表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
短編集  作者: 科上悠羽
36/65

『次のページに居るひと』

 最寄りの小さなコンビニは、雑誌棚だけ妙に照明が強い。夜中の二時でも、そこだけ昼みたいに顔色がはっきりする。僕は帰宅前の寄り道で、よくその棚の前で立ち止まる。立ち読みをするためじゃない。立ち読みの“ふり”をするためだ。財布の中身と気持ちの中身を、いったん落ち着かせる儀式。

 ……と言い訳したところで、店長の視線は優しいようで容赦ない。


 その日も僕は棚の前でページをめくっていた。派手な見出し、うるさいフォント、煽り文句。いつもなら三秒で飽きる。なのに、たまたま目に入った表紙の写真が、僕の指を止めた。

 笑っていた。僕に向けて、というより“レンズの向こう側の誰か”に向けて。なのに、真正面から視線が刺さってくる。刺さってくるのに嫌じゃない。針じゃなくて、糸みたいな刺さり方だった。


 僕は反射で、雑誌を棚に戻した。戻した瞬間に、店長と目が合った。

「……読まないの?」

「読みます。いや、読んでません。えっと」

「落ち着いて。うち、雑誌で逮捕しないから」

 店長は笑ってレジに戻った。僕は顔が熱いのを誤魔化すために、別の雑誌の裏表紙を三回くらい眺めた。意味のない遠回りは得意だ。


 結局、さっきの雑誌を買った。買って、袋の中で何度も表紙を覗いた。ばかだ。ばかなのに、胸の真ん中が妙に軽い。

 家に着くと、僕は靴も脱がずに床に座り、表紙の人の名前を指でなぞった。活字の名前は冷たいのに、指先だけ熱い。僕は自分の熱にびびって、冷蔵庫を開けた。白い光が顔に当たって、急に現実が戻る。

「……落ち着け」

 誰に言っているのか分からない。


 検索を始めたのは、たぶん二分後だ。

 スマホに名前を打つ。候補がずらっと出る。出演作、受賞歴、インタビュー、画像、動画、切り抜き。世の中は、他人の人生を薄く切って売るのが上手い。

 僕は薄切りを一枚ずつ食べた。止まらない。止まらないくせに、満腹にならない。


 “知りたい”が、胃じゃなくて胸で鳴っている。

 どうして笑うのか。どうしてまっすぐ立てるのか。どうして、その顔でその台詞が言えるのか。

 僕は夜中に、三本続けて作品を観た。二本目の途中で眠気が来て、三本目の途中で泣きそうになって、泣くのが嫌でまた冷蔵庫を開けた。何も入っていない冷蔵庫の白い光が、僕の顔をぶっきらぼうに照らした。


「……なにしてんの」

 自分に聞くと、答えが返ってこない。答えが返ってこないのに、手だけは次の動画を再生する。


 明け方、最後に開いた記事で僕の指が止まった。年表。生まれた日と、終わった日。区切りは小さいのに、喉が冷えた。

 目が滑った。意味が入ってこない。入ってこないのに、体だけが理解して、膝がわずかに笑う。

 僕はスマホを置いて、ふっと笑った。笑ったのは強がりだ。強がりだと分かっているのに、笑うしかない。

「……うそだろ」

 声に出したら、部屋の空気が一瞬だけ人間になった。


 朝、会社で同僚の志田に言った。

「ねえ、推しがさ、もう……」

「亡くなってた?」

「え、なんで分かるの」

「顔が“図書館で泣いた人”の顔」

 志田はコーヒーを渡してきた。ブラック。優しさが雑で助かる。

「で? どうするの」

「どうもしない。できない」

「できない、の後ろに何があるの」

「……届かない」

「届かないの、当たり前。届かないから、置くんだよ」

「置く?」

「置き土産。自分の側に」


 その昼休み、志田は会社近くの古本屋へ僕を連れていった。棚の奥に、古いパンフレットが束で残っている。表紙の写真は色褪せているのに、目だけがまだ生きていた。

「買う?」

「買う」

「じゃあ条件。家で一人で沼に沈まない」

「沈まない」

「“たぶん”禁止」

「……はい」


 家に帰ってパンフレットを開くと、紙の匂いがした。インクと埃と、誰かの時間の匂い。僕はページをめくりながら、どうしようもなく笑ってしまった。僕はこの人の年齢も、好きな食べ物も、何も知らないのに、勝手に胸が忙しい。恋って言葉にしたくない。言葉にすると軽くなるのが怖い。重いまま抱えるのも怖い。つまり、僕はめんどくさい。


 めんどくさいまま、僕は図書館へ行った。休日の図書館は静かで、静かなせいで心臓の音がうるさい。司書さんに聞く勇気がなくて、検索端末の前で三回ほど無駄に咳払いをしてから、結局、棚の番号だけをメモして歩いた。

 評伝、対談集、雑誌のバックナンバー。知らなかった“本人の言葉”が、紙の上でちゃんと息をしていた。僕はそこで初めて、写真の笑い方が「強がりの笑い」だったことに気づいた。格好つけてるんじゃない。踏ん張ってるんだ。そう思った瞬間、僕の胸の中の何かが、急にしゅんと静かになった。


 その帰り道、駅前の広場で時計を見上げて、馬鹿みたいなことを考えた。

 もし時間を巻き戻せたら、僕はあの雑誌棚の前に戻って、表紙の前でちゃんと立つだろうか。ちゃんと買って、ちゃんと読んで、ちゃんと「あなたが好きだ」と言えるだろうか。

 巻き戻せないから、考えるだけだ。考えるだけで、胸が少し熱い。熱があるうちは、まだ生きてる。


 僕は志田にメッセージを送った。

『もし時間移動ができたら、って考えた』

 返事は即座に来た。

『やめとけ。戻るより、進め。戻れるなら俺も戻りたい』

 雑。最高。


 その夜から、僕は妙な習慣を始めた。

 月に一回、同じコンビニの雑誌棚の前に立つ。立ち読みのふりをする。棚の端にある小さなメモ帳を開き、今日の一行を書く。

 “今日の自分は、どんな顔で生きたか”。

 それだけ。

 それだけなら、僕でも書ける。


 最初の一ヶ月は情けない一行ばかりだった。

 “怖くて黙った”。

 “逃げた”。

 “笑ったふりをした”。

 書いて、ぐしゃっと丸めて捨てたくなる。でも捨てない。捨てたら、また同じ場所で止まるからだ。止まると、あの年表の小さな区切りが頭に戻ってくる。僕は止まりたくない。止まりたくない理由ができたのが、少し悔しい。


 二ヶ月目、僕は地元の小さな映画館のボランティア募集に申し込んだ。受付じゃない。チラシの文章を整える係。裏方。僕に似合う。

 初日、支配人が言った。

「君、文章上手いね。仕事は?」

「音を消す仕事です」

「へえ。じゃあ残すのは苦手?」

 支配人の目が、店長と同じ種類の優しさだった。容赦ない優しさ。

「……苦手です。でも、残したいです」

「いいね。残したいは、始まりだよ」


 数日後、支配人が僕に古いUSBを渡してきた。

「昔のトークイベントの録音。ノイズがひどくて使えないって諦めてたんだけど、君ならいける?」

 僕の心臓が一瞬だけ跳ねた。音の仕事。やっと得意の棚が来た。

 家でヘッドホンをつけて再生すると、ざらついた音の向こうから、人の笑い声が出てきた。咳、拍手、椅子の軋み。その中に、ひとつだけ、よく通る声があった。

 僕は息を止めた。声の温度が、表紙の目と同じだったからだ。


 音を磨く作業は、静かな格闘だった。削りすぎれば人が消える。残しすぎれば聞こえない。僕はノイズを“消す”んじゃなく、“道を作る”つもりで作業した。声が通るだけの細い通路を、音の森の中に一本引く。

 出来上がったデータを映画館に持っていくと、支配人がスピーカーで再生して、目を細めた。

「……届くね」

 その一言で、僕の背中が少しだけまっすぐになった。


 その夜、僕は自分の部屋でもう一度データを再生した。整えたはずの音に、まだ小さな息が残っている。編集者としての癖なら、そこを削りたくなる。息継ぎは“邪魔”だから。

 でも僕は削らなかった。息があるから人だ。息があるから、そこに居たと分かる。


 僕はヘッドホンを外して、机の上の空き瓶に目をやった。仕事で使う小さなネジが入っていた瓶。蓋の内側に、油性ペンで書く。

《一行だけ》

 翌日、映画館にその瓶を持っていった。ロビーの片隅、パンフレット台の横に置く。札を添える。

《観終わったあとに、一行だけ置いてください》

 支配人が眉を上げた。

「これ、何」

「僕の、置き土産の練習です」

「練習、好きだね」

「手順がないと怖いので」

 支配人は笑って、札の横に自分のペンを置いた。


 その週の終わり、瓶の中には紙が十数枚入っていた。

《明日も出勤する》

《母に電話する》

《帰り道、空を見た》

《泣いたけど、帰れた》

 みんな、でかいことは書かない。でかいことを書こうとすると息が止まるからだ。小さい一行は、息が通る。

 僕はその紙を一枚ずつ開いて、胸の奥が少しずつ温まっていくのを感じた。知らない誰かの生活が、僕の中で静かに灯る。灯りは大げさじゃない。だから長持ちする。


 最後に、僕も一枚入れた。

《あなたの息が、ここまで届いた》

 誰宛てかは書かない。書かなくても届く時がある、と僕は最近知った。


 瓶を置いてから数日、僕は自分の仕事のやり方まで変えた。番組の編集で、無意識に削っていた呼吸を、少しだけ残す。話し手が言いよどむ間も、なるべく切らない。間は怖い。でも、間があると人は本音を選べる。

 納品データを聴き返した同僚に「今日、なんか温度あるね」と言われて、僕はうっかり照れた。温度があるのは、僕の才能じゃない。誰かの人生に触れた副作用だ。


 帰り道、急に思い出した。あの表紙の人が“残したかったもの”は、賞でも記録でもなく、たぶんこういう小さい灯りだったのかもしれない、と。誰かが明日をやるための、ちいさな一行。

 僕はその勢いで母に電話した。普段は用事がないとしないのに。

「どうしたの」母は驚きもせずに言った。

「……ただ、声が聞きたくて」

 一瞬の沈黙のあと、母が笑った。

「そういうの、もっと早く言いなさい」

 僕は笑って、ごまかさずに言った。

「うん。これからは、早めに言う」

 通話を切ったあと、胸が軽かった。届く相手には、届くうちに言えばいい。届かない相手には、届かないまま置けばいい。どっちも、今の僕には同じくらい大事だった。


 季節がひとつ回った頃、僕はもう一度、あの雑誌を手に取った。コンビニの棚ではなく、自分の本棚から。

 表紙は少し擦れていた。でも目はまだ生きている。僕が勝手に生かしているだけかもしれない。けれど、勝手に生かすのも、たぶん生きる技術だ。


 その夜、例のコンビニに寄ると、棚の前で高校生くらいの男の子が固まっていた。雑誌を戻す手が妙に速い。あ、と思った。あれは僕だ。

 僕が何も言わずにレジへ向かうと、店長が小声で言った。

「今の子、君と同じ顔してた」

「……してました?」

「した。買えばいいのにって顔」

「店長、営業」

「営業じゃない。観測。君も観測好きだろ」

 容赦ない。僕は笑って、レジ横のメモ用紙に一行だけ書いた。

 “迷ったら買え。後悔はあとで整えろ”。

 それを雑誌棚の端にそっと置いた。店長が肩をすくめる。

「やさしいね」

「やさしいって言わないでください」

「じゃあ、せめて。良い癖だね」


 家に帰って、僕はメモ帳を開いた。今日の一行を書く。

 “届かない人に、届かないまま押されている”。

 書いて、ペン先を止めた。最後に、もう一語だけ足した。


 “ありがとう”。


 それだけで、胸の奥のスイッチがカチ、と逆方向に入った気がした。疑いのスイッチじゃない。前に進むためのやつ。

 僕は雑誌を閉じ、靴を履いた。夜の空気は冷たい。冷たいのに、息は通る。

 会えない相手に会う方法は、きっと一つじゃない。未来のどこかで、偶然同じページをめくる人がいる。その人の背中を少しだけ押せたら、それはもう“会えた”に近い。

 僕は玄関の灯りを消して、暗い廊下を歩いた。

 次のページにも、きっと誰かがいる。

 会えないままでも、僕はそこへ行ける。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ