『次のページに居るひと』
最寄りの小さなコンビニは、雑誌棚だけ妙に照明が強い。夜中の二時でも、そこだけ昼みたいに顔色がはっきりする。僕は帰宅前の寄り道で、よくその棚の前で立ち止まる。立ち読みをするためじゃない。立ち読みの“ふり”をするためだ。財布の中身と気持ちの中身を、いったん落ち着かせる儀式。
……と言い訳したところで、店長の視線は優しいようで容赦ない。
その日も僕は棚の前でページをめくっていた。派手な見出し、うるさいフォント、煽り文句。いつもなら三秒で飽きる。なのに、たまたま目に入った表紙の写真が、僕の指を止めた。
笑っていた。僕に向けて、というより“レンズの向こう側の誰か”に向けて。なのに、真正面から視線が刺さってくる。刺さってくるのに嫌じゃない。針じゃなくて、糸みたいな刺さり方だった。
僕は反射で、雑誌を棚に戻した。戻した瞬間に、店長と目が合った。
「……読まないの?」
「読みます。いや、読んでません。えっと」
「落ち着いて。うち、雑誌で逮捕しないから」
店長は笑ってレジに戻った。僕は顔が熱いのを誤魔化すために、別の雑誌の裏表紙を三回くらい眺めた。意味のない遠回りは得意だ。
結局、さっきの雑誌を買った。買って、袋の中で何度も表紙を覗いた。ばかだ。ばかなのに、胸の真ん中が妙に軽い。
家に着くと、僕は靴も脱がずに床に座り、表紙の人の名前を指でなぞった。活字の名前は冷たいのに、指先だけ熱い。僕は自分の熱にびびって、冷蔵庫を開けた。白い光が顔に当たって、急に現実が戻る。
「……落ち着け」
誰に言っているのか分からない。
検索を始めたのは、たぶん二分後だ。
スマホに名前を打つ。候補がずらっと出る。出演作、受賞歴、インタビュー、画像、動画、切り抜き。世の中は、他人の人生を薄く切って売るのが上手い。
僕は薄切りを一枚ずつ食べた。止まらない。止まらないくせに、満腹にならない。
“知りたい”が、胃じゃなくて胸で鳴っている。
どうして笑うのか。どうしてまっすぐ立てるのか。どうして、その顔でその台詞が言えるのか。
僕は夜中に、三本続けて作品を観た。二本目の途中で眠気が来て、三本目の途中で泣きそうになって、泣くのが嫌でまた冷蔵庫を開けた。何も入っていない冷蔵庫の白い光が、僕の顔をぶっきらぼうに照らした。
「……なにしてんの」
自分に聞くと、答えが返ってこない。答えが返ってこないのに、手だけは次の動画を再生する。
明け方、最後に開いた記事で僕の指が止まった。年表。生まれた日と、終わった日。区切りは小さいのに、喉が冷えた。
目が滑った。意味が入ってこない。入ってこないのに、体だけが理解して、膝がわずかに笑う。
僕はスマホを置いて、ふっと笑った。笑ったのは強がりだ。強がりだと分かっているのに、笑うしかない。
「……うそだろ」
声に出したら、部屋の空気が一瞬だけ人間になった。
朝、会社で同僚の志田に言った。
「ねえ、推しがさ、もう……」
「亡くなってた?」
「え、なんで分かるの」
「顔が“図書館で泣いた人”の顔」
志田はコーヒーを渡してきた。ブラック。優しさが雑で助かる。
「で? どうするの」
「どうもしない。できない」
「できない、の後ろに何があるの」
「……届かない」
「届かないの、当たり前。届かないから、置くんだよ」
「置く?」
「置き土産。自分の側に」
その昼休み、志田は会社近くの古本屋へ僕を連れていった。棚の奥に、古いパンフレットが束で残っている。表紙の写真は色褪せているのに、目だけがまだ生きていた。
「買う?」
「買う」
「じゃあ条件。家で一人で沼に沈まない」
「沈まない」
「“たぶん”禁止」
「……はい」
家に帰ってパンフレットを開くと、紙の匂いがした。インクと埃と、誰かの時間の匂い。僕はページをめくりながら、どうしようもなく笑ってしまった。僕はこの人の年齢も、好きな食べ物も、何も知らないのに、勝手に胸が忙しい。恋って言葉にしたくない。言葉にすると軽くなるのが怖い。重いまま抱えるのも怖い。つまり、僕はめんどくさい。
めんどくさいまま、僕は図書館へ行った。休日の図書館は静かで、静かなせいで心臓の音がうるさい。司書さんに聞く勇気がなくて、検索端末の前で三回ほど無駄に咳払いをしてから、結局、棚の番号だけをメモして歩いた。
評伝、対談集、雑誌のバックナンバー。知らなかった“本人の言葉”が、紙の上でちゃんと息をしていた。僕はそこで初めて、写真の笑い方が「強がりの笑い」だったことに気づいた。格好つけてるんじゃない。踏ん張ってるんだ。そう思った瞬間、僕の胸の中の何かが、急にしゅんと静かになった。
その帰り道、駅前の広場で時計を見上げて、馬鹿みたいなことを考えた。
もし時間を巻き戻せたら、僕はあの雑誌棚の前に戻って、表紙の前でちゃんと立つだろうか。ちゃんと買って、ちゃんと読んで、ちゃんと「あなたが好きだ」と言えるだろうか。
巻き戻せないから、考えるだけだ。考えるだけで、胸が少し熱い。熱があるうちは、まだ生きてる。
僕は志田にメッセージを送った。
『もし時間移動ができたら、って考えた』
返事は即座に来た。
『やめとけ。戻るより、進め。戻れるなら俺も戻りたい』
雑。最高。
その夜から、僕は妙な習慣を始めた。
月に一回、同じコンビニの雑誌棚の前に立つ。立ち読みのふりをする。棚の端にある小さなメモ帳を開き、今日の一行を書く。
“今日の自分は、どんな顔で生きたか”。
それだけ。
それだけなら、僕でも書ける。
最初の一ヶ月は情けない一行ばかりだった。
“怖くて黙った”。
“逃げた”。
“笑ったふりをした”。
書いて、ぐしゃっと丸めて捨てたくなる。でも捨てない。捨てたら、また同じ場所で止まるからだ。止まると、あの年表の小さな区切りが頭に戻ってくる。僕は止まりたくない。止まりたくない理由ができたのが、少し悔しい。
二ヶ月目、僕は地元の小さな映画館のボランティア募集に申し込んだ。受付じゃない。チラシの文章を整える係。裏方。僕に似合う。
初日、支配人が言った。
「君、文章上手いね。仕事は?」
「音を消す仕事です」
「へえ。じゃあ残すのは苦手?」
支配人の目が、店長と同じ種類の優しさだった。容赦ない優しさ。
「……苦手です。でも、残したいです」
「いいね。残したいは、始まりだよ」
数日後、支配人が僕に古いUSBを渡してきた。
「昔のトークイベントの録音。ノイズがひどくて使えないって諦めてたんだけど、君ならいける?」
僕の心臓が一瞬だけ跳ねた。音の仕事。やっと得意の棚が来た。
家でヘッドホンをつけて再生すると、ざらついた音の向こうから、人の笑い声が出てきた。咳、拍手、椅子の軋み。その中に、ひとつだけ、よく通る声があった。
僕は息を止めた。声の温度が、表紙の目と同じだったからだ。
音を磨く作業は、静かな格闘だった。削りすぎれば人が消える。残しすぎれば聞こえない。僕はノイズを“消す”んじゃなく、“道を作る”つもりで作業した。声が通るだけの細い通路を、音の森の中に一本引く。
出来上がったデータを映画館に持っていくと、支配人がスピーカーで再生して、目を細めた。
「……届くね」
その一言で、僕の背中が少しだけまっすぐになった。
その夜、僕は自分の部屋でもう一度データを再生した。整えたはずの音に、まだ小さな息が残っている。編集者としての癖なら、そこを削りたくなる。息継ぎは“邪魔”だから。
でも僕は削らなかった。息があるから人だ。息があるから、そこに居たと分かる。
僕はヘッドホンを外して、机の上の空き瓶に目をやった。仕事で使う小さなネジが入っていた瓶。蓋の内側に、油性ペンで書く。
《一行だけ》
翌日、映画館にその瓶を持っていった。ロビーの片隅、パンフレット台の横に置く。札を添える。
《観終わったあとに、一行だけ置いてください》
支配人が眉を上げた。
「これ、何」
「僕の、置き土産の練習です」
「練習、好きだね」
「手順がないと怖いので」
支配人は笑って、札の横に自分のペンを置いた。
その週の終わり、瓶の中には紙が十数枚入っていた。
《明日も出勤する》
《母に電話する》
《帰り道、空を見た》
《泣いたけど、帰れた》
みんな、でかいことは書かない。でかいことを書こうとすると息が止まるからだ。小さい一行は、息が通る。
僕はその紙を一枚ずつ開いて、胸の奥が少しずつ温まっていくのを感じた。知らない誰かの生活が、僕の中で静かに灯る。灯りは大げさじゃない。だから長持ちする。
最後に、僕も一枚入れた。
《あなたの息が、ここまで届いた》
誰宛てかは書かない。書かなくても届く時がある、と僕は最近知った。
瓶を置いてから数日、僕は自分の仕事のやり方まで変えた。番組の編集で、無意識に削っていた呼吸を、少しだけ残す。話し手が言いよどむ間も、なるべく切らない。間は怖い。でも、間があると人は本音を選べる。
納品データを聴き返した同僚に「今日、なんか温度あるね」と言われて、僕はうっかり照れた。温度があるのは、僕の才能じゃない。誰かの人生に触れた副作用だ。
帰り道、急に思い出した。あの表紙の人が“残したかったもの”は、賞でも記録でもなく、たぶんこういう小さい灯りだったのかもしれない、と。誰かが明日をやるための、ちいさな一行。
僕はその勢いで母に電話した。普段は用事がないとしないのに。
「どうしたの」母は驚きもせずに言った。
「……ただ、声が聞きたくて」
一瞬の沈黙のあと、母が笑った。
「そういうの、もっと早く言いなさい」
僕は笑って、ごまかさずに言った。
「うん。これからは、早めに言う」
通話を切ったあと、胸が軽かった。届く相手には、届くうちに言えばいい。届かない相手には、届かないまま置けばいい。どっちも、今の僕には同じくらい大事だった。
季節がひとつ回った頃、僕はもう一度、あの雑誌を手に取った。コンビニの棚ではなく、自分の本棚から。
表紙は少し擦れていた。でも目はまだ生きている。僕が勝手に生かしているだけかもしれない。けれど、勝手に生かすのも、たぶん生きる技術だ。
その夜、例のコンビニに寄ると、棚の前で高校生くらいの男の子が固まっていた。雑誌を戻す手が妙に速い。あ、と思った。あれは僕だ。
僕が何も言わずにレジへ向かうと、店長が小声で言った。
「今の子、君と同じ顔してた」
「……してました?」
「した。買えばいいのにって顔」
「店長、営業」
「営業じゃない。観測。君も観測好きだろ」
容赦ない。僕は笑って、レジ横のメモ用紙に一行だけ書いた。
“迷ったら買え。後悔はあとで整えろ”。
それを雑誌棚の端にそっと置いた。店長が肩をすくめる。
「やさしいね」
「やさしいって言わないでください」
「じゃあ、せめて。良い癖だね」
家に帰って、僕はメモ帳を開いた。今日の一行を書く。
“届かない人に、届かないまま押されている”。
書いて、ペン先を止めた。最後に、もう一語だけ足した。
“ありがとう”。
それだけで、胸の奥のスイッチがカチ、と逆方向に入った気がした。疑いのスイッチじゃない。前に進むためのやつ。
僕は雑誌を閉じ、靴を履いた。夜の空気は冷たい。冷たいのに、息は通る。
会えない相手に会う方法は、きっと一つじゃない。未来のどこかで、偶然同じページをめくる人がいる。その人の背中を少しだけ押せたら、それはもう“会えた”に近い。
僕は玄関の灯りを消して、暗い廊下を歩いた。
次のページにも、きっと誰かがいる。
会えないままでも、僕はそこへ行ける。




