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短編集  作者: 科上悠羽
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『合言葉は、冷蔵庫の前で』

 由斗は、言葉が遅い。

 遅いというのは、考えるのが遅いんじゃない。考えすぎて、口に出す頃には賞味期限が切れている。だから彼は、だいたい「うん」とか「まあ」とか、薄い返事で場をつなぐ。つなぐつもりで、逆に切ってしまうこともある。


 たとえば昨日。

 美緒が送ってきたメッセージは、たった一行だった。


『先に寝るね』


 由斗はそれを「怒ってる」と読んだ。読んでしまった。読んでしまう癖がある。短い文ほど、勝手に字幕をつけてしまう。

 だから彼は、駅のホームで長文を打った。言い訳と謝罪と心配が全部盛りの、特盛パック。送信して、すぐに後悔した。長文は相手の逃げ道になるし、自分の逃げ道にもなる。

 返事はスタンプ一個だった。笑ってる顔。たぶん「大丈夫」の意味。たぶん。

 たぶん、が一番こわい。


 そんな翌日、由斗は反省のつもりで、帰り道に小さな花束を買った。駅前のコンビニで、透明な袋に入った、いかにも“間に合わせ”のやつ。間に合わせのくせに、持つと妙に照れる。照れるから、鞄の奥に隠した。

 隠した瞬間に、もうバレているのに。


 今夜もそうだった。


「今日は寄り道していい?」

 美緒が玄関で靴紐を結びながら言った。

「……いいよ」

「“いいよ”って、顔が嫌そう」

「嫌そうじゃない」

「じゃあ、どっち。眠い? しんどい? お腹すいた?」

 選択肢が三つ並んだ瞬間、由斗の頭の中で議事録が始まった。眠い、しんどい、お腹すいた。ぜんぶ当てはまる。ぜんぶ当てはまる時ほど、人は一つに絞れない。


「……どれでもない」

「それ、いちばん危ないやつ」

 美緒はさらっと言って、由斗の鞄を指でつんと叩いた。

「あと、それ。隠してるの、なに」

「……隠してない」

「隠してる。鞄が“隠してる音”してる」

「音って何だよ」

「自白の音」


 由斗は観念して、花束を出した。美緒は一拍置いてから、吹き出した。

「うわ、かわいい」

「かわいくない」

「かわいい。ていうか、どしたの。急に」

 急に、じゃない。昨日からずっと。言葉が遅くて、追いつけないだけで。


「……昨日の、あれ」

「あれ、って何」

「先に寝る、ってやつ」

「ああ。あれね」

 美緒は花束を受け取って、鼻を寄せた。

「ごめん。あれ、ただ眠かっただけ」

「……眠いだけ?」

「眠いだけ。怒ってない。怒ってたら“怒ってる”って書くよ」

 言い切るところが美緒の良さだ。曖昧にして相手を試さない。試す恋は、だいたい消耗戦になる。


「じゃあ、昨日の俺の長文は」

「長文は、読んだ」

「読んだんだ」

「読んだよ。途中でちょっと笑った」

「なんで笑うんだよ」

「必死すぎて。身振り手振りが文字になってた」

 由斗は耳が熱くなって、鞄の取っ手を握り直した。


 寄り道は、スーパーだった。

 美緒は迷いなく、豆腐と卵とネギをカゴに入れた。由斗はその横で、なぜか柑橘の飴を一袋取ってしまい、理由が思い浮かばず自分で笑いそうになった。


「それ、好きなの?」

「……うん」

「へえ」

 へえ、の後が怖い。へえ、の後に「誰のため」って来る気がするからだ。


「誰のため?」

 来た。

「……自分のため」

「正解」

 美緒はあっさり言った。「自分のための甘いやつ、持っときな。あなた、詰まると黙るから」


 帰宅して、鍋に湯を沸かす。美緒はコートを脱ぎながら言った。

「ねえ、あした、桜見に行く?」

「え」

「同僚がね、“花見しないと春を損する”ってうるさいの」

「……行きたい?」

「行きたくない」

 即答だった。迷いがない。

「綺麗なのは分かるけど、人多いし、寒いし、写真撮って終わりじゃん」

「まあ、そうだけど」

「でしょ。私、名所で感動するタイプじゃないの」

 美緒は胸を張った。胸を張る内容が、堂々と小さいのが彼女の強さだった。


「夏も苦手だしね」

 由斗が言うと、美緒は眉を上げた。

「焼けるの嫌。汗も嫌。海の砂も嫌」

「秋は?」

「食べすぎるから嫌」

「冬は?」

「寒いから怒る」

 列挙がひどいのに、どれも嘘じゃない。美緒は季節より、生活の手触りで世界を測る。


 由斗はその“生活の手触り”が好きだ。好きなのに、好きと言うのが遅い。遅いから、いつも別の言葉で誤魔化す。


「じゃあ、家でいいか」

「うん、家がいい」

 美緒は鍋を覗き込んで、鼻をひくひくさせた。

「味噌? いい匂い」

「適当」

「適当でいい。適当のほうが長生きする」

 彼女の口癖が、じわっと効く。完璧を目指すと苦しくなる。苦しくなると、由斗は無口になる。無口になると、美緒は空気を読む代わりに刺す。


 刺す、といっても痛めつける刺し方じゃない。風船を割らない程度の針で、ぷすっと空気を抜く刺し方だ。


 食卓に味噌汁と、焦げ目の付いた卵焼きが並んだ。卵焼きは、由斗が唯一「形になりやすい」料理だ。甘くしすぎると美緒が嫌がる。塩をきかせすぎると由斗がしょげる。だから毎回、ほんの少しだけ迷う。


「今日の卵焼き、点数つけるなら?」

「七十」

「微妙」

「微妙じゃない。ちゃんと“好き”の点数」

「点数で好き言うなよ」

 美緒は笑って、味噌汁を飲んだ。肩が落ちた。落ちる肩を見ると、由斗の中の焦りが少しだけほどける。


 食後、テレビをなんとなく点けた。画面の中に、やけに整った顔の俳優が映った。歯が白く、声が低く、余裕がある。由斗は反射で自分の顔を指で触った。顎のざらつき。眉間の浅い皺。疲れた人の顔。


 美緒が横目で由斗を見た。

「今、比べた?」

「比べてない」

「比べた。顔が比べた顔」

「……比べてないって」

「じゃあ、首をかしげるのやめて。犬みたい」

 言い方が雑なのに、優しい。由斗は吹き出した。


「ごめん。なんか、こういう人が“理想”って言われるじゃん」

「理想って、誰の?」

「世の中の」

「世の中の理想なんて、だいたい広告」

 美緒は平然と言って、画面を指でトントン叩いた。

「この人、きれい。あなた、きれいじゃない」

「言うなよ」

「言う。きれいじゃないのが、好き」

「……めちゃくちゃだな」

「めちゃくちゃでしょ。私も」

 美緒は肩をすくめた。

「昔の理想の彼氏は、もっと静かで、もっと背が高くて、もっとオシャレで、あと…季節のイベントを喜ぶタイプだった」

「俺、全部外れてるな」

「外れてる。だから安心する。期待が減る」

「それ、褒めてる?」

「褒めてる。私の期待は、重いから」

 美緒は笑って、由斗の頬を指でちょんと押した。

「あなたも、理想あったでしょ」

「……あった」

「どんな」

「もっと、春に浮かれる人とか」

「私、浮かれない」

「うん。浮かれないのがいい」

 由斗が言うと、美緒が少しだけ目を丸くした。

「今の、早かった」

「たまに、当日発送できる」

「じゃあ、その調子で」


 美緒は柑橘の飴を一粒口に入れた。顔がきゅっとなる。

「酸っぱ。……でも、こういうのがいい」

「こういうの?」

「うん。今日みたいなやつ」

「今日みたいなやつ、って何」

「え、分かんないの?」

 美緒が笑う。

「うまく言えない日。卵焼きが七十点の日。桜に興味ない日。テレビの顔にムカつく日。そういうの全部ひっくるめて、今日」


 由斗は箸置きをいじった。言葉が、喉の手前で渋滞する。彼はいつも、ここで渋滞する。気持ちはあるのに、言葉が足りない。足りないから、身振り手振りで弁解したくなる。けれど弁解は、結局、自分を守るための言葉になってしまう。


 美緒が、由斗の指先をつんと叩いた。

「ねえ。今、また“言えない顔”してる」

「……してない」

「してる。で、言えない顔のまま黙ると、私が勝手に悪い想像する」

「悪い想像?」

「“飽きたのかな”とか、“嫌いになったのかな”とか」

 美緒は缶のように短く言って、続けた。

「そういう想像、疲れる。だから、言えないなら、短くでいい」


 短く。短くは、由斗にもできるかもしれない。短くなら、逃げ道を混ぜにくい。


 由斗は息を吸って、吐いて、言った。

「……帰ってきて、声があるのが、安心する」

 美緒が一瞬固まって、それから笑った。

「なにそれ。かわいい」

「かわいくない」

「かわいい。で、続きは?」

 続き。続きがあると思われるのが、怖い。でも、今日は逃げない。


「続きは、えっと」

「“えっと”は禁止」

「……うん」

 由斗は美緒を見た。美緒はまっすぐ見返してくる。見返されると逃げられない。逃げられないのに、怖くない。

「明日も、明後日も、これがいい」

「これ?」

「この、味噌汁の湯気とか、酸っぱい飴とか、七十点とか」

 由斗は自分で笑ってしまった。言っていることが地味すぎて。

「地味すぎるよな」

「地味でいい。地味が強い」

 美緒は、今度はちゃんと笑った。引っ込めない笑い。


「じゃあ、合図決めよ」

「合図?」

「あなたがまた比べて首かしげたら、私が飴を渡す。あなたが黙って遠くに行きそうになったら、私は冷蔵庫を開ける」

「冷蔵庫?」

「うん。あそこで話す。三十秒だけ。水、冷やしてる間に」

 美緒は冷蔵庫の前に立って、タイマーを押した。ピッ。残酷なくらい現実的な音。

「ほら。三十秒。いま言えること、ひとつ」

 由斗は笑いそうになって、でも従った。

「……昨日の長文、怖くて送った」

「うん」

「怖いって言えばよかった」

「うん。次からは、怖いって言う。長文禁止」

「了解」

 タイマーがピピッと鳴った。

「はい、終了。これで十分」

 美緒は水の入ったグラスを冷蔵庫に入れて、くるりと振り向いた。

「冷蔵庫の前は、逃げ場所じゃなくて戻り場所。合言葉、分かった?」

「分かった」

「じゃあ明日から、守って。破ったら…卵焼きは六十点」

「厳しい」

「厳しいのが、長持ち」


 美緒はカップを持って、こつん、と机を叩いた。

「はい。今日の議事録、ここまで」

 由斗も真似して、こつん、と叩いた。

「了解」

「その“了解”は好き」

「仕事の“了解”じゃないからな」

「うん。温度がある」


 夜、歯を磨きながら、由斗は鏡の中の自分を見た。整った顔じゃない。理想から遠い顔。

 でも今日は、その顔が少しだけ“生きてる”ように見えた。首をかしげて、笑って、卵焼きで迷って、最後に短い言葉を出した顔。


 寝る前、美緒が布団の中で言った。

「ねえ、明日、どこ行く?」

「……スーパー」

「また?」

「また。桜じゃなくて、豆腐と卵」

「最高。春、損しないね」

「損しない」

 由斗は笑って、最後に小さく言った。

「……ありがと」

「何が」

「今日みたいな日、くれるから」

 美緒が返事の代わりに、由斗の指を握った。握り方が雑で、でも温かい。

「もう十分。寝よ」


 翌朝、目覚ましより先に冷蔵庫の開く音がした。ぎぃ、と小さな吸い込み。

 美緒が水のグラスを取り出して、一口飲む。こつん、と机を叩く音がする。


「はい。三十秒」

 寝ぼけた由斗が顔を上げると、美緒が笑っていた。

「今日のひとつは?」

 由斗は枕を抱えたまま、短く言った。

「……起きたら、声がある」

「うん。合格」

 美緒は由斗の額に、軽く指を当てた。スタンプみたいに。

「よし。じゃ、今日も七十点でいこう」


 玄関を出ると、道の角に桜が咲いていた。満開まではまだで、花びらも少し硬い。

「ほら、春」美緒が言う。

「損してる?」

「してない。見るだけで十分」

 ふたりはそのまま駅前のスーパーへ向かった。豆腐と卵とネギ。昨日と同じ材料が、今日はちょっとだけ違う気がする。違うのは季節じゃなく、呼吸のほうだ。


 レジ袋を提げて帰る途中、由斗は言いそびれた大きな言葉を思い出した。言えなかった代わりに、隣で歩く速度を合わせた。

 美緒が飴を一粒渡してくる。酸っぱくて、少し笑える。

 由斗はその酸っぱさを飲み込んで、短く言った。


「……今日も、よろしく」


 美緒は一瞬だけ目を丸くして、それから、いつもの雑な笑いを返した。

「うん。こちらこそ」

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