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短編集  作者: 科上悠羽
35/66

『半音の舌打ち』

 僕の仕事は、音を消すことだ。

 ポッドキャストの編集で、息継ぎの「はっ」とか、マイクに当たった「ごん」とか、口の中の乾いた「ぺた」を削って、聞き心地だけを残す。ノイズキャンセルみたいに、生活も消せたら楽なのに、と時々思う。けれど生活は、肝心なところほどノイズの顔でやってくる。


 たとえば、舌打ち。


 春香の舌打ちは、爆音じゃない。むしろ、絶妙に小さい。

 聞こえたような、聞こえないような。耳がいい人だけが拾ってしまう、半音の苛立ち。


 僕が拾う。


「……いま、した?」と聞くと、春香は必ず言う。

「してないよ」

 その「してないよ」は、してる時より鋭い。最悪だ。


 僕と春香は付き合って二年、同棲して半年。

 春香は法律事務所でパラリーガルをしていて、言葉の使い方が上手い。上手いというより、間違えない。こちらの逃げ道を丁寧に塞いでくる。仕事の癖だと言い張るけれど、たぶん本人の性格でもある。


 そして、負けを認めない。


 いや、正確には「負け」という言葉を採用しない。採用しないから、負けない。

 議論がこじれると、春香は「そもそも」と言う。僕が一番嫌いな魔法の言葉だ。「そもそも」が来ると、ゴールが伸びる。伸びると、僕の脳のバッテリーが削れていく。


 夜、僕が帰宅すると、キッチンに皿が一枚積まれていた。

 たった一枚。でも、たった一枚は、ここでは「合図」だ。


「洗っておいたよ」僕が言う。

「うん」春香が言う。

 そして、半音。


 僕の耳が拾う。


「今の、舌、鳴った」

「鳴ってない」

「鳴った」

「鳴ってない」

「……」


 僕は黙る。黙ると、春香の舌打ちはもう一回だけ鳴る。二回目は、少しだけ大きい。悔しい。こっちは音量調整ができない。


「ねえ」春香が言う。「今日、どうだった?」

「仕事? まあ、普通」

「普通の顔じゃない」

「普通の顔って何」

「眉が、会議してる」


 僕は笑いそうになって笑えなかった。指で眉間を押す。疲れている。疲れているからこそ、半音の苛立ちが刺さる。刺さると、反射で反撃したくなる。


 僕は春香に勝ちたいわけじゃない。

 勝ちたいのは、半音に。


 半音は、勝てない相手みたいにふるまう。声にしないのに、存在感だけある。春香本人は「してない」と言う。言うから、僕は自分を疑う。自分を疑うと、僕は黙る。黙ると、春香は「言い返してくれればいいのに」と言う。言い返すと、「言い方が刺さる」と言う。


 詰んでる。



 ある木曜の夜、事件は電話で起きた。


 僕は収録の立ち会いで遅くなり、春香は先に実家に寄っていた。用事の内容は知らない。知らないのは、知らないふりをしているからだ。春香の実家の話題は、なぜか会話の端でいつも滑る。


「いま、駅」春香が言う。

「おつかれ。帰り、何か買う?」

「ううん、大丈夫」


 その「大丈夫」は危ない。大丈夫の時ほど、大丈夫じゃない。


「……怒ってる?」

「怒ってないよ」

 半音。


 僕は電話口越しの半音を拾ってしまった。さっきまで一時間、出演者の咳払いを削っていた耳は、生活の咳払いにも容赦がない。


「いま、した」

「してない」

「した」

「してない」


 春香の「してない」が、今度はほんの少し笑っていた。笑いは軽い。軽いのに、こっちの胸は重い。


「ねえ、充電、何パー?」春香が急に言った。

「……一桁。なんで」

「じゃあ急いで話す。今日、母がね」

 来た。母。


 春香は、実家の「母」が絡むと話が速い。速いのに、結論は増える。速い電車の窓から景色を見ている感じだ。全部流れて、要点だけ残らない。


「で、また“ちゃんとしなさい”って言われた」春香が言う。

「……うん」

「うん、だけ?」

「え、何て返すのが正解?」

「正解とか言うな。あなた、すぐ正解に逃げる」

「逃げてない」

「逃げてる。感想を言って」

「感想……」


 僕はそこで止まった。電話の残りバッテリーが、僕の言葉の残量と同じ速度で減っていく。


「……腹立つね」僕はやっと言った。「ちゃんとって、何だよって」

 春香が黙った。黙ったまま、半音。

 今度の半音は、苛立ちじゃない。たぶん、涙を止めるためのやつだ。僕はそれを聞き分けられるほど、彼女を知っている。知っているのに、言葉が追いつかない。


「春香、いま――」

「いい」春香が遮った。「いいから、切らないで」

「切らないよ」

「切るじゃん。あなた、電池が理由なら切る」


 確かに切る。僕は切る。切って、あとから長文を送る。長文は、僕の逃げ道。春香が一番嫌うやつ。


 僕は息を吸って吐いた。

「じゃあ、ルール。今夜は、長文禁止」

「うん」

「代わりに、二十秒で言う。母の“ちゃんと”は、春香の価値じゃない」

 言い切った瞬間、僕のスマホが震えた。残量警告。画面が暗くなる。まるでタイミングを狙っている。


「……ほら」春香が言う。「来た」

「まだ切れてない」

「切れる前に、私が言う」


 春香は、電話越しに小さく息を吸った。

「ねえ、舌打ちね。してるよ。私」

 僕の心臓が変な音を立てた。


「してるの?」

「うん。してる。……あなたにじゃない。私に」

「自分に?」

「うん。泣きそうになると、悔しくて。悔しいと、鳴る」

「それ、音の説明として正しいのが腹立つ」

「あなた、仕事の人だから」

「仕事の人って何だよ」


 春香が笑った。笑いながら、最後に言った。

「だから、半音を拾ったら、私が悪者だって決めないで」

「決めてない」

「決めてる。顔が決めてる」

「電話だよ」

「電話でも分かる。あなた、黙ると電波が冷える」


 その表現が面白くて、僕は笑ってしまった。笑った瞬間、画面が真っ暗になった。

 切れた。


「……まじかよ」


 僕は暗い画面に向かって言った。相手に届かない文句は、ただの独り言だ。独り言でも、言うと少しだけ楽になる。


 その夜、僕はなぜか舌打ちの練習をした。

 いや、練習というより、再現。あの半音を僕の口で作れたら、誤訳せずに済む気がしたのだ。理屈が雑なのは自覚している。


 結果は散々だった。

 勢いよくやると、ただの口の中の事故音になる。小さくやろうとすると、唾が変な方向に飛ぶ。僕は洗面台に向かって二度むせ、三度目で「やめよう」と思った。

 プロでもないのに音を真面目に追いかけると、人はこうやって自滅する。生活も同じだ。


 僕は結局、半音を真似るのをやめて、代わりに充電ケーブルを買った。

 長いやつ。妙に丈夫なやつ。断線しにくいって売り文句のやつ。勇気は断線するくせに、ケーブルは断線しにくい。腹立つけど、今日はそれでいい。



 翌朝、スマホを充電しながら、僕は編集ソフトを開いた。

 自分でも意味が分からないのに、手が勝手に動く時がある。昨日の夜の半音が、耳の奥でまだ回っていたからだと思う。


 僕は「素材」を作り始めた。

 舌打ちじゃない。怒りじゃない。爆発でもない。

 合図。


 洗面所の鏡の前で、僕は口をすぼめたり、息を吐いたり、喉を鳴らしたりして録音した。自分の口の音を真面目に採取する三十代男は、どう見ても怪しい。怪しいのに、意外と楽しい。音は正直だ。正直だから、冗談にできる。


 昼、帰宅した春香に、僕は小さなスピーカーを差し出した。

「なに、これ」

「音の辞書」

「辞書?」

「うん。僕が“勝手に誤訳”しないための辞書」

 春香が眉を上げる。眉が上がると、半音が来る。来ない。今日は来ない。代わりに笑う。


「やばい。かわいいことする」

「かわいくない。生存戦略」

「それ、言い方がかわいい」


 僕はスピーカーのボタンを押した。短い音が鳴る。カチ、ではない。もっと柔らかい、空気の音。

「これは“いま、口が尖ってるけど味方”」

「味方って何」

「敵じゃないってこと」

 次の音。少し長い息。

「これは“いま、泣きそう。触る前に声かけて”」

「……」

 春香が黙った。黙って、半音――ではなく、机を二回こつこつ叩いた。


「それ、なに」

「あなたがさっき言ってた“電波が冷える”の代わり」春香が言う。「黙る前に、叩く」

「合図の移植?」

「うん。舌打ちは、誤訳されるから。別の入れ物にする」


 その週末、僕らはスーパーで試験運用をした。

 レジで前の客がもたつき、後ろの人が小さく舌を鳴らした。半音。春香の肩がぴくっと動く。僕の胸も反射で固くなる。


 僕は小声で言った。

「いま、どっち?」

 春香は一瞬だけ目を細めて、カゴの持ち手を握り直す。

「……世界に」

「オーケー。じゃ、僕らは待つ」

「うん。待つ。……でも、ムカつく」

「ムカつくは、正しい」

「正しいムカつく」

 春香が笑いそうになって笑わなかった。代わりに、カゴの端を指で二回こつこつ。

 その合図だけで、春香の舌は鳴らなかった。僕の胸も鳴らなかった。


 帰り道、春香が言った。

「ねえ。私の舌打ちってさ、たぶん防波堤なんだよね」

「防波堤?」

「うん。泣く前に、怒ってみせるやつ。泣いたら負け、ってやつ」

「負け、採用してるじゃん」

「採用してる。心の中だけ」春香は肩をすくめた。「あなたの黙りは?」

「省電力モード」

「最悪の例え」

「でも当たってる」

「当たってるのが腹立つ」


 僕らは笑って、豆腐と卵とネギを買った。生活の三点セット。音の辞書より、こっちのほうが長持ちする気もする。



 その夜、僕らはまた小さな口論をした。洗い物の順番、ゴミ袋の結び方、靴下の片方が消える怪事件。どうでもいい。どうでもいいのに、生活はどうでもいいで回らない。


 春香が口を尖らせて、危うく半音が出そうになった。

 僕は先に言った。

「いま、どっち?」

 春香は一瞬止まって、目を細める。

「……自分に」

「オーケー。じゃ、僕は味方」

「それ、ずるい」

「ずるいは優しさの近道」

「どこで覚えたの」

「生活」


 春香が笑って、そして舌ではなく、机を二回叩いた。こつんこつん。

「はい、ここまで。今日は爆発しない」

「了解」

「了解は、冷たく言わないで」

「了解……じゃなくて、うん」

「うん、は好き」


 僕は味噌汁を温め直しながら、ふと思った。

 僕の仕事は、音を消すことだ。けれど今日は、音を残している。残すために編集している。

 半音の苛立ちも、半音の涙も、全部消したら、僕らは平らになる。平らは安全だ。安全だけど、たぶん退屈だ。


 食後、春香がスマホを見て小さく息を吐いた。通知だ。今度は伏せない。

 僕の胸の奥で、疑いのスイッチが鳴りかける。

 僕は机を二回叩いた。こつんこつん。自分への合図。


「……不安?」春香が聞く。

「ちょっとだけ」僕は言う。「でも、いまは自分に言ってる」

「いいね」春香が頷く。「じゃあ私も、いまは世界に。母に返信してくる」


 春香が画面を打つ指は、相変わらず速い。速いけれど、以前ほど怖くない。怖さの正体が、音で分かったからだ。

 僕らは、舌打ちをなくしたわけじゃない。ただ、別の棚に置いた。それだけ。


 寝る前、僕はスマホを見て笑った。残量は十分。だけど僕は充電ケーブルを挿した。

 保険は悪じゃない。保険があると、言葉は少しだけ大胆になれる。


「ねえ」春香が布団の中で言う。

「なに」

「明日、また私、半音出すかも」

「うん」

「その時、誤訳しないでね」

「しない。誤訳したら、辞書を更新する」

「辞書、増えるね」

「増えていい。僕ら、会話のソフト更新が必要なタイプだから」


 春香が笑って、最後に小さく言った。

「……好き」

 僕の心臓が一段跳ねた。舌打ちじゃない音。正しい音。

「うん」僕は言った。「僕も」


 それだけで、今夜は十分だった。


 翌朝、ケーブルのおかげでスマホは満タンだった。満タンだと、心も少しだけ余裕がある気がする。気がするだけでも助かる。

 玄関で靴を履きながら、春香が小さく舌を鳴らしかけて、途中でやめた。代わりに、僕の手の甲を指で二回、こつんこつん。

「どっち?」と僕が聞く。

「世界に。あの人、エレベーターのボタン全部押してた」

「それはムカつく」

「でしょ」

 春香が笑った。僕も笑った。たったそれだけで、半音は今日は敵じゃなかった。

 ドアが閉まる直前、春香が言った。

「いってきます。味方」

 僕は頷いて、指先で小さく返事をした。こつんこつん。

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