『一語だけ残して』
スマホのメモ欄には、未送信の文章が二十七個ある。
短いものから長いものまで、全部同じところで止まっている。
最後の一行が、書けない。
仕事の連絡なら秒で打てる。
「承知しました」「確認します」「ありがとうございます」
こういうのは、指が勝手に覚えている。なのに、たった一語が、途端に遠い。遠いというか、喉の手前でカチンと固まって、口の外に出ていかない。
職場の給湯室で、僕はコーヒーを淹れながら、カップの縁を眺めていた。泡が薄く揺れて、すぐに消える。そういうのを見ると落ち着く。
落ち着くくせに、落ち着く場所でいつも、彼女が来る。
「今日、早いね」
背後から声。振り返ると、倉橋さんがいた。髪を耳にかける癖が、相変わらず丁寧で、なのに急いでる感じもある。矛盾が似合う人。
僕は反射で、仕事の顔を貼った。
「たまたまです」
「たまたま多いね、最近」
「……多いですか」
「多い。朝も、エレベーターも、帰りの改札も。偶然って便利だけど、使いすぎると薄くなるよ」
彼女は笑う。笑うと、空気が軽くなる。軽くなると、僕は余計なことを言いそうで怖い。だから黙る。黙ると、今度は彼女が少しだけ首をかしげる。犬みたいに。
「ねえ、今日の資料、助かった」
僕は勇気を出して言った。言いたかったのはそこじゃないのに、そこまでしか出ない。
倉橋さんは目を丸くして、すぐに頷いた。
「よかった。間に合って」
「うん」
「“うん”だけ?」
刺してくる。優しく。
「……ありがとう、も」
「うん。どういたしまして」
彼女は自分のカップを持って、去り際に小さく言った。
「言葉、増えたね」
増えた。増えたけど、肝心のが増えない。
席に戻ると、隣の島の水野が椅子を滑らせてきた。
「お、今日も顔が死んでる。恋の人」
「恋の人って言うな」
「言う。で? 一語は?」
「……何の」
「何の、じゃない。ほら、例の“あの一語”。言えば終わるやつ」
終わらない。言えば始まる。たぶん。
でも始まったら、失敗も始まる。僕は失敗が苦手だ。苦手というより、失敗したあとに自分を責める癖が強すぎる。責め始めると止まらない。止まらない自分を、誰にも見せたくない。
「今日こそ、言えば?」水野が言った。
「今日こそ、って何回目だよ」
「数える? 紙に書く?」
「やめろ」
「じゃあ言う。数えてるのは君の脳みそ。ずっと同じところ走ってる」
水野はカリカリとボールペンを回した。
「ほら、単語だけ置いて帰れって。文章にしようとするから怖いんだろ」
「単語だけって、雑すぎ」
「雑でいい。雑なほうが息できる」
息。最近ずっと浅い。
自分でも分かるのに、直し方が分からない。
その日の帰り、僕は駅の改札前で立ち尽くしてしまった。
見覚えのある後ろ姿。倉橋さんが、ICカードを探して鞄の中を掘っている。肩がほんの少しだけ上がっている。焦っている合図。
僕はその背中に声をかけようとして、やめた。やめて、結局、横に並んだ。
「……遅い?」
倉橋さんが先に気づいて言った。
「遅くないです」
「遅いよね。いつも、こういう時だけ改札、機嫌悪い」
彼女はカードを見つけて、笑った。僕は笑えなかった。機嫌が悪いのは改札じゃない。僕の勇気だ。
改札を抜けたところで、倉橋さんが足を止めた。
「ねえ、帰り、同じ?」
心臓が変な音を立てた。質問が短いほど、威力がある。
「……同じ、です」
「じゃあ、ちょっと歩こ」
ちょっと、が救いで、ちょっと、が罠だ。
駅前の通りは、人の流れが速かった。信号の切り替わりも速い。早い世界は苦手だ。早い世界に合わせると、僕の中身が落ちる。
倉橋さんは、歩く速度を僕に合わせてくれた。合わせてくれるのが、苦しいほど嬉しい。
風が吹いて、彼女の髪がふわっと揺れた。洗剤の匂いがする。あの匂いは、僕の脳を簡単に縛る。縛られると、言葉が出なくなる。最悪だ。
最悪なのに、好きだ。
「今日さ」倉橋さんが言った。「一個だけ、聞いていい?」
「……はい」
「あなた、私のこと苦手?」
唐突すぎて、足が止まりそうになった。
苦手なわけがない。むしろ逆だ。逆すぎて困っている。
僕は咄嗟に否定の言葉を作ろうとして、変な順番で口が開いた。
「苦手じゃないです。……ただ」
ただ。
ここで止まった。止まったまま、喉が乾く。
倉橋さんが目を細めた。怒ってない。待ってる顔。待たれると余計に怖い。
その瞬間、スマホの警報が近くで鳴った。
線路脇の工事のアラートらしい。ピピピ、と妙に耳に刺さる音。周りの人が一斉に立ち止まり、視線が同じ方向へ流れた。
倉橋さんも一瞬だけ身をすくめた。ほんの一瞬。でも、確かに怖がった。
「びっくりした」
「……大丈夫?」
「うん。大丈夫、だけど」
彼女は笑って誤魔化そうとして、笑いが途中で落ちた。
「私、こういう急な音、苦手かも」
言い切ったのが偉い。苦手って言える人は、逃げ道を作れる。
僕は思った。今だ。ここで一語だけ置け。
置いて、帰れ。帰ってから震えろ。今は置け。
でも口から出たのは、また違う言葉だった。
「……僕もです」
違う。違うけど、嘘じゃない。
倉橋さんが少し笑った。
「意外。あなた、なんでも平気そう」
「平気そうな顔が得意なだけです」
「それ、ずるい」
「ずるいです」
僕は自分でも驚くほど素直に言った。
素直に言ったら、倉橋さんの肩が少し落ちた。僕の肩も落ちた。肩が落ちると、人は息ができる。
歩き出して、信号待ちのとき。
僕らの距離は、手を伸ばしたら触れる。触れたら戻れない気がして、触れない。触れないまま、距離だけが熱い。
僕は決めた。今度こそ一語。文章にしない。説明しない。言い訳も足さない。
「倉橋さん」
「なに?」
信号の音が鳴る直前。青に変わる前の、あの一秒の静けさ。
僕は息を吸って吐いた。短く。
「好きです」
言った瞬間、世界が止まると思った。
止まらなかった。信号が青になり、人が歩き出し、車が流れ、遠くで犬が吠えた。日常は裏切らない。僕の告白に興味がない。
興味がないのに、僕の心臓だけは騒ぎすぎている。最悪。最高。
倉橋さんは、一歩だけ遅れて歩き出して、それから僕の横に並んだ。
顔は驚いているのに、怒ってない。嫌がってない。困ってるけど、逃げてない。
「……そんなに好きなら、って」
彼女が言いかけて止まった。
言いかけて止まった言葉が、たぶん彼女の“ただ”だ。
「うん。そんなに好きです」
僕は言ってしまって、恥ずかしさで耳が熱くなる。熱で喉が詰まりそうになるのを、呼吸で押さえた。
倉橋さんは、ふっと息を吐いて笑った。引っ込めない笑い。
「言えたじゃん」
「……言えました」
「今日、顔がちょっと生きてる」
「それは、たぶん」
「たぶん禁止」
「……はい」
笑われているのに、刺されていない。優しい。
僕らは横断歩道を渡りきって、駅前の小さな公園のベンチに座った。座ると、やっと震えが遅れてくる。遅れてくる震えは、身体が正直だから助かる。
倉橋さんが言った。
「私も、言うね」
胸が跳ねた。
「好き、って?」
「うん」
彼女は笑って、すぐ真面目な顔になった。
「好き。でも、いきなり“付き合おう”って言われたら、たぶん私、びっくりして逃げる」
「逃げないでください」
「逃げない努力はする。だから、手順にしよ」
「手順?」
「うん。まず、帰り道を増やす。週に一回、一緒に帰る」
具体的で助かる。具体があると迷子にならない。
「……いいです」
「それだけ?」
「それだけで、十分です」
言った瞬間、自分でも驚いた。十分なんて言葉、最近使ってなかった。いつも不足していた。不足のふりをしていた。
倉橋さんは頷いて、僕の手元を見た。
「あと」
「はい」
「あなた、好きって言ったあと、謝りそうになった」
図星で、僕は笑ってしまった。
「癖です」
「癖なら直せる。好きは、謝らない」
「……努力します」
「努力じゃなくて、合図にする」
倉橋さんは自分の指でベンチを二回こつこつ叩いた。
「あなたが謝りそうになったら、これ。こつんこつん」
「分かりました」
「私が怖くなったら、あなたが同じのして」
「こつんこつん」
「そう。二人でやる」
風が吹いて、木の葉が一枚、僕らの足元に落ちた。春手前の、まだ硬い葉。
倉橋さんがそれをつまんで、笑った。
「なんか、今日、軽いね」
「軽いです」
「怖い?」
「怖いけど、軽いです」
「いいね。怖いまま軽いの、たぶん長持ちする」
帰り道、僕はスマホのメモ欄を開いて、未送信の文章を一つ消した。
二十七個は、二十六個になった。
最後の一行が書けなかった文章の代わりに、今日は一語だけが残っている。
残った一語は、思ったより重くない。重くないのに、ちゃんと僕を前に押す。
改札の前で倉橋さんが立ち止まり、振り向いた。
「じゃあ、また」
「また」
「……“また”は便利だけど、今日はいい“また”」
「はい」
「来週、一緒に帰るの、忘れないでね」
「忘れません」
「たぶん?」
「たぶん禁止」
「よし」
別れ際、彼女がベンチの合図をもう一回、空に向かってこつんこつんとやった。
僕も同じように、指先でこつんこつん。
それだけ。
それだけで、今夜の心臓はちゃんと落ち着いた。




