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短編集  作者: 科上悠羽
33/69

『一語だけ残して』

 スマホのメモ欄には、未送信の文章が二十七個ある。

 短いものから長いものまで、全部同じところで止まっている。


 最後の一行が、書けない。


 仕事の連絡なら秒で打てる。

「承知しました」「確認します」「ありがとうございます」

 こういうのは、指が勝手に覚えている。なのに、たった一語が、途端に遠い。遠いというか、喉の手前でカチンと固まって、口の外に出ていかない。


 職場の給湯室で、僕はコーヒーを淹れながら、カップの縁を眺めていた。泡が薄く揺れて、すぐに消える。そういうのを見ると落ち着く。

 落ち着くくせに、落ち着く場所でいつも、彼女が来る。


「今日、早いね」


 背後から声。振り返ると、倉橋くらはしさんがいた。髪を耳にかける癖が、相変わらず丁寧で、なのに急いでる感じもある。矛盾が似合う人。

 僕は反射で、仕事の顔を貼った。


「たまたまです」

「たまたま多いね、最近」

「……多いですか」

「多い。朝も、エレベーターも、帰りの改札も。偶然って便利だけど、使いすぎると薄くなるよ」

 彼女は笑う。笑うと、空気が軽くなる。軽くなると、僕は余計なことを言いそうで怖い。だから黙る。黙ると、今度は彼女が少しだけ首をかしげる。犬みたいに。


「ねえ、今日の資料、助かった」

 僕は勇気を出して言った。言いたかったのはそこじゃないのに、そこまでしか出ない。

 倉橋さんは目を丸くして、すぐに頷いた。

「よかった。間に合って」

「うん」

「“うん”だけ?」

 刺してくる。優しく。

「……ありがとう、も」

「うん。どういたしまして」


 彼女は自分のカップを持って、去り際に小さく言った。

「言葉、増えたね」

 増えた。増えたけど、肝心のが増えない。


 席に戻ると、隣の島の水野が椅子を滑らせてきた。

「お、今日も顔が死んでる。恋の人」

「恋の人って言うな」

「言う。で? 一語は?」

「……何の」

「何の、じゃない。ほら、例の“あの一語”。言えば終わるやつ」


 終わらない。言えば始まる。たぶん。

 でも始まったら、失敗も始まる。僕は失敗が苦手だ。苦手というより、失敗したあとに自分を責める癖が強すぎる。責め始めると止まらない。止まらない自分を、誰にも見せたくない。


「今日こそ、言えば?」水野が言った。

「今日こそ、って何回目だよ」

「数える? 紙に書く?」

「やめろ」

「じゃあ言う。数えてるのは君の脳みそ。ずっと同じところ走ってる」

 水野はカリカリとボールペンを回した。

「ほら、単語だけ置いて帰れって。文章にしようとするから怖いんだろ」

「単語だけって、雑すぎ」

「雑でいい。雑なほうが息できる」


 息。最近ずっと浅い。

 自分でも分かるのに、直し方が分からない。


 その日の帰り、僕は駅の改札前で立ち尽くしてしまった。

 見覚えのある後ろ姿。倉橋さんが、ICカードを探して鞄の中を掘っている。肩がほんの少しだけ上がっている。焦っている合図。

 僕はその背中に声をかけようとして、やめた。やめて、結局、横に並んだ。


「……遅い?」

 倉橋さんが先に気づいて言った。

「遅くないです」

「遅いよね。いつも、こういう時だけ改札、機嫌悪い」

 彼女はカードを見つけて、笑った。僕は笑えなかった。機嫌が悪いのは改札じゃない。僕の勇気だ。


 改札を抜けたところで、倉橋さんが足を止めた。

「ねえ、帰り、同じ?」

 心臓が変な音を立てた。質問が短いほど、威力がある。

「……同じ、です」

「じゃあ、ちょっと歩こ」

 ちょっと、が救いで、ちょっと、が罠だ。


 駅前の通りは、人の流れが速かった。信号の切り替わりも速い。早い世界は苦手だ。早い世界に合わせると、僕の中身が落ちる。

 倉橋さんは、歩く速度を僕に合わせてくれた。合わせてくれるのが、苦しいほど嬉しい。


 風が吹いて、彼女の髪がふわっと揺れた。洗剤の匂いがする。あの匂いは、僕の脳を簡単に縛る。縛られると、言葉が出なくなる。最悪だ。

 最悪なのに、好きだ。


「今日さ」倉橋さんが言った。「一個だけ、聞いていい?」

「……はい」

「あなた、私のこと苦手?」

 唐突すぎて、足が止まりそうになった。

 苦手なわけがない。むしろ逆だ。逆すぎて困っている。

 僕は咄嗟に否定の言葉を作ろうとして、変な順番で口が開いた。


「苦手じゃないです。……ただ」

 ただ。

 ここで止まった。止まったまま、喉が乾く。

 倉橋さんが目を細めた。怒ってない。待ってる顔。待たれると余計に怖い。


 その瞬間、スマホの警報が近くで鳴った。

 線路脇の工事のアラートらしい。ピピピ、と妙に耳に刺さる音。周りの人が一斉に立ち止まり、視線が同じ方向へ流れた。

 倉橋さんも一瞬だけ身をすくめた。ほんの一瞬。でも、確かに怖がった。


「びっくりした」

「……大丈夫?」

「うん。大丈夫、だけど」


 彼女は笑って誤魔化そうとして、笑いが途中で落ちた。

「私、こういう急な音、苦手かも」

 言い切ったのが偉い。苦手って言える人は、逃げ道を作れる。

 僕は思った。今だ。ここで一語だけ置け。

 置いて、帰れ。帰ってから震えろ。今は置け。


 でも口から出たのは、また違う言葉だった。

「……僕もです」

 違う。違うけど、嘘じゃない。

 倉橋さんが少し笑った。

「意外。あなた、なんでも平気そう」

「平気そうな顔が得意なだけです」

「それ、ずるい」

「ずるいです」

 僕は自分でも驚くほど素直に言った。

 素直に言ったら、倉橋さんの肩が少し落ちた。僕の肩も落ちた。肩が落ちると、人は息ができる。


 歩き出して、信号待ちのとき。

 僕らの距離は、手を伸ばしたら触れる。触れたら戻れない気がして、触れない。触れないまま、距離だけが熱い。

 僕は決めた。今度こそ一語。文章にしない。説明しない。言い訳も足さない。


「倉橋さん」

「なに?」

 信号の音が鳴る直前。青に変わる前の、あの一秒の静けさ。

 僕は息を吸って吐いた。短く。


「好きです」


 言った瞬間、世界が止まると思った。

 止まらなかった。信号が青になり、人が歩き出し、車が流れ、遠くで犬が吠えた。日常は裏切らない。僕の告白に興味がない。

 興味がないのに、僕の心臓だけは騒ぎすぎている。最悪。最高。


 倉橋さんは、一歩だけ遅れて歩き出して、それから僕の横に並んだ。

 顔は驚いているのに、怒ってない。嫌がってない。困ってるけど、逃げてない。


「……そんなに好きなら、って」

 彼女が言いかけて止まった。

 言いかけて止まった言葉が、たぶん彼女の“ただ”だ。


「うん。そんなに好きです」

 僕は言ってしまって、恥ずかしさで耳が熱くなる。熱で喉が詰まりそうになるのを、呼吸で押さえた。


 倉橋さんは、ふっと息を吐いて笑った。引っ込めない笑い。

「言えたじゃん」

「……言えました」

「今日、顔がちょっと生きてる」

「それは、たぶん」

「たぶん禁止」

「……はい」

 笑われているのに、刺されていない。優しい。


 僕らは横断歩道を渡りきって、駅前の小さな公園のベンチに座った。座ると、やっと震えが遅れてくる。遅れてくる震えは、身体が正直だから助かる。

 倉橋さんが言った。

「私も、言うね」

 胸が跳ねた。

「好き、って?」

「うん」

 彼女は笑って、すぐ真面目な顔になった。

「好き。でも、いきなり“付き合おう”って言われたら、たぶん私、びっくりして逃げる」

「逃げないでください」

「逃げない努力はする。だから、手順にしよ」

「手順?」

「うん。まず、帰り道を増やす。週に一回、一緒に帰る」

 具体的で助かる。具体があると迷子にならない。


「……いいです」

「それだけ?」

「それだけで、十分です」

 言った瞬間、自分でも驚いた。十分なんて言葉、最近使ってなかった。いつも不足していた。不足のふりをしていた。

 倉橋さんは頷いて、僕の手元を見た。

「あと」

「はい」

「あなた、好きって言ったあと、謝りそうになった」

 図星で、僕は笑ってしまった。

「癖です」

「癖なら直せる。好きは、謝らない」

「……努力します」

「努力じゃなくて、合図にする」

 倉橋さんは自分の指でベンチを二回こつこつ叩いた。

「あなたが謝りそうになったら、これ。こつんこつん」

「分かりました」

「私が怖くなったら、あなたが同じのして」

「こつんこつん」

「そう。二人でやる」


 風が吹いて、木の葉が一枚、僕らの足元に落ちた。春手前の、まだ硬い葉。

 倉橋さんがそれをつまんで、笑った。

「なんか、今日、軽いね」

「軽いです」

「怖い?」

「怖いけど、軽いです」

「いいね。怖いまま軽いの、たぶん長持ちする」


 帰り道、僕はスマホのメモ欄を開いて、未送信の文章を一つ消した。

 二十七個は、二十六個になった。

 最後の一行が書けなかった文章の代わりに、今日は一語だけが残っている。

 残った一語は、思ったより重くない。重くないのに、ちゃんと僕を前に押す。


 改札の前で倉橋さんが立ち止まり、振り向いた。

「じゃあ、また」

「また」

「……“また”は便利だけど、今日はいい“また”」

「はい」

「来週、一緒に帰るの、忘れないでね」

「忘れません」

「たぶん?」

「たぶん禁止」

「よし」


 別れ際、彼女がベンチの合図をもう一回、空に向かってこつんこつんとやった。

 僕も同じように、指先でこつんこつん。

 それだけ。

 それだけで、今夜の心臓はちゃんと落ち着いた。

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