽く引いた。

「作る。戻る合図だもん」


 台所に湯気が立つ。湯気が立つと、部屋がまた柔らかくなる。

 大きな理由は相変わらず言えない。だけど今日の一行は言えた。

 それで、十分。


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