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短編集  作者: 科上悠羽
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『小さなUターンの地図』

 ナビが壊れた。正確には、壊れたふりをしている。画面はつくのに、道だけが出ない。地図アプリが「いま忙しいので」と言い訳しているみたいで、僕は朝から妙に腹が立っていた。


 僕は軽ワゴンを運転しながら、何度目かの同じ交差点を見上げた。あの角のパン屋、あの自販機、あの「この先行き止まり」の看板。見覚えがありすぎて、景色が僕に向かって手を振っている。

 やめろ、知り合い面をするな。こっちは今日、はじめましての気分で生きたいんだ。


 ハンドルは、年々重くなる。車のせいじゃない。腕のせいでもない。多分、頭の中の「こうすべき」が重りになっている。経験って、便利な分だけ、運転席に荷物を積む。積むと視界が狭くなる。狭くなると、余計に迷う。

 悪循環の運転は、僕が得意な分野だった。


 僕の仕事は、個人商店にパンを卸す配送だ。朝の仕分けは速い。積み込みも速い。ところが納品先の一つが、今月から移転した。住所は聞いている。けれど「新しい店の入口は裏からです」と書かれたメモが、悪意ある暗号に見えた。裏ってどこだよ。裏って、誰の裏だよ。


 ナビは沈黙。僕の脳内は騒音。

 同じ角を曲がっては「違う」を繰り返し、僕はついにコンビニの駐車場に逃げ込んだ。逃げ込んだ先で、駐車券が出てくるタイプのコインパーキングだった。


「うわ」


 券を取るだけで負けた気がするのは、なぜだろう。券の紙は薄いのに、僕の肩を押す力はやけに強い。

 しかも財布の中に小銭がない。きれいにない。まるで僕が小銭を持つことを、世界が禁止したみたいに。


「延長料金、やばそう」


 独り言が漏れる。独り言は、誰にも迷惑をかけない代わりに、僕の耳にはちゃんと刺さる。


 ドアを開けると、足元の靴が目に入った。誰かに踏まれたわけじゃないのに、つま先に黒い跡。急いで走った日の跡。ブレーキを踏んだ日の跡。そういう「まあいいか」で汚れた跡だ。

 靴の跡は地味に正直で、僕はそれが嫌いじゃない。嫌いじゃないからこそ、見ないふりができない。


 コンビニでコーヒーを買い、ついでに小銭も崩す。レジの若い店員が「お忙しいですか」と言った。忙しくないふりをするのが得意な僕は、反射で笑った。


「まあ、そこそこ」


 そこそこ、って便利だ。何も言っていないのに、全部言った気になる。

 レジを離れたところで、背中に声が刺さった。


「おじさん、道、迷ってる?」


 振り向くと、ランドセルの男の子が立っていた。僕より小さいのに、目だけがやたら大きい。大きい目は、嘘を見抜く。

 僕は一瞬「迷ってない」と言いそうになって、言葉を飲み込んだ。今日はそれをやめたい日だった。


「……迷ってる」

「やっぱり」

「やっぱりって言うな」

「だって、同じとこ三回見たもん」

「見られてたのか……」


 男の子は自分のポケットからチョークみたいなものを出して、地面に小さく矢印を書いた。コンビニの駐車場の隅に。

 白い矢印。短い。雑。なのに、妙に頼りになる。


「こっち。裏って、裏道の裏。店の裏じゃない」

「裏道の裏って何だよ」

「ほら、こっちの一本細い道。車、ギリギリのやつ」

「それを最初に言ってくれ」

「おじさん、最初から聞いてくれない顔してた」

 図星すぎて笑いが出た。


 僕は矢印の方向を見た。確かに、細い道がある。狭い道は怖い。怖いけど、怖い道の方が近道だったりする。

 僕は息を吸って吐いて、男の子に言った。


「ありがと。……これ、消していい?」

「消さないで。次に迷う人のため」

「僕、次の迷う人のためになるタイプ?」

「なる」

 男の子は即答した。「だって今、迷ってるのに怒鳴ってない。えらい」

「えらいって言うな」

「えらいはえらいだよ」

 男の子は肩をすくめて、急に大人みたいな顔をした。「おじさん、今日、なんか負けそうな顔してる」

「……してる?」

「うん。負けそうな顔の人、だいたい『もうやめようかな』って言う」

 心臓が、ちいさく跳ねた。僕はそんな顔をしていたのか。

 男の子は続けて言った。


「でも、やめるのって、帰ってからでもできるじゃん」

「帰ってから?」

「うん。いまは、いったん行けばいい」

 雑なのに、やけに効いた。僕は頷いて、コーヒーを一口飲んだ。


「よし。いったん行く」


 軽ワゴンを細い道へ入れる。車幅がぎりぎりで、心臓がぎりぎりになる。両側の塀が近くて、世界が狭い。狭いのに、妙に落ち着く。迷う余地が減るからだ。

 曲がり角の先に、移転した店があった。裏口。看板は小さく、だけどちゃんと光っている。僕は思わず笑ってしまった。


「なんだよ。ここ、ちゃんと道じゃん」


 納品はあっけなく終わった。店主に「助かったよ」と言われて、僕はいつも通り「いえいえ」と返した。返したあと、ほんの少しだけ言い足した。


「……今朝、迷ったんですよ」

「え、あなたが? 珍しい」

 店主が笑う。笑われても、今日は嫌じゃなかった。迷いは恥じゃなくて、現象だと思えたから。



 帰り道、コインパーキングに戻ると、料金表示は思ったより小さかった。恐怖はいつも、料金より先に膨らむ。

 精算機に小銭を入れながら、僕は「大げさに怖がる癖」に苦笑した。


 車に乗り込む前、靴ひもがほどけているのに気づいた。いつからだ。さっきの細道で、踏ん張った時かもしれない。

 僕はしゃがんで、靴ひもを結び直した。結ぶと、地面が少し近くなる。近くなると、心臓が落ち着く。変な話だ。


 ふと、ポケットの中に紙があるのに気づいた。さっきの駐車券じゃない。もっと薄い紙。

 取り出すと、くしゃっと折れた小さなメモだった。いつのだろう。古いメモ帳の切れ端。鉛筆の線で、雑な道が描かれている。山みたいな三角、川みたいな波線、そして真ん中に大きな丸。

 子どもの字で、丸の横にこう書いてある。


「ここ」


 僕は息を止めてしまった。

 記憶の底が、ふっと浮く。小学校の帰り道、友達と秘密基地を作った空き地。そこへ行くために描いた、超いいかげんな地図。

 僕はその地図を、ずっとどこかに置き忘れたと思っていた。たぶん、引っ越しのどさくさで捨てたと思っていた。

 なのに、いま僕のポケットにいる。なんだそれ。タイミングが良すぎて、逆に信用できない。信用できないのに、手が震える。


 そこへ、古い自転車が坂を下ってきた。さっきの男の子だ。ランドセルが揺れている。

「おじさん、着いた?」

「着いた。ありがとう」

「よかった」

 男の子は僕の手元の紙に目を留めた。「それ、地図?」

「……たぶん」

「いいじゃん。道、あるじゃん」

 男の子は簡単に言う。簡単に言うから、胸が熱い。


「ねえ」男の子が言った。「おじさん、いまからどこ行くの」

「次の店」

「次の店、迷わない?」

「……迷うかも」

「じゃあさ、迷ったらさ」

 男の子は自分の靴を見せた。靴ひもがきれいに結ばれている。

「まず、ひも結び直すといいよ。結んでる間、落ち着く」

 僕は笑った。まさに今やったところだ。

「君、人生のコツみたいなこと言うね」

「人生って、だいたい靴ひもじゃん」

「名言みたいに言うな」

「名言じゃない。観測」

 男の子は肩をすくめて、また自転車で走り去った。背中が軽い。軽いくせに、世界にちゃんと立っている。



 その日の配送を終えた帰り、僕は遠回りをした。

 理由はない。いや、理由はある。さっきの「ここ」の丸が、頭から離れない。

 僕は車を川沿いに停めて、土手を歩いた。春手前の風が冷たいのに、妙に気持ちいい。

 坂の上に、小さな公園が見えた。滑り台と、ブランコと、古い鉄棒。誰もいない。夕方の光だけがある。

 僕は鉄棒の前で立ち止まった。

 子どもの頃、ここで逆上がりができなくて、何度も地面に落ちた。落ちるたびに膝が痛くて、悔しくて、でも帰れなくて、最後にできた時だけ、世界がひっくり返ったまま止まって見えた。


 僕は五十手前だ。背中も硬い。手も滑る。

 それでも、鉄棒を握ってみた。冷たい。現実の温度だ。

 ぶら下がる。体重が腕に乗って、笑いそうになる。重い。こんなに重かったっけ。

 重いくせに、ぶら下がっただけで少しだけ楽しい。最悪だ。楽しいのが悔しい。


 僕は足を振って、ほんの少しだけ勢いをつけた。

 逆上がりは無理だ。無理だと分かっている。だから、無理の手前だけやる。

 体が揺れる。景色が揺れる。

 揺れて、戻る。

 その繰り返しが、妙に胸に効いた。


「……まだ、やめないな」


 誰に言ったのか分からない。自分にだ。たぶん過去の自分にもだ。

 ポケットの中の「ここ」の地図が、紙の端でかさっと鳴った。返事みたいに。


 帰り道、車のヘッドライトが一瞬だけちらついた。頼りない光。

 僕は「明日が暗い」とは思わなかった。暗い日もある、くらいに思った。暗いなら、速度を落として走ればいい。細道に入ればいい。矢印を借りればいい。靴ひもを結び直せばいい。

 それだけで、今日は十分に前へ進んだ気がした。


 夜、家の玄関で靴を脱ぎながら、僕はメモ用紙に一行だけ書いて冷蔵庫に貼った。


《迷ったら、いったん結ぶ》


 格好いい言葉じゃない。

 でも格好よくない言葉は、生活に残る。

 僕はその紙を見て笑って、それから、明日の配送表を机に置いた。

 ナビが黙っても、僕はたぶん動ける。

 動けるなら、まだ跳べる。大きくなくていい。ひっそりでいい。靴ひもがほどけない範囲で、少しだけ。

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