『疑いのスイッチは壁に貼らない』
疑いって、音がする。耳で聞こえるんじゃない。胸の奥で「カチ」と入る。たいてい、ちいさなことが引き金だ。たとえば、帰宅した恋人のバッグがいつもより軽い。たとえば、口角の上がり方が一ミリ違う。たとえば、スマホの画面を伏せる指が早い。
僕はその「カチ」を、昔からよく拾う。拾いすぎて、拾ったことを誇りにしていた時期さえある。見抜ける自分、賢い自分、転ばない自分。そういう札を、胸元にいくつも貼っていた。札は軽いのに、増えると息が詰まる。
夜九時過ぎ、梨花が帰ってきた。
「ただいま。遅くなった」
「おかえり」
僕は鍋の火を弱めながら返事をした。味噌汁は湯気が立つと、それだけで部屋が生活になる。生活になると、疑いは少しだけ居場所をなくす。なくすはずだった。
梨花は靴を脱いで、いつも通り冷蔵庫を開けた。麦茶を一口飲み、肩を落とす。ここまではいつも通り。次も、いつも通りのはずだった。
梨花のスマホがテーブルの上で震えた。画面が光る。通知のプレビューが一瞬だけ見えた。差出人の名前と、絵文字の輪郭。
カチ。
僕の胸の奥で、疑いのスイッチが入った。
僕は鍋を見つめたまま、頭の中で自分に命令した。
(見ない)
(聞かない)
(数える)
数える、は僕の鎮静剤だ。疑いが走り出した時、十まで数えるといったん息が戻る。十まで数えても戻らない日は、その日に限って雨が降る。
「……仕事、大変だった?」
僕は平気な声を作った。平気な声は、工場で量産できる。自分の喉が一番知ってる。
「まあね。会議が長引いた。上の人たち、言葉が多いのに中身が薄い」
梨花は靴下のままソファに沈んだ。疲れの沈み方は嘘をつかない。僕の疑いが、いったん置き去りにされそうになる。そうなりかけて、またカチ。
梨花がスマホを伏せた。伏せる手つきが、ほんの少しだけ早い。
僕の頭の中に、勝手な字幕が流れる。
(誰?)
(何の絵文字?)
(どうして伏せた?)
字幕は便利だ。僕を物語の主人公にしてくれる。主人公はいつだって勘がいい。主人公はいつだって裏切られない。裏切られない代わりに、誰も信じられない。
味噌汁をよそって、僕はテーブルに並べた。豆腐が少し崩れた。崩れた豆腐は、僕の心みたいで嫌だ。
「食べる?」
「うん。ありがとう」
梨花は箸を持った。持ったのに、箸先が止まる。
「……慎一」
「なに」
「今日、変」
変。僕が一番避けてきた言葉だ。変って言われると、仮面の縫い目が見える。
「変じゃない」
「変。顔が、見張りの顔」
梨花は味噌汁を一口飲んで、少しだけ眉を寄せた。
「濃い」
「……ごめん」
「謝るな」
梨花の声が、少し強くなる。
「謝って終わらせないで。何を見張ってるの?」
逃げ道が消えた。逃げ道が消えると、僕はだいたい黙る。黙ると、梨花の眉間に皺が寄る。皺が寄ると、僕はますます「カチ」を拾う。最悪の循環。
僕は箸を置き、指先を握って開いた。呼吸を一つ。
「……さっき、通知が見えた」
「うん」
「それで、勝手に、疑った」
言った瞬間、喉が熱くなった。恥ずかしい熱。情けない熱。
「誰から?」梨花が聞いた。
言葉が短い。短い言葉は、刃物にもなるし救命具にもなる。
「……分からない。見てない」
「見てないのに疑ったの?」
「疑いって、見なくても走る」
僕は自分でも変なことを言っていると思った。けど、止まらなかった。
「僕の頭の中に“想像の字幕”が出る。勝手に。止め方が分からない」
梨花はしばらく黙って、麦茶を飲んだ。氷が鳴る。氷の音は、会話の角を少し丸くする。
「……私も、隠した」
「え」
「あなたがまたスイッチ押しそうだったから。先に伏せた。……ずるいでしょ」
僕の胸がきゅっと縮む。僕のせいだ。の札がまた増えそうになる。
「誰からだったの」
梨花はスマホを持ち上げて、画面を見せた。
「母」
表示は短い文だった。たしかに絵文字もある。ハートじゃない。笑ってる顔のやつ。母親が多用するタイプのやつ。
「“今週末、顔見せなさい”だって。こういう時、母の言葉って爆弾なの」
梨花は笑った。笑ってるのに、目が疲れている。
「あなたに言うと、あなたが気を遣うでしょ。気を遣う顔、好きなんだけど、今日は見たくなかった」
「……ごめん」
「だから謝るなって」
梨花は箸を置き、僕の目を見た。
「疑うのが悪いって話じゃない。疑った時に、黙って一人で燃えるのが嫌」
「燃える」
「燃えるよ。顔が、こげる」
こげる、って言い方が変で、僕は少し笑ってしまった。笑ったら、胸のカチが一個ほどけた。
「……僕、怖いんだと思う」
「何が」
「全部が。信じるって、落ちるみたいで」
梨花はうなずいた。
「落ちるの、怖いよね。私も」
そこで僕は気づいた。僕の疑いは、梨花を責める武器じゃない。自分の恐怖の防具だ。防具は守ってくれる。守りすぎると、触れられなくなる。
僕は深呼吸して、言った。
「じゃあ、手順を作ってもいい?」
「うん。手順は好き。生活になるから」
僕らはテーブルの端にメモ用紙を置いた。白い紙は、怖いけど効く。
梨花がペンで書いた。
《疑いが出たら、まず言う》
僕が書いた。
《相手のスマホを見ない》
梨花が続けた。
《質問は三つまで》
僕が続けた。
《答えは、いま言える分だけ》
梨花は紙を指でこつこつ叩いた。
「で、合図。あなたが黙って目が遠くなったら、これ」
こつん、こつん。二回。
「私がイラッとして言葉が尖りそうなら、あなたが同じ」
「二回ね」
「二回」
さらに梨花は、引き出しから小さな空き瓶を出してきた。ジャムが入っていたやつらしい。蓋に小さな苺の絵。
「これ、疑いの保管庫」
「保管庫?」
「うん。いま、全部答えられない日もあるでしょ。そういう時は、紙に書いて瓶に入れる。入れたら“いったんしまう”。週末に開ける」
「週末に爆発しない?」
「爆発しそうなら、開けない。開けるのも手順」
梨花は真顔で言って、急に照れたみたいに付け足した。
「……私も、あなたに言えないこと、あるし」
「あるの?」
「ある。たとえば“今日は一人で泣きたい”とか」
胸がきゅっとする。泣きたい日を、僕は勝手に消そうとしてしまう。
「消さない」僕は言った。
「何を」
「泣きたい日。消さない。瓶に入れる」
「それ、いいね」
梨花が笑った。笑いが小さいのに、落ち着いている。
味噌汁は冷めていた。僕は立って温め直した。温め直せるものは、助かる。温め直せないものを、僕らは今日、温め直そうとしている。
鍋の前で梨花が言った。
「ねえ、慎一。あなた、全部知りたい?」
「……知りたい時がある」
「一から十まで?」
その言い方に、僕は少しだけ苦笑した。僕の欲は、数にすると急にみっともない。
「……うん。欲しくなる」
「じゃあ、今日は一つだけ」
「一つ?」
「うん。今日の“一つ”をちゃんとやる」
梨花は冷蔵庫を開けて、りんごを取り出した。皮を剥かずに切る。しゃく、という音が台所に鳴った。音が鳴ると、疑いの字幕が少し遠のく。
「食べる?」
「食べる」
僕が答えると、梨花は笑った。
「ほら、今の返事、速かった」
「りんごは、分かりやすいから」
「分かりやすいの、大事」
僕らは黙ってりんごを食べた。しゃく、しゃく。咀嚼の音が、二人の間の隙間を埋めていく。埋めるのに、息は詰まらない。不思議だ。
りんごを食べ終えたころ、僕は言った。
「……今日、疑ってごめん」
梨花がすぐにこつんこつんと机を叩いた。
「はい。謝罪じゃなくて、次」
「次」
「疑ったら、言う。今みたいに」
「……分かった」
「それだけ」
梨花は言って、笑った。
「あなたの“それだけ”は、ちゃんと重いから」
翌日、僕は会社で自分の癖を再確認した。
僕の仕事は、広告の表示内容をチェックする部署だ。誇張がないか、誤解を招かないか、数字の根拠があるか。要するに、疑いの才能が役に立つ場所。
昼の会議で同僚が言った。
「慎一、ほんと見つけるよな。よく気づく。安心するわ」
僕は笑って頷いた。安心する、という言葉の裏で、胃が少し痛む。僕は“見つける係”として拍手されるほど、家でも見つけてしまうからだ。
帰宅すると、梨花が台所で包丁を研いでいた。変な緊張が走る。包丁の音は、心を映す。
「おかえり」
「ただいま。……その包丁、怖い」
「切るためだよ」梨花が笑う。「怖いから研ぐ。鈍いほうが危ない」
僕はその言葉を、胸にしまった。鈍いほうが危ない。疑いも同じだ。隠して鈍らせると、どこかで変な切れ方をする。
その夜、またスマホが震えた。今度は僕のほうだ。
同僚からのグループ通知。僕は反射で画面を伏せた。
梨花がすぐに、こつんこつんと机を叩いた。
「はい。いま、あなたが怪しい」
「怪しくない。仕事」
「じゃあ言えばいい。三つまで質問していいよ」
梨花はわざとらしく腕を組む。
僕は笑って、質問を一つだけ使った。
「……いまの、仕事の連絡。以上」
「よし」
梨花は頷いて、僕のスマホに興味を示さなかった。見ない、を守っている。守られると、僕の胸の中のカチが減る。
週末、苺の蓋の瓶を開けた。
中には、折りたたまれた紙が二枚だけ。
梨花の紙には《母に会うの、怖い》と書いてあった。
僕の紙には《母に会う時、僕が変な顔しそうで怖い》と書いてあった。
似た怖さに、僕らは同時に笑ってしまった。笑いながら、梨花が言う。
「ほら。疑いっていうより、不安だよね」
「うん。名前を付けたら少し軽い」
「じゃあ、今日の結論」
「結論?」
「母は爆弾。私たちは紙。紙は燃えるけど、燃え方は選べる」
相変わらず比喩が雑だ。でも雑な比喩は、生活に向いている。
翌日、僕らは梨花の母に会いに行った。待ち合わせは駅前の喫茶店。ガラス越しに見える母の姿は、背筋がまっすぐで、笑顔がきれいで、そして何より“怖そう”に見えた。僕の胸の奥で、例のカチが鳴りかける。
僕はポケットの中で指を二回、こつんこつんと鳴らした。合図は自分にも効く。梨花がそれに気づいて、僕の手の甲を軽くつまんだ。
「大丈夫。疑う前に、飲む」
梨花は自販機の水を僕に押しつけた。水は逃げ道じゃなく、通路だった。
喫茶店に入ると、母は開口一番こう言った。
「あなたが慎一さん? 写真より、目が忙しいのね」
いきなりバレた。僕は固まって、でも逃げずに笑った。
「見張りの癖があるみたいで……すみません」
「謝らない」母はきっぱり言って、それから少しだけ目尻を下げた。「緊張してるだけでしょ。座りなさい。まず、甘いの食べなさい」
出てきたのはプリンだった。僕は拍子抜けして、一口食べた。甘さは嘘をつかない。喉が通る。
母は梨花を見て言った。
「この子、強がるのよ。黙って抱える。あなたは、抱えさせないで」
僕はうなずいて、短く返した。
「はい。疑って黙るのも、やめます」
母が笑った。
「いい返事。疑い深い人は、誠実にもなれる。手順が好きだからね」
帰り道、梨花が僕の袖を引いた。
「ね。爆弾、爆発しなかった」
「……むしろプリンだった」
「ね。だから次からは、勝手に起爆しない」
僕はポケットの中の瓶の蓋を思い出して、こっそり笑った。疑いは消えない。でも、名前を付けて、入れ物を用意して、呼吸を通せば、日常の中で飼える。
夜、布団に入ってから、僕はまた胸の奥でカチを探しそうになった。探す癖は、すぐには消えない。だから僕は指先で、枕の端を二回叩いた。こつんこつん。
梨花が小さく笑って、こちらを向く。
「どうした」
「……いま、少しだけ不安」
「うん。出してくれてありがとう」
梨花は僕の指先を握って、ほどよい強さで止めた。
「じゃあ、今夜の答え。母は爆弾。あなたは見張り。私は逃げ癖。全部、持ってる。だから、明日も生活」
「生活」
「うん。生活は、疑いを完全に消さない。でも、疑いを飼える」
窓の外で救急車の音が遠ざかった。日常は勝手に続く。僕らの会話も、勝手に続く。勝手に続くものは、責めなくていい。
僕は目を閉じる前に、もう一度だけ指先で合図を出した。こつんこつん。梨花がそれにこつんこつんと返す。
疑いのスイッチは、壁に貼らない。胸の奥にあるなら、胸の奥で扱う。ひと呼吸ぶんずつ。
それで、今夜は十分だった。




