『告白ボタンは未実装』
その日、智真は二つのミスをした。
一つ目は、会社の給湯室で砂糖と塩を取り違えたこと。二つ目は、そのしょっぱいカフェオレを「捨てたら負け」みたいな顔で飲みきってしまったことだ。
「……おまえ、苦行好き?」
背後から声がして振り向くと、里奈がドアにもたれて笑っていた。髪を雑に結び、いつも通り土足で心に踏み込んでくる顔。
「苦行じゃない。試練」
「違いどこ」
「……知らない」
「知らないのに飲むな」
里奈は紙コップを奪ってひと口だけ飲み、即座に返した。
「うわ、海」
「だろ」
「だろ、じゃない。なんで最後まで飲んだの」
「捨てたら負けな気がして」
「はい、出た。勝ち負けのやつ。そういうとこだぞ」
「なにが」
「今日のメイン議題」
里奈は人差し指を立てた。
「今日こそ、言え」
「言わない」
「言え」
「言わないって」
里奈は、智真が「真白さんのこと、気になる」とうっかり漏らしてから一ヶ月、ずっと同じことを言う。短くて正しい。正しいからムカつく。
里奈は大学の同級生で、なぜか就職してからも近い距離にいる。偶然同じビルに入った、というだけのはずなのに、里奈はそれを「運命」と呼び、智真はそれを「災害」と呼ぶ。
災害のくせに、里奈が現れると呼吸がしやすいのがいちばん腹立つ。自分の中の“言えない”を、冗談と一緒に引っ張り出してくるからだ。
「今日は残業ないよね?」
「ある」
「嘘。顔が『帰れる』って言ってる」
「顔に口ついてないだろ」
「ついてるよ。ここ」里奈は智真の頬を指でちょんと押した。「すぐ『まあいいか』って言う口。封印解除して」
智真が詰まっている間に、里奈はスマホを取り出した。
「はい、予約。七時半。駅前の“回らない寿司屋”」
「回らない寿司屋って何だよ」
「回転寿司なのに回転が止まってる。ネタは来ない。店員は来る。情緒だけが来る」
「情緒だけで腹は満たせない」
「満たすよ。今日は罰ゲームだから」
「罰ゲーム?」
「告白しない罰。あなたが言わないから、世界がひねくれる。だから“回らない”」
「理屈が雑」
雑なのに、智真の足は少し軽くなる。軽くなるのが悔しい。
*
寿司屋は本当に回っていなかった。レーンは沈黙し、テレビだけが元気に天気予報を流している。寿司の代わりに雲が流れていく。
智真と里奈はカウンターに座り、黙って湯呑みを持った。湯気が、二人の間の硬さを一段だけ柔らかくする。
「で?」里奈が言う。「今日どうするの」
「寿司食べる」
「それは前提。告白のほう」
「しない。まだ」
「まだ、は便利な逃げ道!」
「逃げ道じゃない。準備期間」
「準備期間一ヶ月やって、まだ?」
「一ヶ月は短いだろ」
「短くない。あなたの“短い”は、恐怖の単位」
店員が来て、里奈は「炙りサーモン二皿」、智真は反射で「茶碗蒸し」と言ってしまった。腹が弱い人間の選択。
店員が去ると、里奈は湯呑みを机に置いて、目を細めた。
「あなたさ、告白できない理由、分解した?」
「分解?」
「怖い、って一言に押し込むと永遠に開かない。ほら、言ってみ」
「……嫌われるのが怖い」
「次」
「……気まずくなるのが怖い」
「次」
「……周りに知られるのが怖い」
「次」
「……うまく言えないのが怖い」
「次」
「……」
「ほら、詰まった。そこだよ」
詰まった言葉は、喉の前で固まって、どんな顔をしても出てこない。智真はその“出てこない”に慣れすぎている。慣れると、慣れない方が怖い。
里奈は鞄から小さなメモ帳を出した。犬の顔のシール、舌を出している。
「それ何」
「“言えない癖”の守り札。書け。短く」
「短くって言っても」
「長いと逃げ道が混ざる。あなたの口の形で」
智真はペンを握り、止まった。白い紙は覚悟の白だ。失敗した字も残る。だから怖い。
里奈は笑わない。笑わないのがずるい。笑われたら「やめろよ」で逃げられるのに。
「書けないなら、まずこれ」
里奈は自分の紙に大きく書いた。
《いま、言えない》
「……ずるい」
「入口だよ。『言えない』を言えたら次が出る」
智真は息を吸って吐いて、書いた。
《言いたい》
たった三文字。なのに胸が熱い。里奈が笑った。引っ込めない笑い。
「はい、今夜の一歩。で、次」
皿が届く。回らないのに、ちゃんと来る。好きな人ほど勝手に来ない。来ないから自分で行かなきゃいけない。
「真白さんって、どんな人?」
「……よく笑う。誰にでも丁寧。人の話をちゃんと聞く。優しい」
「それ、全部“誰にでも”だね」
「……うん」
「そこが怖い?」
図星だった。優しさが自分だけのものじゃないと知った瞬間、世界は競技になる。智真は競技が苦手だ。負けたくないのに、勝つ努力が嫌いだから。
「勝ちたいの?」里奈が言う。
「勝ちたいって言い方やめろ」
「じゃあ何」
「……奪うのが嫌だ」
「奪わないよ。言うのは奪うじゃない。並ぶだけ」
「並ぶ?」
「うん。“好き”って言葉を、相手の目の前に置く。拾うかどうかは相手が決める。勝ち負けじゃなくて、受け取り」
里奈の言い方が、やけに現実的で、だから効く。口の前の壁が少し薄くなる。
里奈は指でこつこつ湯呑みを叩いた。
「お願い。明日、真白さんに“二十秒”だけ使ってもらって。『話したいことがある』って言うだけ。内容はまだ言わなくていい」
「それ、ズルくない?」
「ズルい。でも正しいズル。いきなり最終回を投げるから怖いんだよ。予告を入れる」
「予告で逃げない?」
「逃げるなら、また回らない寿司で捕まえる」
捕まえる、が妙に安心だった。逃げても戻れる気がする。
「……里奈ってさ」智真はふいに言った。「なんでそんなに必死なんだよ。俺の恋に」
里奈は目を泳がせて、わざとらしくため息。
「だって、うるさいから。あなたの“好き”が。会話の端から目線の端から、毎日びしゃびしゃ」
「びしゃびしゃって言うな」
「言う。こっちは雑巾じゃない」
「迷惑?」
「迷惑じゃない。放っておくと腐る。だから干す。干したい」
「干すって」
「好きって、干さないと臭うんだよ」
最悪の比喩なのに妙に納得してしまう。好きは湿る。湿ると重くなる。重くなると動けない。
「もし俺が振られたら、慰めてくれよ」
「当然。優しくは無理。優しくすると逃げるから」
「逃げない」
「逃げる。だから雑に慰める。回らない寿司、もう一回」
「地獄だろ」
里奈は笑って、真顔になった。
「もし世界が終わった顔したら、私が言う。しつこいのが私の長所」
「長所なのかよ」
「長所。あなた、押さないと動かない」
智真は湯呑みを飲み干した。空になった器は、次が入るための場所だ。空のまま放置すると、乾いて固まる。だから、動く。
*
翌日。昼休みの終わり、智真はコピー機の前で真白に声をかけた。震えたまま出た、二十秒の予告編。
「真白さん。今日、帰りに……二十秒だけ、時間もらえますか」
真白は驚いて、それから笑った。
「うん。いいよ。二十秒ね。タイマー持ってこようか?」
「い、いえ……大丈夫です」
夕方。約束の二十秒が来た。
智真は真白の前に立って、口を開き、閉じて、笑ってしまった。逃げ笑いじゃなく、情けなさの笑い。
「どうしたの?」真白が首を傾げる。
「……予告だけしましたけど、今日は本編、出てこなくて」
「本編?」
「えっと……言いたいことが、渋滞してます」
真白は吹き出して、それから少し真面目に言った。
「じゃあ、渋滞が減ったらでいいよ。私、待つの、嫌いじゃない」
その言葉が優しくて、智真は胸の奥がひやっとした。待つ、を相手の優しさに甘えて続けたら、たぶん一生、予告編のままになる。
「……ありがとう」智真は言った。「明日、ちゃんと時間ください」
「うん。明日ね」
言えた。明日ね、と言われた。なのに、智真の頭に浮かんだのは里奈の顔だった。昨日の真面目な目。今日もきっと、駅前で腕組みしている。
その事実が、なぜか安心で、なぜか怖い。
駅前のベンチで里奈が待っていた。腕組み。目だけが「どうだった」と叫ぶ。
「言えた?」
「予告編は言えた」
「本編は?」
「明日」
「明日多いな」
「……ごめん」
「謝るな。歩け」
里奈が歩き出そうとした瞬間、智真は里奈の袖を掴んだ。掴んでから驚く。“掴む”は初めてだった。
「……なに」
喉が乾く。昨日のしょっぱいカフェオレが蘇る。あれは前座だったのかもしれない。
「俺さ」智真は息を吸って吐いた。「好きって言うの、下手なんだよ」
「知ってる」
「だから……今日、練習していい?」
「誰に」
「……里奈に」
里奈の目が丸くなり、すぐ睨んだ。
「は?」
「方向転換じゃない。……たぶん、最初からこっちだった」
「こっちって言うな。私は商品じゃない」
「ごめん」
「謝るな。続けろ」
「続ける」
智真は短く言った。逃げ道を混ぜないように。
「俺、里奈が好きだ」
街の音が少し遠くなる。里奈が黙る。黙る里奈は珍しい。珍しいから怖い。
「……それ、私がしつこく言ったから錯覚したとか?」
「違う」
「じゃあ、なんで」
「……干してくれるから。湿ったままの俺を放置しないから」
「何その、臭いみたいな言い方!」
「だって里奈が」
「私は比喩の被害者!」
里奈は顔を赤くして腕を組み直し、怒ってるのに口元が少し笑った。
「で?」里奈が言う。「告白したら、どうするの?」
「付き合ってほしい」
「急に真面目」
「真面目だよ。俺、いま必死」
里奈は睨んだまま言った。
「条件。私にも言え。黙るな。逃げるな。湿らせたら干せ」
「……はい」
「素直すぎて気持ち悪い」
「ごめん」
「謝るな!」
里奈は一歩近づいて、智真の胸を指でこつんと叩いた。
「ここに“言う”ボタン作れ。未実装のままにするな」
「実装する」
「よし。仮採用。正式採用は、回る寿司で」
「結局寿司なのかよ」
「お祝いは回ってないと寂しい」
そのまま、二人は寿司屋に入った。今夜はレーンが回っている。寿司が小さな銀の舟に乗って、くるくる、素直にやって来る。世界って、こんなふうに回れるのか、と智真は妙に感心した。
「正式採用試験」里奈が言う。
「試験?」
「うん。皿を取るたびに言え」
「何を」
「“好き”。一皿一回。途中で黙ったら不採用」
「鬼かよ」
「災害ですから」
智真は赤い皿のマグロを取って、息を吸って吐いた。
「……好き」
「小さい。聞こえない」
青い皿のいかを取る。
「好き」
「よし」
黄色い皿の卵を取る。卵が来るのが、今日の運命みたいで笑いそうになる。
「好き」
「うん。いい顔」
里奈も皿を取って、わざとらしく言った。
「私も」
「え」
「好き。って言った。ほら、私も練習してるんだよ」
「……里奈も下手なの?」
「下手だよ。だからずっと、あなたの背中を押すふりして、自分の口を鍛えてた」
「最悪の筋トレ」
「でも効いた。いま、言えた」
里奈は湯呑みを持って、智真の湯呑みにこつん、と当てた。乾杯みたいな小さい音。
「明日、真白さんにはちゃんと話して。予告編の続きは必要。人に優しくされたなら、あなたも誠実に返しな」
「……うん」
「で、終わったら戻ってきて。回る寿司、続きね」
「戻ってくるの前提?」
「前提。だって私は、しつこい」
「長所」
「そう。長所」
智真は皿を取る手を止めて、里奈を見る。
「じゃあ、今日の最後の一回」
「なに」
「好きだよ。里奈」
今度は小さくない。喉が通っている。湿ってない声。
里奈が一瞬だけ黙って、そして目を細めた。
「……合格」
その一言で、寿司はさらにうまくなった気がした。気のせいでもいい。
結局、言ってしまえば、それだけだった。
それだけなのに、一番難しかった。
だからこそ、一番うれしい。
レーンの銀の光がくるくる回る。智真は、その回転に遅れないように、もう一度だけ笑った。




