『軽口の練習』
僕の特技は、燃えかけた場を消すことだ。
会議室で誰かの声が尖った瞬間、空気の角を見つけて、そこに滑り込む。冗談を一滴落として温度を下げる。責任の置き場所を少しだけずらして、爆発を「なかったこと」にする。そうやって僕は、社会人としては優等生みたいに生きてきた。
代償も、ちゃんとある。
火を消し続けると、いつの間にか自分の中の火も冷める。冷めたことに気づかないくらい、手際よく。
入社して三年目あたりから、僕は「立ち回りが上手い」と言われるようになった。褒め言葉の顔をした、便利の札だ。
失敗しそうな案件が回ってくる。
誰かが言いにくいことを、僕が“角の立たない言葉”にして言う。
飲み会の席で、先輩の失言を笑いに変えて場を救う。
救ったあとは、なぜか僕が後片づけ担当になっている。救う役は、だいたい掃除も兼務らしい。
しかも僕は、変なところで計算が早い。
誰が今どんな顔をして、誰が次に怒るか、どこで謝ったら火が小さくなるか。相手の呼吸の揺れで分かってしまう。分かるから、やってしまう。やってしまうから、頼られる。頼られるから、さらに分かる。
上手く回る循環は、いちばん抜けにくい。
その朝、部長の田淵が、いつもの穏やかな顔で言った。
「この件、君が前に出て。先方の機嫌、取っておいて」
穏やかな顔。声も柔らかい。なのに内容は、刺さる。しかも刺した自覚がないやつだ。
「僕が、ですか」
「君、得意だろ。そういうの。ほら、角が立たない感じ」
角が立たない感じ。
言葉が軽いぶん、重い。角を立てないために、僕は何回、自分を削ったっけ。削った粉はどこに行くんだろう。掃除してない部屋の隅みたいに、見えないところに溜まっている気がした。
席に戻ると、隣のデスクの葵がモニターを睨んでいた。睨んでいるのに、目がやさしい。矛盾を持った目だ。
「……また、田淵さん?」
葵は、僕の顔だけで察する。察してしまう人は、たいてい悩みも増える。
「うん。例の“角が立たないやつ”」
「角が立たないの、すごいね」
「すごくない。癖」
「癖って、直せるの?」
「……直したことないから、知らない」
言った瞬間、葵の眉が少しだけ動いた。驚きと、なぜか安心の混ざった動き。
昼。先方の担当は、怒っていた。怒っているというより、困っている顔で怒っていた。困っている人は、怒りの使い方が荒い。だから刺さる。
「で? 結局、御社は何をしてくれるんですか」
僕は資料を揃えながら、心の中でいつもの手順を開いた。
呼吸、笑顔、短い謝罪、相手の言葉を復唱、落としどころを二つ、最後は相手に選ばせる。
完璧な火消しの流れ。
……その流れが、急に味気なく思えた。
僕が上手くやればやるほど、田淵の穏やかな顔は守られる。守られる代わりに、誰かが毎回「前に出る係」を背負う。背負う係が僕だと、皆が楽をする。楽をするのは悪じゃない。けど、楽のツケがいつも同じ場所に溜まるのは、さすがに偏っている。
「こちらで対応します。まず、今日のところは――」
口が勝手に動きかけて、止まった。
僕は、書類を一枚だけ閉じて言った。
「すみません。確認させてください。今回の原因、こちらのミスだけじゃありません」
担当の目が丸くなる。隣の同席の田淵(オンライン参加)が、画面の向こうで一瞬固まったのが見えた。
やってしまった、と思うより先に、息が深くなる。
怖い。でも、怖いまま言える。言えたことが、今日の自分を少しだけ好きにした。
「事実を整理しましょう。こちらの落ち度はここ。先方の条件変更がここ。どちらも直せます。直す順番を決めたいです」
言い切ったあと、沈黙が落ちた。沈黙は怖い。けど、沈黙の中で相手の肩が少し下がるのが見えた。怒りは、整理されると燃料に戻る。爆弾じゃなく。
結局、その場はまとまった。担当は「それなら」と言い、田淵は画面越しに「さすがだね」と笑った。
その「さすが」が、僕の胃に張り付いた。褒め言葉が、次の火消しの予約みたいに聞こえるからだ。
会議室を出たところで、同期の黒岩に捕まった。
「なあ、またお前が前に出たの?」
「出たよ」
「いいなあ。上手いよな、そういうの。俺、無理だもん」
黒岩は本気で言う。本気の羨ましさは、たまに刃になる。
「上手いって言うなよ」
「いや、上手い。俺さ、正直、ずるいと思う時ある」
ずるい。黒岩の口から出た瞬間、僕の胸の奥の粉がふわっと舞った。
「ずるいって」
「だってさ。上手くやると、損しないじゃん」
僕は笑いかけて、途中で止めた。上手くやるほど、損してる部分が見えなくなるだけだ、と言い返すのは簡単。でもそれは、黒岩の悩みを殴ることになる。
「損してないわけじゃないよ」
「え?」
「……うまく言えないけど」
言ったら、黒岩が妙に驚いた顔をして、次に笑った。
「お前でも“うまく言えない”とか言うんだ」
「言うよ。人間だし」
「そっか。じゃ、今日は俺がお前の分のコーヒー奢るわ。損の補填」
雑な優しさ。雑だから受け取れる。僕は黙って頷いた。
*
その夜、僕は会社の屋上にいた。街の光が薄い板みたいに広がって、風が強い。風が強いと、余計な考えが吹き飛ぶ。吹き飛ばしたい考えが多い人ほど、屋上に来る。
葵を呼び出したのは僕だ。理由は、決めたかったから。自分の線を。
葵がドアから出てきて、髪を押さえながら言った。
「こんなとこで何? 怖い話はやめてね」
「怖い話じゃない。……たぶん」
「たぶんが怖いんだよ」
僕は笑って、紙袋を差し出した。中身は、コンビニの小さなクッキーと、缶の炭酸。
「甘いやつと、酸っぱいやつ。どっちがいい?」
「選ばせてくれるの、珍しい」
「今日は、選ばせたい日」
葵は酸っぱいほうを取って、開けて一口飲んだ。顔がきゅっとなる。
「酸っぱ……」
「ほら、いま余計な言葉が減った」
「そういう使い方、ずるい」
風の音の間で、僕は言った。
「僕、会社辞める」
葵が、缶を持ったまま固まった。
「え」
「来月で。引き継ぎはする。揉めないように」
「……なんで」
「火消しが上手くなりすぎた」
「意味わかんない」
「わかんないでいい。僕も、半分わかってない」
葵はしばらく黙って、缶のふたを指でこつこつ叩いた。合図みたいに。
「じゃあ、どうするの」
「小さい会社で、企画をやる。火を消す仕事じゃなくて、火を起こすほう」
「火、怖くない?」
「怖いよ。だから、こっちのほうがいい」
「怖いのに、いい?」
「怖いのは、生きてる証拠だから」
葵が笑いかけて、途中で止めた。笑うと泣きそうな顔。
「そっか。……置いていくんだ」
「置いていかない。連絡先はある」
「それ、置いていく人の言い方」
「じゃあ言い直す。……困ったら呼んで。ちゃんと聞く。今度は、逃げないで」
「逃げないで、って言えるの偉いね」
「偉くない。練習」
「練習?」
僕はポケットから、ちいさなシールを出した。駅前の雑貨屋で買った、舌をちょこんと出した変な顔のシール。
「これ、僕の“軽口”の印」
「なにそれ」
「僕、さよならが下手なんだよ。重くしたくないのに、重くなる。だから先に、ふざける」
「ふざけるのは得意じゃん」
「得意だから、ちゃんと使う」
僕はシールを、葵の缶に貼った。目立つところじゃなく、側面のちょっと見えにくいところに。
「これを見たら、思い出して。悩みすぎても何も増えない日があるって」
「言い方、乱暴」
「乱暴は、たまに優しい」
葵は缶を見つめて、鼻で笑った。
「……じゃあ私も貼る」
葵はスマホケースの裏から、小さなメモを出した。いつも何かを挟んでいる人だ。
そこに書いたのは、たった一行。
《考えすぎたら、酸っぱいの》
「なにそれ」
「今日の手順。あなたがくれたやつ」
葵は顔を上げて言った。
「ねえ、辞める前に一個だけ」
「なに」
「田淵さんに、舌出していい?」
「物理的にはやめて」
「じゃあ心で」
「心なら、いくらでも」
僕らは笑った。風が強くて、笑い声がちぎれて飛んだ。ちぎれてもいい。残るものは、胸の奥の温度だ。
*
転職先の面接は、拍子抜けするほど小さかった。雑居ビルの二階、看板もない扉の向こうに、机が四つだけ並んでいる。
社長の坂口は、僕より少し年上で、Tシャツにジャケットという微妙な格好をしていた。堅くなりきれない人の服だ。
「うち、うまくいってないよ」
開口一番がそれで、僕は笑いそうになった。普通は隠す。普通は飾る。ここは最初から飾らないらしい。
「でも、うまくいってないって言える会社は、うまくいく余地がある」
僕が言うと、坂口が「お」と目を丸くした。
「君、口が回るね」
「回ります。でも、回りすぎて自分が迷子になります」
「いいじゃん。迷子、歓迎。うち、地図ないから」
坂口は笑って言った。笑いが軽い。軽いのに、逃げてない笑い。
「君は、何がしたい?」
さっきまでなら、僕は“角の立たない夢”を答えたと思う。社会貢献とか、成長とか、そういう正しい顔のやつ。
でも今日は、屋上の風の続きが胸にある。
「失敗しに行きたいです。ちゃんと」
「それ、面白いね」
「面白いって言ってくれるなら、行けます」
「じゃ、来なよ。うちは失敗、在庫ある」
面接は十分で終わった。終わったのに、心臓はまだ動いている。緊張のせいじゃない。久しぶりに火がついたせいだ。
*
退職の挨拶は、予想通り面倒だった。
「寂しくなるね」
「君がいないと困るよ」
「どうして急に」
みんな、やさしい顔で言う。やさしい顔の中に、便利な歯車が抜ける不安が混ざっている。混ざっているのを責める気はない。人間だ。
田淵だけは、最後まで穏やかな顔だった。
「君は賢いから、どこでもやっていけるよ」
賢い。賢いって言葉は、褒め言葉のふりをして逃げ道を塞ぐ。賢い人は頑張れるはず、という期待が混ざるからだ。
僕は笑って、でも目を逸らさずに言った。
「賢いなら、たまにはバカなこともします」
「バカ?」
「はい。ちゃんと失敗しに行きます」
田淵が一瞬だけ黙って、最後に笑った。初めて見る笑い方だった。穏やかな顔じゃなく、人間の笑い。
「……君らしいね」
「今さらです」
最後の日、僕はデスクの引き出しを全部空にして、代わりに一枚だけ置いた。
《困ったら、まず息》
誰宛てでもない。けど、誰かに当たる言葉。言葉は、宛名がなくても届く時がある。勝手に。
帰り際、葵がエレベーター前で待っていた。紙袋を持っている。
「はい。餞別」
「開けていい?」
「ここで開けると恥ずかしい。家で」
「じゃあ、いまは重さだけ受け取る」
僕が袋を受け取ると、中で小さく缶が鳴った。炭酸だ。きっと酸っぱいやつ。
「……わかってるね」
「考えすぎる人には、酸っぱいの」
葵は笑って、胸の前で手を振った。言葉の代わりの合図。
「じゃ。元気で、は言わない」
「言わないの?」
「言うと重いから。代わりに――」
葵は缶の側面を見せた。僕が貼ったシールが、そこにまだいる。
「これ見たら、思い出す。だから、またね」
「……またね」
僕はエレベーターの扉が閉まる直前、舌先をほんの少しだけ見せて笑った。挑発じゃない。合図だ。重くしないための、軽口の練習。
地上に降りると、空がやけに青かった。青いのに、胸が軽い。軽いのは、逃げたからじゃない。選んだからだ。
僕は歩きながら、袋の中の缶を指でこつんと叩いた。
今日の合図。
明日も、きっと合図で進む。
帰宅して紙袋を開けると、中には酸っぱい飴と、小さなメモ帳が入っていた。表紙に、雑な字で《軽口の練習》。
ページをめくると、最初の一行だけ書いてある。
《重くなったら、まず笑う。笑えなかったら、息》
僕は声を出さずに笑って、葵に短く送った。
『受け取った。次に沈んだら、遠慮なく呼べ。酸っぱいの用意しとく』
送信して、スマホを伏せる。胸の奥に、ちいさな火が残る。
明日、僕は新しいドアを押す。失敗の在庫がある場所へ。舌先で自分に合図して、行く。




